徒然読書日記200507
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2005/7/30
「アースダイバー」 中沢新一 講談社
東京を歩いていて、ふとあたりの様子が変だなと感じたら・・・十中八九そのあたりはかつて洪積層と沖積層のはざまにあった地形だということがわかる。 そういうところはたいてい、沖積期の台地が海に突き出していた岬で、たくさん古墳がつくられ、古墳のあった場所には後にお寺などが建てられたり、広大な墓地ができたりしている。
あるいは都内有数のホテルが建ったりしている(天皇家の所領となっていた土地を大資本が買い占めたのだ。)が、そのあたりは必ず特有の雰囲気をかもし出している。「死の香り」がただよってくる、というのである。
「新宿の盛り場」や「四谷怪談」に見る、湿った土地と乾いた土地の対比。野生の森としての明治神宮の力。放送局のアンテナが岬の地形に立っているわけ。 東京の地形に埋め込まれた「縄文的なるもの」を解読していくアースダイバー中沢新一の面目躍如ともいうべき、痛快な新鮮な面白さに溢れた本である。あなたもダイビングをご一緒にどうぞとばかり、地図まで付録についているのだ。
そして、そうしたものを一切無視して「再開発」の名の下に都市の記憶を破壊していく「M」は、死臭漂う六本木に「ヒルズ」という自らの墓標を構築してしまったことになるのだろう。
2005/7/30
「世界のイスラーム建築」 深見奈緒子 講談社現代新書
アラビア半島を発祥の地とするイスラム教は、西はモロッコから東はインドネシアまで、広汎に伝播していった。そして、そうした過程のなかで、 その建築様式も、異なる気候風土や、先行する文化と融合し、様々な特徴的で美しい形を生み出していくことになった。
モスク、アーチ、ミナレット、墓建築、ドーム。それぞれの形が、それぞれの用途と意味を微妙に変えながら、それぞれの地域における建築文化を形成していったのである。
そして日本では・・・
アラビアンコーストでは、スペインからインドネシアまでのイスラームの建築の要素が、時代も乗り越え、ばらばらに分解されて町を造っている。 アラビアン・ナイトは壮大なフィクションなのだから、これも一興かとも思うけれど、どんなふうな構成なのか、今までの各地の歴史的建造物の復習を兼ねて、それぞれのルーツを探ってみよう。
「イスラーム教とまったく結びつかないけれど、イスラーム風細部を修正した建築」東京ディズニーシーのこの風景こそが、現代の東京の建築文化の水準を示すものなのだろう。
2005/7/23
「生きて死ぬ智慧」 柳澤桂子 小学館
あまりに評判がいいので、妻が読みたいといい、すぐに読み終わり、もったいないので、わたしも読んでみた。
巻末の原文と直訳と英訳(なんと、リービ英雄!)を同時に眺めるのが、一番理解しやすい。 般若心経の「科学的解釈」とあるがそれはものごとが逆で、前にここでとりあげた
「フィールド」
や
「もう牛を食べても安心か」
で述べたことともつながるように、 釈迦の悟りとは科学的真実の宗教的解釈なのだろうと思う。
2005/7/23
「ベルカ、吠えないのか?」 古川日出男 文藝春秋
ボリス・エリツィンに捧げる。・・・おれはあんたの秘密を知っている。
1943年、アリューシャン列島。アッツ島の玉砕により日本軍が撤退したキスカ島に四頭の軍用犬が取り残されたところから始まるこの物語は、20世紀を人間のではなく、犬の歴史として再構築したものである。 初めて宇宙を旅する「偉業」をなしとげたソ連のライカ犬。雄犬がベルカ、雌犬のストレルカ。そこに交錯するかのように、四頭の血筋が一方では純潔を維持し、他方では入り乱れ混血しながら、世界に広がっていく中で、 戦争の世紀としての20世紀の人間の犯した愚行が、犬の視点で描きなおされていくのである。それで、どうなるのか?そんな愚問には、冒頭で著者が釘を刺している。
これはフィクションだってあなたちは言うだろう。
おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、
この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?
2005/7/17
「ネグレクト」 杉山春 小学館
三歳になったばかりのその女の子は、二十日間近くも段ボールの中に入れられ、ほとんど食事を与えらず、ミイラのようになって死んだ。両親はともに二十一歳、十代で親になった茶髪の夫婦だった。
茶髪の父は、「男は仕事、女は家事育児をするものだと思っていた」という理由で、家庭のことにはいっさい関心を示さず、職場では仕事に、家庭ではゲームにのめり込んでいた。女児が餓死寸前に追い込まれているときにも、チラッと横目で見ただけであとはゲームに没頭していた。 仕事とゲームへのこの異常ともいえるのめり込みは、生活からの逃げ込み先ともいうべきものだった。法廷での尋問でも、当初は「ちょっとわかりません」「ちょっと覚えていないです」と繰り返すばかりであった。質問の意図を適切に把握し、自分自身の考えをまとめて、言葉を返すということができないのだった。
茶髪の母は、ある意味で自分なりに懸命に、子どもを育てようとはしていた。しかし、自らが育ってきた環境の中で、育児というものがよく理解できていなかったところがあった。育児の問題で悩んだ時にも、自分の母親に相談することはなかった。なぜならば「友達っぽいお母さん」で、頼りにならないからだというのである。 好きな人の話とか、学校で何があったとか、そういう話はよくしても、深刻な話はできないというのだ。
児童虐待事件が連続する中で起きたこの事件は、「段ボールに入れて子どもを餓死させる」というインパクトの強さから虐待防止キャンペーンの格好の材料となり、事件を報じる週刊誌には「鬼畜若夫婦」「二十一歳夫婦の冷血」といった厳しいタイトルが踊った。 しかし、そのような過熱騒動に巻き込まれることなく、嵐が過ぎ去った後も丹念に、3年半を超えて続けられた取材の中で浮かび上がってきたのは、 “大人”のまえでは、きちんと話すことさえできない、攻撃的でもなければ積極的でもない、内向きの、つまりは「いまどき」の「ふつう」の若者像だった。 とすれば、二審に舞台を移した控訴審の中で、被告人が見せた落ち着いた受け答えの様子を、私たちは「大人になった」と呼ぶべきなのだろうか?
2005/7/15
「DNAから見た日本人」 斎藤成也 ちくま新書
母系のみに伝えられる「ミトコンドリアDNA」や、男性しか持たない「Y染色体」の「系図」をたどることで、それらの遺伝子の共通祖先にたどり着こうという試みについては、 大変に刺激的ではあるが、いささか怪しげなものとして、既にこの欄で何度かご紹介してきた(
「アダムの呪い」
)が、この本は、手法は同じであるとはいえ、そうした流れとは一線を画し、極めて正統なアプローチから、 日本人の由来を辿ろうとする試みといってよいであろう。
DNAの研究は生きた生物を用いて進められてきた。しかし、ずっと昔に死んでしまった生物に残された微量のDNAを、大量に増やすことのできるPCR法が開発され、 「古代DNA」の研究が一挙に花開いた。「ジュラシックパーク」の恐竜があながち絵空事ではなくなるほどに、現在の分子人類学は進歩してきているのである。
2005/7/11
「「外断熱」からはじまるマンション選び」 堀内正純 現代書林
これは、私が北陸支部長としてお手伝いさせていただいている、NPO法人「外断熱推進会議」の事務局長さんの本です。
コンクリート造で「理想的な住まい」を実現するためには「外断熱」しかありえない、という自らの信念に基づき、孤立無援でNPOを立ち上げ、孤軍奮闘で「外断熱」の普及を訴え続けてきた、 堀内さんが、これまでにまさに「伝道師」として歩んでこられた様々な経緯を踏まえ、外断熱の哲学から実学まで、過去から未来まで、その総てを書ききった、「外断熱」を知りたい人のためのバイブルです。
ささやかながらお手伝いさせていただいているものとして、心からのエールを送るとともに、これはまだ「始まり」にすぎないことを、確認しておきたいと思います。
2005/7/11
「明日の記憶」 荻原浩 光文社
吊り橋の手前まで来たところで、たもとに誰かが立っていることに気づいた。・・・素敵な女性だった。夕日が彼女の髪の輪郭を金色に染めている。新たな幻影かと思って目をしばたたかせたが、姿は消えなかった。・・・ 吊り橋を渡りはじめると、彼女も歩き出した。ひとりぼっちで誰かを待っていて心細かったのだろう。私の後ろではなく隣をついてくる。・・・吊り橋を渡り終える頃、もう一度声をかけようとして、私は口をつぐんだ。彼女の横顔が泣いているように見えたからだ。力づけてあげたくて、柄にもないせりふを吐いてしまった。 「心配しないで。だいじょうぶですよ。この道で間違いない。僕がずっといっしょにいきますから」
広告代理店で働く50歳のサラリーマン佐伯雅行は、ある会議で俳優の名前が思い出せず、それ以降、物忘れ程度の記憶をたどれない症状が頻発するようになる。頭痛がきっかけとなって受診した大学病院で宣告された病名は「若年性アルツハイマー」初期症状だった。 もうじき結婚する娘を持つ、広告代理店の中間管理職という主人公の周辺では、当然様々な出来事が持ち上がり、日々新たな記憶をするように迫ってくる。 次から次へと過去の記憶が消えていく恐怖のなかで、彼は新しい記憶を掴み取るために、必死にメモを取り、スーツのポケットというポケットをパンパンに膨らませていく。 廻りからは奇異の目で見られ、噂にまでなってしまうそんな彼の涙ぐましい努力をあざ笑うかのように、容赦なくどんどん消えていく、仕事の記憶、場所の記憶、人の記憶、家族の記憶。そして、恐らく最も辛いのは、愛する人との共通の思い出という記憶を失ってしまうことだろう。
本年度山本周五郎賞受賞に輝くこの作品は、そのラストで、「明日の記憶」という吊り橋を渡っていく、美しい情景をせつなく描いている。
私はまず自分が名のり、彼女の名前を尋ねた。答えは少しのあいだ返ってこなかった。影の長さふたつぶん歩いてから、じっと前を見つめていた横顔がきっぱりとこちらを向いた。
「枝実子っていいます。枝に実る子と書いて、枝実子」
素敵な名前だ。
「いい名前ですね」
ようやく彼女は少しだけ笑ってくれた。そうすると、頬の上のほくろもすぼまった。
2005/7/4
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」 山田真哉 光文社新書
先日、妻の友人の母親が「さおだけ屋」から「さおだけ」を買った。まさしくこの本に書いてある通りのストーリーを辿ったらしいということよりも、本当に「さおだけ屋」から「さおだけ」を買ってしまう人がいるんだ、ということのほうが驚きで、思わず笑ってしまった。 「振り込め詐欺」や「悪質リフォーム」があれだけ、新聞やテレビを賑わせていても、未だに被害者となる人が絶えないように、この本がこれだけのベストセラーになっても「さおだけ屋」から「さおだけ」を買ってしまう人はいるのだろうと思った次第。
この魅力満点の題名の本はしかし、そうした身近な疑問の謎を解くためだけにかかれたわけではない。「さおだけ屋」の謎から「利益の構造」に迫り、「ベッドタウンの高級フランス料理店」から「連結経営」の味噌を語り、「スーパーの完売御礼」から「機会損失」の恐ろしさを訴える。 「割り勘」の支払い役となってカードで支払うだけで、キャッシュフローが改善するという、私自身が活用している裏技も暴露されてしまうのだ。 ベストセラーにしては侮りがたい、意外に内容の濃い一冊であったように思う。
2005/7/3
「国家の罠」 佐藤優 新潮社
鈴木宗男氏は、ひとことで言えば、「政治権力をカネに替える腐敗政治家」として断罪された。これは、ケインズ型の公平配分の論理からハイエク型の傾斜配分の論理への転換を実現する上で極めて好都合な「物語」なのである。鈴木氏の機能は、構造的に経済的に弱い地域の声を汲み上げ、それを政治に反映させ、公平配分を担保することだった。
ポピュリズムを権力基盤とする小泉政権としても、「地方を大切にすると経済が弱体化する」とか「公平配分をやめて金持ちを優遇するのが国益だ」とは公言できない。しかし、鈴木宗男型の「腐敗・汚職政治と断絶する」というスローガンならば国民全体の拍手喝采を受け、腐敗・汚職を根絶した結果として、ハイエク型新自由主義、露骨な形での傾斜配分への路線転換ができる。 結果からみると鈴木疑惑はそのような機能を果たしたといえよう。
いわゆる「ムネオ疑惑」に絡んで、東京地検特捜部に背任と偽計業務妨害の容疑で逮捕され、取り調べ中に担当検事から、「これは国策捜査であり、外務省はお前を切った。」と言い渡され、今年2月、東京地裁にて懲役2年6ヵ月執行猶予4年の判決を受けた著者の、これが、この事件に関する総括なのである。 これを読んだだけでも、
「さらば外務省」
と銘打ってグダグダと今だから言える楽屋話に終始した天木某に代表されるような典型的な「外交官」などとは一線を画すべき、さぞかし有能な仕事のできた「情報マン」であったのだろうことを窺がわせてくれる。 つまり、著者は自己弁護や復讐のためにではなく、あくまでも26年後に公開される外交文書と、その時に明らかにされる「真実」との整合性を意識して、本書を証拠として残すべく記している。外務省と検察を人質に取ったのであれば、「国策捜査」の生贄としては充分という覚悟なのである。
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