徒然読書日記200505
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2005/5/31
「フィールド 響き合う生命・意識・宇宙」 Lマクタガート インターシフト
ある人物が目にしている風景を、数百マイル離れた場所にいる別の人物に向けて「念じる」と、偶然では説明できない割合で、正確な像が送られていることがわかる。「遠隔透視」は可能なのである。
ホメオパシー治療という代替医療は、病気や痛みの原因となる物質を、希釈して、極めて少量だけ投与すると、逆に病気や痛みが治癒するという未解明の理論に基づいている。 ここで、その原因物質が検出できなくなるほど大量の水で薄めてしまうとどうなるか?不思議なことに、治癒の効果は持続するのである。それは組成的には、もはや単なる「水」に過ぎないのだが、以前混入していた物質の波動は残っている。つまり水が「記憶」していたのである。
「ゼロポイントフィールド」で万物はつながっている
というわけである。
「ゼロポイントフィールド」とは量子ワールドにおける「真空のゆらぎ」のこと。量子真空とは、空っぽの何もない無の場所ではなく、仮想粒子のペアが生まれては消滅を繰り返している場所。つまり「何でもあり」の場所であり、あらゆるエネルギーの源ともなる「モノとモノのあいだの空間における微細な振動の海」なのである。 そして、あらゆる存在は、時空を超えて「ゼロポイントフィールド」でつながっている、というわけなのである。
コインを投げれば表が出るか、裏が出るか?量子力学の世界では、それは人間が観測したときに確定するため、観測する前は表・裏半々であると考える。これが、すべての状態が同時に存在しているということだ。 この意味を空間のみでなく時間にも拡大して適用すると、過去に起きたことも未来に起きうることも、すべてが「ゼロポイントフィールド」でつながっているということになる。 確かにそう考えなければ、総ての細胞が同じ遺伝子を抱えながら、その場所と段階をわきまえて、眼になり、指になりということの説明がつかない。 光の進路一つとっても、光はあらかじめ進路を知っていると思われるということは、以前にこの欄でご紹介した。(
「あなたの人生の物語」
)
で実は、物質世界ばかりか精神世界においても、というあたりから、この本は佳境に入るのだが・・・後の判断は、読まれた方にお任せしようと思います。
2005/5/28
「パンダの死体はよみがえる」 遠藤秀紀 ちくま新書
私が何度も経験したアジアゾウの遺体の現場に、解剖学者は、のべでたったの三人しか現れなかった。・・・それは今日の解剖学が、ゾウの遺体に興味をもっていないという事実に尽きる。どんなに稀有な遺体が出現しても、それを科学の礎に設えていこうというエネルギーは、もはや解剖学には存在しないのである。
遠巻きに、鼻をつまみながら「臭い臭い」と顔をしかめる学者や大学の人々を尻目に、少し腐敗の始まったパンダの腕にピンセットを当てる。この本は、遺体に真剣に取り組もうとしなくなった解剖学の価値観が、「生ゴミ」に貶めてしまったその「遺体」に込められた秘密を解き明かそうと闘う著者の「遺体科学」の最前線の記録である。
巨大なゾウは、どのようにして解剖されるのか?パンダはどのようにして、笹を掴むことができるのか?ため息が出るほど美しい、穴を掘るためにデザインされたツチブタの前肢の仕組みとは?
解剖を始めようとするまさにその瞬間から、解剖を進めながら、その謎を解いていく思考のプロセスまで、その場に立ち会っているかのような臨場感溢れる語り口。(時に生々しすぎて、食事前には読まないほうがいいような場面すらある。)
今日も著者は「お前が隠している謎は何だろうか?」と問いかけながら、全人類共通の財産としての動物の遺体との格闘の旅にでる。これは好奇心と知の発見の魅力に満ち溢れた「航海日誌」なのである。
2005/5/23
「キリスト教は邪教です!」 FWニーチェ 講談社+α新書
哲学者ニーチェの晩年の著作「アンチクリスト」、その「現代語訳」と銘打たれたこの本は、むしろ「超訳」という代物なのでしょうが。
「イエスとキリスト教は無関係」「キリスト教が戦争を招く理由」「ルネサンスは反キリスト教運動」
などなど、読みどころ満載の名著であります。たとえば
キリスト教は、頭の悪い人たちの間にどんどん広まっていきましたが、同時にキリスト教の側も、そういった人たちが理解しやすいように、教えをどんどん簡単で俗受けするもの、野蛮なものに替えていったのです。
教えを歪めた弟子たちは、「報復」「罰」「審判」といったイエスの教えにそむく言葉を使い、さらには俗受けする救世主待望論を出してきた。「聖書」をでっちあげたパウロは最大の復讐の人であり、「憎しみの論理」の天才だった。だから
「キリスト教はイエスの教えにあらず」というわけです。
そして、この書を世に問うた翌年、ニーチェは発狂しました。
2005/5/19
「となり町戦争」 三崎亜記 集英社
ある日突然、町の広報誌によって、町民税の納期や下水道フェアのお知らせに挟まれるように《となり町との戦争のお知らせ》が告げられる。その時、とりあえず主人公の「僕」の頭に浮かんだのは、道路が封鎖されると通勤はどうなるのだろうということだった。 いわば町おこしのための公共事業として、となり町との了解の下に、共同で坦々と進められていく「見えない戦争」。いつになっても戦闘が始まっているような気がしないのに、広報誌の町勢概況では確実に増えている戦死者の数。 町から「戦時特別偵察業務従事者」に任命された「僕」がこの業務を引き受けたのは、自分にとっては抽象的で、概念的なものにすぎないこの戦争を、この目で確かめてみたいという好奇心からだった。
任務のため便宜的に結婚をし、新婚夫婦として敵地のアパートで共同生活を始めることになった「僕」と「香西さん」。決して感情を表に出すことなく、あらゆる業務(週に1回の性交渉さえも)を、坦々とこなしてしまう彼女は「総務課となり町戦争係」の優秀な女性職員だった。 そして、この偽装の生活を続けていく中で、「僕」は次第に「となり町戦争」と「香西さん」の、シュールなだけに、ある意味リアルな現実の姿に遭遇していくことになる。
第17回小説すばる新人賞受賞作。無味無臭といった趣の語り口が、着想の卓越した奇抜さを際立たせる、必読の一冊である。
2005/5/11
「環境考古学への招待」 松井章 岩波新書
わが国の考古学では「人工遺物」と呼ばれた土器や石器、あるいは豪華な副葬品などがずっと脚光を浴び、関連領域の研究者を呼び集めて過去の人間がどのような環境のもとで、どのような技術をもって生活していたのかを解明しようとする問題は、ずっと先送りされてきた。
種子、花粉、骨や木片などの「自然遺物」は自然科学者にまかせればよいというわけである。発掘現場でも、廃土として捨てられていた土壌にこそ、それぞれの時代の生活情報が詰まっていることに、考古学者が気づき始めたのはごく最近のことなのである。
例えば、トイレ考古学のお話。糞便の主成分となる有機遺物が自然環境の中で保存されることは難しいため、トイレ遺構の発掘自体が稀なのであるが、運良く発掘されたトイレから得られた貴重な土壌は、フローテーションという、いわば「茶漉し」作業を繰り返すことによって、微細な遺物を採集し、分類するということになる。 そして、そうした地道な作業の成果として、糞便堆積物からは何種類もの寄生虫卵を見つけることができる。これで何がわかるのか?それぞれの寄生虫には特定の宿主がいるため、これによって当時の人々が食べていた魚や獣の種類、火食か生食かという調理方法までもが分かることになるのだ。
肉食はタブーなどではなく、日本人は昔から肉を食べていたことや、カスター将軍率いる第七騎兵隊が、クレイジー・ホースに率いられたアラバホ=シャイアン族連合軍に全滅を喫した闘いの様子まで、まさに「考古学は推理小説よりスリリング」なのである。
2005/5/8
「クレーターのほとりで」 青木淳悟 新潮
古代の人類の祖先と思われる集団(男)が、放浪の果て沼のほとりのようなところで、女の集団(ネアンデルタール人と思われる)と出会い、家族を形成する。 (雰囲気としては「猿の惑星」で、誰もが薄々想像しながら、決して描かれることがなかった事態が発生したという感じ。つまり猿と人間が結ばれるのである。) そこから紆余曲折あって、視点は突然近未来の発掘現場に切り替わり、彼らが生活したその場所を、創世記で語られている人類の起源として科学的に証明しようとしているグループと、 天然ガスの宝庫として、闇雲に開発にこぎつけようとする企業グループとの対立が描かれることになる。というのが、ごく簡単な粗筋であるが、
《前作もそうだったが、青木淳悟の小説は、暗示や象徴がいっぱいにちりばめられているが、それを統括するメタレベルは書かれていない。それはいわゆる「読者の解釈に委ねられる」のではなくて、もっとずっと非−人間的で、カフカと同じように、書かれたすべてを記憶するしかないものなのではないか。 聖書もそうだし、本当のところすべての小説がそういうもので、私たちは、現実によって小説を解釈するのではなくて、現実に出会ったとき小説が思い出される。つまり小説によって現実が解釈される。》
と、「新潮新人賞」受賞に輝いた「四十日と四十夜のメルヘン」を絶賛する「保坂和志」に対し、
《思わせぶりばかりが目立つ意味不明の悪戯書きで、こんなものは駄目だ、とおもいっきり×をつけたが、ひとりの委員が、これは周到な計算に基づいて緻密に構成された世界であり、トマス・ピンチョンにも通ずるところのある大傑作である、と主張、説明を聞いてなるほどと思う部分もあり、 釈然としない部分もあったがもしかしたら自分があほで分からないだけかもしれぬと思ったのでこれにしたがった。》
という「町田康」のコメントの方が、私の読後感に近いというのが本音である。
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