徒然読書日記200504
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2005/4/29
「父の肖像」 辻井喬 新潮社
堤康次郎という稀代の実業家(仁徳天皇陵のようなあのお墓、見ましたよね。社員が交代で毎日泊り込んで清掃というのがまた凄いけれど。)の行跡、特に旧皇族の所有地を買収するという、その抜け目ない着眼点と嗅覚の鋭さについては、猪瀬直樹「ミカドの肖像」に活写されたとおりであるのだろうけれど、 その「堤王国」が崩壊の危機にあるという時期に、ある意味タイムリーな話題本として、そちらの方の興味で購入するようなあまたある類書に対し、この作品は著者の置かれた立場の特殊性という意味で、一線を画すものというべき本だろう。
自らが築き上げた巨大な王国が、分割されることを恐れ、自分の子孫に継承することすら拒絶するかのように、資産はすべて「堤家」のものであり、相続者はあくまで子々孫々に渡り、この資産を守り育てていくのだという、誓約書まで書かせなければならないほど、強い強迫観念に煽られながら走り続けた父親の人生を跡付けるのが本筋と見えて、 父親の複雑な女性関係が原因で、異母兄弟たちと義理の母とが入り乱れる複雑な家族関係を結ぶこととなった、生母を知らない著者の、自らの出自を探る脇道の方が、むしろこの作品のテーマであるのだろう。
「父の肖像」の裏側に自らを嵌め込もうと努力した弟が押しつぶされてしまったのに対し、常にそこからはみ出てあろうと格闘した兄の方が、結局は「父の肖像」を実像として捉えることになったのである。
2005/4/28
「夕凪の街、桜の国」 こうの史代 双葉社
「嬉しい?
十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て
『やった! またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?」
「あの日」、同級生を見捨て、死体を踏みつけて生きながらえてきた、という罪悪感を胸の奥底に抱える主人公の皆実。
「しあわせだと思うたび 美しいと思うたび
愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し
すべてを失った日に引きずり戻される
お前の住む世界は ここではないと 誰かの声がする」
愛する人に、すべてをうちあけ、恋人の力を借りて、ようやく呪縛からとき放たれて生きていくことができると感じたその時、 皮肉にも、皆実はその日から病に倒れ、二度と起きあがれなくなってしまう。 視力を失ってからは、空白のコマに、見舞い客との会話だけが記されていく。「あの人」との無言の会話までもがかえって生々しい。 そして、薄れ行く意識と激痛のなかで、突然その悲痛な叫びは現れる。
「嬉しい?」
「ちゃんと思うてくれとる?」
広島ではなく「ヒロシマ」の、今なお癒えることのない痛みを、淡々としたタッチで、それだけに痛切に描ききった、これは本年最大の収穫とも言うべき「漫画」である。
2005/4/21
「世にも美しい数学入門」 藤原正彦 小川洋子 ちくまプリマー新書
藤原「数学というものがほんとうに実在するのか、単に人間の頭が考え出したものなのか、よく議論になります。でも、数学者はみな、実在すると確信しています。だから、数学者が頭でつくり上げたものではないと。」
小川「つまり、隠れていたものを自分たちが発見したということなんですね。」
だから数学は美しい。そして「美しい数学ほど、後になって役に立つものだ。」つまり「美しくなければ数学ではない。」ということなのである。
たとえば「美しい定理」と「醜い定理」というものがある。奇数を順番に足していくと、どこで切ってもある数の2乗になる。「1+3+5=9=3の2乗」ということであるが、この証明が碁石を正方形の形に置いていくという実に「美しい証明」の例である。(これを「四角数」という。)
一方「各桁の数字の3乗を足すと元に戻るような数は、153、370、371、407の4つあり、この4つに限る。」という定理は、実際に証明もできるというのが驚くべきことではあるが、「醜い定理」と呼ばれることになる。「だから何なんだ?」ということなのだろう。 (このような醜い定理を証明すると、自分の排泄物を見るようないや〜な気分になると藤原先生はおっしゃっている。)
記憶を失った数学者と家政婦親子との煌くような心の触れ合いを見事に描き出した珠玉の名品「博士の愛した数式」
常人には測り知れない浮沈を繰り返す、孤独な天才数学者たちの波乱万丈の人生を暖かく描き出した「天才の栄光と挫折」
健気な数学者たちが奮闘する圧倒的に美しい数学の世界を語り合うのに、この欄でも取り上げたこれら2冊の名著の著者ほど、ふさわしい組み合わせはなかったというべきだろう。
2005/4/20
「世間のウソ」 日垣隆 新潮新書
「宝くじが当たる確率よりも、宝くじを買った帰りに車に轢かれる確率の方が、10万倍も高い!」 <リスク>をめぐるウソ
「中国発では『人身売買』という凶悪犯罪として報道される同じニュースが、カナダ発になると『国際養子縁組』という美談として報じられている!」 <事件>をめぐるウソ
「幼児虐待が増えているというのは、かつては逮捕も報道もされない『日常』であり『事件』ではなかったことによる誤解である。」 <子ども>をめぐるウソ
「世論を誤らせる構造的なウソ」を正しく見極め、二度と騙されないために身につけるべき処方箋を具体的に提示する。
本書の効用は、論理と確率統計に強くなるということのはずですが、後遺症として多少皮肉っぽくなる、というのがあるかもしれません。
と著者は謙遜気味に言いますが、鳥インフルエンザの過熱報道によるバッシングが、鶏卵会社会長夫婦を自殺に追い込んだ事件を捉えて
「人インフルエンザに感染した子どもを、学校に登校させて同級生に感染させてしまった親が、自殺しなければならないのでしょうか?」
というあたり、日垣節のその皮肉っぽさは、いつもながら尋常ではありません。
2005/4/17
「思索紀行」 立花隆 書籍情報社
この世は、ヴァーチャルな認識装置を通したのでは決してとらえることのできないもので満ち満ちている。自分の肉体に付属した「ワンセットの感覚装置(それが私自身だ)」からなる「リアルな現実」認識装置をそこまでもっていかないと成立しない認識というものがある。・・・ 一言でいうなら、この世界を本当に認識しようと思ったら、かならず生身の旅が必要になるということだ。
「僕はこんな旅をしてきた」とサブタイトルがつけられたこの本は、「型にはまった紀行文ほどくだらないものはない」という著者が、こうした体験を経て稀代のジャーナリストとなる方法論を確立したのだろうと確信させてくれる、1970〜80年代に著者が敢行した「旅行」とその間になされた「思索」の記録である。 例えば、ソムリエコンクールの優勝者(これが何と若き日の田崎真也なのであるが)とフランスワインの生産地を見学してまわるという「『ガルガンチュア風』暴飲暴食の旅」は、朝から晩まで高級ワインと山のような料理をただひたすら、飲みかつ喰らう一日が描かれ、これが三週間続くのだというところで紙幅が尽きてしまうという恐るべきレポートであるが、 その間に語られるワインと食に関する薀蓄のボリュームには圧倒的なものがあり、立花隆の胃袋が破裂する前に、読んでいる私たちの脳味噌がはちきれてしまうことを心配しなければならない有様なのだ。そしてこれを契機に、著者の飽きることを知らない探究心は、フランス・ワインとヨーロッパ・チーズを極めんとする二つのレポートにつながっていくのである。
2005/4/16
「讃歌」 篠田節子 朝日新聞
朝日新聞の連載終了。天才少女バイオリニストと呼ばれながら、留学先での自殺未遂から姿を消していた園子が、楽器をヴィオラに持ち替えて再起する。そんな人生の物語と「心に響くアルペジオーネ・ソナタ」がドキュメンタリーとして放送されることで、園子は大ブレークすることになったのだが・・・ 表舞台に復帰して、脚光を浴びることとなった途端に、天才とは名ばかりの受賞暦であることが暴露され、自殺未遂の原因が、番組でほのめかされた、人種差別に基づく「文化摩擦」などではなく、単に未熟な技術のせいであったらしいことが明らかとなったりと、今度は大バッシングの嵐となってしまう。そして・・・
「演奏」そのものではなく「物語」によって実力以上に評価されてしまった演奏家。「演奏」そのものも、クラシックの曲想の理解に技術が伴わず「演歌」のようになってしまうことで、プロには全く評価されないのだが、それが逆に日本人の琴線に触れて「心に響く」名演奏となってしまうという皮肉。
しかし、「物語」をまったく抜きにして、「技術」のみで評価され、感動を与える「演奏」とは一体どのようなものであるのだろうか?「違いの分かる男」が飲めばネスカフェでも美味いのだろうか?
いずれにしろ、何となくフジコ・ヘミングを髣髴とさせる設定なのではあるが、ついには本当に自殺してしまう園子の方が、フジコよりは確信犯であったのかもしれない。
2005/4/15
「オレ様化する子どもたち」 諏訪哲二 中公新書ラクレ
授業で言えば、教師の考えている授業空間と、子ども(生徒)の個々が「参加」している授業空間が、別のものになっている。・・・生徒はそれぞれに授業に「参加」し、指導に「従い」、教師に「協力」している。 おしゃべりをしてしまうのも授業を破壊しようと思ってしているわけではない。ただ話したいから話しているのである。教師に「授業に参加する気がないなら出て行け」などと言われれば烈火のごとく怒る。 「参加する気」があるから、わざわざ家からやってきた(やってきてやった)のである。
これが教師暦40年、「プロ教師の会」代表である著者が語る「今どきの授業風景」である。私語を注意されただけで、全人格を否定されたかのように感じてしまうほど、子どもたちの自我は「外」からの攻撃に弱くなってしまった。 では、「オレ様化」してしまった生徒たちと、どのように付き合っていけばよいのか?
それから私は生徒とのトラブルを避けるために、「○○君、しゃべっているように見える。一度注意します。」という「注意」をするようになった。・・・こう言わないと一人ひとりとのエンドレスなトラブルになり、まさに授業の進めようがなくなるだけでなく、 恒常的な教師としてのメンツも立たなくなる。
子どもたちは「外」から批評されることを拒むようになった。「比較する」こともなくなった。「理想的な人間像」との比較だけでなく、そもそも自分と他人とを「比較」するということがなくなった。自分がどう見られているか、自分が周りと比べてどの位置にいるのかを気にしなくなってしまったのである。
なぜ子どもはこのように変貌してしまったのか?このような事態に大人はどのように対処すればよいのか?「個性重視」から「共同体尊重」へ大きく舵を切り替えようとしている日本の教育行政のあり方に疑問符を投げかけ、「個性化」と「社会化」のあり方を問う、迷える大人たち必読の書である。
2005/4/2
「もう牛を食べても安心か」 福岡伸一 文春新書
肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子のゆるい「淀み」でしかない。 しかも、それは高速で入れ換わっている。この回転自体が「生きている」ということであり、常にタンパク質を外部から与えないと、出ていくタンパク質との収支が合わなくなる。それがタンパク質を食べ続けなければならない理由なのである。
私たちは物を食べると、そのほとんどすべてがエネルギー源となって体内で燃焼され、あとは排泄されると思っている。しかし実際は、そのほとんどは体内に取り込まれ、組織内部の在庫品と入れ替わっているのである。驚くべき速さで代謝は回転しているのだ。 1930年代に渡米したユダヤ系の科学者、シェーンハイマーは、重窒素(15N)を利用した実験により発見したこの事実を「動的平衡」と名付けた。
外から来た15Nは、ネズミの身体の中を通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎた、という表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が“通り過ぎる”べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、“通り過ぎつつある”物質が、 一時、形作っていたに過ぎないからである。つまりここにあるのは流れそのものでしかない。
タイトルだけを見ると「吉野家の牛丼はいつ再開するのか?」といった、時事的な話題を扱ったものと思われるかもしれないが、これはそのような本では決してない。 「昨日も今日もお変わりなく」と信じきっている私たちの肉体が、実は分子のレベルでは数ヶ月のうちに、すっかり入れ替わってしまっているという「動的平衡」を維持するために、私たちはタンパク質を食べる。そうした食べることの意味を踏まえながら、今後の食品安全対策に求められるものを科学的に指摘した警告の書なのである。
さて、これでようやく本論に入れる。「狂牛病はなぜ、乳牛に多く発生するのか?」乳牛の赤ちゃんは母乳を与えられない。母乳は商品として人間が飲むのである。(寿司屋の子どもが「鮨」を食べられないのと似ているといったら不謹慎であろうか?)そこで乳牛の赤ちゃんには肉骨粉を水で溶いた「スターター」なるものが与えられる。 これが「狂牛病」発生の一因と見做されている、いわゆる「共食い」である。本来草食であるはずの動物が、無理矢理肉食を強いられたらどうなるのか。
動物と人間はともに環境の構成要素である以上、それらは動的な平衡関係にあり、その関係の一部分を人為的に組み換えたり加速したりすれば確実に環境から揺り戻しを受ける。
折りしも、米国からの牛肉輸入再開論議が喧しい。「20カ月齢以下のBSE感染牛は確認できなかった」ことをもって、政府は20カ月齢以下を全頭検査の対象外にしようとしているが、これはどう考えても論理の筋道がおかしい。 「確認できなかった」からこそ輸入禁止すべきなのであって、全数検査で「確認できた」からこそ、残りの牛の安全性が保証されるのではないのだろうか。
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