徒然読書日記202409
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2024/9/30
「力道山未亡人」 細田昌志 小学館
そもそも、結婚半年で未亡人になるのも異例なら、亡夫の会社を継いで社長になるというのも異例中の異例である。それに、七カ月の 身重である。どうして、それで会社経営など出来ようか。
「無理です。到底つとまるはずがないです」
グループの顧問弁護士が事務的に切り出した、「グループの会社、5つすべての社長をやっていただく」という話を慌てて断った敬子に、弁護士 はこう説明した。「奥様、これは相続なんです。法的にそうするより方法がないのです。それとも、相続を放棄なさいますか」
というわけでこの本は、1963年12月8日の夜に、「ニューラテンクォーター」でヤクザに刺され死亡した、当時人気絶頂のスーパースター だった力道山が、その半年前に4人目の妻に迎えた、まだ22歳で日本航空国際線のスチュワーデスだった田中敬子の、未亡人として歩むことに なった怒涛の半生を描いた本である。
相続することになる遺産の内訳は、リキアパート3億円、リキマンション3億円、リキ・スポーツパレス5億円など、合計約30億円(現在価値 にして約100億円)。ここから約21億円の相続税が引かれる以外に、力道山が構想し既に建設に着手していた、相模湖畔のレジャーランドに つぎ込むための費用が17億円必要だった。
すなわち、力道山の遺産を相続するというのは、自動的に約8億円(現在価値にして約30億円)の負債を背負うということだ。
相続を放棄するという手もあるにはあった。「スチュワーデスに戻ればいい」と言う人もいた。しかし、敬子はそれは考えなかった。「そんな ことを、あの人は絶対に望んでいない」と思った敬子は、社長を引き受けることにしたのだった。
横浜の豪農に生まれ、警察官僚の父に育てられ、小学6年の時に神奈川県代表の健康優良児に、高校2年で応募した「横浜開港百年記念英語論文」 では特等賞を受賞。青少年赤十字の世界大会で出会った大宅映子に誘われて、「国際基督教大」を目指しながら、試験度胸を付けるために受けた 日本航空の「エアガール」募集に合格。という輝かしい経歴を誇り、国際線のスチュワーデスとしてバリバリ活躍してきた敬子のことだから、 やがては若手女性経営者として華麗なる転身を遂げ・・・
とはいかなかった。「力道山」の金看板をあてにして、プロレス界隈の怪しげな有象無象が敬子の周りを徘徊し、次から次へと群がってくること になるのである。(G馬場とA猪木の確執を中心に、日本プロレスが分裂し、新たな団体が消長をくり返す、日本のプロレスの裏歴史に興味の ある方には見逃せない話題も満載だ。)
結局、万策尽きた敬子は引き継いだ財産を次々に手放さざるを得ない状況に追い込まれていくのだが、<人柄がくらくらするほど魅力的> (@辻村深月)なので、あくまで前向きに進んでいく「力道山未亡人」の逞しさに、むしろ周囲の人々の方が(そして我々読者も)救われている ような思いのする読者体験だった。
ちなみに、この本を読まれた方はぜひ
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
も併せ読まれることを、強くお勧めしておく。木村には木村なりの矜持があったのかも しれないが、力道山にだって、どうしても譲ることのできない矜持があったことに気付くことになるに違いない。
2024/9/29
「存在の耐えられない軽さ」 Mクンデラ 集英社文庫
われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘づけに されていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。
これがニーチェが永劫回帰を「もっとも重い荷物」と呼んだ理由であり、であるなら、われわれの人生というものは「素晴らしい軽さ」として 現れうることになる。
<だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?>というこの本は、「現代ヨーロッパ最大の作家」と称されるチェコ 出身のクンデラが、パリ亡命時代に発表して全世界を興奮の渦に巻き込んだ「話題作」である。
プラハの優秀な外科医だったトマーシュは、数多くの女性と気軽な関係を楽しんでいたのだが、ある日、田舎町のカフェで偶然出会ったテレザと 唐突に恋に落ちる。
別れぎわに渡された名刺以上に、(本、ベートーベン、6の数字、公園の黄色いベンチという)偶然の呼びかけのサインの方が、自分の運命 を変えるために家を出ようという勇気を与えた。
母親の束縛を振りほどいて自分の元へ走ったテレザとの出会いが、こちらもありえない6つの偶然のせいだったという考えに嫌な気分を覚えた トマーシュだったが、<しかし、ある出来事により多くの偶然が必要であるのは、逆により意義があり、より特権的なことではないであろうか?>
やがて結婚し、当初は幸福な暮らしを送っていた二人だったが、トマーシュが身に纏う別の女の匂いが、テレザを情緒不安定に陥れるようになる。 しかも彼には、継続的な関係を楽しんでいる奔放な画家サビナという愛人までがいて、テレザは毎晩交代で見る三つの悪夢に悩まされるように なっていった。そして、1968年8月20日。――ロシア軍が突然チェコに侵攻し、プラハの町を占領する。<プラハの春>は凋落の時を 迎えたのである。
反抗的な態度を取る二人への弾圧が高まる中、トマーシュはチューリッヒの病院からの招聘を受諾して、テレザと共にスイスへ亡命することに する。先にジュネーブに亡命していたサビナの紹介で、雑誌のカメラマンの職を得たテレザだったが、半年後、愛人関係が続いていることに 失望し、プラハへ帰ってしまう。出会って7年、テレザに縛られてきた生活から解放され「存在の甘い軽さ」を楽しんだトマーシュだったが、 彼女の思い出が耐えがたく、5日後には追いかけていた。
<運命的ともいえる決断は、まるで存在していなかったかのような偶然的な恋に依拠していた。そしてその絶対的な偶然を具現した問題の女が 今彼の横に寝ていて、深い眠りの中で息をしているのである。>
ここで突然、物語は残されたサビナと新しい愛人フランツのお話しへと移ってしまうのだが、ある日、サビナの元へトマーシュの息子から一通の 手紙が届く。この数年、農村でトラックの運転手として働いていたトマーシュと、二人だけの幸せな暮らしを送っていたテレザが、車の転落事故 で亡くなったという報せだった。<Einmal ist keinmai 一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を 生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。>
いや、しかし、まだこの本は半分も行っておらず、ここからまた新たに、トマーシュとテレザそれぞれの、まだ明かされていなかった一瞬一瞬が 語られていくのである。彼らだけが先行きを知らない、いわば「二度目の人生」を生かされることは、はたして「軽い」のか「重い」のか? それにしても、語り手はいったい誰なのだろうか?
2024/9/24
「漬け物大全」―美味・珍味・怪味を食べ歩く― 小泉武夫 平凡社新書
肉や内臓、皮下脂肪を取り去ったアザラシの腹の中に海鳥ウミツバメの一種を四、五十羽も詰め込んだあと、糸で縫い合わせ、それを 地面に掘った穴の中で発酵・熟成させるもので、「キビヤック」と呼ばれている。
6カ月ほどして発酵が終わると、アザラシはグシャグシャの状態になっているが、ウミツバメはほとんどそのままの形で出てくる。くさやや フナ鮓、腐ったギンナンなどを混ぜたような強烈な匂いを発している、そのウミツバメの肛門に口をつけ、発酵した体液を吸い出して味わう のである。<カナディアン・イヌイット(エスキモー)のアザラシの一頭漬けともいうべき発酵食品である。>
「味覚人飛行物体」と呼ばれる「鋼鉄の胃袋」を持つ著者が、怪味を食べ歩くと豪語しているのだから、きっとこんな話のオンパレードなんだ ろうと思っていたら、意外と真面目に、漬け物の魅力をさまざまな方向から探ってみようと、まずその歴史から入り、人がこの食べ物と最初に 出会ったあたりについて検証した後、地方色豊かな食べ物としての漬け物の魅力の原点を知るために、日本全国の漬け物を実際に足を使って舌と 鼻と目で味わおうと、訪ね歩いた「漬け物紀行」だった。(冒頭のお話しは、海外も含め多くの人びとに愛されてきたこの魅惑の食べ物が、 それぞれの民族とどのように関わり合っているのかを述べた「民族学」編である。)
漬け物が「漬かる」ということは、漬ける材料が漬け床や漬け味液の中で物理化学的、生化学的、微生物学的な作用によって適当な風味に 漬け上がることである。
と、「漬け物とは何か」について、微生物の複雑な作用などその概要を滔々と語る、東京農大醸造学科卒で発酵学を専攻する教授としてのお姿も 凛々しいのだが、
漬け上がった白菜を適宜の大きさに切り、これを小皿にとって、上からうま味調味料をパッパッとふりかけ、その上から醤油を垂らす。 ご飯茶碗に盛った熱いご飯の上にその白菜漬けの一片をひらりとのせ、ご飯をその白菜で包むようにして食べると、そのうまさに腰を抜かす ほどである。(群馬県針塚農園・白菜の麹漬)
「私などはこの白菜漬けだけでご飯を三杯も平らげるほどだ」という、日本全国食べ歩きのルポの方が、「発酵仮面のおじさん」の面目躍如で、 やはり最強だ。
糠を除いて軽く焼いたものの焼き上がり加減を見、煙に混じって出てくる匂いを鼻でかぐ時はもう、よだれが滝のようにドウドウと出て 止まらない。(福井県・サバのへしこ漬け)
食欲が落ちたときでもあっという間に回復して、「ご飯が胃袋にすっ飛んで入っていく」とおっしゃるが、「鉄の胃」がそんなことになるのは 年に一、二度らしい。
かめのふたを開けて、中からホンオを取り出した瞬間から涙がポロリポロリと出てきて止まらず、その切り身を箸で取り、口に入れるとき、 鼻の前を通過した瞬間にもクラリときたほどであった。(韓国木浦・エイの漬け物)
その強烈な催涙臭は、世界中の奇食珍食を漁ってきた身にとっても初体験だったらしいが、それから五日間食べまくって、欲するまでになった というからさすがだ。というわけで、最後は我がふるさと石川県が誇る「世界一珍しい魚の漬け物」をご紹介いただこう。「フグの卵巣の糠漬け」 である。
どんぶりに持ったご飯の上にこの卵巣をくずして撒き、上から熱湯をかけよく混ぜて食べるのだが、卵巣のうま味とコク味、そして糠味噌 漬け特有の発酵臭と主に乳酸からくる酸味がご飯にじつに合い、すばらしい美味を生ずるのである。
大型のトラフグだと卵巣一個で十五人を致死させるほどの猛毒があるのだが、それを微生物の力で分解し、美味な珍味に変えてしまうのだから 驚きである。もっともそれを平気で食べようとする、人間の食への飽くなき探求心の方がはるかに驚きなのだが。(一番初めに試した人は命懸け だっただろうなあ。)
2024/9/18
「英語の読み方」―ニュース、SNSから小説まで― 北村一真 中公新書
使える英語というのは「読み書き」ではない、「聞いたり話したりする英語」であるというイメージを持つ方も少なくないかも しれません。
<それは2つの点で誤った、あるいは少なくとも非常に偏った見方です。>
第1に、現代の日常生活において、英語の読み書きのスキルは、触れることのできる情報の幅がかなり広がるという意味で、非常に実用的な 価値を持っていること。そして第2に、「ネットで普通に使われているような英語を問題なく読めるかどうか」が、「聞く力」「話す力」を 自力で高めていくための鍵になること。それが、本書が全ての英語学習の基本となる読解力にフォーカスする理由だというのが、塾講師として 難関大学対策の英語講座を担当した著者の持論なのである。
「1分間に200語」が標準という英語話者の読解スピードから見ると、大半の人は恐らく半分以下(場合によっては3分の1以下)のスピード でしか読めていない。これを「読める」とするのなら、ニュース報道や映画のセリフを半分以下の速度で言ってもらえれば聞き取れる、という 状態も「聞ける」と見なさなければならない。つまり、「日本人はネイティブスピードの半分以下の速度でなら読めるけど、ネイティブスピード で会話はできない(聞けない、話せない)」というわけで、「日本人は読めるけど聞けない、話せない」と主張する人は、いたって当たり前の ことを言っているに過ぎないのである。
ニュースや講演のように、話者が聞き手を意識してはっきり話している英語を聞き取れないとすれば、実際は発音や耳の問題だけではなく、 読解力も原因だと考えてほぼ間違いありません。
そんなわけで、導入編に当たる第1章で、読解力の基本となる「文法の理解」「広い意味での語彙力」「英文の内容に関する背景知識」を 再確認し、続く第2章で、インターネットを活用して英文に慣れるための具体的な方法など、生の英語に触れ、浴びるように読むための便利な 方策を学んだ後は、いよいよ実践編として、ジャンルごとに異なるタイプの英文が例文として取り上げられ、懇切丁寧な解説に導かれながら、 取り組んでいくことになる。
第3章 新聞や雑誌に用いられる時事英文
第4章 評論や講演などより抽象度の高い論理的題材
第5章 SNS、漫画、小説など普段使いの英文
「むずむずと英語が読みたくなる」(@阿部公彦・東京大学教授)と帯にもあるように、取り上げられた例文をまずはとにかく読んでみて、 解説で確かめ、「う〜む、なるほど」と頷いて、もう一度始めから読み直す。という繰り返しのトレーニングが、今さら試験を受けるわけでは ない身にとっては、なかなかに刺激的で意外に楽しい読書とはなった。受験勉強を通じて、基本的な文法力、読解力を身につけていれば、 スピードや語彙力の問題はまだまだでも、「正確に理解するスキル」は身についているはずという。
日本で教育を受けてきた人なら、読解力の基礎を強みとして他の能力にも応用していくほうが、そこまでのやり方をすべて捨てて、突然 英会話の練習をするよりはるかに効率がよいと思います。
2024/9/8
「バリ山行」 松永K三蔵 文藝春秋
「じゃあ、一回行ってみる?」そう妻鹿(めが)さんが言ったのは帰りの車内だった。え?と思いがけない誘いに私が戸惑っていると、 ・・・
<「山、行ってみる?バリ」と妻鹿さんは笑った。>
内装リフォーム会社から外装修繕会社に転職して2年目の波多は、社内の「サークル」への参加がきっかけで、少しずつ登山の魅力に惹かれて いくようになっていた。大抵はアクセスの良い六甲山系の低山が中心だったが、そんな登山サークルの山行に、ある日突然妻鹿が参加すると 聞いて、波多が意外に思ったのは、基本的にスーツの営業担当の中で、いつも作業着で現場を駆け回り、社内のどのグループにも属さず、淡々と ひとりで業務をこなす、そんな変わり者だったからだ。
「バリやっとんや、あいつ」
バリ=バリエーションルート。通常の登山道でない道を行く。破線ルートとも呼ばれる熟練者向きの難易度の高いルートや廃道。そこを行くこと を指すという。ちゃんと整備された道を、ある意味で歩かされている自分たちとは違って、毎週末ひとりで山に分け入って、そんなことをして いる妻鹿の危険行為ともいうべき山行。妻鹿らしいと言えばらしいのだが、何故そんなことを続けているのか?バリとは何なのか。波多はそれを 妻鹿に訊いてみたかった。
本年度「芥川賞」受賞作品。
激変する業界内で中小業者が生き残るための戦略として、新社長が打ち出した元請工事からの撤退方針。その極端な方針変更に揺れ動き、営業 部門が右往左往する中、会社の業績悪化によるリストラの影に不安を隠せない波多は、それでもあくまでマイペースを貫き、飄々と仕事を こなしていく妻鹿に、恐る恐る接近していく。そんなある日、担当した防水工事のクレーム案件を相談し、現場同行してくれた妻鹿が一発で 原因を突き止めた帰り道、ついに波多は「バリ」に誘われたのだった。
ここから始まる、<自然との一体感を崇高化する英雄的冒険のパロディ化>(@平野啓一郎)としての「バリ山行」の描写は圧倒的と評価が高い のだが、建設業界に身を置く暇人としては、防水工事のクレーム対処など、業界内幕暴露に似た臨場感に溢れていて、居住まいを正しながら 読まねばならない部分もあった。
先が見通せない組織の中で、落ち着かない思いを抱えている波多にとって、我が道を行く妻鹿の生き方には、憧れに近いものがあったのだろうが、 初めは「いいですね!」と感動していた山行も、どこまでも際限のない藪と、足が竦むような斜面との闘いに消耗を重ねるうちに、苛立ちを 隠せなくなってしまう。
「バリはさ、ルートが合ってるかじゃないんだよ。行けるかどうかだよ。行けるところがルートなんだよ」
社内の空気を読んで安全な方を進んでいこうとしてきた人生と、誰からも尊敬されぬ「愚行」としか思われないような道をあえて選ぼうとする 人生との交錯。バリ山行で肺炎となり、病休明けに出社した波多は、妻鹿が社長方針に反対して直訴し、会社を辞めてしまったことを知る。 そして、波多はひとりで登り始める。
妻鹿さんも同じだったんじゃないだろうか。・・・自分のことをやるだけと言っていた妻鹿さんも、山でひとり胸苦しいほどの不安を感じて いたんじゃないだろうか。
2024/9/7
「サンショウウオの四十九日」 朝比奈秋 文藝春秋
「伯父さんってさ、お父さん孕んでる時、辛かったんかな。それか、産み終わって空っぽになってからの方が辛かったんかな」
伯父の「胎児内胎児」として12か月もの間、伯父の体内に居座って酸素と栄養を得ていた父は、その間は紛れもなく伯父の内蔵の一つだった に違いない。離れ離れになって50年以上たってもその臓腑的な関係は続き、透明な一方通行の通路は今も繋がっていて、父は伯父に病気や怪我 を押しつけているようだった。だから、「あのね。今さっき電話があって。勝彦伯父さん亡くなったって」という母からの電話に、全身が がくがくと痙攣するほどの衝撃を受けたのは、<自分たちのように>深くで繋がっていると思っていた二人なら、いつか同時に死ぬと思い込んで いたからだ。二人が同時に死ななかったことに衝撃を受けたのだ。
この物語の主人公、杏と瞬の双子の姉妹は、伯父と父以上に全てがくっついて生まれ落ちて、そして今もくっついている「結合双生児」だった。 <もしも自分たちの片っぽが死んだら、もう一方はどうなるのだろう?>
本年度「芥川賞」受賞作品。
顔面も、違う半顔が真っ二つになって少しずれてくっついている。結合双生児といっても、頭も胸も腹もすべてがくっついて生まれたから、 はたから見れば一人に見える。
初対面の人は私たちの顔を見ても、面長の左顔と丸い右顔がずれてくっついたものだなんて思わず、特異な顔貌をした「障がい者」なんだろう と思ってしまうし、親ですら一言も話すことができなかった「わたし」の存在に気がつかず、「私」が「わたし」を見つけだしてくれたのは、 ようやく5歳になってからだったのだ。
とここまで書くと、何やら物凄く複雑な展開を想像してしまいそうだが、物語自体は伯父の死から四十九日までのごくありふれた日常が描かれて いくにすぎない。ただ、そこには「私(杏)」と「わたし(瞬)」という二人で一人の「私たち」がいて、別人格としての意識が交互に交錯し、 読む者の脳内までかき回してくるのだ。
自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあって いて、独占できるものなどひとつもない。他の人たちと違うのは、私と瞬はあまりに直接的、という点だけだった。
四十九日の法要で、いとこから直近の数カ月で伯父の腎臓がかなり悪くなっていたこと、父から片方の腎臓を移植してもらう時期を相談していた ことを聞かされる。高校の校外実習で見た、白と黒の勾玉が追いかけっこしたような配置になっている「陰陽図」。「黒いオオサンショウウオが 一匹、白いオオサンショウウオが一匹。白の頭部の中心には黒い点が、黒の頭部の中心には白の点があるでしょう。陽中陰、陰中陽とそれぞれ 呼ばれていて、陽きわまれば陰となり・・・」
もし腎移植が実現していたら、それなりの陰陽図が完成していたと気付いた瞬は、父が亡くなったら伯父の骨と父の骨を混ぜて、墓場で完成させ てあげようと決心し、自分たちが死んだ時に一人の死亡として扱われても大した問題ではなさそうに思えてくるのだった。元々一つの骨だから、 熱海の沖に広く散骨されるのもいいかもと。
杏は子供らによって自分たちが納骨されることを想像している。骨壺はやはり一つで、・・・墓に蓋をすると、中は完全な暗闇になる。 そこからまた何十年も何百年も一緒に過ごす。・・・そんな想像に朝の空気がことさら鮮やかに匂ってきて、わたしもまた安らいでくる。
2024/9/5
「文明交錯」 Lビネ 東京創元社
そこには奇妙な人々が住んでいた。白と茶の寛衣を着た男たちで、頭のてっぺんを剃っていて、ひざまずいて両手を合わせ、目を閉じ、 なにやらぶつぶつ唱えている。そしてようやく目を開けてアタワルパ一行に気づいたと思ったら、悲鳴を上げて飛び上がり、驚いたときのクイの ようにサンダルで石畳を打ち鳴らして四方八方に逃げ出した。
<こうして長い航海が終わった。男も女も、馬もリャマも、大海原を無事に渡りきり、レパント(太陽が昇る場所)にたどり着いた。>
圧倒的に優位だったはずのインカ帝国が、スペイン人にいとも簡単に征服されたのは、彼らが鉄、銃、馬そして未知の病原菌に対する免疫を 持っていなかったからだ。と、ジャレド・ダイアモンドが名著
『銃・病原菌・鉄』
の中で喝破したのは、 ある民族がほかの民族より優位に立てたのは、決して生物学的に優っていたからではなく、単に地理的条件に恵まれていたためで、思いがけずに 征服者になってしまったに過ぎない、と言いたかったわけなのだ。
では、もしもこれが逆になっていたら、世界はどのように変わっていただろうか?もしもインカ帝国がスペインに行って、スペインを征服して いたとしたら・・・
1942年のプラハを舞台に、ユダヤ人大量虐殺の首謀者ハイドリヒの暗殺作戦を描き、「ゴンクール賞最優秀新人賞」に輝いた話題作
『HHhH』
で、「史実」に基づいて 小説を書くということの意味を、興醒めであることも覚悟して、随所で立ち止まりながら、自らを倫理的に問い詰めていったビネが、今回挑んで 見せたのは、個々の事象としては史実を使用しながら、旧大陸と新大陸の立場を逆転してしまう、という大胆な大技による「歴史改変小説」 だった。2019年度「アカデミー・フランセーズ小説大賞」受賞作品。
中世アイスランドに実在する「サガ」の要約から語り出される第一部では、北欧からインディオに鉄と馬が伝えらることになった経緯が明かされ、 新大陸を発見したつもりのコロンブス一行が原住民たちに殲滅されて、歴史の大きな歯車が逆転しはじめる第二部は、実在の『コロンブス航海誌』 の抜粋で描かれる。ここまでお膳立てを整えてから、いよいよ本編ともいうべき第三部、アタワルパがスペインへと乗り込み、ヨーロッパの 勢力図を塗り変えていく、冒頭でご紹介した『アタワルパ年代記』が始まるのである。(アタワルパは兄ワスカルとの覇権争いに敗れ、インカ 帝国を逃れて、スペインに流れ着いたのだ。)
「ピサロやコルテスが行ったことを、反転させた世界でどのようにアタワルパに行わせるかをゲームのように楽しむように考えていきました」 (著者インタビュー)というように、歴史上の実在の多彩な顔触れが次々に登場し、史実通りの(あるいはまったく正反対の)立場で動きまわる のを見るのも醍醐味があるし、宗教改革真っ盛りのキリスト教世界で、太陽神を崇拝するインカの支配が逆に大衆の支持を得るなど、風刺も 存分に効いていて、措く能わざる味がある。はたして、アタワルパが築き上げた<第五の邦>はいかなる結末を迎えることになるのか?後は、 是非ご自分でお確かめいただきたい。超おススメの一冊である。
アタワルパの遺体は防腐処理を施され、アンダルシアに運ばれた。葬儀はインカのしきたりに則って一年続いた。彼のミイラはいま、好敵手 だったカール五世と、その妻であり彼自身の妻ともなったイサベルとともに、セビーリャ大聖堂に納められている。
2024/9/4
「源氏と日本国王」 岡野友彦 講談社現代新書
本書では、「源氏でなければ将軍になれない」などといった俗説を論破し、その上で「源氏長者こそが中世・近世における日本の国家 主権者であった」という主張を展開していこうと思う。
<征夷大将軍という地位は、日本の国家主権を示すものではなかった。>
というこの本は、日本中世史を専門とする著者が「源氏長者」について学術雑誌に小論を発表して以来、十数年に渡って取り組み続けた結果の 中間報告である。足利義満や徳川家康など「征夷大将軍」として国家主権を掌握したと言われている多くの人々が「源氏長者」という「貴種性」 を示す地位にも就いていたという事実。ひょっとして、武家政権は「征夷大将軍」としてではなく、「源氏長者」として「国家主権」を掌握して いたのかも知れない、というところからこの論考は始まった。
<ところで「源氏」とは何か?>
源・平・藤原などといった氏の名である「姓」と、足利・新田・北条などといった家の名である「苗字」は、本来まったく次元の異なるもの であり、
@「姓」は天皇が上から与える形式をとる公的な名前なのに対し、「苗字」はみずから私称する名前である。(だから天皇とその一族には姓が ない。)
A「姓」は父系制的な血縁原理で継承される名で氏人はみな同姓なのに対し、「苗字」は家という社会組織自体の名で決して血族の名前ではない。 (源の頼朝とは言うが、徳川の家康とは言わない。)
弘仁5年(814)、嵯峨天皇は8人の子女に源姓を与えたのを皮切りに、最終的にはその所生男女50人のうち32人に対して源姓を与え、 臣籍に降下せしめた。朝廷の深刻な財政危機を未然に防ぐため、史上初の「皇族リストラ」に用いられた「賜姓」による「臣籍降下」という 手段。これこそ「源氏誕生」の瞬間だった。
<嵯峨天皇の精力絶倫こそが、「源氏誕生」の真の原因であるなどと申し上げたら、いささか失礼に過ぎようか。>
「臣籍降下」は古くから行われてはきたが、それは天皇から何世代もたった王に姓を与えたものであり、複数の皇子に一括して同じ姓を与える という前例はなかった。つまり「源氏」は、「氏」的なまとまりとしてはあくまでも皇族としての性格を色濃く残したまま、いわば「たまたま 臣籍に身を置く皇族」として成立したのだ。ちなみに、『源氏物語』の光源氏は桐壺帝の第二皇子であるが、「皇位につくと国が乱れる」という 予言もあり、「源氏」姓を与えて臣籍降下させられた。だから、光源氏とは本当の名前ではなく、源氏何某という名前であったはずだが、幼少の 時からあまりに美しいため「光る君」と呼ばれていただけなのだ。
<こうした源氏という「氏」の「準皇族」的性格は、その後の源氏と皇族の歴史に様々な影響を与えたに違いない。>というのが、この著者 まことに歯切れのよい主張の骨子なのである。
これまでの研究が「征夷大将軍」を国家主権者として疑わなかった背景には、「武家政権の実力」=「武力」を「支配の正当性」として 認めてしまう意識が大きく作用していたと私は思う。しかし、何度でも言おう。支配される人々にとって「正当性」がないと感じられる「武力」 は、それがいかに強大な「軍事力」であったとしても、きわめて脆弱なものだ。
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