徒然読書日記202407
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2024/7/30
「嘘つきのための辞書」 Eウィリアムズ 河出書房新社
「まちがいがあるのだ。辞書に」デイヴィッドのやわらかな声がじりじりと涙声に変わっていくように思え、わたしはじっと上司を 見つめた。すると、デイヴィッドは弁解がましい口調になって言い直した。
「まちがいとは少しちがうな。あるべくしてあるのだが、あってはならない語のことだ。」
1930年に全9巻の初版を出しながら未だに未完成で、むしろそれゆえに愛されている『スワンズビー新百科辞書』の電子版を刊行すること を目論んでいる、4代目当主で編集長のデイヴィッド・スワンズビーにとって、この辞書に紛れ込んだ「フェイク語」の多さがもう一つの悩み の種だった。
――cassiculation(名)透き通った見えないクモの巣に突っこんでしまったときの感覚――
わかる、とわたしは思った。使い方が想像できる。不正の匂いを嗅ぎつけようとするかのように、紙を顔に近づけた。
「これがそのフェイク語なんですか?マウントウィーゼルとかいう?」
デイヴィッドから、総がかりで書庫をチェックし、編集プロセスをすり抜けたフェイク語と同じ筆跡の項目カードをすべて探し出すよう命じ られたマロリーは、この会社でインターンを始めてから3年で、同一人物から毎日かかってくる「建物を爆破する」という脅迫電話に出るのが 仕事という、たった1人の社員だった。
<マウントウィーゼル>――著作権を守るために、辞書や百科事典に載せる偽の項目。『新コロンビア百科事典』に掲載された有名なフェイク 項目に由来する。しかし、それならば一つの版に一つでいいはずのそんなくだらない言葉が、この辞書には多すぎた。いったい誰が、何のために これらの言葉を潜り込ませたのか?
――winceworthliness(名)意味のない道楽の価値――
ウィンスワースは、机の上のすでに完成した項目カードの束にブルーのカードをすべりこませた。口がからからに乾いている。人知れぬ反逆、 犠牲者のいない嘘。
「自分の考えの痕跡が自分の死後も生き残るというのは、まんざらでもない。永遠に生きることになるとも言える。」
時は遡って19世紀。100人を超える辞書編纂者たちが日々机に向かって作業を続けているスワンズビー会館で、同僚たちに埋もれその存在を 忘れられてしまう、辞書の「S」の項目を担当しながら、舌足らずな喋り方の矯正のため「話し方レッスン」に通わされているという冴えない男 のウィンスワースは、唐突に恋に落ちる。
――love(動)粉砂糖と、癒し効果のある紅茶の葉、もしくは、当たり障りのない小さな嘘を共有することで、虚空を満たすこと
というわけでこの本は、19世紀と21世紀にそれぞれ、勢いは随分衰えたとはいえ同じスワンズビー社で辞書編纂に携わることになった二人が 交互に描かれ、片や多すぎるフェイク語の数々に、時には感心させられながらも、溜め息を吐きながら取り除く作業にいそしむマロリーの怒涛の 日々と、ままならぬ恋の顛末に心惑わせながら、ますますその時の気持ちにぴったりくる言葉を、せっせと生み出し続けていくウィンスワースの 日々が、綴られていくのだ。
百科辞書の編纂をしているという彼らの誇りを思う。できるだけ多くの語や事実を集めて上着の中やポケットに詰めこんでいるのだ。彼らの 野望を、すべてをきちんと整理したいという渇望を思う。そう、きちんと。
2024/7/7
「源氏物語」 紫式部 与謝野晶子訳 河出書房
ぼくとしては、日本で最初に『源氏物語』の現代語訳にとりくんで、かつその後のどんな現代語訳をも凌駕している『与謝野晶子訳・ 源氏物語』を読んでもらいたいというのが、本音なのである。晶子の源氏にくらべれば、円地源氏も瀬戸内源氏もお話にならない。(松岡正剛 『千夜千冊』20夜より抜粋)
というわけで、大河ドラマ『光る君へ』に触発されて、死ぬまでに一度は読まねばと一念発起してはみたものの、原文に手を伸ばすことまでは 躊躇した暇人が、家にあった「瀬戸内寂聴版」と「与謝野晶子版」から、わざわざ古くて読みにくそうな方を選んだのは、松岡センセイのご推薦 ならば間違いあるまいと思ったからだ。(母親にプレゼントした瀬戸内版が全10巻なのに対し、上下2巻というのも魅力的だった。もっとも、 文字が小さいだけで、分量は変わらないわけだけど・・・)
顔つきがひじょうにかわいくて、眉の仄かに伸びたところ、子どもらしく自然に髪が横撫でになっている額にも髪の性質にも、すぐれた美が ひそんでいると見えた。(巻五『若紫』)
病気治療の祈祷を受けようと北山に出かけた18歳の光源氏が、10歳の美少女を垣間見る場面だが、「なぜこんなに自分の目がこの子に引き 寄せられるのか。」それは、恋しい「藤壺の宮」によく似ているからだと気がついた刹那、「その人」への思慕の涙が熱く源氏の頬を伝わって いく。のちの「紫の上」との出会いだった。
手に摘みて いつしかも見ん 紫の 根に通ひける 野辺の若草
結局、引き取って幻滅を感じるのではないかと危ぶむ心もありながら、「その人」に縁故のある少女を連れ帰り、自分好みの素晴らしい女性に 仕立て上げ、妻にする。
この少女との出会いは源氏全編に流れる「紫のゆかり」の系譜が、桐壺の更衣、藤壺をへて紫の上に及んで、さらに“紫化”していったと いうことの強調なのですから、この垣間見はたいへん重要なきっかけだったのです。(松岡正剛『千夜千冊』ウェブサイト)
(ちなみに『源氏物語』には795首の和歌が入っており、それを紫式部がすべて登場人物に即して、わざと下手に詠んだりして歌い分けて いるのだが、「この程度の歌は理解してね」とばかりに、歌には現代語訳を一切付けていないところが、さすが与謝野晶子だ。)
与えられた無理なわずかな逢瀬の中にいるときも、幸福が現実の幸福とは思えないで夢としか思われないのが、源氏はみずから残念であった。 (巻五『若紫』)
同じ時期に、源氏は病気で自邸へ退出していた藤壺の宮(23歳)と密会(しかも2度目のことらしい)を果たす。永久の夜は得られず、 恨めしい別れの時は至った。
見てもまた 逢ふ夜稀なる 夢の中に やがてまぎるる わが身ともがな
そうしたことの前もあとも女房たちの目には違って見えることもなかったのであるが、源氏だけは早く起きて、姫君が床を離れない朝が あった。(巻九)
前に
『源氏物語の結婚』
でご紹介した、 14歳となり美しく成長した「紫の上」との<新枕>の場面である。源氏にそんな心のあることを想像もしてみなかったのだ。
あやなくも 隔てけるかな 夜を重ね さすがに馴れし 中の衣を
というわけで、物語の前半で抱かされた3つの重大な秘密を背負って、源氏は物語の後半へと歩み出すことになる。藤壺女御との不義、若紫の 隠匿(そして夕顔の死)。
1千年も昔に書かれながら、現代の我々が読んでも何の違和感を感ずることもない、愛と罪と運命の物語を、是非皆さんもご自分で読んで 見られたい。
(参考:
『源氏物語が面白いほど分かる本』
)
2024/7/5
「世界は経営でできている」 岩尾俊兵 講談社現代新書
日常は経営であふれている。仕事にかぎらず、恋愛、勉強、芸術、科学、歴史・・・などあらゆる人間活動で生じる不条理劇は 「経営という概念への誤解」からもたらされる。
<もちろん、ここでいう経営はいわゆる企業経営やお金儲けを指していない。>
というこの本は、東大初の経営学博士である著者が、日常に潜む「経営」がもたらす悲喜劇を、「令和冷笑体」と自称するスタイルで、面白 おかしく描き出すことで、人類のさまざまな側面に関わる広義の「経営」において、利益・利潤や個人の効用増大が、究極の目的にはなりえない ことを明らかにし、世間にいう「経営概念」そのものを変化させることを目的とするものだ。なぜなら、この著者によれば、本来の経営とは 以下のように定義されるものだからだ。
「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的 の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」
<この経営概念の下では誰もが人生を経営する当事者となる。>
たとえば妻は、夫がなぜ中身ちょっと残しのコップをところかまわず置いていくのか、彼の奇妙な行動の数々が理解できないのに対し、夫は、 今まさに片付けようと思っていたコップやゴミに、なぜ妻がそこまでヒステリックに反応するのか理解できず、「更年期?」などとたずねて 喧嘩に発展する。
彼氏から夫になった瞬間に、自分の存在そのものが(母子関係のように)妻への価値提供になっていると思いたがる夫に対し、夫の存在そのもの は不快の原因にしかなっていない妻は、その不快を解消すべく、恋愛関係のときと同じ程度以上の努力を続けて欲しいと思うところに、対立は 生じる。夫と妻のどちらもが、親子のように無条件で価値を提供できるわけではなく、相手に価値を提供すべく主体的に問題解決していかなけ ればいけなくなるのである。
だから「家庭は経営でできている」のだ。
といった具合に、貧乏、虚栄、心労、就活、憤怒、健康などなど、世界中の伝統的宗教で人間の苦しみと幸せの源泉とされた15のお題が取り 上げられていく。
@ 本当は誰もが人生を経営しているのにそれに気付く人は少ない。
A 誤った経営概念によって人生に不条理と不合理がもたらされ続けている。
B 誰もが本来の経営概念に立ち戻らないと個人も社会も豊かになれない。
金銭、時間、歓心、名声など、人生における悲喜劇は「何かの奪い合い」から生まれる。価値あるものはすべて有限だという思い込みが、究極の 目的を忘れさせるのだ。というのが、どのお題にも一貫する本書の極端で単純明快な、「人間とは、価値創造によって共同体全体の幸せを実現 する<経営人>なのだ」という主張なのである。
世界から経営が失われている。本来の経営は失われ、その代わりに、他者を出し抜き、騙し、利用し、搾取する、刹那的で、利己主義の、 俗悪な何かが世に蔓延っている。本来の経営の地位を奪ったそれは恐るべき感染力で世間に広まった。
2024/7/2
「いとをかしき20世紀美術」 筧菜奈子 亜紀書房
20世紀のアートの中でも、特に面白い試みをしている動向や作家たちを取り上げ、7章に分けて紹介することにしました。
AIの進歩により、人間の創作活動すら機械に奪われてしまうのではという不安が囁かれる昨今、実はこれと同じような問題が20世紀の初め にも起きていたという。機械生産が本格化して、人間の手仕事がどんどん機械に置き換わっていく時代、写真や機械生産品の普及など、それは アートの世界でも例外ではなかったからだ。
<では20世紀以降、アートは必要なくなったのでしょうか?・・・そんなことはなかったのです。>
時代の変化を受け入れながら、まったく新しいアートを創り上げていった20世紀のアーティストたちの発想は、21世紀のアートにとっても ヒントになるはずだ。それが、この本が20世紀の美術史を彩る天才たちを取り上げ、マンガとイラストによるストーリー仕立てでわかりやすく 解説してみせた、著者の狙いなのである。
「見立て」や「コンセプト重視」という思考で芸術の定義を拡張し、アートの定義をひっくり返してみせた。
――マルセル・デュシャン
写実的な物が一切描かれていない絵画により抽象表現の先陣を切り、色と形で音楽を奏でた。
――ワシリー・カンディンスキー
夢や偶然といった非合理な現象からインスピレーションを得ようとし、不可思議はつねに美しいことを示した。
――アンドレ・ブルトン(シュルレアリスム)
無意識に関心を抱き自動筆記技法を独自に発展させて、アメリカン・アートの荒野を切り拓いた。
――ジャクソン・ポロック(抽象表現主義)
作者の個性や技術力を否定し、自分は徹底的に表面的な存在で、作品にも隠された意味などないと断言した。
――アンディ・ウォーホル(ポップ・アート)
社会を作品と捉えてアートという突拍子もない活動を持ち出し、アイデアがアートを超越することを目指した。
――ヨーゼフ・ボイス(コンセプチュアル・アート)
荒らされて放置された環境に介入し作品を制作することで、産業による行き過ぎた開発と環境を仲立ちした。
――ロバート・スミッソン(ランド・アート)
一見しただけではその意味が掴めない難解な「現代アート」を、京都で芸術を学ぶ学生たちと一緒に「勉強」していくことで、何だか分かった ような気になってくる。この本は、現代美術と装飾史を研究しながら、イラスト執筆やデザイン提供など幅広い領域で活動している著者による、 「現代アートの謎解き歴史絵巻」なのである。
<この本にはもう1つテーマがあります。・・・それは日本の文化と現代アートの親和性を探ることです。>
日本の文化をよく見てみると、現代アート顔負けの突飛な発想や規模を持つものが多くあります。実は日本人は現代アート的なことが好き なのではないか?
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