徒然読書日記202406
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2024/6/29
「ChatGPTの頭の中」 Sウルフラム ハヤカワ新書
ChatGPTで自動生成される文章は、たとえ表面的にだとしても、人間が書いた文章と同じように読める。これは驚異的であり、予想外 でもある。
<では、ChatGPTはどうやってそれを実現しているのだろうか。>
というこの本は、理論物理学者であり、質問応答ソフトWolfram/Alphaの開発など、ニューラルネットの発展を長年追い続けてきた著者によ 「最強の解説書」である。何よりもまず押さえておきたい点は、ChatGPTは基本的に、そこまでに出力された内容の「順当な続き」を出力しよう と試みているだけである、ということだ。億単位のウェブページなどに書かれている内容を見たうえで、人間が書きそうだと予測される「次の 単語」を、「確率」でランク付けされたリストに従って選ぶのだ。
<だが、ここで不思議な魔術が登場する。>
常に最高ランクの単語を選んでいると、どうにも「単調な」小論文になり、「クリエイティビティを発揮する」ところがまったくなくなって しまうのである。そこで、ランクの低い単語を使う頻度を決める「温度」というパラメーターが存在し、ときどきはランクの低い単語をランダム に選んでやれば、うまく機能するのだ。ここではどんな「理論」も使われていないことを、あらためて強調しておいたほうがいいだろう。現実に うまく機能することが、ただ分かっているだけなのだ。
驚くべきなのは、「たった」そのくらいの数のパラメーターで成り立っているChatGPTの基礎構造だ。その数だけでも、次の語が続く確率を 「かなりうまく」計算し、小論文といえる妥当な長さの文章を生成できるモデルを作れるのである。
と、この辺りまでは比較的余裕で、目から鱗を落としながらとはいえ、著者のまことにクールな議論に、付いていくことはできたのだったが、 それは「基本的に単純な物理学に由来する数値データのモデルを作る」という、いってみれば「単純な数学が当てはまる」ことが何世紀も前から 分かっている例だった。と、突然雲行きが怪しくなり、『ChatGPTの頭の中』よりも「ウルフラムの頭の中」がさっぱり見えなくなっていって しまう。たとえば「画像認識」の世界である。
画像認識のような処理をこなす典型的なモデルとして、今のところ最も広く使われ、かつ成功もしているのは、ニューラルネットを使う アプローチなのだそうだが、このようなニューラルネットを「数学的に表現した」ブラックボックスは、結果的に11層になっており、そのうち 4層が「コア層」だという。それは現実的な技術の産物として考案され、実際にうまく機能したものだが、そこに特に「理論的に導き出された」 といえる点はない。
<言うまでもなく、生物としての進化の過程で人間の脳が生まれてきた経緯とそれほど変わらない。>
だから、ここからの議論は、どうぞご自分でお読みいただきたい。わからなくてもそれなりに、暇人としても得るものはあった。ただうまく 説明できないだけだから。ChatGPTが文章を生成する機能には、目を見張るものがある。だとすると、ChatGPTは人間の脳のように動いている といえるのだろうか?
人間の言語は(そして、それを支えている思考のパターンは)、どうやら私たちが考えていたよりも単純であり、その構造はもっと「規則的」 らしいということだ。そのことを暗黙のうちに明らかにしたのがChatGPTである。
2024/6/21
「ゼロから始めるジャック・ラカン」―疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版― 片岡一竹 ちくま文庫
一般的に、精神分析に向けられる関心には二つのものがあります。まずは、@臨床実践としての精神分析への関心です。あるいは それとは別に、A思想としての精神分析への関心から読まれている方もおられると思います。
「確かにフロイトは精神分析を治療として用いていたかもしれないけれど、ラカン理論は治療のためのものというより、哲学的な理論なのでは?」 という疑問を頻繁に目にするように、ジャック・ラカンは治療者というよりも、もっぱらフランス現代思想の論客という印象で受け止められて おり、その斬新な思想は、哲学や文学、映画批評、社会学などの分野にも多くの影響をもたらしてきた。(参考:
『ラカンはこう読め!』Sジジェク
)
しかし、ラカンは生涯に亘って臨床を捨てず、亡くなる直前まで精力的に臨床を行っていたと断言する、若きラカン派の精神分析家である著者は、 「精神分析は何を目指すのか」「精神分析の臨床はどのように行われるか」というみずからの精神分析の体験にもとづき、実践臨床の側面から ラカンの理論に迫る。
「精神分析を研究しています」と初対面の人に告げると、「じゃあ私の精神を分析してみてください」と言われることが多々あります。 しかし、こう言われるたびにちょっと困ってしまいます。
<他人の精神を分析することはできないからです。>
普通、精神分析的な解釈とは「患者の発言に精神分析的な意味を与えるもの」と思われている。「自分が何気なく言ったことが、解釈されてその 意味が分かる」のだと。しかし「患者は分析家によって自分の思考や行為の無意識な意味を知る」のではなく、「意味があると思っていたことが 実は無意味であったことを自覚する」のだ。精神分析の解釈とは、むしろ「意味を切る」ようなものだと、そして「意味のあるようなものは解釈 ではない」と、ラカンは言っているというのである。
ラカン的精神分析では、患者の方を「分析主体」と呼ぶ。つまり、誰が精神分析をするのかと言えば、あくまで患者自身による自己分析を主軸と して展開されるのだ。「患者を理解しないように用心せよ」とラカンが口を酸っぱくして説いた箴言は、分析家は患者の自己分析に付き合い、 連想の方向転換を促すのだというものだった。
人が精神分析に足を踏み入れる大きなきっかけの一つは「本当の自分を教えてほしい」という動機でしょう。しかし実際に分析を受けてみる と、その望みが叶わないことが分かります。
分析家はあくまで患者=分析主体の自己分析の補助を行うに過ぎず、「意味を切る」ことによって、自分の何気ない発言に潜む<思いもよらない もの>に気付かせる。それは、これまで自我が抑圧していた無意識的なものに他ならず、その居心地の悪さは、一般性の世界において排除された 特異性を原因として生じるものなのだ。
といった具合に、精神分析という臨床実践の独自性について解説する第1部に続き、第2部ではいよいよラカン的精神分析のより理論的な側面の 考察に進んでいく。「想像界」「象徴界」「現実界」という超難解で有名なラカンの三界の理論の概念から、それが精神分析においてどのような 役割を担っているかが語られるのだが、ここから先は、どうぞご自分でお読みになることを、強くお勧めする。「ラカンがこんなにわかっていい のかしら」と、快哉を叫ぶことになるに違いない。
精神分析にとって最も重要な概念の一つが「無意識の主体」ですが、普段主体が生きている《他者》の世界の中に主体固有の存在はなく、 主体は「ゼロ」に等しい存在です。しかし数学がゼロ記号(空集合)に基づいてすべての数字を導出するように、精神分析においては主体と いう「ゼロの存在」からすべてが生まれるのです。
2024/6/13
「世にもあいまいなことばの秘密」 川添愛 ちくまプリマー新書
言語学の立場から眺めれば、私たちが発する言葉のほとんどは曖昧で、複数の解釈を持ちます。しかし、私たちはなかなかそのことに 気がつかず、自分の頭に最初に浮かんだものを「たった一つの正しい解釈」と思い込む傾向があります。
言語学を学び始めてから30年以上の月日が経ち、今では一応「言語学者」や「作家」という肩書で仕事しながら、言葉に関する失敗は後を 絶たない、という著者が、言葉のすれ違いの事例を紹介し、それらをもとに言葉の複雑さや面白さを紹介しながら、言葉を「多面的に見る」こと で曖昧さの起きる要因を探ろうという本である。
ある会社の部長が部下を乗せて車を運転していたところ、駐車場を見付けた部下が「部長、あそこに止められますか?」といいました。 すると部長は「私の運転技術を疑うのか!」と怒ってしまった。
このエピソードの誤解の原因は、部下が「尊敬」の意味で「(ら)れる」を使ったのに、部長は「可能」の意味にとってしまったことにある。 「(ら)れる」には、受け身、尊敬、可能、自発という4つの意味が含まれており、「意図している語義とは違う方」に取られるとやっかいな 助動詞の代表格なのだ。
鈴木:田中さんは、お医者さんの奥さんから健康のためのアドバイスをもらっているらしいよ。
佐藤:へ―。でもさ、お医者さん本人から直接アドバイスしてもらった方が良くない?
佐藤さんは「お医者さんの奥さん」を「お医者さんにとっての奥さん」だと解釈してしまったが、実際には田中さんの奥さんが医者だったので ある。「AのB」という表現には意味の多様性があり、「AにとってのB」という解釈が生じやすいが。「AであるB」という解釈も可能 なのだ。
試験管:この試験では、7割以上の問題に正解できなかった場合、不合格になります。・・・採点が終わりました。あなたが正解できた問題 は、全体の6割でした。
受験者は「正解できなかった問題が7割以上」ではなかったので合格だと思っていたが、「7割以上の問題に正解できた」ということがなかった から不合格となった。「7割以上の問題」という部分が「なかった」の影響範囲にあるかどうかで解釈が逆転する。数量を表す表現が否定分の 中に出てくると、このような曖昧が生じるのだ。
といったような感じで、言語学者が「言葉の曖昧さ」を検知するために普段受けているという、選りすぐりのトレーニングがこれでもかと出題 されてくる。一口に「曖昧」と言っても、その要因が多岐にわたることを実感させてくれた後で、最終章ではおさらいを兼ねて、いくつかの ヒントが与えられる。曖昧さとうまく付き合うための方法の根底には、「話し手と聞き手の協力関係をどう築くか」という、言葉のすれ違いを 減らそうとする意識が求められるのである。
コミュニケーションにまつわる矛盾や誤解、「意味」と「意図」のズレの問題などを、軽快な語り口とともに、教えてくれたあの名著、
『言語学バーリ・トゥード』―Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか―
に比べると、今回はいささかノリが抑え気味なのは、この本が、ちくまプリマー新書であること に起因しているのかもしれない。川添ファンとしては少し残念だったが、今回もまた快著であったことは間違いない。
曖昧さは言葉について回る宿命と言っていいでしょう。言葉のすれ違いを防ぐのは難しいことですが、読者の皆さんに曖昧さを少しでも 楽しいもの、面白いものと感じていただけたら、著者としては嬉しく思います。
2024/6/11
「恐るべき緑」 Bラバトゥッツ 白水社
1907年、ハーバーは、植物の成長に必要な主たる栄養素である窒素を初めて空気中から直接抽出した。これにより、20世紀初頭 に未曾有の世界的飢餓を引き起こす恐れのあった肥料不足を一夜にして解決したのである。
「空気からパンを取り出した」と称されたフリッツ・ハーバーは、しかしその後ガス殺虫剤ツィクロンを生み出し、アウシュビッツの大虐殺に つながることになる。西欧における青色顔料開発の歴史から始まる物語が、シアン化物という毒物を巡る奇人列伝から、やがてハーバーの数奇な 運命へとたどり着く『プルシアン・ブルー』。
アインシュタインは手袋をはめて封筒をつかむと、ナイフで封を開けた。なかには、天文学者、物理学者、数学者、そしてドイツ陸軍中尉で もある天才カール・シュバルツシルトの生前最後の輝きを秘めた手紙が入っていた。
第一次世界大戦の塹壕から送られたその手紙には、理論の提唱者ですら、当分のあいだは誰も解けまいと諦めていた、一般相対性理論の最初の 厳密解が記されていた。シュバルツシルトが得た何か途轍もなく奇妙な結果。重力による空間の歪みの構想から、ブラックホールの存在を示唆 した『シュバルツシルトの特異点』。
2012年8月31日の未明、日本の数学者望月新一は自らのブログに4つの論文を公開した。500ページを超すそれらの論文には、 a+b=cとして知られる数論の最も重要な予想のひとつの証明が含まれていた。
期待を呼んだモンペリエ大学での研究発表の場をすっぽかした望月は、その後帰国すると自らの論文を削除し、掲載しようとする者には法的措置 を講じると脅した。その理解しがたい態度は、20世紀で最も重要な数学者・鬼才グロタンディークの人生との交錯の結果であり、望月は彼の 呪いに屈したのだという『核心中の核心』。
1926年7月、オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレディンガーは、人類の頭脳から生まれた最も美しく最も奇妙な方程式のひとつ を発表するため、ミュンヘンに向かった。
素粒子が波のように振る舞うことを記述する単純な方法を発見したことで、彼は一夜にして国際的なスターとなったが、それと同じことを説明 する一連の法則を、6カ月も早く定式化した弱冠23歳の天才ハイゼンベルクのアイデアは、あまりに抽象的で、おそろしく複雑だった、という 『私たちが世界を理解しなくなったとき』。
というわけでこの本は、物理化学、天体物理学、数学、量子力学という、20世紀に全盛をきわめた科学分野の巨人たちのエピソードを描き 出したフィクションだが、そのフィクションの度合いは本書全体を通じて次第に増していくような作りになっていると、著者の後書きにもある ように、例えば、前にご紹介した
『宇宙と宇宙をつなぐ数学』―IUT理論の衝撃―
での、望月新一氏の理論と人となりの斬新さを知っているものとしては、途中まで ノンフィクションだと思い込んで読んでしまい、それがグロタンディークの精神に分け入るために望月の研究の側面から着想を得たものとは 気付かなかった。
逆に、冒頭の『プルシアン・ブルー』では、一段落のみが現実の出来事に基づくフィクションなのだそうで、あとはすべて事実だということに なるわけだが、ハーバーが毒ガスに手を染めたことを、科学を貶めたとして最後まで責めたという、亡き妻にあてた彼の遺した手紙の文面は 事実だったのだろうか?耐えがたい罪悪感を覚えていると打ち明けたその手紙は、多くの人類の死に直接的、間接的に果たした役割を悔いたもの などではなかった。空気から窒素を抽出する自らの方法が地球の自然の均衡をあまりに大きく狂わせた結果、この世界の未来は人類ではなく 植物のものになるのではないか、というのだ。
地球全体に広がって、ついには地表を完全に覆い尽くし、その恐るべき緑の下であらゆる生命体の息の根を止めてしまうのではないかと 恐れていたためであった。
2024/6/5
「センスの哲学」 千葉雅也 文藝春秋
この本は「センスが良くなる本」です。・・・皆さんが期待されている意味で「センスが良くなる」かどうかは、わかりません。ただ、 ものを見るときの「ある感覚」が伝わってほしいと希望しています。
<本書の狙いは、芸術と生活をつなげる感覚を伝えることです。>
この本はカントに擬えれば、思考についての
『勉強の哲学』
、倫理についての
『現代思想入門』
に続く、美的判断についての入門書的著作の第三段なのだという。
<センスとは「直観的にわかる」ことである。>
という定義から入って、センスの良し悪しとはどういうことかを、いろいろな角度から段階的に、あくまでも<仮に>定義していきながら、最終 的には、センスの良し悪しの「向こう側」にまで、つまり、センスなどもはやどうでもよくなる、「アンチセンス」をどう考えるかというところ にまで向かっていくこと。
僕の『勉強の哲学』と『現代思想入門』の言い方を使うなら、センスとは何かを「仮固定」した上で、その「脱構築」へ向かうことになり ます。
<ものごとをリズムとして捉えること、それがセンスである。>
センスとは物事の直観的な把握であり、綜合的なものなのだから、ものごとを意味や目的でまとめようとせず、ただそれをいろんな要素の デコボコとして楽しむことだ。デコボコを捉えるとき、センスには二つの側面がある。欠如を埋めてはまた欠如しという「ビート」と、もっと 複雑にいろんな側面が絡み合った「うねり」である。<センスとは、意味を捉えるときにそれを「距離のデコボコ=リズム」として捉え、 そこにやはり、うねりとビートを感じ取ることである。>(このあたりの議論は、以前ご紹介した
『翻訳夜話』
で村上春樹が述べていた、 文章を書くときにプライオリティのトップにくるものの話に近いかもしれない。)
<リズムの経験とは、「反復の予測と、予測誤差という差異」のパターン認識である。>
リズムには、反復からのズレ=差異があるからこそ面白い。ものごとには予測誤差が起きることもあり、予測が外れてもなんとかなることが ほとんどだというのだ。細かい刻みで予測の当たり外れに一喜一憂するのでなく、退いた視点から世界を眺めているスタンス、これが人間に おいて顕著な「意識」であり、「メタ認知」なのだ。
<予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると美的になる。それに対し、予測誤差が大きく、どうなるかわからないという偶然性が強まっていく と崇高的になる。>
反復と差異のバランスが崩れ、予測誤差が崇高的に大きくなる。そのような「崩れ」に芸術的自由を見るのが、センスの良さのもうひとつの定義 だという。偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される、というのだった。 反復と差異のバランスという意味でのセンスの良さがある一方で、何かにこだわって繰り返してしまう反復になにか重いものを見出す人もいる。 あるどうしようもなさの反復には、その根底に偶然性が響いているが、それはセンスの良さを台無しにすることもあるので、「アンチセンス」 と呼ぶことにする。
<センスは、アンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか。>
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