徒然読書日記202404
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2024/4/18
「一億三千万人のための『歎異抄』」 高橋源一郎 朝日新書
「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」(第三条)
<善人でさえ、死んでからゴクラクジョウドに行くことができるのだから、悪人なら当然行けるはずだ。>
と、普通とはまるで正反対のような考え方を示す「悪人正機」説として有名な一節など、今では広く日本人に流布している親鸞の教えが、 ネンブツを信じる人たちに異なって受け取られていることを嘆き、その「ことば」の本来の意味を正しく伝えたいとして、弟子の唯円が書き 遺した『歎異抄』。
念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。(第十条)
<ネンブツというものは「わかる」必要などないのだ。というのも、ネンブツは、論じることも説明することもできない。それどころか、想像 することだってできない、そういうものだからだ。>
この本は、原文の中味を変えることなく「ぼくたちのことば」に翻訳しようとする著者の、
『論語』
に続く「一億三千万人」シリーズ 待望の第二弾である。
自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれ の行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(第二条)
<ネンブツをとなえる以外にジョウドに行けるやり方があるなら、ネンブツなんかとなえたせいでジゴクに落ちたとき後悔するかもしれません。 ただネンブツをとなえることしかできない、わたしのような人間にふさわしい場所は、ジゴクなんです。>
ただ念仏を唱えるということを信じて生きてゆこうとするか、そんなものは信じられないと捨ててしまうか、どちらを選んでもあなたの自由だ、 ということから始めて、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」(後序)
<アミダが永遠に近いほど長く考えられ、そして立てたあのお誓いは、ただおれひとりのためのものだったんじゃないか。>
罪にまみれているのも、そこから永遠に抜け出すことができないのも、「みんな」ではなく「おれ」なのだ。「おれ」の罪深さを知ることから しか、何も始まらない。
この本の最終章「宗教ってなんだ」において、著者は冒頭の「悪人正機」説に立ち戻り、行きつ戻りつの考察を加えていくことになる。
なにか善いことをすればという計算ずくでは救われることはないが、自分にできることなど何もない、おすがりするしかないと思えるように なればジョウドに行ける。だとすれば、自分には救われるための資格などなにもないと、最初からすべてをあきらめている悪人こそがジョウドに 近いと、親鸞は「本願他力」を説いたのだが、
<「善人」は「正しい人」たちだ。そして、世の中にはいつも「正しい人」たちがいる。その一方で、明らかに「正しい人」ではなく、とても 「正しい人」にはなれないよなあと思う人たちもいる。>
もしかしたらずっと多いかもしれない「そういう人」たちこそ、ゴクラクにオウジョウできるのではないか。何だかそんな気がする、という のである。
<もっと極悪非道なやつもいる。連続殺人犯とかユダヤ人を閉じこめて大量に殺した収容所の所長とか。そういう連中は生きることが楽しかった のだろうか。>
毎日なにかにおびえて暮らしていたのではないか。本当は何もかも厭になっていたのでは・・・だとするなら、そういう人たちこそ・・・。 「シンラン」ならそういったのではないか、僕にはそんな気がする、というのが、タカハシさんがこの「翻訳」をしながら考えたことのまとめ なのだった。
2024/4/16
「フロイト」―その思想と生涯― Rベイカー 講談社現代新書
息子は父と母の自分に対する気持ちのちがいを感じていた。母親は自分をあたたかく愛し、父親は冷たく批判的だった。彼は父親に 対して、むらむらと嫉妬を感ずることもあったし、反対に父親を慕ったこともあった。
1856年、ユダヤ人仲間独特の生き方をしないで「自由思想家」となっていたヤ―コップ・フロイトと、その若い後妻アマーリエの間に最初の 男の子が生まれた。「生まれたとき前髪のある子は、名声を得ます」という産婆の言葉を、母は心ひそかに信じ、父親は今の苦しい生活を思って ためいきをついた。母親は息子に、それにふさわしい偉大な名、英雄的な名をつけねばと思いを巡らし、有名なモラヴィアの王で伝説上の英雄 ジークムントと名づけることにした。
というこの本は、医学関係の著書が多い伝記作家が追いかけた、精神分析の祖として名高いジークムント・フロイトの生涯の記録である。
文学や芸術の作品の解説とはまったく異なり、数学や科学の定理や法則を説明するために、その発見者の性格や生活を論ずる必要はないはずだが、 科学としての心理学は、具体的な人間心理を扱う分野に入り込めば入り込むほど、その学説は提唱者の性格と生活とに密接な関連をもってくる。
<とくに、精神分析の理論はフロイト自身を離れては考えられない。>と、訳者・宮城音弥による「まえがき」にあるように、それが、心理学や 精神医学の専門家でない著者によるこの本が、一般人の読者にとってはかえってわかりやすい精神分析の解説書となった理由なのだという。
私は私自身の心のなかに母への愛情と父に対する嫉妬を見出しました。しかし、それは初期の幼児期には、だれにでも、ふつうにある感情 なのです。
誰にでも自然に見られる“エディプス情況”から、大人になっても抜け出すことができず、シコリが残ってしまうという「エディプス・ コンプレックス」。フロイトがこの説を確信したのは、父親が亡くなって障害と支えが両方とも自分の生活から離脱し、古くからの父への反感が 消え失せ、愛着だけが残った時だった。
夢は心のなかに秘められている願望を表すことによって、ノイローゼ、心の病気、つまり病人がいまだに断ち切ることのできない鎖―― これが子供時代の状態に固着させているのだ――を示すものである。
夢が夢の言葉をもっていることを見出し、心の内面をうかがい、病気の原因となっているものを洗い出して治療しなければどうなるかを明らかに した『夢判断』。この大著を出版したフロイトは、自分自身の生活を露出し、自らのプライバシーを自分で侵害し、何人も口に出したくない 個人的なものを公然としたこと、つまりは、<自分自身を研究対象にしたこと>を気にしたのだが、それは、自分自身の生活の最も内面的な秘密 を探ることで、神経の病気の源泉に光を投げかけるものだった。
フロイトは、われわれの性感情は生まれたときからあって、いくつかの段階をとって発達することを示した。これが小児性欲についての彼の 有名な学説であって、今日では、多くの人に受け入れられている。
「口唇期」→「肛門期」→「男根期」と、成熟していくはずの子供が、その成長を止められ次の段階に移行できないと異常が生ずるという 「性の発達段階説」。『性学説に関する三つの論文』で論じられたこの学説は旧い時代の頭の固い人たちにショックを与え、世間はフロイトに 対し奇妙な仕方でお礼の意を現したのだった。
ウィーンでは、夫人の同席している公衆の面前で彼の名を出してはいけなかった。そして、フロイトの名を口にした人は、しばしば後に なって、けがれた口をすすぐように、こういった。「ひどい男だ」と。
2024/4/8
「翻訳夜話」 村上春樹 柴田元幸 文春新書
柴田 ご自分の翻訳のいちばんの欠点はどこだと思いますか。
村上 語学力です(笑)。
柴田 そんな、身も蓋もないことを言わないでください(笑)。
というこの本は、柴田が主宰する翻訳ワークショップに村上がゲストとして参加し、共に翻訳について縦横に語り合いながら、翻訳を学ぶ学生 からの質問に答えた、そんな東大駒場での翻訳の授業がとても面白かったので、同じことを翻訳学校の生徒と若手翻訳者を相手に実施した、 という3部構成のフォーラムの実況中継である。
村上がJアーヴィングの『熊を放つ』の長編翻訳に初めて挑んだ際、当時駆け出しの柴田がそのチェックを担当した、それ以来の長いお付き合い らしいのだが、「僕らは文藝翻訳という一種の病(情熱)にとりつかれている」という共通認識を仲立ちにして、それぞれに励ましあい、刺激を 与えあってきたというのである。
「どうして自分は翻訳をしなくてはならないのか?」というシンプルな疑問に、自らが答える内容の翻訳についての本を、ずっと以前から 書きたいと思っていた。そんな村上の念願を叶えるには格好の対談相手と聴衆を得て、翻訳をしているときの「生き生きとした気持ち」と創作 との関係を語る村上の語りは自然、饒舌になる。
村上 長くお湯に入っていて体が温まってくると、お湯から出るじゃない。出て外で雨に打たれていると、だんだん冷えてくるじゃない。
柴田 温泉が小説で、雨が翻訳ですか。
村上 よくわからないけど、とにかく・・・(笑)。そういうのって一日ずうっとやっていられるんですよね。
「雨の日の露天風呂」と呼ぶ仕事のパターンが村上にはあって、他者の中に入っていけることで癒される翻訳の作業はそのシステムにスポッと 入っているという。小説では右側、翻訳では左側と、脳の中の全く逆の側が使われている感じがするという村上にとって、それはバランスを保つ ために必要なシステムということなのだ。
柴田 直訳で実はいいんだというようなあたりの話をおうかがいできますか。
村上 単純に直訳でいいんだというふうに言っているわけではないですけど(笑)。 とにかく僕はそういうふうにやります、ということです。
ただ、自分なりのポリシーなど、文章を書くときにプライオリティのトップにくるものが、それぞれにあるはずで、村上にとってはそれは <リズム>だという。リズムには、非常にフィジカルな実際的なビートと、それよりもっと大きなサイクルのうねりとがあって、それらがないと 文章がうまく呼吸せず、かなり読みづらい。
「ビートというのは、意識すれば身につけられるんです。ただ、うねりに関して言えば、これはすごく難しいです。ビートとうねりを一緒に つけられるようになれば、もうプロの文章家になれます。」などなど、翻訳小説を好んで読む読者にとっては、翻訳と創作の二刀流をこなす者 にしか語れない、創作の裏話が聞けるとともに、翻訳を志す若者たちにとっては、特に後半のフォーラムにおいて、翻訳の実践的なテクニック なども質疑応答の形で繰り広げられるわけだが、それはそれとして、「偏見のある愛情」が翻訳の極意と語る村上と、「翻訳職人」の矜持を 垣間見せる柴田の、丁々発止を読むだけでも楽しむことのできる逸品なのである。
「なんだ、こいつらはずいぶん楽しく翻訳をやっているみたいだな。翻訳ってそんなに楽しいのかねえ」と感心したりあきれたりしながら この本を読んでいただけると、僕としてはとても嬉しい。(村上春樹)
2024/4/4
「邪馬台はヤマトである」 桃崎有一郎 文藝春秋
これまでの議論は、<『魏志』倭人伝には必ず、史実と合う一つの正しい解釈があるはずだ>という楽観的な大前提の上になされて きた。
だが、古代中国の史書の地理情報は、作者が信じた教条主義的な儒教の世界観に基づくもので、それを現実の情報として読めるという発想が そもそも誤りなのだから、<いわゆる邪馬台国論争(邪馬台国はどこにあったのか、という議論)は、詰んでいる。>
というこの論説は、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史という専門の立場から、新たに掘り起こした確かな史料に基づきながら、
『平安京はいらなかった』
など、 まことにユニークな仮説を次々と提示してみせてきた著者が、「大論争」に終止符を打ってみせようとした「画期的新説」である。
『魏志』倭人伝の解釈で争う限り解決の見込みがないなら、決め手は『魏志』倭人伝を離れて見つけるしかあるまいと、外から眺めていた 「門外漢」の著者だったが、古代中国の《礼》という文化が、日本列島の文化にいつ、どこを通って、どのように影響を与えてきたのかを追跡 する、自分の研究を進める中で、たまたま偶然に、『魏志』倭人伝の行程記事に微塵も依存せずに、邪馬台国論争を解決へ導ける文献資料を、 見つけてしまったということらしいのである。
<まず見つかるまいと思っていた鍵が、もしかしたら私の手元にある。>
「邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤り」は、「邪馬台国」を「ヤマタイ国」と読んできたことで、正しくは「ヤマト国」と読む べきとする著者は、統一王朝の国号として中国が与えた「倭」という漢字を、<母語による外国語の訓読>という荒業によって、「ヤマト」と 読むことになった経緯を丹念に推理していく。
かなり狭い地域の地名であった「ヤマト」は、なぜ統一王朝全体を指す「倭」と結びついたのか。(その確実な用例は8世紀前半の『日本書紀』 まで下るのだ。)そこには、統一王朝としての「国」が、諸侯に与えられた領土としての「国」を内部に抱え込むという、中国の歴代王朝と倭 にしかない二重構造が関係している。統一王朝を樹立する直前に領していた諸侯国の国名を、統一王朝の国号にする、という根強く一貫した 慣習が、古代中国にはあったというのである。
<諸侯国「A国」から生まれた統一王朝の国号は「大A」になる>という不文律の存在。
これこそが、「ヤマト」がなぜ「大倭(=大和)」と書かれたのかという疑問に答えられる、現状で唯一の説明である、というのがこの著者の 主張なのだ。
著者は一応、邪馬台=纏向地域と結論しているが、これは<奈良地方に「ヤマト」という地名があったから、そこが「邪馬台」だ>などという 主張ではない。<奈良地方の「ヤマト」を「倭」と書くこと>と、<「倭」という統一王朝全体を「ヤマト」と読むこと>の二つが、中国的な 構図でしか説明できず、その構図に合致する諸侯国の地が、3世紀には「邪馬台」しか候補がなく、8世紀前後には確実に纏向地域の「倭」で あることから、イコールと推断したというのだ。
私は論争の門外漢だが、門外漢でなければ気づかないだろう材料を自分だけで抱え込んでおくことが歴史学者として正しい姿勢と思えず、 立場を顧みずに披露してみた。
いつもながらの、
「桃崎節」
の炸裂である。
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