徒然読書日記202402
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2024/2/29
「陰翳礼賛」 谷崎潤一郎 中公文庫
もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした 日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。
屋根が高く尖ってその先が天に沖せんとするかのような西洋寺院に対し、大きな庇が作り出す深い蔭の中へ全体を取り込んでしまうわが国の寺院 の伽藍を見ても、空間を壁で囲い、少しでも多く内部を明りに曝そうとする西洋と、傘を拡げて大地に一廓の日蔭を落し、その薄暗い陰翳の中に 空間を造る、彼我の違いは歴然である。日本家屋の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろいろの関係があるのだろうが、「美」と いうものは常に生活の実際から発達するものだというのだ。
<暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに 至った。>
というこの本は、日本を代表する文豪が「陰翳」を切り口に日本建築の美を語った名著として、暇人の建築学科学生時代にはバイブルのような 扱いだったものだが、語られるテーマはなにも建に限られたものではなく、伝統的な日本文化の美と日本人の独特な美意識について、自らの 体験に基づく「蘊蓄」が傾けられている。
ゆらゆらとまたたく燭台の蔭でこそ魅力を帯びる、沼のような深さと厚みを持った漆塗りの美しさ。「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは 生まれ出ない。
顔以外の空隙へ悉く闇を詰めてしまうことで、黄色い顔を白く浮き立たせたお歯黒という化粧法。昔の女は襟から上の顔と袖口から先の手だけの 存在だった。
ある程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさ。古来、日本建築の中で一番風流にに出来ているのは厠 であった。
と、近代生活へと変貌を遂げようとする世の中(執筆当時昭和8年)で、仄暗い場所がどんどん失われていくことへの哀惜が綴られていくわけ なのだが、
一と口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを 得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起っていると 思われる。
<もし東洋に西洋とは全然別個の、独自の科学文明が発達していたならば、どんなにわれわれの社会の有様が今日とは違ったものになっていた であろうか。>
というのが、この小論を単なる老人の愚痴に終わらせない、もう一つのテーマである。「われわれは借り物のために損をしている」という。 西洋人が彼らの芸術に都合がいいように発達させた機械なのだから、それに迎合しようとすることは、却ってわれわれの芸術自体を歪めてしまう というのである。もちろん、もはやそうなってしまった以上、もう一度逆戻りしてやり直す訳にいかないことは、谷崎にしても重々承知している。 その上で、その「損」を補う道をまずは自分が歩み出してみようという、これは文学領域への「陰翳世界」奪還作戦の宣言でもあったのだ。
文学という殿堂の軒を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わ ない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。
「まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」
2024/2/28
「愛と暴力の戦後とその後」 赤坂真理 講談社現代新書
日本語とは、日本とは、なんだろう、と思った最初は、15歳だった。そのころ私はアメリカの東海岸の果てに一人でいて、ホスト ファミリーの家から高校に通っていた。ある上級生の少年が、私にこう訊いた。
「どう書くの/君の名前を/チャイニーズ・キャラクターで?」
日本人である自分の名前と「中国人の性格」の間に何の関係があるのか、と一瞬むっとした次の瞬間、記憶と認識が噛合い、静かに雷に撃たれた ような思いを覚える。
<チャイニーズ・キャラクターって、『漢字』のことか!>
明々白々に、書いてあるのだ。漢民族の「漢」と!そして、日本で男のことを「漢」とも言う。そうか、そのときどきのドミナントな文明を 「男」と見立て、自らを「女」の地位にしてやってきた文明なのだ、日本は!
「それが昔は中国で、今は米国だ」という父祖たちが抱えてきた鬱屈を体で理解できたことが、30数年後の彼女に
『東京プリズン』
を書かせることになる。 なんとか「男」になろうとした明治国家の焦りと、昭和20年の敗戦という大きすぎる挫折という、自分の世代で母国にいたならば味わうはずの なかった感情。
<それを思ったとき、なぜだか強烈な「恥」を感じた。>
というこの本は、赤坂真理が東日本大震災の少し後に書き始めた『まったく新しい物語のために』というメールマガジンが元になっている。 巨大津波と原発事故によって、「戦後」や経済成長という物語が終わってしまったのなら、どんなヴィジョンが次にありうるのだろうか、という 問題意識からだった。しかし、結果としてそういう「新しい物語」はなかなか紡ぐことができず、むしろ逆に、日本社会は「古い物語」にしがみ つこうとしてきたことに気付くことになる。
<消えた空き地とガキ大将>
――高度経済成長期とは、人が私有を追求するために共有空間をなくしていった過程であった。
<安保闘争とは何だったのか>
――政治の季節の後には大掛かりでキャッチ―な経済政策が打ち出され、その都度、国民は経済の方を選んだ。
<オウムはなぜ語りにくいか>
――「神を創ってそのもとにまとまり、聖戦を戦い、そして負けた」敗戦後の日本の姿、そのものではないか。
<憲法を考える補助線>
――戦争は破壊と喪失以外に何ももたらさないが、ごくまれに奇跡のようなこんな概念を世に出すことがある。
歴史に詳しいわけではないごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうとすれば、教えられなかった事実を知る過程で習った、なけなしの 前提さえ危ういこともある。
<そのときは、習ったことより原典を信じることにした。少なからぬ「原典」が、英語だったりした。>
これは、一つの問いの書である。問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の日本人の、その過程の記録である。
2024/2/9
「江戸の性風俗」―笑いと情死のエロス― 氏家幹人 講談社現代新書
かゝる女に命棄つる者もあるかと思へば、今までわが婆の「饅頭の干物」、「鮪の剥身」などと言ひしは、いとも畏く、あら有難や 勿体なやと、天にも地にもあらず嬶を尊く思へば、かく敬うなり。
と、日頃「悪口」を言ってからかっていた美人妻に、突然恭しく土下座して驚かせてしまったのは、幕末の名勘定奉行としてその名も高い川路 聖謨である。奈良奉行時代に不倫相手殺害の罪で白洲に引き出された女性が、さぞかし若くて美人に違いないという期待に反して、すでに四十 過ぎの珍しいほどの「醜女」だった。「これにて人一人死せしや」としばし感慨に耽り、我が身が美人妻に恵まれていることがこの上もなく 尊く感じられて、思わず頭を下げてしまったというのである。ところで、ここで「みな飯をふきたり」と聖謨の日記『寧府紀事』にはあるので、 潤いを失った女性器を揶揄する言葉は一家団欒の食事時に吐かれたことになる。
というわけでこの本は、前にもご紹介した
『江戸奇人伝』―旗本・川路家の人びと―
の猥談部分にスポットを当て(実はこちらの方が先著なのだが)、江戸から明治時代における日本人のおおらかな「性」に対する認識を、 「日記」という等身大の現実の世界から照らし出して見せた力作なのである。
あな惜し。御運あらば天子・将軍の「角のふくれ(男根)」にもあき給ふべきに、老尼の「未通女(ヲトメ)」にて終せ給ひし御事よ。 此強飯よく回向していただき候へといふに、みなみな笑ふ。
浄観院(12代将軍家慶の室)の姉君、円照寺の宮の一周忌の強飯が届けられた時の話である。天皇か将軍の妻になっていれば、性の喜びも 享受できたのに、「ああ、もったいない」と、幕臣として異例なほど天皇家を尊重する気持ちの強い人だった聖謨も、こと「性」の話(下ネタ) となると豹変するのだ。
元々は中国で皇太子の性教育のテキストとして作成されたものが、より豊かな性生活を享受したり、オナニーの友として活用されるようになった 「春画」の話。
太平の気分が蔓延する中、闘争と流血の日常的な緊張感から解放された男たちの間で、“あぶない恋”として敬遠され始めた武士型「男色」の 変容の話。
なぜ江戸時代の人々は、情死という破滅的な結末にかくも多大な関心を注ぎ、しばしばこれを美化し、腐乱していく死体の見物に列をなしたのか という「心中」の話。
そして、明治に入り・・・
Madam(柱:細君と同じ)の陰毛を撫でておると、到頭慾を発し、後ろから犯す。精液がどろどろ、快甚だし。(9月3日)
と、夫人との“愛の語らい”を毎回欠かさず日記に記録していたというのは、小説『不如帰』や数々の名随筆で知られる明治の文豪・徳富蘆花 だが、それはさておき、「養生」(健康維持)のために性交の記録を残した人々のお話。はたして、セックスの回数は何歳でどのくらいが妥当 だったのか、などなど。
<江戸時代とはどういう時代であったのか?>
少なくとも性愛の領域において、その等身大の姿はほとんど明らかにされていない、というのがこの著者の主張なのである。
意外な発見?いいえ、私たちは当時の様々な記録により細やかな眼差しを注ぐことによって、同様の(あるいはさらに豊かな)事例に数多く 遭遇できるのではないでしょうか。
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