徒然読書日記202401
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2024/1/30
「死の舞踏」―恐怖についての10章― Sキング ちくま文庫
かれこれ30年前に書いた本書『死の舞踏』(Dance Macabre)では、モンスターと暴力についての物語に惹かれる人は本質的に きわめて健全だ(病的な場合もあるかもしれないが)と主張した。
想像力豊かな人間は自分が脆いという事実をしっかり見据えており、物事がなんでも、いつでも、どうしようもなく悪い方向へ進むという 可能性に気づいている。
<そうとも、特大の想像力を持つ人間はそれを知っている。>(『恐怖とは』――2010年版へのまえがき)
というこの本は、いまだにモダン・ホラー界に君臨し続けるキングが、40年以上も前にその時点でのホラーの代表作を論じた、話題の名著の 待望の復刊である。映画、ラジオ、テレビ、そして小説におけるホラーの代表作を、それと出会った自身の恐怖体験も交えながら、時代順に 語っていくため、自伝としても楽しめるが、
・ホラー映画がビッグバジェットのものにかぎってつまらないのはなぜか?
・ホラー・ファンが期待と共に映画館に入っては不満と共に出てくる羽目になるのはなぜか?
・期待しない映画のほうがおもしろくて、戦慄と驚嘆の不意打ちを喰らわせてくれるのはなぜか?
という「変わらぬ疑問」を胸に抱き続けるキングが語ろうとしているのは、あくまで「そもそも怖いということはどういうことか?」という 根源的な問いなのである。
かろうじて定義もしくは論理といえるものがあるとしたら、ホラーを成立させる感情には大きく分けて3つのレベルがあるということ だろうか。
第1のレベルは<嫌悪 リヴァルジョン>。
映画『エクソシスト』で、少女リーガンが司祭の顔にゲロを吐きかけるシーンのような、生理的な不快さを催す“ウゲッとなる”レベルである。
第2のレベルは<恐怖 ホラー>。
小説『鼠』で、一読、体じゅうをネズミが這いまわり、生きながら食われる感覚を味わうような、不定形だが実体のあるものによる “ぞっとする”レベルだ。
そして、第3の最高レベルが<戦慄 テラー>。
小説『猿の手』で、ドアをノックする音が響き老女がドアに駆け寄るとき、心の目に映った忌まわしい映像があなたの脳裡を駆け巡る。 ヒィーッヒッヒッヒッ・・・
もちろん、あるレベルが別のレベルより読者に与える効果が大きいからといって、そればかり贔屓にするような姿勢は避けるべきだ、といった 具合に、それぞれの具体的な作品を例に取り上げながら、「それがなぜ怖いのか」を縦横無尽に分析する解説が、700頁超に渡って繰り広げ られていくだけでなく、付録として用意された、おすすめ映画100本、取り上げた書籍100冊のリストも、守備範囲がきわめて広く目配り が効いているため、キングの愛読者は言うに及ばず、世のホラー小説ファン、B級映画ファンの皆様も、ぜひともお手元に置いて「座右の書」 とすべき名著であると言わねばなるまい。
さあ、そろそろ本当にお暇しよう。おつきあいくださってありがとう。ゆっくりお休みください。もっとも、私は腐ってもスティーヴン・ キング、「よい夢を」と申し上げるわけにはいかないが・・・。
2024/1/29
「アーリア人」 青木健 講談社選書メチエ
本書は、「イラン系アーリア人」という従来は充分に注目されてこなかった視点から、1400年以上に及ぶ西アジア〜中央アジアの 歴史を見渡し、各民族を適切に布置した列伝を作ることを目的としている。
前3000年紀には言語的特徴によって括られる一体性のある集団として、中央アジアで牧畜生活を営んでいたと見られる「インド・ヨーロッパ 語族」の中から、まず、西方のヨーロッパへ向かう集団が分岐して、形質的には「金髪・碧眼・長身・細面」を特質とする、現代の白色人種の 祖となった。
この時に、中央アジアに残った集団の方を「アーリア人」と称し、後の移動先から「インド・イラン人」とも呼ぶのだそうだが、インド亜大陸で 定住した「インド系アーリア人」は分布地域と名称が対応しているのに対し、「イラン系アーリア人」の分布がより広範囲に拡散したのは、 馬と二輪戦車(チャリオット)の活用を学んだことにより、急激にその戦闘能力と移動距離を伸ばしたからだという。人類史上初の「騎馬遊牧民」 が誕生したのだ。
<騎馬遊牧民は自身の文献資料をほとんど残さないから、彼らの正確な離合集散を追跡することはまず不可能である。>
しかし、「遊牧民」あるいは(先住民の土地を奪って住み着いた)「定住民」という形態で、西アジア〜中央アジアに広く分布した彼らに関する 知識を欠けば、メソポタミアとエジプトを中心とした古代オリエント文明の時代から、一足飛びにイスラームが出現するような、1400年の 空白を抱えた世界史となってしまう。
西アジア〜中央アジアの歴史・宗教・文化を理解するために、資料の濃淡にかかわらず、イラン系アーリア人に含まれる遊牧民・定住民を均等に 概観すること。それが、ゾロアスター教を専門とする気鋭のイラン・イスラーム思想学者が取り組んだ、いささか専門外の分野にまで踏み込んだ 本書におけるスタンスなのである。
中央アジア草原の覇者<イラン系アーリア人騎馬遊牧民>
最初の騎馬遊牧民――キンメリア人、スキタイ人、サカ人
フン族との遭遇――サルマタイ人、アラン人
イラン高原に遊牧王朝を樹立――パルティア人
東西交易の担い手<イラン系アーリア人定住民>
最初の定住民の王国――メディア人
2つの世界帝国の栄光――ペルシア人
ヘレニズムと仏教の受容ーーバクトリア人、マルギアナ人
シルクロードの商業民族――ソグド人
活動範囲も広く相互関係も複雑な諸民族の、個別の民族史としての足跡を重ね合わせることで、中央アジア周辺を舞台に繰り広げられた興亡の 歴史が活写されていく。
さて・・・<「アーリア人」を論じる上で避けて通れないのが、ナチス・ドイツである。>
ヒトラー総統は、インド・ヨーロッパ語族全体を「アーリア人種」と名づけ、中でも遠い親戚に過ぎない「ゲルマン民族」の形質以外に根拠の ない優越性を誇示し、「優秀なるアーリア民族が世界を征服して支配種族を形成すべきだ」と、鉤十字(アーリア人のシンボル)の旗印の下に 大量虐殺を重ねたことは、周知の事実である。
この的外れな愚挙の結果、20世紀後半には「アーリア人」という概念そのものが、語ることさえはばかられるタブーと化してしまったのだ。
だが、ヒトラーが描いた「アーリア人」が虚妄の産物だったとしても、実体を具えたアーリア人は歴史上たしかに存在していたし、その末裔は 今でも現存している。ナチス流の「野蛮にして高貴なるアーリア人」を否定することに急であるあまり、本来の「アーリア人=インド・イラン人」 の存在まで歴史上から消去するには及ばないだろう。
2024/1/15
「蜘蛛女のキス」 Mプイグ 集英社文庫
「彼女は脚を組んでるの。靴は黒よ。ヒールの高くて太い。靴の先のところが開いていて、黒いペディキュアを塗った爪がのぞいて たわ。光沢のあるシルクのストッキングが肌にぴったりくっついてるものだから、肌がピンクなのかストッキングの方がピンクなのか区別でき ないのよね」
「すまないが、頼んだことを忘れないでくれ。刺激的な話はやめてほしいんだ。ここでやられたんじゃかなわない」
不眠に悩み寝物語を頼んでおきながら、その濃密な内容にいささか閉口しているようなのはバレンティン、彼は26歳のテロリストだった。 超B級映画『黒豹女』の筋書きを、思い入れたっぷりに語って聞かせているのはモリーナ、彼女は実は37歳のホモセクシャル、つまり中年男 なのである。
この物語が、全編ほぼこの2人による会話のみで進められていくことになるのは、マルクス主義革命を標榜する政治犯バレンティンと、未成年の 子供への猥褻罪で懲役刑を受けたモリーナとが、同じ房に収監されることになったから。そんなわけで、このお話はブエノスアイレスの刑務所が 舞台となっているのであれば、ごくノーマルな異性愛者であるバレンティンが、「ここでやられたんじゃかなわない」と悲鳴を上げるのも、 無理のない話なのではあった。
男にキスをされると黒豹に変身してしまう自らの血筋にまつわる伝説におびえる『黒豹女』。
パリの有名な歌姫がナチスの青年将校を愛したがために命を落とす『大いなる愛』。
顔に恐ろしい傷を負ってしまった美貌の青年ととても醜い顔をしたメイドとの結婚を描いた『愛の奇跡』。
許婚者が抱える秘密も知らずカリブ海の島に嫁いだ娘を襲う恐怖の体験『甦るゾンビ女』。
それぞれの映画に自分なりの思い入れを込めて、ヒロインになりきって語り続けるモリーナに対し、政治的な立場からどうしても合理的に解釈 してしまい、余計な茶々を入れて興趣を削いでしまうバレンティン。初めのうちはすれ違うことの多かった2人の会話も、密室での共通の時間を 過ごすうちに、いつしかお互いへの理解も深まっていき・・・
「知りたいことがあるんだけど・・・あたしにキスするの、すごくいやなことだったの?」
「う〜ん・・・。きっと、あんたが黒豹にならないかと心配だったからだ、最初に話してくれた映画に出てくるみたいな」
「あたしは黒豹女じゃないわ」
「確かに、あんたは黒豹女じゃない」
「黒豹女だったらすごく哀れね、誰にもキスしてもらえないんだもの。全然」
「あんたは蜘蛛女さ、男を糸で絡め取る」
結局、保釈を餌にバレンティンから情報を聞き出すことを託されたモリーナは、その約束を果たすことなく当局の期待を裏切り、囮として釈放 されたことも知らず、バレンティンからの伝言を伝えようとして、逆に秘密の漏洩を恐れた彼の仲間たちに殺害されてしまうことになるのだが、 それは恐らく、愛する男のために命を捧げるという、モリーナが最も望んでいたヒロインとしての最期だったというべきなのだろう。
<聞きたくないわ、あなたの仲間の名前だけは>、マルタ、ああ、どんなに君を愛していることか!これだけが君に言えなかったんだ、 おれはそれを君に訊かれないかと心配だった、そうしたら君を永久に失うんじゃないかと、<だいじょうぶよ、バレンティン、そんなことには ならないわ、だって、この夢は短いけれど、ハッピーエンドの夢なんですもの>
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