徒然読書日記202311
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2023/11/28
「スルメを見てイカがわかるか!」 養老孟司 茂木健一郎 角川Oneテーマ21
人間と情報の一番大きな違いは何か。情報は、はなから止まっているけれども人間は動いているという点です。人間はいつでも動いて いて、二度と同じ状態がとれない。そういうものが人間です。
<人が生きているというのはそういうことなんです。>
にもかかわらず、「人間は変わらないけれど、情報は毎日変わる」と思い込んでいる。そういう逆なところから話をするから、分からなくなる のだという。我々が扱っている相手は二つあり、一つはひたすら変わっていくものとしてのシステム、もう一つは停止したものとしての情報。 そして「言葉」は情報に属している。学者が論文を書くということは、生きたシステムとしての生き物を、言葉の羅列としての情報として、 止めてしまうということだ。止めないと論文にならないからだ。
「スルメを見てイカがわかるか」(あんた、人間加工して、人間のこと研究してるって言ってるけど、それはスルメからイカを考えてるんじゃ ないの。)とは、長年解剖学を専門としてきた養老孟司が言われ続けてきたことらしいが、情報しか相手にできないという意味では、それは 科学全般の宿命ではないのか。
というのは、養老孟司が書いた長〜い第1章「人間にとって、言葉とはなにか」からのほんの一部のご紹介であり、第2章から第4章までは 養老と茂木の対談となる。つまり、この本の中味は「キャッチ―」な題名とはかなりかけ離れ、四方八方の話題にまで及んでいくことになる。 別にそれはそれでいいのだけれど・・・
どんな本を読むか、意識的に選択することはできる。しかし、その本を読んだ時に、そこからなにを受け取るか、読後どんな感想を持つか、 本を読んで一年後に、何を覚えているかといったことは、意識でコントロールできることではない。
脳の中で起こることのほとんどが、意識でコントロールできないのだとすれば、脳を育むことは手入れすること、「たがやす」ことに似ている ことになるのではないか。記憶にはエピソード記憶と意味記憶があり、個々のエピソードの記憶が次第に意味の記憶に編集されていく過程は、 人間の意識によってコントロールされることはない。脳の中で常に密やかに進行している、この無意識の編集過程こそが、人間の脳の行う学習 のもっとも重要な部分だというのである。言葉を発するという行為も一つの運動であるから、多くの場合、私たちは自分が発する言葉を意識的 には把握していないのではないかという。
<言葉を磨くためには、意識を通して、無意識にこそ働きかけねばならないのである。>
というのは、茂木健一郎が書いた短〜い第5章「心をたがやす方法」で、支離滅裂になりかけた養老との議論を、無理やりまとめにいった趣が ある。意識ではコントロールできない、無意識のうちに起こる脳内プロセスこそが重要であるという命題は、なにも言葉に限ったことでなく、 人生の様々なことに該当する。
<私たちにできることは、大切な自分の無意識を手入れしてあげることだけである。>
ともすれば、意識的にコントロールできると思いがちの多くのことが、実は長い人生の経験の中で無意識のうちに蓄積、編集された、脳の 神経細胞の結びつきのパターン記憶に支えられて生み出されているのである。
2023/11/26
「ゴリラ裁判の日」 須藤古都離 講談社
男性の述べた評決は信じられなかった。私は負けたのだ。夫を亡くしただけでなく、裁判で負けた。私は暗い穴の底に落ちてしまった ように感じられた。
「ローズ・ナックルウォーカー対クリフトン動物園に関して、私たちは原告の請求を棄却します」
母親が目を離した隙にゴリラパークの柵の中に落ちた子供を、周りの騒ぎに混乱して引き摺り回したゴリラが、動物園長の命令により麻酔銃で なく実弾で射殺された。原告として裁判を起こしたのは、妻のローズ。幼いときにカメルーンの研究所で手話を学び、今は手話を音声化する 特製グローブを使って会話のできるゴリラだった。
第64回「メフィスト賞」受賞作品。
冒頭で敗訴という屈辱にまみれてしまったローズの、その後の奮闘を描く前に、まずは彼女がカメルーンのジャングルからアメリカの動物園に 渡るまでの、やはり手話ができた母ヨランダや、群れのリーダーである父エサウとファミリーたちとの、ジャングルでの生い立ちが語られていく ことになるのだが、受賞後にゴリラ研究の第一人者、山極壽一先生の監修を受けたというだけあって、野生ゴリラの生態もかなり正確に描かれて おり、興味深く読むことができた。
やがて、別の群れに襲われて父を亡くし、ファミリーが解体・吸収となってしまったことを契機に、手話のできるゴリラという「特別の存在」 として脚光を浴び、アメリカの動物園に迎えられ、絶大な人気を誇るゴリラとなり、リーダーと結ばれ子どもを・・・という時に、悲劇は 起こってしまったのである。
動物園にいられなくなってしまい途方に暮れるローズに、受け入れ先として突如名乗りを上げた救い主は、なんとプロレス興行団体という、 波乱万丈の展開もあるが、敗訴の原因が自分をアメリカに呼んでくれた上院議員の思惑によるものであったことを知ったローズは、最強の弁護士 と組んで反撃を開始する。敏腕弁護士が揮ってみせた手練手管の数々は、どうぞご自分で当たっていただくとして、裁判の帰趨に決定打を与えた のは、ローズ自らが求めた「最終弁論」だった。
私は幼い頃から言葉を学習してきました。言葉を覚えることは、ただ会話を可能にするだけではありません。私は言葉、アメリカ式手話を 通してアメリカの、人間の文化を学びました、人間の感情や、考え方を学びました。
(以下ネタバレに付き文字を白くしておきます)
――たとえ私が貧しくとも、私は人間である。
たとえ私が生活保護を受けていても、私は人間である。
たとえ私が檻に閉じ込められていても、私は人間である。
たとえ私が未熟でも、私は人間である。
たとえ私が間違いを犯しても、私は人間である。
たとえ私がゴリラでも、私は人間である。
私は黒く、美しく、自分に誇りを持っている。
私は神の子供である。
私は尊重されるべきだ。私は守られるべきだ。私は人間なのだから。
2023/11/24
「灯台へ」 Vウルフ 岩波文庫
「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったならばね」とラムジー夫人は言って、つけ足した。「でも、ヒバリさんと同じくらいに 早起きしなきゃだめよ」
と、夫人が6歳の末息子ジェイムズを喜ばせようとしたのは、孤島の別荘から沖に見える灯台への初めてのピクニックが、雨で中止になることを 慮ってのことだった。
ナンシーはお昼のサンドイッチを頼んでおくのを忘れる始末で、ラムジー氏はひどく腹を立て、ドアをバタンと閉めて出て行ってしまった。
「行きたくないのかね?」
と、ラムジー氏が怒鳴り声を響かせてしまったのは、肝心のジェイムズがぐずぐずし続けていたからだ。しかし、楽しみにしていたはずなのに なぜ?・・・かといえば、この両日の間には、10年の年月が流れ去っており、ラムジー夫人も亡くなってしまっていたからだ。16歳の ジェイムズはしぶしぶ「行きたいです」と答えたのだ。
というわけで、<両大戦間の混迷の時代に新しい文学の可能性を求めた実験的な作家(訳者あとがき)>ウルフの代表作とも賞されるこの小説は、 スコットランドの孤島の別荘に暮らす気難しい哲学者ラムジー氏と、8人の子供を持ちながら類まれなる美貌を誇る妻が、「灯台へ」行こうと する第1部の一日と、子どもたちが巣立ち、ひとりは戦死し、夫人も亡くなって、空き家となってしまった別荘の荒れ果てていく様子が描かれる、 ごく短い第2部の十年間を挟んで、十年後再び別荘に戻ってきた家族が、今度こそ本当に「灯台へ」行く約束を果たすことになる、という第3部 の一日の、わずか2日だけの物語なのである。
「そんな話のどこがおもしろいのか?」と思ったかもしれない。確かに大した事件が起きるわけでもないのだが、たとえばラムジー夫人の心模様 が描かれる場面では、
明日灯台へなど行けるわけがないじゃないか、とラムジー氏は癇癪を起して、吐き捨てるように言う。そうかしら、と夫人は答える。風向き なんて、よく変わるものですよ。
という表向きのシーンに続けるように、
妻の言葉の途方もない不合理さ、女たちの考えの愚かしさが、彼を苛立たせた。わしは死の谷を駆け抜けた挙げ句、打ち砕かれもし、震え あがる体験もしてきた。そこへ今度は妻が公然たる事実に逆らって、子どもたちに問題外のこと、いや嘘としか言えぬことを信じさせようと している。
とその裏側に潜んでいる「意識の流れ」が描かれるのだが、これは誰の意識なのか?ラムジー氏か、それともラムジー夫人が推し量ったもの なのか?
「明日、灯台へなど行けるわけがないじゃないか」
「そうかしら。風向きなんて、よく変わるものですよ」
「何てことだ!」
(だが待てよ、そもそも妻は何と言ったというのか?明日は晴れるかも、と言っただけじゃないか。そしてそうなるかもしれないのだ。)
ことほどさような次第で、ありきたりのように見える日常の中で、様々な登場人物の心の中に起こっている無数の出来事を、一つ残らず書き尽く そうとするのだ。
ラムジー夫人という主人公を失った第3部では、夫人に思いを寄せる女性画家リリー(ウルフ自身を仮託)が、ラムジー一家の「灯台訪問」を 見届けることになる。
その時突然激しい思いにかられ、一瞬はっきりそれを見届けたかのように、キャンバスのちょうど真ん中に、リリーは一本の線を描いた。 できた、とうとう終わったわ。極度の疲れの中で絵筆をおきながら、彼女は思った、そう、わたしは自分の見方をつかんだわ。
2023/11/21
「戦争における<人殺し>の心理学」 Dグロスマン ちくま学芸文庫
第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか15から20%しか敵に向かって発砲していない。・・・日本軍の捨て身 の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。
<問題は、なぜかということだ。なぜ兵士は発砲しなかったのか?>
というこの本は、元米国陸軍将校で退役後は大学で軍事学教授として教鞭を執った経歴を持つ著者が、兵士で科学者で歴史学者である <三角関係>を生かして、戦闘における殺人というタブー扱いのテーマを5年計画で掘り下げ明らかにしてみせた、これは戦慄の研究成果の お披露目なのである。発砲しない兵士たちは、怯えて逃げ隠れしたわけでなく、多くの場合、戦友を救出したり、武器弾薬を運んだり、伝令を 務めたり、むしろ危険の大きい仕事をしていた。
<ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。>
1個中隊の兵士が同数ほどの敵に対して、15歩と離れていない所から何度も一斉射撃を繰り返したにもかかわらず、ただの一人も死傷者が 出なかったこともある。殺傷能力と実績とがそのまま結びつかないのは、標的と違い生きて呼吸している敵に相対すると、兵士の圧倒的多数が 敵の頭上めがけて発砲してしまうからだった。
<ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する。>
あまりに当然の話だと思うかもしれない。「私はどんなことがあっても人を殺すことはできない」と。だが、それは間違っていると、この歴戦の 強者は断言する。次に示すように、適切な条件付けを行い、適切な環境を整えれば、ほとんど例外なく誰でも人が殺せるようになるし、また 「実際に殺すものだ」というのである。
<権威者の要求>――兵士が発砲する最大の理由は、敬意を払う権威者から「撃てと命令されるから」だった。
<集団免責>――戦友に対する強力な責任感のため「一人では殺せないが、集団なら殺せる」のである。
<心理的距離>――文化的、倫理的、社会的、機械的距離の存在が「俺にとってやつらは畜生以下だった」と信じさせるのだ。
第二次大戦以後、心理学は科学技術の進歩に劣らぬ絶大な影響を戦場にもたらし、現代戦は新たな時代の幕を開けることになる。
<脱感作>――敵は自分とは異質な人間だ
<条件付け>――標的はできるだけ人間らしく
<否認防衛機制>――実際の殺人をある程度否認する
「心理戦の時代」の到来。それは敵に対してではなく、自国の軍隊に対する心理戦であり、その結果、ベトナム戦争における兵士の発砲率は 95%に急騰した。
<訓練によって、平均的兵士の殺傷能力は高まったかもしれない。だが、そのためになにが犠牲になったのだろうか。>
ベトナム帰還兵に見る恐るべき自殺の頻発、痛ましいほどのホームレス化、薬物の乱用率など、これらの統計がはっきり物語っているのは、 信じられないほど異質な現象が起きているということだ。第二次大戦をはじめとして、わが国が経験してきたどんな戦争のあとにも、このような 現象はかつて起きたためしがなかった。
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