徒然読書日記202310
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2023/10/31
「徴産制」 田中兆子 新潮文庫
【徴産制】――日本国籍を有する満18歳以上、31歳に満たない男子すべてに、最大24ヶ月間「女」になる義務を課す制度。 2092年、国民投票により承認され、翌年より施工。
2087年に日本の女性のみに発症した、若年層ほど死亡率の高い「スミダインフルエンザ」は、ワクチンの開発成功により、ようやく3年後に 終息した。若年女性人口の激減により、このままでは日本国の将来はないと憂えたソガ政権は、余剰となった若い男子に向け「2年間だけ女性に なる」義務を課すことになる。なぜなら、ほぼ同時期にワッカナイ大学再生医科学研究所が、「可逆的に性別を変える」ことができる画期的性転換 技術の開発に成功していたからだった。
というこの本は、「徴産制」が敷かれた21世紀末の日本で、突然国から「女になって、子を産め」と命じられた5人の男たち、それぞれのケース を描いたものだ。物語の設定としては、よしながふみ『大奥』の逆バージョンという趣だが、妊娠・出産という女の役割そのものを男が担うという ところに、このお話しの妙がある。
<産役>に就けば国から高給が支給されるうえ、めでたく出産となれば、新築の家が一軒買えるほどの報奨金が出るため、喜んで志願する者もいる のだが、貧しい家族のために心機一転、<女になる>ことを決意したにもかかわらず、<女>にはなっても容貌は変わらず、<男>には相手にされ ぬ現実に愕然としたり、迷いを振り切って国のためにと<産む性>を引き受けたはずのエリートが、せっせと励んでもなかなか妊娠できずに、 落ちこぼれの恐怖におびえるという悲劇もある。
<産役>の目的は「子づくり」だが、「出産」そのものは義務ではなかった。<徴兵>の目的は「戦うこと」だが、「殺人」そのものが義務では ないのと同じである。出産するために婚姻関係は必要なく、出産したその時点で<産役>は終了し、男性に戻ることができるが、戻ることなく 女性のままでいることも認めらる。生まれた子供はどちらかの親が育てることが奨励されてはいるが、育児の義務はなく、基本的には国が引き取り、 国立の養育施設で育てられるか、養子に出される。
「女が子供を産んだら、国はちょこっと金恵んでくれるだけで、ほとんど手助けしてくれんのに、男が子供を産んだら国が丸抱えで育ててくれる んだから、ほんとに男は甘やかされとる」
などなど、「たぶんこうだったんじゃないか劇場」の未来版といった雰囲気で、きめ細かい説得力のある背景とともに、徴産制下の日常が描かれて いくのである。(それにしても、新型コロナの発生前にこの物語世界を構築してみせた著者の、理路整然とした論理的な構想力には脱帽である。)
詳しくはぜひ本書を読んでいただきたいが、立場も職業も思想信条も異なる彼ら「産役男」が、<女性>として味わうことになる理不尽で矛盾に 満ちた体験は、同性としてはいささか身につまされるものがあるのだが、よく考えてみれば、これは現代の女性たちがまさに身をもって体験して いることであろうことに気付く。<このお話は女性が普段から苦々しく思っている日常の細かなディテールが、淡々と登場する。>という意味で、 これは現代の男性こそが読むべき必読書なのである。
現代社会において女性たちがチリチリとした痛みとともに体験させられる性差別的な状況を、徴産制下の男性たちが体験する。これは差別が どういうものなのかを伝える上で、なかなか巧みな戦略だ、性差別は、差別体験がない人々には想像もつかない無意識的なものであることが多い からだ。体験なき人々の心には、当然配慮も育ちようがない。(解説:小谷真理)
2023/10/30
「量子力学の哲学」 森田邦久 講談社現代新書
古典力学と量子力学の大きな違いは、未来が一意的に予測できるかできないかにある。ここで「一意的に」というのは「ただ一つの値に」 「確率的にではなく」といったような意味である。
サイコロを振ってどの目が出るかは、投げた瞬間のあらゆる情報がもし完全に正確にわかれば、一意的に予測することができる。もちろん「原理的 に」ではある。ところが、原子や分子のようなミクロな物質は、ある時刻での正確な状態がわかっていたとしても、その後の運動は確率的にしか 予測することができない。それは、計算が複雑すぎて「現実的にいって」できないという意味ではなく、「原理的に」できない、というのが 量子力学の言い分なのである。つまり・・・
原子などは観測する瞬間までどこにあるのか予測できないことになるわけだが、そこから、観測していないときには存在しないのではないか、 という考えが生まれる。観測するまでどこにあるかとか、どのような速さで動いているのかといった情報が、「原理的に」わからないのなら、 それは存在しないも同じではないか。しかし、そうであるとするならば、ミクロな物質から成り立っているマクロな物質も、だれも観測して いなければ実在しない、ということにはならないだろうか?
「私たちが見ていないときには月が存在しないというのか?」(@アルベルト・アインシュタイン)
というこの本は、量子力学が私たちに示す世界像についてこれまで提案されてきたさまざまな哲学的議論を解説しようというものだ。(著者は 理学・文学二刀流博士)上述したような考え方は量子力学を「解釈」して生まれたものであり、実験的に確かめることはいまのところできない。 ゆえに「科学」ではなく「哲学」なのである。
著者がこの本で、哲学的に考察を要するとものとして取り上げた量子力学の課題は4つで、これにはそれぞれ「標準的な解釈」と呼ばれる解釈が 存在している。
1.測定前の物理量は確定した値をもつか(実在するか)
――測定前の物理量は実在しない、もしくは測定前の物理量について議論することは無意味である
2.非局所相関はあるのか(空間的に遠く離れたものどうしが一瞬で影響を与え合うのか)
――非局所相関はある
3.射影公理をどう扱うか(状態の収縮をどう扱うのか)
――射影公理を認める
4.粒子と波の二重性をどう考えるか
――粒子と波の二重性を認める
ミクロの量子の奇妙な振る舞いを懇切丁寧にわかりやすく解説してくれる著者の導きで、何とかおぼろげながらでも理解したような気になっては みたものの、その後に続く、様々な物理学者たちの斬新なアイデアに満ちた解釈の中身までは、正直言って完全に理解できたとは言い難かったと 白状せねばなるまい。
状態の収縮だの、粒子と波の二重性だのという「謎」はありあまるほどあるわけだが、こういわれて、なにがどう不思議なのかピンとくる 初学者はまずいないだろう。・・・しかし、量子力学の謎は量子力学を学べば学ぶほど深まっていく「スルメ」のように味わい深いものである。
2023/10/11
「野の古典」 安田登 紀伊國屋書店
「古典なんか嫌いだ」という人の気持ちもわからないではない。それは、そういう人にとっての「古典」は、学校で習った古典だから です。
<それ以外の「野の古典」には毒がいっぱい、薬もいっぱい。>
というこの本は、高校の国語教師だった24歳のときに「能」と出会い、能楽師になってしまったという異色(?)の経歴を持つ著者の、 ざっくばらんな語り口が、(参考:
『能』―650年続いた仕掛けとは―
)大学で専攻していた中国古代文字の素養を武器に、日本と中国の古典の“身体性”を読み直すことを テーマに主宰している寺子屋の「出張授業」のような雰囲気で、(参考:
『変調「日本の古典」講義』―身体で読む伝統・ 教養・知性―
)奈良時代の『古事記』から明治時代の『武士道』まで1200年ほどにわたる日本の古典のオンパレードに、『論語』などの 中国古典も少しだけ加えて紹介したものだ。
心象の変遷に身をゆだねて初めて見えてくる『万葉集』の<歌の世界>、大きな変革期に犠牲となった数多の魂を鎮魂するために個別性を排除 した『伊勢物語』。盲目の琵琶法師たちが闇のなかにこそ本当の光があると「音」で伝承した『平家物語』、なにげないツイートが800年後の 人にも読ませることを示した『方丈記』。性と金の世界で常識を逸脱して制限された<自由>を獲得しようとした『好色一代男』、俳諧のおかしみ に風雅の誠を統合して<軽み>を目指した『奥の細道』。七五調の美文で膝を打ちながら声を出して読みたくなる『南総里見八犬伝』、儒教の徳目 を重んじる日本人としてこうありたかった理想の姿を外人に示した『武士道』。
などなど、全24講のどれをとっても、ユーモア混じりの軽妙洒脱なおしゃべりを楽しんでいるうちに、授業では知りえなかった古典の深みを垣間 見ることになる。折角興味が湧いたのだから、原文をもう少し読んでみたいと思った人のために、入手しやすく読みやすいお薦めの「読書案内」 も、ご親切にも用意されているのだ。
著者の専門である中国の古典からは、『論語』『中庸』『詩経』などが取り上げられているが、さすがに中国古代文字を研究してきた看板に偽りは なく、
「温故而知新」を単に「故きを温ねて新しきを知る」と読み下したのでは、その本当の意味を理解したことにならない、という指摘には目から鱗が 落ちる思いがした。本当に大切な知見(故)をゆっくりと煮る(温)ことで、何かが変容するための魔術的時間が経過(而)して、新しい知見や 方法(新)が突然出現する(知)というのだ。
<古典は宝庫です。「資源」といってもいいでしょう。>
「ケ(褻)」とは日常生活を生きていく力であり、それが「カレ(離)」ると「ケガレ」となって、何となくやる気が失せてしまうことになる。 そこで昔の人たちは「ケ」を取り戻すために、お祭りやお祓いで「ハレ(晴)」の時間と空間を作り出したのだが、やがて「非日常」の「ハレ」が 日常化してしまった。
<そんなときに役に立ったのが、古典でした。>
古典を読んでいるあいだ、わたしたちは古の人々の感覚、思考、身体を体験することができます。その体験や英知が、未来を考えるのに役に 立つのです。
2023/10/8
「ブルックリン・フォリーズ」 Pオースター 新潮文庫
私は静かに死ねる場所を探していた。誰かにブルックリンがいいと言われて、翌朝ウェストチェスターから偵察に出かけていった。 ブルックリンに戻るのは56年ぶりで、まったく何も覚えていなかった。
<まあ静かではあるだろう。何よりもまず、それが私の望んだことだった。>
肺ガンで余命宣告を受け、小康状態を保っている59歳のネイサンは、永年勤め上げた会社を退職し、33年連れ添った妻にも逃げられて、故郷に 戻ってきた。心配して駆け付けてきた娘の「何かにかかわらなくちゃ駄目よ」という売り言葉には、思わず「そんなこと知ったことじゃないね」と 買い言葉で返してしまったが、「生きるとまでは行かなくても、ぼさっと何もせず終わりを待つだけでは駄目だ。」とひとつ気合いを入れて、 自分を忙しく保たねばと始めることにしたのは、
一人の人間としての長い、波乱含みのキャリアのなかで、自分が犯したあらゆる失態、ヘマ、恥、愚挙、粗相、ドジ、を極力シンプルで明快な言葉 で綴ろうという、『人類愚行の書』(The Book of Human Follies)のプロジェクトで、「書」とは呼んだが、それは雑多なメモ書きを単に段ボール 箱に放り込むだけのものだった。
とはいえ、ママが離婚したのも無理はない、残酷で自分勝手な人間と暮らすのは、果てることのない拷問、「生き地獄」だったにちがいない、と 罵る娘レイチェルに、<気の毒なレイチェル。自分ではどうしようもないのだ。この地球に29年暮らしてきて、私の一人娘はその間、ただの一度 も独創的な言葉を口にしたことがない。>なんて意地悪な感想を、口に出さずとはいえ、父ネイサンの頭の中に思い浮かべさせてしまう強かな作者 なのであれば、ここまではほんの「枕」に過ぎないのだ。
10ページばかり書きつづったわけだが、これまではあくまで、私自身を読者に紹介し、これから語ろうとしている話のお膳立てをすることが 目的だった。
<そして私はその話の中心人物ではない。>
というわけで、これは「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男」が出会うことになる、愚行から生まれた奇遇なる「冒険」 の物語なのである。
輝かしい未来の夢破れ失意の人生を送る甥のトム、前科持ちで同性愛者の古書店主ハリー、家出してきながら無言を通す失踪した姪の娘ルーシー、 などなど。入れ替わり立ち代わり、この物語の主人公を務めることになるのは、誰もがネイサンと同じく「脛に傷持つ」身の上で、人生に失敗した 「愚か者」ばかりなのである。しかし、そんな「愚かさ」を見つめる作者の目は温かく、欲得抜きで力を貸そうとするネイサンの奮闘を、事態の 深刻さにもかかわらず「楽天的に」描き出していく。
結末で、そんな奮闘への作者からのご褒美として、人生の最後を彩る理想の相手を得たネイサンが、心臓発作の疑いから解放され退院し、街路に 踏み出したのは・・・<若干ネタバレに付き、文字を白くしておきます。>
2001年9月11日の朝8時だった。
――それから46分後。
人類最大の「愚行」が発生することになる。
だがいまはまだ8時で、そのまばゆい青空の下、並木道を歩きながら、私は幸福だった。わが友人たちよ、かつてこの世に生きた誰にも劣らず、 私は幸福だったのだ。
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