徒然読書日記202305
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2023/5/29
「<狂い>の調教」―違和感を捨てない勇気が正気を保つ― 春日武彦 平山夢明 扶桑社新書
春日 メンタルヘルスと言ってもね、うつとかストレスの話ばっかりじゃつまらないんで。「やる気が起きないときはどうしたらいい のか」を、少し真剣に考えてみましょう。
と始まったのは、版元である扶桑社が社員のメンタルヘルス研修として企画した講演だが、「いささか狂気じみた」対談と出版社自ら称している のは、対談を依頼したのが、
『はじめての精神科』
の臨床精神科医・春日武彦と、
『独白する ユニバーサル横メルカトル』
の鬼畜系小説家・平山夢明だったからだ。
「真面目な講義では誰も聴きたがらないので、まあイロモノならどうだろうかと考えたに違いない。リスキーこの上ない企画ではないか。」と嘯く 春日を、「普段は実に丁寧な人であるが対談になると元も子もないことを多発される。世間が持っている幻想的押しつけを木っ端微塵にされる。」 と平山がさらに煽れば、
「通常であれば診察室で<最近書けないです・・・>みたいな対面しか叶わないであろう権威が何故かオイラのようなものに」と畏怖を隠さない 平山に、「作家として、生活者としてタフに生き抜いてきた言葉には、やはり重みがある。ふざけた調子で語ろうともそこには大切なヒントが ある。」と春日が持ち上げる。
これは『「狂い」の構造』シリーズとしてタッグを組んできた名コンビによる、集大成の第3作目なのである。(まだ続くのかもしれないけど ・・・)
そんなわけで、春日が掲げた「やる気が起きるために必要な条件」の1番目は、<期待されているという実感>というわりと真っ当なものでは あるのだが、
『文学界』って、権威あるじゃないすか。そこから依頼がきたときに「どうしたんだ?」と思ったんですよ(笑)、ぼくは最初に。「無事 なのか?」って。(平山)
と、相談に乗る側が思いっきり自分に引き寄せた話をしはじめても、「そんなに評価されてるのかよ、ホントかよ」って疑ったなあと、同調して しまう春日なのだ。5番目の条件「儀式、マジナイ」に至っは、コーヒーを丁寧に淹れて飲むが、飲み終えたら仕事始めなきゃなので、500ml のマグカップを用意するという春日に、
平山 俺ね、あんまり儀式がないなって。僕やらないんですよ、決めても。だから、儀式になんないんですよ。
春日 なるほど。儀式すらしない(笑)。
と、お互いに「悪い例」の見本であることを誇り出す始末で、平山も見抜いているように、「医者もあなたたちと同じです」と云いたいのが 春日の「粋」なのだろう。
ところでこの対談は、社員のメンタルヘルス研修の一環として、「仕事場での悩み」などを事前に聞いた質問コーナーを設けているわけだが、 <会議や打ち合わせの場で意見やアイデアを思いついても、つい遠慮したり気後れして何も言えないまま終わってしまうことが多い>という 質問には、
春日 「過敏型自己愛」ってヤツだよね。これはあの、自己愛が強すぎるあまりにね、恥をかきたくないとか、みっともないことをさらしたくない。
平山 そういう自己愛っていうのは、なかなか曲者ですよね。なきゃないで困るだろうし。
春日 まぁ、いかに自己愛を飼いならすかって話です。
と回答は意外に誠実で、<ちょっと演芸的に見える>(@平山)場面もあったかもしれないが、打ち明けられた悩みには真摯に向き合おうとして くれている。どうやら、精神科を受診するような人は、その決意に至った時点で結構自己治癒している部分があって、「どんなところに行っても、 ある程度良くなる」らしいのだ。
2023/5/23
「ルーマニア語の小説家になった話」 済東鉄腸 左右社
住んでる町には地下鉄は通ってるけども、マクドナルドもなければ牛丼屋も一軒たりとも存在しない。そのクセ、歯医者だけは何でだか 4,5軒くらいある陸の孤島みたいなところ。そんな町の片隅にある何の変哲もない家、その2階で俺は・・・
<ほとんどの日本人が理解できないルーマニア語をタブレットに向かって叩きつけてる。>
この本の正式な長〜い題名は、『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないまま、ルーマニア語の小説家になった 話』というものだ。1992年生まれの著者は虚弱体質のため、大学卒業以来引きこもり生活を続けており、おまけに最近になってクローン病と いう腸の難病まで抱えてしまった。つまり、生まれてこのかた30年間、海外どころか自宅からほとんど出ないまま、なぜかルーマニア語で書いた 小説でルーマニアの文芸誌にデビューを飾ったのだ。
何とか大学には通い続けたものの就活に失敗して力尽き、仕事なし、友人もなし、本当に何もない底無しの鬱状態にあった彼の心を癒してくれた のは映画だった。<復讐みたいに映画を観まくる>日々。ワンマン映画ブログを書き始めた彼は、映画批評家の猿真似をしていくうちに、日本の 映画批評に不満を覚えようになる。媒体に場を用意されなければ書かず、しかも日本で上映される、日本語字幕のついた作品しか論じない、日本の 映画批評家には語るものへの美学がないと。
ということで、まあ色々あって、彼は「日本未公開映画」を片っ端から観てその批評を書き始めることになる。「周りと違う自分カッケェ」という わけだ。そして、そんな彼の人生を一変させてしまうことになったものこそが、コルネリュ・ポルンボユ監督作のルーマニア映画 《Politist,Adjectiv》だったのである。物語の筋は置いておくとして、この映画はルーマニアという社会におけるルーマニア語の独特な役割を 根底から問い直すとでもいうような、鬼気迫る映画だった。
俺は心の底から、ルーマニア映画をもっともっと知りたいと思った。そしてそれにはルーマニア語を学ぶことが必要不可欠だった。振り返る なら、この知的好奇心は都市の闇を振り払ったガス灯のようなものだった。
しかし、日本で簡単に手に入るテキストがわずか2冊という弱小言語のルーマニア語を、日本語ですら会話が苦手な引きこもりの身で、どのように して学んだのか?筋金入りの語学オタクで、映画漬けの毎日に英語字幕を付けて観ることで英語をマスターした彼は、Netflixにルーマニア語字幕 を付けて「疑似留学」を実現した。そして、本当に役に立ったのが Facebook だった。ルーマニア用のアカウントを作り、プロフィールに ルーマニアの人に向けたメッセージを書き、友達リクエスト!「もしかして友人かも?」という欄がルーマニアの人々で埋め尽くされ、共通の友達 がいれば受理の可能性は指数関数的に高まって、<ここはいわば俺にとってのルーマニア・メタバースだったんだ。>
このようにして彼は、今やルーマニアでもっとも注目を浴びている文芸評論家が書いた「ルーマニア文学現代史1990-2020」の1ページに座を 占めるまでになったのだ。
Eu sunt japonez dar pot vorbi limba roma^na'. I^n plus, scriu o poveste i^n roma^na'. Afurisit de misto, nu?
「俺は日本人です、だけどルーマニア語が喋れます。しかも小説だって書いてる。マジで悪魔的なまでにカッコよくない?」・・・ってね。
2023/5/20
「アシェンデン」―英国秘密情報部員の手記― Sモーム 新潮文庫
「きみがこの仕事にとりかかる前に、ぜひ心得ておいてもらいたいことが一つある。・・・もしきみが首尾よくやってくれても、きみは 感謝の言葉ひとつもらえないし、また面倒な事態が起こっても、助けは望めない――と、それでよろしいかな?」
大戦勃発当時、海外にいた作家アシェンデンはたまたま招かれた英国でのパーティで、英国情報部のR大佐からいきなり「情報部員にはもって こいだ」と誘われる。ヨーロッパの数か国語に通じていたし、小説のネタ捜しを口実に人目を惹かずどこの中立国へでも行ける作家という職業は、 うってつけの隠れ蓑になるというのだ。
「この仕事は、わたしのロマンスに対するセンスと、ばかばかしさに対するセンスとの両方に訴えた。」(Sモーム『要約すると』)と回想録にも あるように、モーム自身がこの割に合わない申し出を受け、英国の秘密情報部員としてスイスに派遣され、各国のスパイと渡り合って活躍している。 つまりこの本は、その際にモームが遭遇した豊富な体験を骨子とし、分身のアシェンデンを主人公に小説としての脚色をほどこした、本当のような 嘘の物語なのだ。
<もう少しひどいと、斜視になるところ>のきつい、冷酷な目つきのため、いかにも抜け目のない、策略に富んだ印象で、好感も信頼も感じられ ない人物だが、給仕にチップをやる段になると、はずみすぎて物笑いになりはしまいかと、よそ目にも困惑の様子がありありでお里が知れて しまう、というR大佐を筆頭に、
<皺だらけの皮袋の中に、骨が2,3本しか入っていないような>ちっぽけな老婆のくせに、厚化粧でちゃらちゃらしたグロテスクで異様な恰好の ため、見るものは吹き出す前に、まず度肝を抜かれてしまう、というエジプトのお大尽のご令嬢二人の家庭教師をしているミス・キング。
<芸術家を気取ってか、わざともしゃもしゃにしてある>薄茶のかつらが、めかしたてた服装と相俟って、はじめて見る目にはいささかぞっとする ような印象だが、その風変わりな様子の中には、不気味な魅力がひそんでいた、というメキシコの革命軍からの逃亡者で将軍と自称する、毛無しの メキシコ人マヌエール・カルモーナ。
<そのすばらしい黒い瞳をのぞけば、どこにも美しいところはない>それに大柄で、これでは優美な踊りは望めまい、こんな女にどうしてあれほど 惚れ込んだのか、反英国扇動家のインド人が愛した踊り子ジューリア・ラッツァーリは、彼をおびき出すための偽の恋文への彼の情熱的な返事を 読まされ、愛しさのあまり涙を流した。
<日焼けした大きな顔とでっぷり肥った身体>で、人のよさそうな微笑が信頼を買ったが、すばやくよく動く目は奥にひそんだ心を現すかのように ぴたりと止まる。不器量なドイツ女を深く愛したイギリス人のグラントレー・ケイパーは、虚栄心から裏切りを楽しむかのような卑劣な売国奴の 二重スパイだった。
などなど、著者の巧みな描写がその特異な存在を髣髴とさせてくれる、濃い人物が次々に主人公として登場し、奇想天外なドラマが繰り広げられる 短篇集なのだが、舞台回しを務める著者の目線に立って読めば、これは長編活劇の大傑作なのだ。炒り卵好きのロシア娘との出会いと別れなど、 一体どこまでが本当の話なのだろうか。
アシェンデンは、これから一生の間、毎朝炒り卵を食べる自分を想像してみた。彼女をタクシーに乗せてしまうと、彼は別にもう一台タクシーを 呼んでキュナード汽船会社まで行き、アメリカ行きの一番先に出る船に寝台を予約した。自由と新生活に憧れてアメリカへ渡り、自由の女神像を 仰いだ移民は数多くあろうが、あのまばゆい陽光に輝く朝ニューヨークの港に着いたアシェンデンほど、心からの感謝にあふれた眼差しを向けた 者はなかったであろう。
2023/5/15
「世界十五大哲学」 大井正 寺沢恒信 PHP文庫
哲学を学ぶのにもっとも必要なことは、どんな思想を受けいれ、どんな思想を拒否するかを、自分自身の理性と経験にもとづいて判断 することである。一言でいえば・・・
<自分で「哲学する」ことが必要である。>
でも「哲学せよ」といわれたって何をどうしたらよいかわからないという人には、過去の大哲学者と彼らの扱った問題を共に考えてみることが 有効なやり方になる。大哲学者たちをけいこ台にして、自分ならばその同じ問題をどう考えるかと自問自答すること。それを習慣化することで 「哲学する」能力が身についてくるのである。これが<哲学思想史を学ぶ必要がある>理由である。
というこの本は、1962年に刊行された「哲学思想史」の古典的名著を復刻したものなのだが、古書店でも入手困難なこんな稀覯本が復刊される ことになったのは、外務省主任分析官時代に、東京地検特捜部の国策捜査に嵌まり、逮捕された512日間の獄中暮らしで220冊を読破したと 豪語する、あの「知の怪人」佐藤優が、「この本のおかげで哲学の入り口を間違えずに済んだ」と、12歳で出会って以来あちこち線を引いて、 今もぼろぼろになるまで読みつづけている愛読書だったからだ。
今日、哲学上でどんな立場に立つ人でも共通して認めなければならぬ哲学史上の巨大な山系に2つある。
1つは、古代ギリシァにおいてソクラテス、プラトン、アリストテレスと続く山系であり、もう1つは、カントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学 の山系である。「哲学する」といういとなみは、個々ばらばらの活動であるかのようにみえて、何らかの意味で先輩の仕事が後輩によって継承 されてゆく。それぞれの哲学者の活動が、たがいに結びついて、哲学という学問が逐次に豊かになってゆく一つの歴史的な流れを、「哲学思想史」 と呼ぶのだという。大哲学者と共に考えるためには、その哲学者自身が哲学の発展からどのような成果を受けつぎ、どのような未解決の問題を 課せられていたかを知らねばならない。そんなわけでこの本の前半は、哲学思想史の主要な流れについて、原始社会から今日の日本までをごく 大づかみに、息つく間もなく駆け足で走り抜けていくのである。
個々の大哲学者は、あるいは激流の中にそびえ立つ巨巌であり、中流に浮かぶ小島であり、河口に形成されたデルタのようなものとして登場して くる。中でも、ここはぜひゆっくり見たいという15の名所に旗を立てておき、改めてその一つ一つを眺めたり、上陸して調べようというのが、 後半部の仕事となる。選ばれた15大哲学者の選択基準が、「その前後と背後の時代思潮をつかむことができるよう」ということで、些か首を捻る 部分もある(中江兆民とか)のだが、いずれにしても、前半がきわめてわかりやすい語り口になっていることもあって、後半部分を一読でさらっと 理解することは、暇人にはとても難しいように感じた。
「この本ならば書いていることの意味がわかる」とレジに直行した、中学1年生の佐藤少年の早熟さに驚くが、ひょっとしたら「序文」だけで 判断したのかも?
レトリック(修辞)で、気の利いた発言をすることは、少し勘がよい人ならば誰でもできる。しかし、思いつきを、筋道をたてて整理して、 きちんとした考えにまとめるためには、哲学的な基礎訓練が不可欠だ。そのような基礎訓練のために本書は役に立つ。(佐藤優『復刊によせて』)
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