徒然読書日記202303
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2023/3/30
「荒地の家族」 佐藤厚志 文藝春秋
軟弱な地盤に適応すべく、海と距離を大きく取り、なだらかな砂の上に消波ブロックを積み上げる傾斜型の防潮堤。壁に囲まれている ような圧迫を感じ、脅威を煽られる。
<災厄直後の亘理の浜に、防潮堤よりほかに建設するものはなかった。>
海から人を守っているのでなく、人から海を守っているように見える、白くすべすべした無機質な防潮堤は、さざ波立った人の心の様をまざまざ と映し出すのだ。
「その辺まであったんだけどな。」
と老人は唐突に言った。・・・「え。」
「浜がさ、前はその辺まであったのよ。」
本年度「芥川賞」受賞作品。
高校卒業後に、たいして考えもせず造園業の道を選び、厳しいしごきに耐えた祐治が、あの<災厄>に見舞われたのは、ようやくひとり親方と して船出した途端だった。そして<災厄>の2年後には、妻をインフルエンザによる高熱で亡くし、その後再婚した女性には流産をきっかけに 逃げられ、追いかけても避けられてしまう。残されたひとり息子の啓太の、時々窺うようにちらと自分を見やる仕草から伝わってくる、話し かける隙を与えまいとしているかのような内奥の戸惑いは、仕事に駆けずり回り腹を割って話す暇もないことを口実に、その隔たりを埋めようと しない自分の後ろ暗さのせいだ、と祐治は気付いていた。自分も逃げていたのだ。
元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か、と祐治は思う。十年前か。二十年前か。一人ひとりの「元」はそれぞれ時代も 場所も違い、一番平穏だった感情を取り戻したいと願う。
道路ができ、橋ができ、建物が建つ。人が住み、出ていく。生まれ、死んでいく。・・・それらが一度ひっくり返されたら、元通りになどなり ようがなかった。それでも、いや、それゆえにこそ祐治は、毎日無心に穴を掘り、枝を刈り、苗を植え付ける。体の節々が軋んで音を立てる くらいに肉体に負荷をかけたかった。
「亘理の風景そのものが荒涼としているわけではなく、・・・荒地としか言いようのない、主人公の心の中の風景を描いたつもりです。」 (受賞者インタビュー)
あの<災厄>で妻と幼いひとり娘を失った同級生の明夫は、職を失い、癌を患い、密漁にまで手を染めて、忠告しようとした祐治の気遣わしげな 態度に激昂する。やがて逮捕され、釈放の後入院した明夫は、余命6カ月で退院したある日の夕暮れ、出荷が始まったばかりの山形のサクランボ を友人たちに配って回っていった。
「おう、いいよ、俺が引き受けるよ。・・・だが、お前なんかと心中はまっぴらだ。」と祐治は思った。
明夫は生きた。死ぬ理由はそれで十分じゃねえか。消える時を自分で決めて何が悪い。祐治は耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。死者は 死者のままだった。
ちなみに前回同様、「ChatGPT」さんにこの本の書評をお願いしてみたところ、以下のような返事が来て驚いてしまった。
<本作は、家族の絆や愛情、そして貧しい環境で生きる人々の強さを描いた作品となっています。特に、父親の平助は、家族を守るために ・・・???>
う〜む、なるほど。これはなかなかに「使いこなすのが難しい」知だと言うべきなのかもしれない、と思った次第である。
2023/3/29
「イメージの歴史」 若桑みどり ちくま学芸文庫
簡単にいえば、これは広い意味での「美術史」である。しかし、従来「美術史」という概念でくくられてきたものよりは広く多様な 内容を含んでいる。したがってこれは「新しい美術史」といえる。(序――「イメージの歴史」とは)
と、大鉈を真向上段に振りかざしたかのような序文で始まるこの本は、西洋美術史とジェンダー論の旗手として名高い著者が、放送大学で行った 講義のテキストである。
『クアトロ・ラガッツイ』
で大佛次郎賞を受賞した著者お得意の「表象文化論」については、前に
『イメージを読む』
をご紹介したが、 こちらの方がより正攻法だ。
<それでは「美術史」と「新しい美術史」とはどこが違うのか。もっとも特徴的な違いを3つあげておこう。>
1.広範な対称
絵画、彫刻、建築のようないわゆる「純粋」で「高度」な「芸術」だけを問題にするのではなく、人間を中心にそれを取り巻くイメージの世界 を対象としていること。
2.超越的な方法
社会のなかで起こっているある事柄を詳しく知るために、学問の領域の境界線を超えて「学際的・超越的」な方法を用いていること。
3.「パラダイム・チェンジ」との関連
ポスト・コロニアルやジェンダーなど、人間の歴史全体をどういう見方で見るのかという歴史観、社会をどのように見るかという社会観の変化 を基本にしていること。
以上の新しい見方・方法は、今までの歴史・文化史が、ある社会の、あるいは地球上の、支配者層、上層の文化を中心に語られ、またそう いう高い教養をもった階層が享受するイメージを中心に扱ってきたのは偏っているという認識をもち、これを修正しようという点で共通した 方法をもっている。
というわけで、イメージはどのようにして形成され、伝えられ、受容されていくのかを学ぶための、やや難しめの「理論編」をどうにか乗り超え た後の「実践編」で、聖母像やダヴィデ像、自由の女神(おまけとして東京の公共彫刻)など、公共の空間に設置された公共的な目的をもった イメージの解釈が中心に選ばれているのは、この講義の主旨が、イメージの社会的作用の解明にあるからだという。(女性ヌード解釈における 男性視線の偏りなど、ジェンダー論への肩入れが多い気がするが。)公共のイメージは個人の私的専有物ではなく、現実の社会に住む多数の住民 の集団的想像力に訴えることを目的としているのだから、それが宗教的なものであれ、世俗的なものであれ、それは多くの人間の集団的心性の 表象であるか、あるいはその心性をつくりだすための装置であるというわけだ。
ちなみに、少し興味があったので、いま流行りの「ChatGPT」さんに、この本の書評をお願いしてみたところ、以下のような返事が来た。
<若桑みどりは、イメージは単なる視覚的な情報だけでなく、感情や社会的背景など様々な要素が複雑に絡み合ったものであると指摘している。 また、彼女はイメージが社会的な権力や政治的な意図によって操作されることがあることも警告している。>
う〜む、なるほど。著者自身の手による以下のまとめと合わせ読んでみれば、これはなかなかに「使える」知だと言ってもいいかも、と思った 次第である。
ある者にとって価値の高いものも、その他の人にはそうでないということを理解すること。このように「差異のわかる」知こそ、21世紀に おいて、地球上の人類がともに生きてゆく上でもっとも重要な考え方を用意してくれているとはいえないだろうか。
2023/3/19
「この世の喜びよ」 井戸川射子 文藝春秋
あなたは考え、忘れちゃった、でも本を読んでるのも変だもんね、と答えた。暇な時にはいつも思い出しているはずの、幼い頃のあの 子たちの姿も、誰かに語ろうとすれば飛んでいってしまう。
いつまで、落ちてた石をあの開いてる穴に入れたい、くらいの欲望だけ持っていたか、とか、いつから好物ができて、細かな主義主張はどの くらいあったか、とか。
「あのね、穂賀さん忘れないでよ。記憶力ないと会話もできないよ」
ショッピングセンターの喪服売り場に勤める<あなた>は、フードコートの片隅にいつも夕方から暗くなるまで長時間へばりつくように座って いる少女に気づいていた。やがて言葉を交わすようになった15歳の彼女は、母親が3人目を妊娠中で、歳の離れた弟の世話を任されるように なったのだと、日々の鬱憤を吐きだし始めるのだが、「公園行って遊ばせてる時とか・・・穂賀さんはそういう時どうしてた?」と聞かれ、 今は大人になった娘たちの子育てのことなどを、あなたは思い出すようになる。
少女は本当にアドバイスが欲しいのだろう。次までに思い出しておく、でも、うちの子たちはもう社会人と大学生で、とあなたは答えた。
本年度「芥川賞」受賞作品。
<あなた>と二人称で語られていく物語は、読んでいる<わたし>にいったい<誰>が語りかけているのだろうという、いささかこそばゆい感覚 を植え付けながら、愚痴ってくる少女に、<昔の自分に言ってあげるように、大変だ、と頷いている>のが、まるで<わたし>であるかのような 錯覚をも起こさせる文体となっている。
そんな少女との仲が疎遠になったのは、ピーリングのやり過ぎで肌を痛めてしまったことを、親心から遠慮がちとはいえつい窘めてしまったから だった。
「肌磨くくらいしか、今自分にしてあげられることないから。・・・私も、年取ったらそんな仕事してたいよ。見栄えとかは気にしないで」
引いていくだけではいけないのか、とあなたはふと思った。差し引いてる、と小さな声で呟き、何か教訓めいたことを、足していくだけでは だって、それが重く、荷物になっていってしまうじゃない、・・・
「説教は娘たちにしなよ。早く年を取りたがってる方の娘だったら、分かってもらえる可能性も高いよ」
ある日売り場へ出ると、4人連れの家族が喪服の前で立ち止まっていた。少女とその家族だった。あなたは一歩踏み出し、いつもならしない 積極的な接客をする。「お子さん、かわいいですね。二人ともまだ小さなお子さんですね」とあなたは少女の方を片手で示し、少し泣きそうに なって息が詰まる。次の日、それまではあなたを避けるように座っていた少女は、あなたに気づき少し眺めてから、フードコートの通路に近い 席に移動してきた。あの子自身が、あなたを待っているのだろうか。その時<あなた>はいつのまにか、何かを伝えることのできる別の <あなた>を得た喜びを知ったのだろう。
<あなたと話したいから思い出したの、うちの近くには団地があって、それがありがたかった。寒さでベランダの柵が鳴り出すような古い建物 で、錆びた遊具や枯れ木なんかが落ちてた。・・・>
進む脚に力は均等に入る。スーパーの空洞を循環する暖かな追い風が背を撫でる。あなたに何かを伝えられる喜びよ、あなたの胸を体 いっぱいの水が圧する。
2023/3/5
「やりなおし世界文学」 津村記久子 新潮社
この「可愛いお馬鹿さんになるのが、女のいちばんの幸福なのよ」と嘯く女性が、よもやギャツビーの恋の相手なのか・・・、 そんなラブストーリーは・・・、という暗い予感に苛まれながら、ギャツビーの姿だけを捉える一節を挟み、話は、デイジーの夫のトムが実は 不倫している、という、やや「やっぱりな」的な展開を経て、いよいよ満を持してギャツビーが登場する。
自分が中学生の頃の「ギャツビーて誰?」状態のまま小説家になったのは、「華麗とか言われたら、自然と自分には関係ないと思ってしまう から」だそうなのだが、もういいかげん潮時が来たからとこの大人気小説を読みだした著者は、物語前半のこのあたりで、「華麗」がかなり 頭から消し飛んでしまったような感じを持った。
彼は華麗な人には思えなかったが、人気がある理由は辛くなるほど理解できた。「華麗さ」という理由で避けている人であるほど、本書の切実さ が刺さるだろうという。誰だっていい人間にはなりたいが、いつしかそれは不可能だと悟っていくものだ。しかしギャツビーはそんな妥協は せず、こう生きたいという在り方を貫いたのだ。
ギャツビーはたぶん、さまざまな人の、「そうありたかった自分」なのだ。それはたぶんわたしにも。 (
Sフィッツジェラルド 『華麗なるギャツビー』
)
というこの本は、「文学の教養がまったくない人間が、数年にわたって月に一回、自分がどうも文学らしいと思っている本を読んだ感想の記録」 だという。
あるお屋敷のブラックな仕事(Hジェイムズ『ねじの回転』)
ある姉ちゃんが語る人間の普遍(Jオースティン『ノーサンガー・アビー』)
戦争は少しもおもしろくない(
KヴォネガットJr『スローターハウス5』
)
人が心を持つ畏れと喜び(Vウルフ『灯台へ』)
愛は結果を必要としない(
Mプイグ『蜘蛛女のキス』
)
罪にさらされたその後の物語(Nホーソーン『緋文字』)
などなど、少し癖のある選本による世界文学の名作が92冊。(意外に暇人と趣味嗜好の傾向が一致しているのがなんだか嬉しくて、未読は 全部読みたくなる。)キャプションをみてもわかるように、楽しく本を読んでいろいろ考えること自体は、特に文学的な知識なんかなくても できると感じてほしい、というノリなのである。
ゴドーが来ないんならいったい何を読まされるっていうんだよ、というのが、この作品を未読でいる人の意見かと思われるのだが、べつに ゴドーが来ようと来なかろうと、読み手にはおそらく損も得もない。
待っているのが若い女同士ならそりゃもう微妙な思いがあるかもしれんなと詮索できるし、若い男女なんかもっと下心でごちゃごちゃしそう だが、おっさん二人の雑談なんて、誰が興味あんのかそんなもの。しかし、だからこそ「人間が話していること」の強烈なおもしろさが浮き彫り になるというのだ。
それが何にもならなくても、我々は話し続け、行こうにも行けない時間を過ごし、何かを待つ。そしてそのことは、我々が何者であろうと、 おもしろい。(
Sベケット『ゴドーを待ちながら』
)
各々の作品に対してもっと含蓄のあることが言えるんじゃないかと、少しは自分でも期待していたが、特に何も出てこなかったと自虐する著者 だが、恥をかくためにやっているような仕事が、やっている本人としてはとても楽しかったという。その楽しさが読む方にも伝わってくるような 疑似読書体験だった。
本書で取り上げた数十冊のうち、誰かはおそらくあなたの気持ちをわかってくれるはずです。・・・「こんなやつでもとにかく読もうと 思ったら読めるんだ」を入り口に、わかる/わかってくれる誰かを見つけることを願います。
2023/3/4
「恋文・私の叔父さん」 連城三紀彦 新潮文庫
「うちに残ってる母さんの写真、奇麗だなと思うの、みんなおじさんの撮ったものだから――特に死ぬ少し前に東京で撮ったっていう、 赤ん坊の私抱いている5枚の写真なんか・・・」
下関から上京してカメラマンの構治のマンションに寝泊まりし受験に失敗した夕美子は、18年前に4ヶ月の彼女を遺して21歳の若さで事故死 した姪の娘だった。故郷に戻る日、彼女は言う。母親になった女にも、2か月後に死ぬ運命にも、あまりに似合わない道化た顔をカメラに向けて いる、母・夕季子の顔が本当に奇麗だと。
「おじさん、私の母さんのこと愛してたんでしょう?」・・・(『私の叔父さん』)
幻影城新人賞を受賞したデビュー作『変調二人羽織』や、日本推理作家協会賞に輝いた『戻り川心中』など、連城三紀彦の真骨頂は短編 ミステリーにこそある。と、以前に
この欄
でもご紹介したはずだが、この本ではなんと大人の男女の様々な<愛のかたち>を描き、しかも「直木賞」受賞にまで輝いている。
白血病で余命半年と聞かされた昔の恋人を看取るため、まだ結婚していないと嘘をついて出ていった夫と、恋仇の女に従姉と紹介されて、次第に 友情を育む歳上の妻。
「わかってた・・・あんたが、江津子さん死んでも家へは戻ってこないつもりだったこと・・・こんな勝手なことやってそれで平然と家へ 戻ってこれるような卑怯な男じゃないこと・・・でも」(『恋文』)
結婚3ヶ月目に新妻が子宮外妊娠で死んでしまった男の元へ押しかけて来た64歳の義母が、まだ再婚を決心したわけでもない女との間で巻き 起こす嫁・姑の争い。
「2人?義母さんの方は口紅じゃなく子供のためのお菓子貰ったんだって」「でも私、ちゃんと聞いたわよ。2人に1本ずつ真っ赤な口紅 くれたって・・・いい話じゃない」(『紅き唇』)
旅先で拾われて母親の経営する料亭の旦那に納まってしまった自分より年下のあいつは、貰い子で戸籍上は俺の弟に「父さんと呼べ」としきりに 命令するのだが。
「そうだよ。俺は赤の他人だよ。だから俺のこと父さんと呼ぶ必要なんかないし、俺一度だってこの子に父さんと呼べなんて命令したことは ないよ」(『13年目の子守唄』)
妻が経営する美容院の借金返済に退職金を充て、髪結いの亭主となってあんたの一生の夢に付き合うと言った男は、人を惹きつける力を存分に 発揮してくれていた。
「あなたを裏切って朝帰りしたのよ。何か言ってよ」・・・「あいつとは何回だよ?」「1回よ――今夜だけだわ」「俺の方は何回かなあ」 (『ピエロ』)
どのお話にもそこには意地っ張りな女と不器用な男がいて、お互いの思いの微妙なすれ違いに身悶えしながら、それでも自分なりの落しどころ を見出していく。これはやはり、一人語りの主人公がミスリードを重ねながら、最後は鮮やかに謎解いてみせる、短篇恋愛ミステリーの傑作 なのである。
自分も惚れていた姪が全部嘘にした19年前の本当の思いを、「俺の子供だよ」と新たな嘘で掬い上げてみせた『私の叔父さん』だって、それは 同じなのだ。故郷の姉から夕美子が「お腹の子供の父親はあんただ」と言っていると連絡が入り、弁明のため帰郷した構治は夕美子が自分の何に 腹を立てているのかを思い知る。「おじさんは母さんを愛してたけど抱けなかったから代わりに私を抱いた」というのだ。「証拠だってあるわ」 と叩きつけるように並べたのは、あの5枚の写真だった。
「
母さんの顔見てよ。唇の形――あ、い、し、て、る、って言ってるわ
」
(ネタバレに付き、文字を白くしてあります。)
「母さん、カメラに向けて、おじさんに向けて大声でそう言ってる。結婚してるのに、子供の私抱いてるのに――おじさんだってはっきり 聞いたはずだわ!」
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