徒然読書日記202301
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2023/1/31
「ロリータ」 Vナボコフ 新潮文庫
朝、4フィート10インチの背丈で靴下を片方だけはくとロー、ただのロー。スラックス姿ならローラ。学校ではドリー。書名欄の 点線上だとドロレス。しかし、私の腕の中ではいつもロリータだった。
<ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。>
9歳から14歳までの範囲で、その2倍も何倍も年上の魅せられた旅人に対してのみ、人間ではなくニンフの(すなわち悪魔の)本性を現す ような乙女が発生する。この物語の語り手ハンバート・ハンバートが、そんな「ニンフェット(彼自身による命名)」に出会ったのは、精神 病院を退院し、紹介された未亡人の下宿先だった。
そのとき、なんの前ぶれもなく、青い海の波が私の心臓の下からわき起こり、日溜まりに置かれたマットから、半ば裸の恰好で、膝をつき、 こちらをふり向いて、我がリヴィエラの恋人がサングラスごしに私を眺めていたのだ。
<それはあのときと同じ子供だった――かよわくて、蜂蜜色をした肩、絹のようになめらかなあらわになった背中、栗毛色をした髪。・・・> それは12歳のときに恋に落ちた数カ月年下の可愛らしいアナベルとの、あの不器用で破廉恥な永遠不滅の日の記憶が25年ぶりに蘇った瞬間 だったのだ。
というわけでもちろんこの本は、中年男の少女への倒錯した恋を描き、ロリータ・コンプレックス、いわゆる<ロリコン>という言葉を生んだ 問題作ではあるのだが、
ああなんたる責め苦、額の上の、明るい茶色へとなめらかに移行する、あの絹のような燦めき。そして砂埃をまぶした足首の横で、ぴくりと する小さな骨。
と少女の動作の一つ一つに、ハンバートがあさましい肉体の内奥にある秘められた敏感な琴線を打ち震わせている傍で、肝心のローはそんな ことを知ってか知らずか、「ジニー・マック―のこと?ああ、あの子ってキモいのよ。それにイジワルだし。それにビッコだし。小児麻痺で 死にかけて」と、あっけらかんと当世風の下品なギャル語で同級生を貶すばかりなのだが、それがなぜこんなにおぞましいほど私を興奮させる のか?(わざとしらんぷりなのか?)
やがて、少女との禁断の同衾を妄想しながら、その機会を得るためにハンバートはローの母親と結婚するが、彼の日記を盗み読んだ母親は直後 に事故死してしまう。こうして始まることになった、亡くなった妻の娘ローと、義理の父親ハンバートとの、安いモーテルを渡り歩いて全米 大陸を横断する長い「道行」、そしてローの出奔。
陰翳と暗闇のハンバーランドに入ってきたとき、彼女が抱いていたのは気軽な好奇心だった。彼女はそこをゆっくり眺めながら、おもしろい が不愉快な光景に出会っては肩をすくめた。それが今では、単なる嫌悪感に似たようなものを持ち、いつ背を向けて去っていってもおかしくは なさそうだった。
「あんた何してると思ってんの?」という甲高い言葉。それは男にとっては気ままな物見遊山に見せかけた、<キスから次のキスまでのあいだ、 連れのご機嫌を損なわないようにしておく>ためのものだったかもしれないが、「あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人なの。あなたは あたしの人生をめちゃめちゃにしただけ」と再会の場で打ち明けたもう少女ではない女の本音を聞けば、暇人がこの小説を読むきっかけになった、
<テヘランでロリータを読んでいる>
彼女たちから聞いた話とは、随分違った印象を受けることになるのである。
これは単なる「ロリコン」のお話しでは、決してなかった。(そうでなければ、世界文学の最高傑作などと呼ばれるはずもないわけだし。)
結局のところ、我々は子供ではないのだし、文盲の非行少年でもなく、同性愛的な騒ぎの一夜を過ごした後にギリシャ・ローマの古典を削除 版で読むというパラドックスに耐えねばならない、英国パブリック・スクールの生徒たちでもないのである。 (『ロリータ』と題する書物について)
2023/1/26
「論理哲学論考」 Lウィトゲンシュタイン 岩波文庫
本書は哲学の諸問題を扱っており、そして――私の信ずるところでは――それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から 生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。
<およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。>
と序文の冒頭に掲げられたこの<有名な一節>が、著者がこの本で言いたかったことの本当にすべてであったことを知るまでに、ずいぶん時間が かかってしまった。建築学科の学生時代に周りの空気に煽られて、法大出版局叢書の分厚い一冊を読みだしてすぐに挫折したのだが、エッセンス は読んでいたことになる。(負け惜しみ?)体系的に枝番の振られた「命題」の羅列からなる本文は、この結論に至るまでの「論理」の道筋を 辿ったものに過ぎないことが、訳者・野矢茂樹の解説でよくわかった。
<1 世界は成立していることがらの総体である。>
<2 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。>
<3 事実の論理像が思考である。>
現実に成立していることがら=「事実」から出発して、事実を対象という要素に分解し、その対象を様々に結合・配列して、可能的な事実= 「事態」を構成する。「私の思考の限界はどこにあるのか」という究極の問いに再び思考で答えることの困難を、事態の可能性=「像としての 命題」の有意味性に置き換えることで、「私にはどれだけのことが語りうるのか」という問いが立ち現れてくることになる仕掛けなのである。
<4・12 命題は現実をすべて描写しうる。しかし、現実を描写するために命題が現実と共有せねばならないもの――論理形式――を描写する ことはできない。>
<4・1212 示されうるものは、語られえない。>
<4・1251 これで、「すべての関係は内的なのか外的なのか」という論争に終止符が打たれる。>
なぜなら、命題には現実の論理形式が示されており、言語において自ずから姿を現しているものを、われわれが当の言語で表現することは できないからだ。命題の論理形式を言語で語るためには、われわれはその命題とともに論理の外側に、つまり世界の外側に立ちうるのでなければ ならない、というのである。
<6・3 論理学の探究とは、(可能な)すべての法則性の探究にほかならない。>
<6・4 すべての命題は等価値である。>
<6・5 問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。>
何を何によって語りうるかという真理操作を徹底的につきつめていくと、論理命題は「トートロジー(同義反復)」に行きついてしまう、 ということなのだ。だから、誰か形而上学的なことを語ろうとするひとを見つけたら、「あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も 与えていない」と指摘すればよいのである。なぜなら、この指摘こそが、唯一厳格に正しい哲学の方法なのだから。そして・・・
<7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。>
おそらく本書は、ここに表されている思想――ないしそれに類似した思想――をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。 ――それゆえこれは教科書ではない。――理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。
2023/1/16
「チップス先生さようなら」 Jヒルトン 新潮文庫
秋の嵐に窓がガタガタ鳴るのを耳にしながら、炉辺に坐っていると、可笑しさとかなしさとが、波のように後から後から思い出の中に 去来して、チップスは涙をこぼしてしまうのだったが、そこにウィケット夫人がお茶を入れてくることがあると、彼女はチップスが笑っている のか、泣いているのか、判断に迷うのであった。
<チップスだって同じことだったのである。>
教師を辞めてから10年以上も、道路をはさんで学校と隣り合ったウィケット夫人の家で暮らしているチップスにとって、彼(とこの家の主婦 と)が守っているのは、「グリニッジ標準時間というよりは、いまもブルックフィールド学校の時間」であり、胸に去来するのは60年余の 学校生活の懐かしい思い出ばかりだったのだ。
というわけでこの本は、イングランド東部にあるパブリックスクールに、ギリシア語とラテン語を教える教師として赴任したアーサー・ チッピングが、腕白な生徒たちの悪戯の洗礼を乗り越え、やがて厳格な中にもユーモアを交える、愛情に満ちた「チップス先生」として 親しまれるようになっていったお話なのだが、
わたくしが一番よく覚えているのは、皆さんの顔であります。それだけは絶対に忘れません。この胸の中には幾千の顔、すなわち少年の顔が あります。・・・しかし、わたくしが覚えているのは、現にここにいる、その皆さんなのであります。よろしいですか、ここのところが大事な 点なのです。
<わたくしの心の中でです、皆さんは決して現在以上大人にならないのです。絶対に。>
ゆったりとした大きな川の中に1本の木杭が立っていて、いつも変わることのないように見える流れに洗われながら、少しずつ朽ちていって いるかのようだ。65歳で自ら辞職を決めたチップスが、送別の晩餐会で行ったスピーチを聞いた時、暇人の頭に浮かんだ光景がこれだった。 みんな同じように見えても、すべてが違う一滴一滴が、学校生活という同じ時間だけ脇を通り抜けていくのだから、木杭にはその痕跡だけしか 残らないことだろう。しかし河口に辿り着いた一滴一滴にとっては、その木杭こそが過去を振り返るための拠り所なのであり、その痕跡は 決して喪われてはならない大切な思い出なのだ。
「あなたのいないブルックフィールドは、昔日の面影を失ってしまいます。それを子供達も承知しているし、われわれももちろんです。もし あなたが気に入るなら、百まででも、ここにいてください。それが偽りないわれわれの希望なのです」
48歳で知り合った、娘といっても可笑しくないキャサリンと恋に陥ち結婚。美しく聡明な彼女はたちまち人気者となるのだが、2年後に出産 事故で亡くなってしまう。第一次世界大戦の暗い影の中で、同僚の教師や生徒が出陣し、次々に訃報を受け取るなど、決して明るい思い出ばかり ではないのだが、チップスの時代の空気に染まらない一貫した姿勢と、表向き飄々とした立居振舞いのせいで、物語はある意味平々凡々とした 一教師の人生の歩みを辿っていく。
眠りに沈み込むように、あんまり安らかに見えたので、お寝みというのも憚られたという、死の床に就くシーンは象徴的である。
「誰かが、子供がなくて、・・・あーム・・・気の毒だっていうようなことを言ったように思うけど。・・・だけどね、わしにはある・・・ あるんだよ・・・」
居合わしたものは、微笑っているだけで、それには何にも答えなかった。すると暫くして、チップスは弱々しいクスクス笑いを始めて言った。
「何千も・・・何千もね・・・それが皆、男の子ばかりでね・・・」
2023/1/11
「旧約聖書がわかる本」―〈対話〉でひもとくその世界― 並木浩一 奥泉光 河出新書
一つの文書が読まれ、語られることがテクストを育てていくのだとすると、2千年にわたって民族文化の閾を越え数多の人間に 繙かれてきた聖書の世界が巨大なのは当然で、しかもそこに含まれる文書は多種多様である。
学生時代からそんな旧約聖書を「小説的」テクストとして捉えてきた芥川賞作家は、自分が考えるその魅力に触れる概説書がないことを常々 残念に思ってきたが、「だったら自分で書けば」というそもそも無理な要請に、この人に話を聞いてそれを本にすればいいのではと思い付いた のが、国際基督教大時代の恩師だった。
なにより対談という形式は旧約聖書を論じるにふさわしい。なぜなら旧約聖書がきわめて「対話的」テクストだからだ。
多種多様な思想や立場や感覚を含み込んでいるため、こちらから問いかけ、働きかける姿勢もなしに、ただ漫然と読んだのではなかなか読み 解けないのは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖典となった旧約聖書が、自分が絶対ではないと認めた上で他と対話していくことに 「正しさ」の最低限の根拠を据えたからだ。<旧約聖書の存在そのものが、対話的な知のあり方の淵源の一つだと思うんですね。>という 奥泉からの問いかけに、旧約聖書研究の第一人者・並木は答える。
「対話性」というのは、完結できない世界をお互いに認めることなんです。世界は常に外に開かれていく。言ってみれば、外にあるもの、 未知のものを常に内に入れてくるという決意がないと、対話性は成り立たない。
他者から問いかけられていくものとしての「対話性」を持っているのだから、テクスト自体が用意している問いと答えを発見すればよいという わけにはいかない。それが書かれた状況や、今日の世界でもつ意義を考えて読めば、テクスト自体の問いがその人には見えてくるが、誰でも 同じ問いと答えを得られるわけではない。
<そういう性格を聖書は、とくに旧約聖書はもっています。>
このようにして始まった恩師と弟子による「対話」には、師が取り上げたテクストを直接引用して論じ合われることで、読者もその場にいる かのような臨場感がある。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」 (『創世記』)
奥泉 普通の神話では混沌が創造に先立つ原初の世界の様態ですが、ここではそういうふうになっていない。
並木 だからすごく不自然なんです。これは「なる」ではなく「つくる」という発想なんです。
幾度も負けて強国の文明に巻き込まれても、それで終わりにはならないぞと踏ん張ったイスラエル民族の歴史的な経験が、そこには集約されて いる。新しい民族を創造することに望みを託すためには、<神は諸民族の外に立たなくてはならない。>というのである。
奥泉 神は徹底して世界の外にいる、と。
並木 一神教は神が世界の外に出て、初めて成り立つんですよ。
奥泉 それが最初の創造の七日間で描かれているんですね。
といった具合に、議論は初っ端から高い熱度をもった問いかけが続き、旧約聖書の世界史的意義を有するであろう思想の特質が次々と炙り 出されていくことになるのだ。
それは現今の世界を、とりわけ日本の政治、社会、文化のあり方を批判することにもなるだろう。そこが対談による概説という仕掛けの 面白いところであり――と云うか、そうでなければ思想などにはなんの意味もないだろう。
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