徒然読書日記202209
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2022/9/30
「大人は愉しい」 内田樹 鈴木晶 ちくま文庫
私は個人的な日記を書く習慣がありませんが、「読者の眼になって自分の日記をチェックする(検閲する、あるいは加筆訂正する、 粉飾偽装する)」というプロセスが介在するウェブ日記は書くのが大好きです。
それは、そこで造形されたヴァーチャルな「内田樹」が現実の私よりずっと自由ででたらめな人物であり、そのフィルターを通して「私の現実」 を追体験すると、自分の索漠として散文的な生活が何となく愉快そうなものに思えてくる、という「日常の劇化」という効果があるからだ、 と鮮やかに分析してみせた内田に対して、
とりあえず自分という読者を楽しませようと努力するわけです。それでも非公開日記とは違う。なぜなら、読者が自分ひとりの場合と、自分 が読者代表である場合とでは、読者の「パワー」が違うのです。
自分も毎日せっせとウェブ日記を書いているという鈴木が、「ウェブ日記を書く愉しさはカラオケと似ている」と、軽やかなステップを踏んで 切り返す。筆者が書いた瞬間と読者が読む瞬間との、書籍とは比べものにならないタイム・ラグの極小化が、両者の心理的距離をも縮めたので はないかというのだ。
というわけで、「舞踏」の鈴木と「武道」の内田という濁点の有無が違うだけの余技以外にも、多くの共通点を持つ2人による「メル友交換 日記」の書籍化なのだが、不特定多数の読者への公開を前提として「交換日記」を書く、ということの「歴史的意義」について確認するところ から始まった2人の論客の掛け合い話は、(2人とも「この年になると、自分とはまったく意見を異にする人間とは、あまりお付き合いしたく ない」という点については、まったく同意見なのだ。)
――「身内」と「他者」の二分法の不毛さについて
(内田)私たちは「自分とほとんど意見の違わない人」との対話を通じて、実に多くの「未知」に出会っているように思うからです。
(鈴木)日本のような島国で「他者」について考えるのはなかなかシンドイですね。
――「父権の復権?」と「母性の危機」について
(内田)現代日本の家庭の危機の原因は「父の不在」ではなく、「母の機能不全」である、と思うのです。
(鈴木)日本の場合、男性と女性の関係は、母と息子の関係の反復です。じつは夫は息子であり、妻は母親です。
――「凡人変人教育論」と「エリート教育」について
(内田)私は経験的に「多様」ということについては、「限定的多様性」の方が「無限定的多様性」よりも「より効果的に多様である」という ふうに考えています。
(鈴木)私が考えているのは、教育を受ける側の選択肢というより、教える側の選択肢なのです。そういう意味で文部科学省による「規制」は 全廃してしまえばいい。
などなど、本の題名(元々は『メル友おじさん交換日記』というタイトルだった。)からは想像もつかないような、ハードなテーマが論じられて いくのだが、これが『大人は愉しい』となるのは、この2人にとってはお互いが、それを愉しいと感じさせてくれる理想的な対話相手だったと いうことなのだろう。だからきっと、題名は元のままでよかったはずなのだ。
恋人ができると人は急に雄弁になる。それは自分の語るどんなつまらない言葉にも深く心を込めてうなずいてくれる聞き手を得たからである。 ・・・恋をすると一日が濃密になるような気がするのは、別に時間の方がどうかしたわけではなく、「聞いてくれる人がいる」がゆえに、一日 の出来事を記憶し、それについての個人的印象を言語化する「張りが出る」ことの効果なのである。(内田)
2022/9/30
「サル学の現在」(上・下) 立花隆 文春文庫
今、サル学の本を書いているというと、たいていの人が、「何でまたサル学なんかに興味を持ったんですか」と尋ねる。このように 問われること自体、私ははなはだ不満である。そのような問いに対して私はいつも、「何でまたサル学に興味がないんですか」と問い返す。
<およそ人間というものに興味を持つ知的人間であれば誰であれ、サル学に興味を持たないはずがないのである。>
ヒトになったサルと、ヒトになれなかったサルとのあいだにはいかなる違いがあったのか、などといった問いに答えるには、ヒトはサルに学ぶ しかない。つまりそれは、サルの何たるかを知ったときにはじめて、ヒトはヒトの何たるかを知ることができるということなのだ。というこの 本は、<知の巨人>立花隆が『サルに学ぶヒト』と題して雑誌に連載した、現役バリバリの霊長類学者たちとの連続対談をまとめたものである。
学問としての「サル学」が本格的に確立されたのは、実は日本が最初だった。先進国の中ではただ一つ、野生のサルが広く分布している国だった からとはいえ、終戦直後、サル学の開祖・今西錦司に率いられた若き京大生たちが「個体識別」と「餌付け」という独自の調査方法を駆使して、 高崎山などの野生のサルの観察を始め、サルにも社会的コミュニケーションが成立していることや、ボスザルを中心とする同心円構造があって、 そうした文化が継承されていくなどといった、それまでは考えられもしなかったような発見を次々に報告し、世界のサル学者たちを驚倒させる ような成果を上げていったのである。
第1回目の今西錦司を皮切りに、代表的なサル学者にその研究歴と学績を語ってもらうという形で、主たる研究領域を渉猟し尽くしたこの連載が、
・いくつかの種のサル社会には子殺しがある。
・チンパンジーには言語能力も、道具使用能力もある。
・ゴリラには同性愛がある。
・ゲラダヒヒの社会では、なわばりがなく平和共存する。
などなど、驚くべき事実の数々の発見に至った経緯と共に、「サル学の現在」の到達点と全体像に近いものをレポートすることができたのは、 インタビューされる側と同等の、いやひょっとしたらそれを凌駕するかもしれないほどの専門知識を、事前に準備して場に臨んだ立花の手柄で あると言わねばならない。
もちろん、『サル学の現在』と言ったところで、この本が出たのは1991年のことなのだから、それはいまや30年前の「現在」なのである。 それ以降の「サル学」の研究成果がどのように深まってきたのかについては、たとえばこの本では傍注に小さく名前が載っているにすぎなかった 松沢哲郎の、
『進化の隣人 ヒトとチンパン ジー』
など、個別の研究分野の成果を当たるしかなく、この本のように全体像を一望に俯瞰できる本は存在しないように思われる。立花が この本を書かねばならぬと決意した当時の状況と、『サル学の現在』が置かれている現状に、あまり変化はないのではなかろうか?
現在のサル学が獲得した興味深い知見は、5,60年代の第一次サル学ブームのころのそれの何十倍にも達しているのに、そういった事実は 一般にあまり知られていない。一般の人のサル学の知識は、いまだに第一次ブームのそれにとどまっているといってよいだろう。
2022/9/24
「おいしいごはんが食べられますように」 高瀬隼子 文藝春秋
わたし芦川さんのこと苦手なんですよね、って言ったら二谷さんは笑った。絶対笑った。そう思うのに、一瞬で表情が消えたので 自信がなくなる。自信っていうのは、笑ったっていう事実があったことについてじゃなくて、二谷さんは芦川さんよりわたしのことが好きな はず、っていう方の。
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
入社5年目の押尾は、新入社員の時からチームを組まされた1年先輩で隣席の芦川が、「できないことを周りが理解していること」に強い不満 を持っていた。転勤して来たばかりの二谷は、1年後輩で年は1つ上の芦川からここでの仕事を教わることになっていたが、2週間もする頃には 簡単に追い抜けると思った。
「そう感じた人を尊敬するのは難しい。尊敬がちょっとでもないと、好きで一緒にいようと決めた人たちではない職場の人間に単純な好意を 持ち続けられはしない。」
そんな二谷が芦川と付き合うことになったのは、ミスをして顧客に怒鳴られ泣いた芦川を慰めた時、二谷は怒鳴ったりしなそうと、とても小さな 声で言ったからだ。「あなたはどんなに小さな声で話しても、周りがその声を拾ってくれるところにいるんですね。」二谷は手を伸ばして芦川 さんの肩に触れた・・・
本年度「芥川賞」受賞作品。
初めて出かけた居酒屋で、「このだしまき、すごくおいしい」と店主に笑いかけた芦川さんに「ほんと、おいしそうに食べますよね」と感心して みせた二谷だが、わざわざ厨房の方にまで「全部おいしいです」と声を掛けていたことを知り、3回目のデートで感じよく思われたいという意図 ではなかったことに面食らう。
自分が手を出そうとしている女は、なんだか、底の見えない感じがする、大切に扱わなければならないタイプの人なんじゃないだろうか。
マンションにやってきて食事を作ってくれるようになった芦川さんの、一時間近くかけて作る手の込んだ手料理を、ものの15分で食べてしまう たび、わざわざ自分たちで作らなくったっていいんじゃないかと思っている。思っているけど、それを言う代わりにいちいち「おいしい」と 言わねばならぬことに疲れる。
箸を置いて息を吐くと、芦川さんが立ち上がって冷蔵庫を開け、「デザートもありますよ」と言って、一口大に切ったスイカの入った タッパーを持ってきた。
「押尾さんっておいしいものが好きな人?」と、一緒に入ったおでん屋で、栄養と必要カロリーさえあればいいのだと、押尾になら素直に打ち 明けられる二谷は、「おれは、おいしいものを食べるために生活を選ぶのが嫌いだよ」というのが本音の人間なのである。やがて、みんなより 先に帰してもらっちゃってるからと、芦川さんが会社へ手作りのお菓子を頻繁に持参するようになり、事件は起こるのだが・・・
その顛末はご自分で確かめていただくとして、「私を含む多くの女性が天敵と恐れる」(@山田詠美)芦川さんの圧倒的ひとり勝ちで、幕は 下りるのである。
おれたち結婚すんのかなあ、と二谷が言う。・・・「わたし、毎日、おいしいごはん作りますね」と、(芦川さんが)クリームコーティング された甘い声でささやく。揺らがない目にまっすぐ見つめられる。幸福そうなその顔は、容赦なくかわいい。
2022/9/14
「ゴドーを待ちながら」 Sベケット 白水uブックス
エストラゴン どうにもならん。
ヴラジーミル いや、そうかもしれん。
夕暮れの田舎道の道端に坐って、片方の靴を脱ごうと格闘しているエストラゴンの元へ、ヴラジーミルが出てくるところからこの舞台劇は始まる のだが、ヴラジーミルが相槌を打ったのは、「そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言いきかせてきた」という 自身の考えに対してであって、彼がエストラゴンの存在にようやく気付くのはその直後なのだし、エストラゴンが諦めの言葉を発したのも、 どうやら脱げない靴への苛立ちだけではなさそうなのだ。高橋康也の「乱反射的な読み」による訳注によれば、「どうにもならん」という仏語は 「演ずべきことは何もない」という<演劇の死>の宣告にも読めるという。
もちろんこれは、現代演劇の最高傑作として名高い、ノーベル文学賞作家ベケットによる<不条理劇>なのだから、この程度のことでめげていて は先に進めないのだ。
エストラゴン もう来てもいいはずだからな。
ヴラジーミル しかし、確かに来ると言ったわけじゃない。
エストラゴン じゃあ、来なかったら?
ヴラジーミル あした、もう一度来てみるさ。
エストラゴン それから、あさってもな。
ヴラジーミル そりゃあ・・・そうさ。
エストラゴン その調子でずっと。
約束した一本の木(喬木だったか、灌木だったか。)の前で、土曜(って言ったと思う。ところで、きょうは土曜かね?)に来るはずのゴドーが 現れるのを待ちながら、二人の<暇つぶし>にも似た意味のない会話がひたすら続いていくだけで、ゴドーはいっこうに現れないし、目新しい 事態は何もおこりそうもないと思った、その時、
ポッツォ (舞台袖で)もっと速く!(鞭の音。ポッツォ、現われる。二人は舞台を横切って行く。ラッキーは、ヴラジーミルと エストラゴンの前を通りすぎて、舞台袖へはいる。だが、ポッツォは、二人を見つけると、立ち止まる。綱がピンと張る。それをポッツォは 荒々しく引く)
召使のラッキーが、首にかけた綱で暴君ポッツォを導いて登場し、いよいよ何かが始まるのかと期待を持たせるが、もっと不毛な会話が続いて いくばかりなのである。
二人はいったい何を待っていたのか?ゴドーとはいったい誰なのか?これまで、そこには観る人ごとの議論があり、無数の解釈が生まれてきた、 それはそれとして。「来る見込みのない人」を「待っているふり」をしながら「時間をつぶす」ことの、「暇と退屈」が含み持つ一抹の不安感と 否定しようのない至福の快感。
ヴラジーミル おかげで時間がたった。
エストラゴン そうでなくったってたつさ、時間は。
ヴラジーミル ああ、だが、もっとゆっくりな。
それが、この「舞台劇」の最大の魅力の一つなのかもしれない。
エストラゴン 今度は何をするかな?
ヴラジーミル わからない。
エストラゴン もう行こう。
ヴラジーミル だめだよ。
エストラゴン なぜさ?
ヴラジーミル ゴドーを待つんだ。
エストラゴン ああ、そうか。
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