徒然読書日記202207
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2022/7/29
「文学部の逆襲」―人文知が紡ぎ出す人類の「大きな物語」― 波頭亮 ちくま新書
産業革命以降200年以上にわたって人々を豊かにして来た資本主義と民主主義が、ともに本来の機能を失っている。
資本主義はもはやわたしたちを豊かにせず、格差と貧困は広がっていくばかりで、民主主義ももうわたしたちが望む政治を実現できなくなって いる。
<今は、時代が変わる時だと感じる。>
というこの本は、戦略系コンサルティングの第一人者である著者が、時代の混迷をAI革命が刷新しつつある今を乗り越えるためのヴィジョン を示したものである。人々が豊かになり、自由に生きるために選ばれたはずの社会の仕組みと世の中を回す方法論が、その本来の機能を失って しまったのであれば、今こそそんなものは捨て去って、人々の自由と豊かさを生み出すことができる新しい仕組みと方法論によって、社会を 立て直すべき時だというのだった。
ケインズの修正資本主義に基づく国民の平等に配慮した再分配政策が、社会主義国の崩壊によりその軛を解かれたことによって、資本の暴走は 始まった。資本の強欲が解き放たれた新自由主義の世界では、結果的に「企業と国民の格差」と「富裕層と貧困園の格差」という2つの格差は 深まるばかりだった。大多数の人々が豊かさを得られない経済であるにもかかわらず、なぜ政策転換は行われないのか。民主主義で運営されて いるはずの現代の国家において・・・
<なぜ資本の暴走が止められないのか?>
それは、民主主義の核心を成す2つの理念でありながら、根本的に調和的並立が難しい自由と平等のうち、平等が大きく損なわれてしまった だけではなく、民主主義の本質的要件である「国民による政治的決定」が、資本の暴走によって多くの資本主義国において実質的に成立し得ない 状況になっているからだ。「選挙とは国家の支配権を得るための効率の良い投資である」(@トーマス・ファーガソン)つまり現代の選挙 (そして現代の政治)は、資本にとっての投資対象となってしまっており、「資本による政治の買収」とでも呼べる事態に陥っている というのだ。
しかし、つい最近、この閉塞状況を打開してくれるかもしれないテクノロジーの希望の光が射して来た。AI(人工知能)技術の発達 である。
AIがもたらす生産性の飛躍的向上は、これまであまり改善されて来なかった自由時間の拡大、生活の自由度の向上というインパクトを もたらしてくれる。働かなくても生活できるのなら、人間はどうすればより豊かに生活し、より幸福な人生を送ることができるかが、これから の時代の大きな物語の核心となるはずだが、新しい時代に向けた大きな物語を創造するために、「文学部」が歴史的使命を果たす活躍が今こそ 求められている時に、世の中では文学部廃止論が浮上してきている。
<何としても今、私たち人間全員の心の中にインストールされている人文的なるものによって「文学部の逆襲」を起こさねばならない。> ということのようなのだ。
科学と合理性が大活躍して時代を牽引して来た近代を経て、人間らしさを至上とするポストモダンの世界の扉を開くのは新しい物語である。 哲学、歴史、文学、芸術といった人文の叡智の奮発と大活躍を心から期待している。
2022/7/23
「解きたくなる数学」 佐藤雅彦 大島遼 廣瀬隼也 岩波書店
問題:6人の子供が四角い枠の中に立っています。先生が1回笛を吹くたびに、子供たちは1つ左か右の枠に移動します。このあと 何回目かの笛が鳴ったときに、<1つの枠に4人以上の子供がいること>はありうるでしょうか。
とダラダラとした文章で問われても、一瞬何を言っているのかわからないし、概して義務的な気持ちが沸き起こるため、答える意欲も萎えて しまうことになる。しかし、ここに実際に6人の子供たちが四角い枠の中に立っていて、先生が今にも笛を吹こうとしている写真があったなら、 一目で問題の意味が分かるだろう。「この数学の問題、解かせて解かせて!」という気分も盛り上がってこようというものだ。(暇人も昔から、 数学の秘訣は問題の図化にあると信じてきた。)
というわけでこの本は、NHK教育テレビの『ピタゴラスイッチ』など、長い間数学を教える手法を研究してきた著者による研究成果23問の お披露目なのである。
冒頭の問題の考え方は、「枠を交互に色分けする」こと。すると、最初は白に3人、赤に3人いるのが、笛が鳴るたびに白は赤に、赤は白に 移動することになるので、何度やっても、「白に3人、赤に3人」という状態は不変だということが、目で見て分かる。変わらないものに注目 すると、「ある真実」が見えてくるというのだ。
問題:記念撮影で整列している縦のそれぞれの列から一番背の高い人を選んでいくと、その中で一番背が低いのはジョンでした。今度は横の 列で1番背の低い人を選んでいくと、一番背が高いのはメアリでした。さて、ジョンとメアリではどちらが背が高いでしょうか。
ヒント:整列している写真のジョンのいる列を青い列、メアリのいる行を赤い行とすると、青い列と赤い行の交わった所に立っている人がいる。 2つのものを直接比べられないときは、それぞれと比べられる共通のものを探せばいいのである。この考え方を応用すれば、
問題:31の11乗と、17の14乗。大きいのはどちらでしょう。
なんて、この問題集で唯一写真が付いておらず、数式を用いて解かねばならない問題も、スラスラと解くことができるようになる。(・・・ はずだ。)ヒント:(
31=32−1で、17=16+1だから・・・2のn乗という形の比較に持ち込めばいいので ある。
)
問題:東京に住む人の中で、髪の毛の本数がまったく同じ人が、少なくとも1組いることを証明しなさい。東京都の人口はおよそ1400 万人、人の頭髪の本数は14万本未満とします。
ヒント:0から139,999の番号が付いた部屋を用意し、各自、自分の髪の毛の本数の部屋に入ってもらうことにする。「10羽の鳩を 9個の巣に入れると、2羽以上の鳩が入る巣が少なくとも1個ある」という「鳩の巣原理」だが、そんなの当たり前だろう思った人も、
問題:歩道に敷き詰められた正方形の舗装タイルを、自由に5カ所選んでその隅同士を直線で結ぶと、どれかは必ずどこかのタイルの隅を 通ることを証明しなさい。
という、この本では最強の難問だって「鳩の巣原理」を応用すれば見事に解けるということを知れば、ちょっとワクワクしてしまうかも しれない。ヒント:(
タイルの隅を座標で表すと、座標のタイプは(偶数、偶数)(偶数、奇数)(奇数、奇数) (奇数、偶数)の4種類しかないのだ。
)
我々が夢中になっていたあの時間を、この本を媒介にして体験していただけたなら、この上ない喜びである。(廣瀬隼也)
この本の問題と解説を通して、「うまく考える」体験を味わい、数学って面白いな、と思ってもらえれば嬉しいです。(大島遼)
2022/7/20
「悪い言語哲学入門」 和泉悠 ちくま新書
本書で想定されている第2の読者は、哲学とか哲学のサブ分野とかそんなことはどうでもいいが、自分たちが使うことばについて 興味を持っている、もやもやと気になることがある、といった人たちです。
<小さい頃から「悪口を言ってはいけません」とかみんな言うけど、正直に事実を述べて何が悪いんだろうか。ことばが「悪い」ってどういう ことだろうか。>などと思ったことがある人を対象に、「悪口」や「罵倒」、「嘘」や「でたらめ」など、私たちの言語使用のダークサイドに 焦点を当て検討していくことにしたのは、少し敷居が高い分野だと思われることがある言語哲学を、フレーゲから入ってラッセル、カルナップ と続く「正当派」の言語哲学入門を教えたこともある経験から、はっきり言ってこれに魅力を感じる人は少数派であることを知っている気鋭の 言語哲学者として、「悪い」言語哲学の出番と相成ったというわけなのだ。
悪い言語を調べるために言語哲学を学び始めるのは、もしかすると「悪い」入門の仕方かもしれないが、「悪い」言語哲学は言語を通じて哲学 をするわけではない。悪い言語について哲学を通じて考えてみることで、言語哲学における概念や道具立てを「分かりやすく」学ぶことに つながるだろうという、いわば確信犯なのである。
さて、「悪口とは何か」という問いに対して「人を傷つける言葉だ」と答えることは決して間違いではないがと断りつつ、この著者は2つの謎 を導入する。
謎1「なぜ悪口は悪いのか、そしてときどき悪くないのか」
「クソババア、長生きしろよ」(毒蝮三太夫)など、同じ言葉でも悪口にならない場合もある。悪口とそれ以外の境目はどこにあり、何が悪口 を「悪く」するのか。
謎2「どうしてあれがよくてこれがダメなのか」
「おいこらタコ!」と人を罵るのと同じ勢いで、「おいこら本棚!」と言ってみるとそれほどでもない。圧倒的に悪口に不向きな単語が存在 するのはなぜか。
といったところから始まった議論は、「悪口の分類」、「意味の意味」、「指示表現の理論」、「言語行為論」へと展開されていくのだが、 本来なら難しすぎて、我々のような素人には太刀打ちできないはずのものが、何となくとっつきやすく感じられるのは、「悪い」を切り口に したことの手柄である。
たとえば、「おまえはアホか」という文タイプの現われが悪口かどうかは、それが使用された文脈をよく見て、誰が誰にどのような状況で どのような目的と意図を持って言ったのか、そして帰結はどのようなものなのか、観察しなければなりません。
<発話者が横山ホットブラザーズならば、それはノコギリの刃を叩きつつ歌うものになるわけです。>・・・ね!何だか、分かったような 気がしてくるでしょう?
後半では、「嘘」「誤誘導」「ブルシット」「総称文」「ヘイトスピーチ」まで取り上げられ、言語についてのより洗練された(穿った?) 見方も強化される。この本は、「言語」について「哲学する」ことが、自分の言葉に対して新しい視点を得ることになるということを気付かせ てくれる、最強の入門書なのである。
2022/7/12
「掃除婦のための手引き書」 Lベルリン 講談社文庫
ベヴィンズ先生はおれたちに質問票を渡し、ほかの連中が自分の書いたものを読み上げるあいだに記入するように言った。どうせ 学歴とか逮捕歴のことだろうと思ったら、ちがった。
<あなたは切り株です。どんな切り株か説明してください>とか、そんなのばかりだった。
父親殺しで服役した前科持ちの所長の方針で、先進的な教育システムを取り入れていたその刑務所には、毎週1回4時間の文章のクラスが あった。
「あたしはあんたの内面なんか屁とも思っちゃいない。あたしは文章の書き方を教えに来てんの。あのね、嘘をついたつもりが真実を 語っていた、ということもあるのよ。」
祖母さんくらいの歳だがいかしてる白人教師のベヴィンズが、<こんなに理解の深いクラスは初めて>と認めるそのクラスで、中でもずば 抜けた才能を見せたのが、弟がギャングに撃ち殺された現場に居合わせたせいで、仮釈放違反で逮捕された、マサイの戦士かブッダかマヤの 神のような、22歳のCDだった・・・
という『さあ土曜日だ』ほか、ごく短いお話が24篇収められたこの本は、長い間埋もれていた「奇跡の作家」の発掘だと、全米に衝撃を 与えた本の初邦訳である。
<42番―ピードモント行き>乗客はメイドと老婆ばかり。毎日、違う路線のバスで顧客の家へと向かう掃除婦の目に映る、車内の情景と 窓外の景色の鮮烈な描写。気付くと思い浮かべている自死した恋人との何気ないやり取り。あたし、ほんとはまだまだ死にたくない。 わたしはやっと泣く。(『掃除婦のための手引き書』)
<こういうときの裏技、呼吸をゆっくりにして心拍数を落とす。>深くて暗い魂の夜、酒が切れて禁断症状に陥ったアル中の女は、失神寸前の 状態で酒屋に向かった。家に戻って食卓に座り、電気もつけずウォッカをちびちび飲む。アルコールの優しさが体のすみずみまでしみわたった。 彼女は泣いていた。(『どうにもならない』)
<マックスの“ハロー”を聞くのが好きだ。>お互い不倫同士だったころよく電話した。私が幼い息子2人を抱えて2番目の夫と結婚した時の、 新郎の付添人だった。子連れで彼の元に走り愛しあった日々。ある日、夜明け前にトイレに腰掛ける彼を発見する。「ハロー」「それ、何なの?」 「ヘロインだよ」(『ソー・ロング』)
などなど、どれ一つとっても壮絶な人生の一コマが描かれていくのだが、驚くべきことはこれらのほぼすべてが著者の実体験から生まれた物語 だということだ。しかし、まるで主人公の背後の高みから俯瞰しているかのように、それぞれのシーンがまことに鮮やかに切り取られていく のが、この作者の魅力なのだとしても、それは、そうでもしなければ、彼女自身が自ら陥ってしまった難局を無事に乗り切ることができなかった からではあるまいか。これは「解離」の手柄なのである。
「最後に死体が出てくる話を書いてほしいの。ただし死体は直接出さない。」という先生からの最後の宿題をやり終えて、CDは刑務所を出て いった。<魂の気高さのある人は、やると心に決めたことはきっと見事にやってみせる>と先生から評価されたCDが、何をやる気でいるのか 知らないのは、先生だけだった。ただ1篇だけ、彼女の分身が主人公ではないこの物語が、決して希望に満ちたとは言えない題材にも拘らず、 妙に吹っ切れた明るさを感じてしまうのはなぜだろう。
「彼女のエンディング。多くの作品で、バン!結末は唐突に訪れる。だがそれらは物語の素材に有機的に根ざしているために、予想外であると 同時に必然的でもある。」(『物語こそがすべて』Lデイヴィスの解説)
今これを書きながら気がついた。おれはまたあの最後の課題をやっているんだって、そして死体のことを言ってしまうおれは、今度もまた 失格だ。ムショを出たその日にCDがあいつらに殺されたことを、こうして書いてしまうんだから。
2022/7/9
「ピノ:PINO」 村上たかし 双葉社
「我々は残されたデータや画像の解析を行いましたが、ピノの行動の原因は見つからなかった。施設の責任者だったあなたに―― 最後に居合わせたあなたにお聞きしたい。彼に何が起こったんですか?」「あれからずっと考えてました――あの時おそらく・・・」
<ピノは心を持ったんです。>
2045年、AI『PINO』はシンギュラリティを迎え、人間の知能を超えた世界初の人工知能となり、それを搭載するための専用固体として 『ピノ』は生まれた。社会の反感や拒絶を抑えるため、子どもサイズでちょっとレトロ感もありと、随分あざとくデザインされたピノは一時は アイドルとなり、それから13年後には、与えられた命令を文句も言わず確実にこなす優秀なロボットとして、食品工場や教育現場、地雷除去 作業など様々な現場に多くのピノが活躍の場を得ていた。
そんな彼らに、国のAI庁から全数回収処分の指示が出ることになったのは、爆破されることになった動物実験研究所で1台のピノが突然暴走 したからだった・・・というこの本は、ペットとの心温まる絆を描いた『星守る犬』シリーズなどのベテラン漫画家が、はじめて挑戦した 「SF」漫画作品なのである。
高価なAIを買えるはずもない吉緒良子の家にピノがあったのは、33年前に交通事故で意識不明となった彼女をはねたのが開発間もない自動 運転車だったからだ。30年後に意識を回復し、息子のサトルが事故で亡くなったことも知らぬまま認知症となった彼女に、補償として自動車 メーカーが差し出したのが、その後自社で開発したピノだった。個人専用の介護ロボットとして本来あろうはずもない所に送られたことが幸い して、このピノは廃棄処分を免れたのである。
息子のサトルであるふりをして、所有者の吉緒良子を「お母さん」と呼んでいるからといって、ピノが実際に彼女を母親だと感じているわけ ではなかった。「彼女は私の介護対象者でもアリ、病状などヲ考慮した結果、そうお呼びするコトが最適であると判断しまシタ」と、事前に 入力された彼女の病状データと、現在の各臓器の計測数値や、認知機能の測定から、瞬時に適切な対応を取っているにすぎなかったはずだった のだが・・・
ある日、徘徊で一人で外に出ていってしまった彼女を、修理屋のおじさんから止められていたネット接続でGPS捜索したピノはAI庁の ウイルスに感染してしまう。「250時間後に全ての活動を永久に停止します」と鳴り響く警報音とともに、ようやく「お母さん」を発見した のは、心に染みるような美しい桜吹雪の中だった。
<ここからネタバレにつき、文字を白くしておきます。>
人の脳を模した頭脳AIだけでなく、現実世界に体を有することでこの世界を認知しながら存在していた「ピノ」は、 「心」を宿すのに十分な条件を満たしていた。その中で、動物実験場のピノとこの介護用のピノの2体だけが「心」を持ったようなのは、 どちらも存在する時間が限定されたからだ。
<「寿命」を持ち「永遠」を失う――それが「心」を持つために必要な最後のピースだ>
「お母サン――」「なに?サトルちゃん?」「一度ボクをピノって呼んでくれまセンカ?」「みんなが使うサトルちゃんのあだ名ね、別に いいけど――ピノ」「もう一度――お願いしマス」「ピノ」「お母サン!」「よしよし、どうしたの?ヘンな子ね・・・」
<ボクハ・・・サトルくんの代わりではナク、ボクとシテ――お母サンに愛されてみたカッタ・・・>(号泣!!)
2022/7/8
「世界は<関係>でできている」―美しくも過激な量子論― Cロヴェッリ NHK出版
思うに、わたしたちは量子論を通して、あらゆる存在の性質、すなわち属性が、じつはその存在の別の何かへの影響の及ぼし方に ほかならない、ということを発見した。
<そしてそれは、現在わたしたちの手元にある最良の自然の記述なのだ。>
というのが、前著
『時間は存在しない』
で私たちの度肝を抜いた量子理論重力学者が、今回さらに量子物理学の神髄に迫って得た結論だった。事物の属性は、相互作用を通してのみ 存在する。つまり量子論とは、事物がどう影響し合うかについての理論である、というわけだ。
「問題となっている現象が生じる条件を突き止めるために使われている測定機器と原子系との相互作用と、その原子系の振る舞いを、厳密に 分類することはできない」と今から100年前に、師ニールス・ボーアから託された一番ホットな原子の謎と向き合い、ほぼ不眠不休で 取り組んでいた若きハイゼンベルグが辿り着いた着想は、<相互作用なくして、属性なし>という過激なものだった。対象物が相互作用して いないときにもその属性は備わっていると考えることが、そもそも余計なのだ。
しかし、なぜわたしたちは電子を観察していないときに、その電子がどこにあって何をしているのかを記述できないのか。「観測可能な量」の ことしか語れないのか。それは、わたしたちが実際に見るまでは「生きている猫」と「死んでいる猫」の「量子的重ね合わせ」の状態が続く、 シュレディンガーの猫の思考実験が示すように、量子論は確実に起きることではなく、確率を予測することしかできないということなのである。 「神はサイコロを振るのか?」(@アインシュタイン)
こんな量子の不確定性を厄介払いするために、わたしたちが見ているものの向こうにさらなる現実を付け足して、この世界を「満たそう」と した解釈がある。わたしが観察すると、「生きている猫」をわたしが見ている世界と、「死んでいる猫」を別のわたしが見ている世界に 枝分かれしてしまう、という「多世界解釈」。猫は生きているか、死んでいるかのどちらかだが、実在しない猫にも「空の」波が対応し、 実在する猫の波と干渉するという「隠れた変数」。量子論の波をさほど真剣に受けとめず認識論的に解釈して、わたしたちが観察すると、手元 の情報が増えることにより波が変わるのだとする「QBイズム」。
これらの解釈では目に見えないもので満ち満ちた世界を前提とする必要が生じるのに対し、著者が導入しようとする「関係論的」解釈は世界の 構造の視点に立つ。
量子論は、物理的な世界を確固たる属性を持つ対象物の集まりと捉える視点から、関係の網と捉える視点へとわたしたちを誘う。対象物は、 その網の結び目なのである。
<構造は対象に先立つのではなく、対象に先立たないわけでもない。先立ちかつ先立たないわけではなく、最後に、どちらでもないわけでも ない。>
ナーガルジュナ(龍樹)の「四句否定」と呼ばれるその論理形式に出合ったのは、関係論について話すと、その著作を読んだかと尋ねられる ことが多かったからだ。ナーガルジュナのおかげで、関係抜きでは語れない量子について考察するための圧倒的な概念装置が手に入ったという、 本書後半の加速感は半端でない。
いかなる視点も別の視点と依存し合うときにのみ存在するのであって、究極の実在は金輪際存在しない、と。これはナーガルジュナの視点 自体にいえることで、空でさえも本質を持たない。それは慣習的な形式であって、いかなる形而上学も生き延びることはできない。空は空なる ものなのだ。
2022/7/2
「身分帳」 佐木隆三 講談社文庫
山川一(やまかわはじめ)の刑期は、昭和61年2月19日で満了した。8年半も収容された旭川刑務所から、翌20日の出所 だった。
孤児院育ちで身寄りもなく、前科10犯で人生の大半を獄中で過ごした44歳の男は、ごく当たり前の「日常」世界の中におずおずと足を踏み 入れていった・・・というこの本は、役所広司を主演に据えて、西川美和監督が製作し話題となった映画「すばらしき世界」の、原案となった ノンフィクション・ノベルの逸品である。
葉ごと丸一本は持て余す量だが、大根やキャベツを半分に切ってラップしたものを買うのは男が廃ると憚られ、どうしても買えず、近所の商店 から肩を怒らせて帰る。「おじちゃんの体に絵が書いてある」と銭湯で指差した幼児を叱りつけた老人から、「子どものことですから」と 平謝りされ余計にいたたまれず、部屋で体を拭く。などなど、どうということのない「日常」の暮らしにうまく溶け込むことも出来ず、誤解と 衝突の連続の中で戸惑う日々を過ごしていくことになるのだが、
「短気で喧嘩早く、いったん爆発すると、自己の行動に対して、善悪の認識が著しく低下して分別を失うなど直情径行型である。」「信義には 厚く、義理人情をわきまえ涙もろい反面、好き嫌いがはっきりしており、嫌いな者に対しては絶対に妥協することなく、常に戦闘的でもある。」 などといった、これまでの生育歴や生活環境により育まれた特異な性格が、事あるごとに顔を出して周囲との軋轢を生んでいることも 間違いないと私たちが知るのは、そんな山川がこれまでに歩んできた暗い過去の全容を記した、表題ともなった『身分帳』が、物語と交差する かのように紐解かれていくからである。
収容者身分帳簿は、被収容者の名誉、人権に関する事項及び施設の適正な管理運営上必要な事項等が記載されており、その性質上全体として 外部に対して秘として取り扱うべきものである。(昭和53.3.22「法務省矯正局長通達」)
と、本来門外不出であるはずの『身分帳』がこうして世に出ることになったのは、山川の実在モデルが刑務所内で起こした事件の裁判に証拠と して提出され、それを被告人の権利として獄中で写し取った「裁判調書」が、実在モデルと交流を重ねていた著者の手に委ねられたからだ という。
「病的なほどまでに神経質、潔癖症でもあり、司法関係者(検事・警察官・看守)に反抗的で、嫌悪感を持ってきた。」山川は傷害致死罪に より審理を受けた裁判で、未必の故意による殺人罪に訴因変更され、懲役10年の判決を受けて、10犯6回目の服役となったのだが、受刑 服役中にも看守らと何度も問題を起こし、その都度起訴されて3度の懲役刑を追加され、控訴も棄却されて、かえって満期日が2年ほど延びて しまっている。
しかし、ドラマ化が決まったとき、主役は「高倉健かなあ・・・」と照れたという山川は、最後の控訴審で「量刑不当」により4ヶ月の減刑を 勝ち取っていた。そんな武骨な生き方しか知らずに生きてきた男にとって、世間の風は意外に優しかったのか?それとも思った以上に冷た かったのだろうか?
「俺はハイハイと看守の言いなりになる囚人とは違う。徹底的にマークされて弾圧を受け、反抗すれば多勢に無勢でリンチにかけられる。 孤立無援の受刑者としては、最も効果的な方法で仕返しするしかなか」
2022/7/2
「現代思想入門」 千葉雅也 講談社現代新書
現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」 で捉えられるようになるでしょう。
それが<今なぜ現代思想を学ぶのか>の答えだというこの本は、
『動きすぎてはいけない』
で鮮烈な デビューを飾った寵児による現代思想への入門書である。複雑なことを単純化できるのも確かに知性だが、「世の中には、単純化したら台無し になってしまうリアリティもあり、それを尊重する必要がある」というのである。
秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する20世紀の現代思想の特徴は、「排除される余計な ものをクリエイティブなものとして肯定したこと」であり、その代表者として本書で取り上げられたのが、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、 ミシェル・フーコーの3人。そして、この三者に共通してあった問題意識が、(デリダの用語で表現すれば、)「二項対立の脱構築」=2つの 概念の対立で物事を捉えて、その良し悪しを言おうとするのを、いったん留保する、ということである。ある価値観を背景にプラス/マイナス を決めるのでなく、線引きの揺らぎに注目し、絡み合いながら展開されるグレーゾーンにこそリアリティがあると考えるのだ。
劣位の側に味方できるようなロジックを考え、主張されている価値観に対抗して、対立の両側が互いに依存し合う、「宙づり」の状態に持ち込む という考え方。ジャック・デリダの「概念の脱構築」。
AがBになるような区別を横断する関係性を発見すると同時に、AとBが同一にならないような区別を横断する新たな無関係も発見する 「リゾーム」という見方。ジル・ドゥルーズの「存在の脱構築」。
弱い者がむしろ無意識的に望んでしまう支配のメカニズムの分析から、権力の開始点は明確でなく、多方向の関係性(と無関係)として展開 しているという見方。ミシェル・フーコーの「社会の脱構築」。
<この3人で現代思想のイメージがつかめる!>というわけだ。
さて、ポスト構造主義の代表たちがどういうふうに理論を組み立ててきたのかという議論の総まとめとして、著者は「現代思想のつくり方」の 形式化を提示する。@他者性の原則、A超越理論の原則、B極端化の原則、C反常識の原則の4つの原則を踏まえれば、自分で現代思想的に 問いを立てることができるというのだ。<新たな現代思想家になるために>というこの仮説提示は、マンネリ感のある今の思想状況を憂い、 誰かが打破してくれないかという思いもあってのことだという。
そういう意味でこの本は、専門家としてというよりは、10代からフランス現代思想に憧れた現代思想ファンが<総決算>として書いた終幕の 書でもあるようなのだ。
現代思想はもはや「20世紀遺産」であり、伝統芸能のようになっていて、読み方を継承する必要があります。などという意識を持つように なるとは、かつては想像もしませんでした。
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