徒然読書日記202206
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2022/6/24
「日米中枢9人の3.11」―核溶融7日間の残像― 太田昌克 かもがわ出版
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から10年を迎える2021年の春先、私はあの危機を制御する国策のど真ん中にいた 当事者たちの言葉を紡ぐ作業を開始しました。
<証言者それぞれの五感にあの体験と記憶が、まだそこにある現実として残存している間に。>
というこの本は、共同通信社の論説委員として取材し、加盟新聞社へ配信したインタビュー連載企画、「核溶融の残像」計41回分を収録した ものである。
「たとえ作業員を危険にさらすことになったとしても、事故現場の人員増強に努めなければならないと日本側に伝えるべきだ。」
とホワイトハウスに勧告したグレゴリー・ヤツコ米原子力規制委員会(NRC)委員長が、“核を扱う者の覚悟”を説いたのは、15日未明に 冷却装置が作動しなくなった2号機が制御不能となり、東電が作業員を引き揚げさせているという恐るべき事態を耳にして、強い衝撃を覚えた からだ。<日本の事故対処能力に対する米国の信頼はこの時に失われたのである。>
「説明を聞いて私は日本側にこう伝えた。ヘリからの放水は非効率でパイロットが不必要に被曝する恐れがある、と。」
NRC派遣チームのトップとして来日し、その後11カ月間滞在して、日本政府や東電に専門的な助言を行ったチャールズ・カストーは、 自衛隊が使用済み核燃料プールへ空中から海水を投下する「放水作戦」を実施する予定と説明を受けて、手厳しい技術的評価を下したが、 それまでなすすべもないように見えた状況がこの作戦で打ち破られ、日本の人たちに自信を与えたという意味で、その心理的・政治的効果には 別の見方をしていた。
「これは大変危険なミッションだった。『ヘリに搭乗した隊員がもう戻ってこないかもしれない』、あの時はそんな悲壮な覚悟で彼らを送り 出した。」
と語る廣中雅之・統合幕僚幹部運用部長の覚悟など知る由もない当時の暇人は、まるで「悪い冗談」を見るかのようにTVに映し出されたあの ショーを見ていたのだ。しかし、この日を皮切りにして、<日米両国間の意思疎通も徐々に改善していった。>ということのようなのである。
「視察の話を聞いた時、僕の第一印象は否定的だった。福山官房副長官や枝野官房長官にも相談したが、同じだった。現場が大変なことは 分かり切っていたから。」
「イラ菅」総理の緩衝役と呼ばれ、若干33歳で首相補佐官に就任した寺田守は、未曽有の試練にさらされた権力機構のど真ん中で汗と涙を 流すことになった。政権中枢では唯一の理系出身として、原発リスクのリアリティーを実感していた菅総理が「現場を見たい」と言うのは わかるとしても、随行するのは恐怖だったのだ。
高度な専門性が伴う科学政策に関する決定を下す政治家には、その要点をかみ砕いて解説する科学顧問が不可欠だ。言ってみれば、文系 出身が多い政治指導者のために、理系の専門知を分かりやす“通訳”できるプロが必要なのだ。
経産省原子力安全保安院から首相官邸に呼び出された安井正也は、やがて東電本店に常駐して日米両政府による支援体制の要石となり、 “救世主”と呼ばれた。もしあの時、総理が設置した事故対策統合本部から政権幹部と共に東電本店に乗り込んだ安井が、原子炉の大量データ という宝の山を目にしていなかったなら・・・<歴史に「イフ」はないが、その後の事故対応と事象の展開は変わっていたかもしれない。>
2022/6/20
「戦国武将、虚像と実像」 呉座勇一 角川新書
世間一般の人が抱く「日本の歴史とはこういうものだ」という認識、つまり「大衆的歴史観」は、専ら歴史小説や時代劇といった娯楽 作品を通じて形成されてきた。
我々が抱いている信長像や秀吉像が意外と最近、たとえば司馬遼太郎が作ったイメージに左右されている、ということも結構あると思えば、 逆に、従来の評価を逆転させた斬新な人物像と思われているものの原型が、実は一世紀も前に提示され忘れ去られてしまったものの焼き直し にすぎないこともある。
<そこで本書では、信長像や秀吉像が時代によってどう変遷したかということと、実際はどういう人だったのかということを述べたい。>
というのが、あの
『応仁の乱』
で ブレークして以来、
『陰謀の日本中世史』
などの意欲作を次々に上梓している日本中世史学者が今回挑むことにしたテーマなのである。というわけで・・・
怨恨説を採用した『国盗り物語』により世間に広く浸透した、保守的な常識人という明智光秀のイメージは、信長との性格の不一致も含め 一つの「司馬史観」である。「美濃のマムシ」こと斎藤道三の革新者としてのイメージも、油売りという出自伝承を活かして信長の師匠に 設定した、司馬の作劇上の都合である。
戦後、天皇の権威に挑戦する革命児へと転換した信長の評価だが、勤王家としての姿勢は一貫しており、軍事についても経済政策についても 革新者とは言い難い。「人たらし」としての秀吉のエピソードの殆どは後世の創作であり、叩き上げの人間が弱者に冷淡であることは珍しく なく、むしろ人望が薄かった可能性すらある。
石田三成が讒言によって人を陥れたというのも後世の創作であり、晩年悪政が目立った秀吉に諫言する場面もあり、奸臣か忠臣かのイメージは 今後更新されよう。真田信繁(幸村)が奇想天外な計略を用いて軍功を立てたというのも後世の創作であり、大阪冬の陣における幸村は現場 指揮官の一人にすぎなかった。
内堀埋立など大阪城の無力化を要求した家康は、豊臣が臣従を誓えばあえて滅ぼす気はなかったが、手打ちに反対する牢人衆の暴発は予期して いた「狸親父」だった。などなど、
歴史上の偉人の人物像が時代によって驚くほど変遷するのは、歴史的事実が解明されたからではなく、人物評価の尺度が変わったことによる ことが示される。<時代と共に移り変わる戦国武将の人物像には、それぞれの時代の価値観が反映されている。>というのである。
井沢元彦『逆説の日本史』や、百田尚樹『日本国紀』などのファクトチェックを行い、勉強不足、事実誤認、解釈の誤りを指摘することは、 歴史学者ならたやすいが、その歴史観には司馬遼太郎、徳富蘇峰などの淵源があり、そこまで遡行して考察しなければ、「俗流歴史本」の 批判は薄っぺらな揚げ足取りに終わってしまうだろう。だから、<大事なことは、自身の先入観や偏りを自覚することである。> というのだった。
こうした「大衆的歴史観」の歴史的変遷という長い射程の中で、現下の「俗流歴史本」を捉えようという問題意識が、本書執筆の前提 にある。
2022/6/5
「世界一わかりやすいフロイト教授の精神分析の本」 鈴木晶 三笠書房
読者のみなさん、はじめまして。私の名はジクムント・フロイト。おお、私の名をご存知でしたか。何なに?今はやりの心理テスト のセンセイですと?・・・眩暈を覚えますな。
とフロイト教授になりすまして、戸惑う学生たちを前におもむろに講義を始めたのは、精神分析批評を専門として精神分析を独自の視点で研究 している著者が、今の若者にはちょっと難しい名著『精神分析入門』を、「フロイトが生き返って講義をしたら、もっと易しく話してくれる だろう」と着想したからなのだという。
精神分析のことを「深層心理学」とも呼びます。一言で言うと、「無意識」というものを中心に据えて、人間のこころのしくみと働きを 考えていこうというのが「精神分析学」なのです。
本能に従って生きている動物の行動を解明しようとする「動物行動学」に対し、「精神分析学」では「人間とそれ以外の動物は別のものだ」 という立場をとる。二足歩行により急激に脳が大きくなって生まれた「人間」は、「新しい脳」が肥大する過程で人間だけの脳のしくみを 獲得し、「本能が壊れてしまった」というのだ。
<それを埋め合わせるものを人間は自分でつくりました。これこそが人間の「こころ」です。>
フロイトは「無意識」の発見者と呼ばれることになるが、それは彼が出現するまで「無意識」を大きな問題としてクローズアップする者が いなかったからだけである。それまでの西洋の伝統的な考え方は、「我思う、ゆえに我あり」のように、「自分」と「意識」をイコールで結ぶ ものが支配的だった。それを覆し、「私の中には、いま<私である>と思っているこの<私>以外のものがある」と考えることにしたのが、 精神分析の考え方なのである。
<「私の中には、自分でも知らない部分があるのだ」というわけです。>
ー―ですが先生、「無意識」は直接確認することはできないのに、どうして存在していることがわかるのですか?
――「無意識」は間接的に確認することが可能です。「無意識が存在すると考えなければ説明がつかないことがたくさんある」のです。
フロイトは人間のこころが、「意識」「前意識」「無意識」という三段構造になっていると考え、これを図式化して「自我」「超自我」「エス」 と呼んだ。どうしても思い出せなかった名前をふと思い出すなど、一時的に忘れていた記憶は、その間は「無意識」ではなく「前意識」の中に あったと、精神分析では考える。もっと重要なもの、それは最初から最後まで「意識に上ってこないもの」であり、それこそが精神分析で言う ところの「無意識」なのである。そしてその「無意識」の存在は、日常生活における「失敗」や「ドジ」といった身近な例の中に表れ、 「間接的証明」として確認することができるというのだ。
「言い違い」――「無意識の願望」を口にする
「ど忘れ」――「思い出したくない」から「忘れる」
「日常的失敗」――注意すればするほど失敗する
このように自分の素直な気持ちを押さえつけようとするこころの働きは、「抑圧」と呼ばれる精神分析の一つの基本概念となっている。「エス」 をコントロールするにはこれ以外にも、「否認」「投影」「同一化」「取り消し」「反動形成」などの手法があり、「自我」はこうしたたくさん の手法を織り交ぜながら、「エス」からわが身を守っている。<こころの中には力関係がある>ということのようなのである。
2022/6/4
「死の医学」 駒ヶ嶺朋子 インターナショナル新書
先生たちは緊急オペで入ってくれて、飲まず食わず集中して8時間、祈るように俺の回復を信じて手術してくれたんだ。真っ赤な 輸血バッグやら透明の点滴やら、その時、俺にはやたら管がついててさ。
と、まるで「見てきたように語る」のは、5年前の高速事故で肋骨が折れて肺に刺さり大量に出血、という大手術から無事生還したトラック 運転手である。
「信じないと思うけど、実際これ全部見てたんだよ俺。ちょっと高い所からずっと。」
身体から心が分離して飛び回るような実感を伴うことで、普段は漠然としている「魂」や「心」というものを鮮烈に感じることができる、 「幽体離脱」という体験自体はとても奇妙で信じがたいものであるため、耳にすれば強く印象に残るとはいえ、決してありふれた体験とは 言えないのだが、実は今や、「体外離脱体験」は数ある脳機能の中でも、脳のどの部位にその現象を惹き起こす力があるかがはっきりしている 生理現象の一つなのだという。
被験者の背中に触角を刺激する装置を着け、それと同時に被験者の後頭部から背中を撮影し、その映像を被験者に装着させたメガネに 流す。
<ちょっとくすぐるというトリックで感覚を混乱させるだけでも、体外離脱体験は誘発できることが示された。>このVRによる「体外離脱」 を人工的に体験することで、誰しも逃れることのできない死への恐怖を和らげることができた、という報告さえあるというのだが・・・
そんなわけでこの本は、人の生死と向き合う臨床医である著者が、脳神経内科での日常診療で出会う現象を手がかりとして、「物質としての 脳の中で、心はどこに宿るのか。」「アイデンティティ、一貫した自己意識とは何か。」「死後にも続く不滅の魂はあるのか。」など、 死に際までを対象分野とする医学では知りえない「その先」を、「臨死」に関する最新の医学的成果などを駆使することで、読み解こうとした 力作なのである。
解離という現象は、自己同一性を瞬時に切り離し、新たな自己を始めることができる機能である。同時にまったく無痛となり、身体の筋肉が 緊張し硬直する。
小動物の「擬死反射」にも比肩される「解離」は、辛い記憶を切り離してなんとか生き延びるため、一人の個をどんどん細分化させていって しまう。虐待やネグレクト、両親離婚後の揉め事などの不幸な生い立ちは、逆境的小児期体験と呼ばれ、子どもたちの将来に深い影を及ぼす ことになるのだが、進化学的には「擬死」である「解離」は、本来は死に際して作動する高次脳機能が、至高の芸術表現を生み出している 可能性もあるという。
<憑依系演技を筆頭に、俳優の演技も解離を用いた高次脳機能なのではないか。>といったあたりの分析の切れ味はさすがである。著者は、 哲学から医学に進路を変更しながら、2000年に第38回現代詩手帖賞を受賞した現役詩人でもあるのだ。
俳優の菅田将暉氏の演技は何者かが憑依しているかのように見えることがあるし、元欅坂46メンバーで俳優の平手友梨奈氏の パフォーマンスはほとんど神楽と呼んだほうがいいのではないかと震撼するほど神懸っていることがある。
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