徒然読書日記202201
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2022/1/26
「<つながり>の進化生物学」―はじまりは、歌だった。― 岡ノ谷一夫 朝日出版社
コミュニケーションは学問の分野によって、いろんな定義がなされていますが、進化生物学という学問の中では、次のように少し冷徹に 定義されています。「送り手から受け手へ信号の伝達がなされ、受け手の反応によって、長期的には送り手が利益を得るような相互作用」
<どういうときに、僕たちは「コミュニケーションしている」と感じるのでしょう。>
というこの本は、川越高校・女子高の男女8名ずつを生徒に、「コミュ障」を自認する動物行動学者が日頃考えていることを伝えようとした特別 講義の記録なのだが、高校生たちの熱意に引きずられ、1回の講義に本1冊分くらいのネタを惜しげもなく入れてしまったというだけあって、 目から鱗の話題満載の超お得な本なのである。
冒頭の「コミュニケーションとは何か」という定義から始まって、自らが専門とするハダカデバネズミの特徴的な聴覚コミュニケーションの研究 も紹介しながら、鳥や虫など、様々な動物のコミュニケーションとの比較の中で、人間の言語を生物学的に考える上での手がかりを見出そうと した、1日目「鳥も、媚びをうる?」
動物が人間と違って死を嫌だと思わないのはなぜか、という質問から始まって、言葉がわれわれの未来をつくっていることに気付かせることで、 呼吸を制御する脳の回路を持つことが、動物にはない人間の言葉の進化につながったことを示してみせた、2日目「はじまりは、歌だった」 (ちなみに、呼吸制御による発声学習ができるのは、人間とクジラと鳥だけなのだそうで、興味がある方は是非ご自分でお読みください。)
言葉にならない感情に理屈付けをしているのが言葉なのであれば、もっと原始的な感情や意識からできている、言葉で切り分けられる前の「心」 について考えようと、痛みを感じる魚や、恐怖を感じるハチなどの話から、動物の「情動」と人間の「感情」の違いを学んだ、3日目「隠したい のに、伝わってしまうのはなぜ?」(ちなみに、「情動」から自動的に喚起される行動を抑制しようとするところに「感情」が生じてくるのだ そうで、興味がある方は・・・以下同文)
「隣の人に意識があるということを証明できますか」という問いから、他人に心があると仮定して行動したほうがうまく付き合っていけるはず だから、その他者の心がさらに「ミラーニューロン」で照り返されて「自分の心」が生まれたのではないかと結論する、最終日「つながるために、 思考するために」(ちなみに、著者は自分の母親に「どう考えても、あなたはロボットだと思う」と伝え、病院に連れて行ってくれと伝えた のだそうで、興味がある方は・・・)
そんなわけで、研究していてちょっとでも真理に近づけたと思うと、夜中、「これを知っているのは世界で俺だけだ!」と超うれしくなるという 先生が、「後でみんなに教えてあげようって思う。」お裾分けのハッピーな気分に浸れること請け合いの、超お勧め本なのである。
<僕は、人間の心がどう進化してきたのかを知ることで、人間が幸せに存在するための秘密を知ることができるんじゃないかと考えています。>
人間の心は、宇宙全体を飲み込んでしまうような複雑さがあります。人間の心の理解は、宇宙そのものの理解より難しいかもしれません。 みなさんがどんな進路に進むのであれ、みなさんが人間に興味をもって生きてゆく限り、それは人間の心の理解を、ほんの数ミリだけ進める ことにつながるのだと思います。
2022/1/14
「謎ときサリンジャー」―「自殺」したのは誰なのか― 竹内康浩 朴舜起 新潮社
「バナナフィッシュにうってつけの日」というあまりにも有名なJDサリンジャーの作品は、一発の銃声で締めくくられる。・・・ サリンジャーが後に書き継ぐことになる<グラス家のサーガ>の最初の一篇となるこの物語で、男は妻と休暇を楽しんでいたはずだった。まだ 31歳。だがリゾートホテルの一室で、突然、自分の頭を拳銃で撃ち抜いてしまう。
<しかし、それは本当に自殺だったのだろうか・・・。>
というこの本は、『謎とき「ハックルベリー・フィンの冒険」』でマーク・トウェインの犯人的欲望を暴いて、<エドガ―賞>の最終候補と なった「文学探偵」が、その後、自らが主宰する北海道大学の研究室に巻き起こった「誰が○○を殺したか?」ブームに刺激されて取り組むこと になった、新たな挑戦の軌跡である。<グラス家のサーガ>を題材に、「誰がシーモアを殺したか?」と驚愕の問いを立て、弟バディー犯人説を 唱えた共著者の朴舜起は著者の教室の院生なのである。
これも誓って言うけど、ぼくたち[シーモアとバディー]のどちらかがこの世を去るときには、いろいろな理由で、もう片方がそこにいる ことになる。
「バナナフィッシュ」から17年後に、サリンジャーが発表した「ハプワース16、1924年」という中編小説にある<読み飛ばされた予言>。 それは・・・7歳という幼い年齢で未来を予言する能力があるとされたシーモア少年が、自分の寿命に触れ、バディーはそれより長生きすると 断言した両親への手紙だったのだが、24年後に彼が「自殺」した時、部屋にいたのは妻だけだったのだから、さすがの天才少年も間違って しまったのか、というところからこの長い論考はスタートする。
二つの手による拍手の音を私たちは知っている。しかし、一つの手による拍手の音とは何か。
「片手の音」という無音に耳を澄ませば、人は「この迷いの世界」から悟りに至りうると説く、白隠慧鶴禅師の「隻手音声」として知られる公案 に対する作者の答え。シーモア少年が興じるビー玉(glass)遊びでは、二つの「グラス」がぶつかることがなければビー玉の音は聞こえては 来ないように、「グラスがグラスを撃つ」音とはすなわち、シーモア・グラスとバディー・グラスが生み出した、自殺とも他殺とも言える銃声で あったのだろうか。
ここで、20世紀アメリカ文学の金字塔ともいうべき代表作『ライ麦畑でつかまえて』においても、似たような謎があったことが示される。 サリンジャーは残された者について書いていたというより、残された者として書いていた。彼が紡ぎだした作品は残された者の声そのものだった というのである。
結局、シーモアかバディーかどちらが死んだのかよく分からないという曖昧さこそが、サリンジャーにとって極度に正確な生死の表現だったという のが、実に3年近くもの歳月を注ぎ込んで、ようやくたどり着いたという、この「文学探偵」の稠密なロジックに基づく読みだったのである。
<謎と勘違いしてしまった曖昧さこそが答えだったのではないか。>
つまり、男を撃ち抜いた銃声は、いわば拍手の音だった。その音が右手から出たのか左手から出たのか決めようとするのは、端的に言って 無意味である。同様に、あの銃声も生(バディー)と死(シーモア)の区別が無効になる瞬間の音だったに違いない。気付いてみればありきたり だが、やはりサリンジャーは禅なのだ。
2022/1/8
「昭和史 戦後編」 半藤一利 平凡社
語り終わっていま考えることは、幅広く語ったつもりでも、歴史とは政治的な主題に終始するもんだな、ということである。人間いかに 生くべきかを思うことは、文学的な命題である。政治的とは、人間がいかに動かされるか、動かされたかを、考えることであろう。
<戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった。>
日本の敗戦までを「寺子屋方式」で語り尽くして大好評を博した前著
『昭和史』
の、この本は満を持しての戦後編 なのだから、戦後の昭和史は戦前の軛を脱却し、「いかに私たちが自主的に動こうとしてきたか」を物語りたかったのだが、なかなか難しいもんだ ネという述懐である。
この長い物語(500頁超)の前半、半分以上がGHQによる占領期の日本を「奔馬のごとく勢いよく、こまごまと」語ることになってしまった のは、<戦後日本の基本的な骨組みが、その時代に形成された>と、半藤さんが見立てていることによるからだ。たとえば・・・
「天皇は、アメリカが沖縄をはじめ琉球ほかの諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益に なるし日本を守ることにもなる」という、昭和22年9月19日に宮内府御用掛を通してアメリカ連合軍に届けられた昭和天皇の構想の記録が あることについて。
つまり、日本本土はもってのほかだから、アメリカが長期間借りるという形で、沖縄の軍事占領を続けたらどうかと、天皇の方から持ちかけた というのである。あくまで結果的な話だろうが、アメリカ軍はこの「名案」に乗っかり、後にはグアム―沖縄―台湾を結ぶ弧状のラインをアジア 戦略の防衛線とすることに繋がった。「沖縄へは、私はどうしても行かなければならなかった」という昭和天皇のお言葉は、そんな思いをずーっと 抱いていての言葉だったのだなと、納得した。
なんてお話が、憲法改正、東京裁判、朝鮮戦争、講和条約と、まるでその場にいて、見聞きしていたかのような調子で飄々と語り続けられていく ことになるのだ。これに比べれば、その後の高度経済成長から、昭和元禄、祭りの後へと連なる、昭和47年以降の昭和終焉の歴史は、まさに 「脱兎のごとくすっ飛び抜け」ている。
<歴史的と言ってもいい沖縄返還で、戦後日本は完全に終わり、新しい日本の歴史が始まりました。>
バブル経済崩壊後の日本人がやっていることは、幻想的で、独善的で、泥縄的というところがあり、これでは戦前の「ノモンハン」の時代と 変わらないじゃないか。と、政・官・財の全くの無能・無責任を憂いている半藤さんが、横町のご隠居さんなりに指し示して見せた、お節介な 忠言とは、
1.無私になれるか、マジメさを取り戻せるか。
2.小さな箱から出る勇気。
3.大局的な展望能力。
4.世界に通用する知識や情報をもてるか。
「君は功を成せ、われは大事を成す」(吉田松陰)という悠然たる風格。現在の日本に足りないのはそういったものであって、決して軍事力では ないというのだった。
それにしても歴史を語るということはつくづく難しいと思う。結局、わたくしの狭い体験をとおして理解できたものしか話していない。が、 経験したからといって、ものが明確にみえるわけではない。取捨選択して記憶する。それを語ったにすぎないのかもしれない。
半藤一利、令和3年1月12日逝去、合掌。
2022/1/3
「悪童日記」 Aクリストフ ハヤカワepi文庫
おばあちゃんの家は、<小さな町>のいちばん端の家並みから5分ばかり歩いた所にある。おばあちゃんの家より先には埃っぽい道しか なく、その道も、まもなく柵に遮られている。
<僕らは知っている。>
あの柵の向こうには、秘密の軍事基地があり、そしてその基地のあちら側には国境と、もう一つの国があるのだということを・・・
作中では歴史的にも地理的にも特定されていないが、この物語が第二次世界大戦下、ドイツ第三帝国に支配されていたブダペスト近郊を舞台 としているに違いないのは、51歳で初めて小説を、しかも仏語で書いた著者が、ハンガリー生まれの亡命者であるからだ。彼女は明らかに それを意図的にぼやかしたのだろうと訳註にある。
おばあちゃんは、ぼくらのおかあさんの母親だ。おばあちゃんの家で暮らすようになるまで、おかあさんに、さらにおかあさんがいるとは、 知らなかった。
ぼくらはおばあちゃんを、おばあちゃんと呼ぶ。
人びとはおばあちゃんを、<魔女>と呼ぶ。
おばあちゃんはぼくらを、『牝犬の子』と呼ぶ。
戦時下、母に連れられて老婆の家に預けられた美しい双子の少年たちが、過酷な日常の中を恐るべき賢こさで逞しく生き延びていく、衝撃的な 成長の物語。しかし、作文のような日記仕立てで綴られていくこの不可思議な物語を、暇人はまるで「ロールプレイングゲーム」であるかのよう に読み進むことになる。
ぼくらは「痛みに耐える術」を会得した。+2P
ぼくらは町を探索し「武器」を手に入れた。 +5P
ぼくらは乞食のフリをして「金」を稼いだ。 +3P
ぼくらが町で出会うことになる大人たちは、ケチで不潔なおばあちゃんを手始めに、どこかタガが外れてしまったような人物ばかりだ。
少年愛でマゾヒストの外国人の将校。貧者への施しを装いながら性戯を犯す司祭。運命に抗うことを諦めてしまったユダヤ人の靴屋。などなど、 いずれも名前さえ与えられることもなく、「いかにも」な役割を振られて鋳型にはめられた、典型的な人物像の戯画として描かれているよう なのである。
それにしても、この少年たちは何の「ロール」を「プレイ」しているのだろうか?
暇人には<ぼくら>という1人称複数が、自らの母国語を奪われてしまった民族の代表として、選ばれているように思われてならない。
ぼくらには意味の通じないその言語で、おばあちゃんは自問自答する。ときどき笑う。そうかと思うと、怒り、叫ぶ。最後にはほとんど 決まって泣き出す。
奪われた言語を懐かしんで泣くことしかできない大人たちを乗り超えて、新たな言語を貪欲に修得しながら、新たな民族の歴史を作り上げようと する若き世代の物語。やがて、ぼくらの国が開放されて1カ月後、<解放者たち>が、ぼくらの国に居坐り、ぼくらはおばあちゃんに<彼らの 言語>を教えてくれと頼む。
「そんなもの、どうやって教えろって言うんだい?わしは、学校の先生じゃないんだよ」
「簡単なことさ、おばあちゃん。一日じゅう、その言語でぼくらに話してくれれば、それでいいんだ」
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