徒然読書日記202108
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2021/8/30
「アンチクリストの誕生」 Lペルッツ ちくま文庫
靴直しは不意に三人の男が遠くから自分の方に来るのに気づいた。・・・近づくにつれ、三人が揃って金の冠に金の靴を身につけ、 肩に深紅のマントを羽織っているのがわかった。赤ん坊の前で三人は地にひれ伏し、ひとりずつ贈り物を捧げた。それは金でも乳香でも没薬 でもなく、一人目の贈り物は瀝青、二人目は硫黄、三人目はタールだった。
<そこで靴直しは目を覚ました。>
殺人の罪で送られた懲役船を脱走し、放浪の挙句にパレルモの港広場近くに流れ者として住み着いた「靴直し」は、骨を惜しまぬ働き者と 評判の男だった。そんな男がようやく手に入れた伴侶は、司祭の館で働くさして若くも美しくもない家政婦で、かつては神に仕える尼だった という。修道院を逃げ出したのだ。やがて、夫婦に待望の男の赤ちゃんが生まれたクリスマス前夜、自分では解けない奇妙な夢を見て驚いた 靴直しは、聖書に造詣の深い老いた農夫を訪ねる。
「よくお聞き、靴屋さん。あんたが見た三人は、地獄の王たちだ。あんたはアンチクリストの夢を見たんだ」
という表題作『アンチクリストの誕生』をはじめとして、<作者の空想がヴィジョンと呼びたいほど強烈>(@前川道介)なペルッツの魅力が 凝縮された短篇集である。
銃殺を宣告された男が妻子への別れの挨拶のため5日の猶予を貰うという『走れメロス』のような冒険譚が、一転、暗号解読により窮地を 脱する物語へと変貌する。――『主よ、われを憐れみたまえ』
捕虜の傷病兵として、食事の配給以外何もすることのない男に与えられた1部の新聞。2年後に釈放されるまで270回も読んだ男にとって、 それが今や永遠だった。――『1916年10月12日火曜日』
「私は月が怖いのです」と自らの血に受け継いだ病に震える男爵は、先祖代々の年代記を語り出した。望遠鏡を向けると人殺しの月がジグザグ に空を駆け巡り・・・――『月は笑う』
ケレティ博士を撃ち殺したという噂から母国を離れたその男は、ある降霊会の話を始めた。生きていたケレティの霊を呼び出したため、脳卒中 で死んだと言うのだ。――『ボタンを押すだけで』
などなど、時代も場所も異なる設定を背景に、いずれも一筋縄ではいかない奇想天外な物語が回り舞台のように転回して、読者の予想を軽々と 凌駕していくのである。
冒頭の物語にしたところで、出だしは順調だったのが、囚人船で一緒だった三人組の泥棒に見つかり、脅されて伴侶に身分を明かすことになる のだが、それが<アンチクリストは、父は逃亡した殺人者、母は出奔した尼から、キリストと同じくクリスマス前夜に生まれるという聖ヨハネ の預言が、聖書に記されている。>という農夫のお告げを信じて、我が子を殺さねばならぬと決意する事態につながっていくことになり、物語 は急激に緊迫の度合いを増していくのである。
結局、囚われた男は我が子を殺すことのできぬまま銃弾に斃れ、失意の女は赤子への愛情が急に冷めて、宿屋の主人に子供を託して消息を 絶ってしまった。やがて、美しく成長した少年は聖職者になりたいと思いを定め、修道院長に一通の手紙を渡すのだが、その末尾にある名前 こそがこの物語の最大の驚愕なのだった。(文字を白くしておきます)
「わたくしには聖なる教会の僕としてわが身を捧げること以外に喜びはありません。・・・わたくしはあなたの手に己のすべての運命を 委ねました。」――あなたを畏敬する不肖の息子<
ジュゼッペ・カリオストロ
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2021/8/23
「0番目の患者」―逆説の医学史― Lペリノ 柏書房
近代医学の誕生は、医師が患者と向き合い、対話しながら診察するようになってからのことだ。とはいえ、これまでの医学史は患者を ないがしろにしたまま、医師の手柄話、治療法や試行錯誤の過程など、もっぱら医師たちに焦点を当てつづけてきた。
<私が本書を書こうと思い立ったのは、このような患者たちを正当に評価したかったからだ。>
というこの本は、リヨン大学医学部で医学史や疫学などを教える傍ら、自らの臨床経験知識を一般向けに噛み砕いて伝えてきた作家が、いつも は脇役に甘んじている、その症例を初めて発症した『ゼロ号患者』たちを主役の座に据えて、その特異な物語を小説仕立てで描いてみせたもの である。
何を聞いても「タン」としか言えない以外はまったく正常に20年の入院生活を送り、死後に担当医ブローカの言語中枢「ブローカ野」発見に 寄与した「タンタン」。
料理人として奉公先を変わるたびに決まってその家庭で感染が発生し、ついに最初の無症候性キャリアとして終生隔離が宣告された「腸チフス のメアリー」。
発話しようとすると顔がゆがんでしまう「ウンサの沈黙」は3世代30人中14人に及び、孫を診察した遺伝学者により、「発達性言語強調 障害」と名付けられた。
左足に鈍痛を感じるという男のMRI検査を見た医師たちは真っ黒な画像に仰天した。水頭症により漏れた髄液で脳が圧縮されていたのだ、 という「脳のない男」。
などなど、19章に及ぶ「ある特定の疾患のために肉体的な苦痛を覚えている患者」と、時には「どんな軽微な症状も現れていない可能性も ある感染者」の物語は、医者に対し素直にあるいは反抗し、また信じきってあるいは疑いの目を向けながらも、結果として知識の進歩に大い なる貢献をした患者たちへの敬意に溢れている。
「病気だと感じる人たちがいるから医学があるわけで、医者がいるから人びとが彼らから自分の病気を教えてもらうわけではない」 (Jカンギレム『正常と病理』)
今は医者の方が患者よりも先に病気を知ることができるとしても、それはかつて患者が医者を刺激し、医者に訴えたからこそであることを、 決して忘れてはならない。にもかかわらず、医者に言われて自分が病気だと知る場合がいっそう増えている現在、実感したこともない病気の 診断を素直に受け入れる人が多いのは驚きである。<政治や教育よりも市場が優位に立ち、診断と治療の相互作用が健康に寄与する時期は 終わりを迎えたのだ。>さらにすばらしい医学を打ち立てるためには、線引きのあいまいになっている診断と治療をふたたび引き離さなければ ならない。
<砂糖とタバコが健康に与える深刻な被害の改善を掲げる薬の販売者が、砂糖やタバコという毒物の販売促進者よりも利他的であるとは 言えない。>と、現代の医療システムおよび医療関連市場の歪みや逸脱を、ユーモアを交えながらとはいえ、まことに辛辣に批判してもいる、 ある意味「熱血」の書でもある。
治療には錯覚と金銭欲がたっぷりと注ぎ込まれてきたのだから、診断が治療と直接のかかわりをもたなくなれば、生物学的研究は進歩する ことだろう。
なお、この本は(多分)新型コロナウィルス蔓延前に書かれており、2020年7月に書かれた「日本語版によせて」には、新型コロナへの 言及がある。これも上記のような文脈に沿って読んでみると、なかなかに含みのある、示唆に富んだ内容のある文章であると思う。
パンデミックに対処するため、またパンデミックを防ぐために、あらゆる対策を講じることは大切だが、WHOや世界の大多数の国々は 新型コロナウィルスに過剰に反応しすぎたように私には思える。・・・現代人はこの新型ウィルスの流行を恐れすぎている。ウィルス性呼吸器 感染症の流行は人類の宿命だ。
2021/8/19
「歴史の中で語られてこなかったこと」―おんな・子供・老人からの「日本史」― 網野善彦 宮田登 新書y
網野「私は南北朝14世紀に列島社会史の『民族史的転換』を想定していますが、その転換期以降の社会は江戸時代から高度成長期 以前の社会にもつながると考えています。現代はまさしくその次の大転換期にあたるわけですから、歴史を、古代・中世・近世・近代で区分 するのは制度史の区分で、社会に即しては単純にそうはいえないので、別の次元の区分が必要だと思います。」
宮田「自らの研究領域(時代)にこだわる歴史家らしくない大胆な視点ですね。」
と、のっけから披露された斬新な歴史観に、率直な驚きで返してみせた、1982年の『歴史と民俗の十字路』と題されたこの対談が、初めて の丁々発止だった。
網野「今、民俗学が価値を認めるのは活き活きした野生の世界なのか、それともこれを押し込める文明なのか、どちらにプラスの価値を 認めるのかという問題が当然出てきます。・・・歴史学の学界では、少なくとも今はそんな力に積極的な役割を認める人は誰もいない でしょう。そういう意味でも私は異端にならざるを得ないのです(笑)。民俗学も逆に活き活きした野生を抑え込む文明の歴史に寄りかかって いるところがあるのではないでしょうか?」
宮田「そうです。それをしないと市民権が得られないわけです。」
網野「ですから、私はむしろ民俗学者に開き直っていただきたい気がする。」
網野が勤務する神奈川大学に「日本常民文化研究所」が招致されたのを契機として、歴史学者・網野善彦と民俗学者・宮田登とが、互いの専門 分野の間に横たわる様々な問題を議論したこの対談は、「総合資料学研究科」を創設したいというやがて実現する網野の夢を語ることで 締め括られた。
網野「私は最近、資料学という研究分野を自立させる必要があると考えているんです。」
宮田「いまようやく、歴史学と民俗学が対等にものをいえる時代になったわけですね(笑)。」
その後、宮田がこの研究科の設立メンバーとして同僚となるなど、深い絆に結ばれた二人の両学界の重鎮が、折に触れて語り合った5つの対談 を第2部に納めて、第1部『歴史から何を学べばいいのか?』という、1997年末から98年初に分けて行われたメインの対談が、二人に とって最後の語らいとなってしまったのは、その後に病を得た宮田登が、2000年に惜しまれながら急逝してしまった(網野のあとがきには、 この御縁は一生つづくであろう、とあった。)からだった。
そんなわけで、お互いを熟知する二人の盟友が語り合うテーマは、名作アニメ『もののけ姫』をめぐる“文学と映像の世界”の分析から 始まって、
「農業中心史観」が「養蚕と織物」という女性の役割を隠蔽した。
隠然たる力を発揮する「隠居」という老人の役割を認める歴史を発見する。
民俗学が描く子供の文化世界が現実に機能しなくなったところで、子供の世界に殺人や自殺が起こる。
などなど、“歴史の中で語られてこなかった”女と老人と子供の日本史の深層を、資料研究による最新研究の成果に基づいて暴きだしていく のだが、相も変わらず舌鋒鋭い「網野節」が炸裂するたびに、それを柔らかく受け止めながら、上手くおだてて乗せていく宮田の存在の大きさ を、痛感させられる対談だった。
網野「古代律令制下の調や庸の負担者は、成年男子に決まっています。織物は男が行い、しかも貢納のためだけに織った、ということに なってしまう。そういうこともあり得なかったとはいえませんが、この図式そのものはまったく間違っていたのではないかと思うのです。 女性の生業というと農業の補助労働しかあげられていないのです。草取りとか、脱穀の手伝いなどですね。肝心の女性の仕事の中心がまったく 見落とされていたと思います。」
宮田「本当は日常的世界を舞台にして、女性の持つ強さや力、男性と対等な能力を示す資料を発掘する必要があった。それを女性の<神がかり> や<女の霊力>で誤魔化してきたのは、男性が女性に対して常に恐怖感を抱いているからです。」
網野「いやいや、これは歴史学では発想できない非常に面白い見解です。」
宮田「そう。<網野史観>というのは、今までの常識を全部ひっくり返すところに<売り>があるわけです(笑)。」
2021/8/15
「アフターマン」―人類滅亡後の地球を支配する動物世界― Dディクソン ダイヤモンド社
人間は生態的な危機に陥った種を絶滅させ、その生息地を破壊してきた。だが、人間が破壊力を振るうにも拘らず、あるいは振るう がゆえに、生き続け、人間が死に絶えたあとも生き延びる種は少なくない(それらの多くは人間にとって「有害」な動物だった)。そして これらは、人間が慈しみ、飼いならし、高度に改良した家畜よりも生き続ける可能性が高い。
<例えば、5000万年後の世界では、どんな動物が生存しているだろうか。>
というこの本は、大学で地質学を学んだサイエンスライターが、進化学と生態学の基本原理のあれこれを組み合わせて描き出した人類滅亡後の 地球の想像図である。
<コモン・ラバック>の体高は2m近いが、体表一面に斑点があり、木立にまぎれると、まったく目立たない。ふつう、10〜12頭の群れを なして生活する。温帯地方の植食動物の主群となったラバックの仲間は、環境の変化に柔軟な適応力を持ち繁殖周期が短いウサギが、絶滅した シカ類そっくりに進化したものだ。
<ファランクス>は、ラバックを好んで襲う。襲うときは数頭が小さな群れをなし、弱そうなラバックを群れからはぐれさせ、執念深く追い つめる。肉食動物の主群となった、ファランクスは、一見絶滅したイヌと似ているが、よく見ると祖先のネズミの特徴が歯列などにはっきりと 残っている。
<テスタドン>は、幅広い板が蛇腹のようにつながった鎧をつけており、危険を感じると完全な球体となるため、捕食動物はどんなに鋭い爪も 牙も通せなくなる。温帯広葉樹林の林床で、昔ながらの虫食生活を続けているテスタドンの鎧は、祖先時代のハリネズミの棘が変形したもの なのである。
<チリット>は、後肢と尾だけで木にしっかりつかまることができるので、上半身はどんな角度へも自由に伸ばせる。落葉樹林の樹の頂きに 住み、背を丸めて伸ばしながら尺取虫のように歩くチリットは、生活圏が南方に広がって温和な気候に適応した、胴長のリスなのだ・・・
え?そんな想像上の未来動物の姿を、精密に描いたところで(実際、この本に登場する動物たちはすべて息を呑むような姿なのである)どうせ でっち上げだろうって?とんでもない!
「登場するのは架空の動物ではあるが、いずれも生物が現実に辿らざるを得ない過程を経て生まれているので、この本は読み物として おもしろいばかりか、科学的にも非常に価値が高いものとなっている。」(デズモンド・モリス――発刊に寄せて)
ゆえに、描写が生き生きとしていればこそ、どの動物も現在の世界には<まだ存在しない>ことを知って空しい思いに陥るかもしれない。 というのが、この本を手に取った読者に対する、デズモンド・モリスからのまことにご親切な忠告なのだった。
任意の一時期を取り出し、そこに生きる生物の姿を描き出しても、それは、刻々と移り変わる動的な三次元的世界の二次元的断面をのぞいた ことにしかならない。進化は止むことのない過程である。その永遠の時の流れの中で、つねに新しい生物が誕生の産声を上げ、古い生物の種が 滅びていく。
というわけで、体重8トンの巨大な「イカ」が 地上の覇者となる、<2億年後!>の地球も見てみたいという物好きな方は、同じ著者による
『フューチャー・イズ・ワイルド』
も 是非ご覧になるといいだろう。(椎名誠氏絶賛推薦付きの快著なのだ。)
巨大化した蜘蛛の「家畜」(餌)となる前に、人類が滅亡していて本当によかったと、今のささやかだけど平穏な日常に感謝すること請け合い である。
2021/8/13
「縄紋」 真梨幸子 幻冬舎
届いたばかりの茶封筒から取り出したその瞬間、激しい後悔で目が眩みそうになった。・・・どうせ、異世界だの魔法だの選ばれし ものだのが出てくる、選民意識バリバリの独りよがりなファンタジー小説なのだろう。
<『縄紋黙示録』って。なんだ、この中二病くさいタイトルは?>
フリーの校正者になって3年目の興梠大介が、馴染みの版元から校正の依頼を受けたそのゲラ刷りは、殺人事件の容疑者として収監されている 五十部靖子が、黒澤セイと名乗って拘置所内で書き上げた「小説もどき」の作品を自費出版しようとしているのではないか、という曰く付きの 原稿だったのである。
五十部靖子の「千駄木一家殺害事件」とは、夫は犬の散歩用のリードで首を縛られ、首から下を大量のゴミに埋められていた。6歳の長女の 切断された首は寸胴鍋のシチューの中で煮込まれていた。当初「自分が夫と娘を殺害した」と自供して逮捕された妻は、裁判では一転、殺害 したのは自分ではないと無実を主張して、裁判は今も続いている。なんて、<おどろおどろしい>殺人事件とはまるで無関係に、黒澤セイが バッドトリップした際に垣間見た、異界の風景が目くるめく絵巻のように綴らていくので、
それは、まるで、寝すぎた日の、目覚めのような感覚でした。体のあちこちが痛くて、頭がどよんと重くて。このまま、眠っていたい。 ・・・こうなると、自分の意思ではどうにもなりません。瞼が、勝手に開いていきます。が、そこは――。
こうしてアナタは、時空を超えた<縄紋ワールド>へと誘われ、犬になり、カラスになり、ついには白蛇へと転生する<輪廻の旅>を続ける ことになるので、現実世界で並行して起こっている、殺人や失踪や突然の電磁波の乱れなどの怪事件(一応ミステリーなのだ)など、どこか 他所事のように思えてくるわけだ。
このゲラ刷りを一旦手に取って読み始めてしまったが最後、興梠のように寝食を忘れて取り付かれたように読み耽ってしまうことになるのは、 五十部の弁護士が「じきに、あなたは、覚醒します」と断言したように、「あなたは、人類の救世主になる」からなのである。
その日はひどく暑い日でした。喉の渇きに耐えかねて、水場を探していたとき、ようやく見つけた池の水面に映っていたのは、白い蛇でした。 ・・・私は、今度こそ、本当に理解しました。「私は、神になった」と。そう私は神になったのです。“アラハバキ”になったのです。
すべての事件が一段落して、「ほんと、何事もなくて、よかった・・・」とこの本を閉じ、テーブルの上に投げ出したアナタへ。
「まだ安心してはいけない。」身体の節々がなんとなくじんわりと痛くて、喉に痛みを感じるようなら、そしてなにか「声」がするような気が したのなら、それはコロナではないかもしれない。
「ア…ラ…ハ…バ…キ…」
ああ、またあの声が聞こえてきた。
ここのところ、ずっとだ。
靖子は、我慢ならないとばかりに両の耳を塞いだ。
2021/8/11
「クアトロ・ラガッツィ」―天正少年使節と世界帝国― 若桑みどり 集英社
大航海時代のヒーロー、一攫千金を夢見て祖国ポルトガルを捨て、仲介貿易で巨利をむさぼった野心満々の若者が、祖国から遠い 島国日本で、その全財産を投げうち、貧者の救済に献身して日本に骨を埋めてしまった。
自分で貿易船を乗り回し、27歳でもう巨万の富を蓄えていたこの人物、船長ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸したのは1552年のこと だった。それは、天文18年(1549)にザビエルが鹿児島に着いてからわずかに3年後のことで、天正少年使節が長崎を出帆する30年も 前のことなのである。
『クアトロ・ラガッツィ』(天正少年使節)が主人公であるはずのこの物語を始めるために、これほどまでに長い助走(前8章の内の3章)を 必要としたのは、世界帝国がはりめぐらせたグローバルな経済網と、そのエージェントである冒険家たちとともに、アジアに大量に押し寄せた キリスト教の宣教師たちが、「いったいなにを考えていたのか」がわからなければ、われわれの「天正少年使節」が、なぜ戦国末期に ヨーロッパに送られることになったかもわからないからだ。
というこの本は、
『イメージを読む』
など図像解釈学を専門とする西洋美術史学者が、自らの学問のルーツに迫ろうとした畢生の大作なのである。
イエズス会の布教状況を定期的に視察して歩く巡察師として1579年に来日したヴァリニャーノが、4人の少年を連れて日本を発つのは 1582年(天正10)。
伊東マンショ(11歳)大友宗麟の血縁
千々岩ミゲル(13歳)有馬晴信の従弟
原マルティーノ(14歳)セミナリオ1期生の秀才
中浦ジュリアン(11歳)セミナリオ1期生で幼児洗礼
すでに成長した木に接ぎ木をした成人改宗者ではなく、キリスト教が日本という大地に蒔かれて、はじめてそこで採れた「初穂」として彼ら 4人は選ばれたのだが、この少年たちをポルトガルとローマに送るのは、王と教皇に日本への援助を求めると同時に、キリスト教の栄光と偉大 を日本人たちに知らしめるのがその狙いだった。一方で、交易の巨大な利益をもたらす外国船を誘致しようとしていた戦国大名たちは、次第に 死後の救済を約束するキリスト教に惹かれ、積極的に派遣に応じた。この時ほど日本が世界的であったことは明治以前にはなく、日本はまさに 「キリスト教の世紀」を迎えていた。そのシンボルとして<少年使節>は送られたのである。
しかし、彼らが彼の地で見聞きし持ち帰ったはずの西洋の社会、法と正義、民主の歴史が、戦国末期の日本社会に生きた成果をもたらすことは なかった。少年たちが帰ってきた8年後の日本では、出航直後に斃れた信長の後を襲った秀吉が、宣教師追放令を出していたのである。少年 たちが見たもの、聞いたもの、望んだものを押し殺し、彼らの目を暗黒の目隠しで閉ざしてしまったのは、当時の日本だったのだ。
これは400年以上も前に、信仰のみを頼りに見も知らぬ地ヨーロッパへ飛び立った少年たちの、身の震えと息遣いに寄り添うような迫真の ルポなのである。
私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは歴史を動かしてゆく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったり した個人である。このなかには信長も、秀吉も、フェリペ2世もトスカーナ大公も、グレゴリオ13世もシスト5世も登場するが、みな4人の 少年と同じ人間として登場する。彼らが人間としてすがたを見せてくるまで執拗に記録を読んだのである。
2021/8/5
「ヒトの目、驚異の進化」―視覚革命が文明を生んだ― Mチャンギージー ハヤカワNF文庫
私は能力、とくに超人的な能力、さらに具体的に言えば、四つの超人的な視覚の能力の正体を突き止めたいと思う。その四つとは、 色覚、両眼視、動体視力、物体認識という、視覚のおもな下位区分のそれぞれに属するもので、スーパーヒーローの用語でいえば、 テレパシー、透視、未来予見、霊読となる。
<私たちは視覚の超人的能力を持っているのに、誰もそれに気づいていない>
というこの本は、知覚を引き起こす脳のメカニズムはどのようになっているか、ではなく、「なぜ」そのようなメカニズムをヒトは進化させた のかを問い続ける、「進化理論神経科学者」を名乗る著者が、人間の脳の進化を左右した自然の生態学的条件への理解を通して、ヒトの視覚に まつわる「なぜ」に迫ったものである。
<なぜ人間には色付きでものが見えるのか?>
相手(敵の場合も味方の場合もある)の肌の色の微細な変化を読み取り、その血流の変化を感知することで、お互いの感情と状態を感知する ためだ。
<なぜ人間の目は前向きについているのか?>
自分の鼻がもう一方の目の視界を重ねることで半透明化するように、身の周りの障害物を透視してその向こうにある知覚対象が見えるように なるからだ。
<なぜ人間は目の錯覚を起こすのか?>
視覚が受けた光を視知覚に転換するのにかかる0.1秒の遅れを埋め合わせ、現在を正しく知覚するために、脳が未来を見ようとしている からだ。
<なぜ文字はみな、現在のような形をしているのか?>
自然を見るのが得意になるように進化してきた人間に合わせて、自然界のものと似た形へと文字が何世紀もかけて文化的に進化してきた からだ。
あなたは、「そんな能力を私たちが持っているはずがない。そんなことを言うとは、この著者は頭がおかしいに違いない」と思っている かもしれない。
だが(と著者も断言するように)、本書に怪しげなところなどまったくないことは、国際的に高い評価を受けた学術論文をベースにしている ことで保証されている。
たとえば第4の<文字のなぜ>ならば、世界の文字(アルファベット、漢字、ハングルなどなど)を基本的な形態要素に分解して、「周期表」 に並べてみると、すべての文字が3ストローク(字画)以内の形態要素からできており、その出現頻度の分布がヒトがモノを見分ける視覚特徴 パターンと一致していることが示される。世界中の文字はみんな同じ文字で、「ヒトはみな同じ文字を書いている」と、チャンギージーは 言うのである。
私たちは文化を通して、目に合うように周りの世界を変えられる。自然淘汰は、目が自然界のものを上手に処理できるようにした。そこで、 文化は自然界のものと似た特性を持つ視覚的記号を進化させた。目ができる限りうまく処理できるように。
<話し言葉や音楽は、いったいどんな本能をどう活かしているのだろうか?>という次なるテーマに挑んだ
『<脳と文明>の暗号』
も、 是非ともお読みいただきたい。
<言語は“ぶつかる”>、そして<音楽は“歩く”>。
ヒトは新たな社会に溶け込むために使いこなすべき技能を、類人猿のころから得意な処理能力に結びつけて構築していかねばならなかったのだ。
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