徒然読書日記202104
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2021/4/30
「ザリガニの鳴くところ」 Dオーエンズ 早川書房
「そういうことなら、ザリガニの鳴くところにでも隠れたほうがいいな。きみを引き取ることになる里親が気の毒だ」テイトは にんまり笑った。「どういう意味なの?“ザリガニの鳴くところ”って。母さんもよく言ってたけど」カイアは、母さんがいつもこう口に して湿地を探検するよう勧めていたことを思い出した。
“できるだけ遠くまで行ってごらんなさい――ずっと向こうの、ザリガニの鳴くところまで”
<貧乏白人トラッシュ>の子として生まれたカイアが、父母兄弟に見棄てられ、たった一人で未開の沼地で暮らさねばならなくなったのは、 わずか7歳の時だった。貝を売って交換で得た乏しい食料と、見よう見まねで覚えた生活の知恵で耐え忍ぶ赤貧の暮らしでは、分け前を放って やると集まってくるカモメだけが家族だった。
「初めて文章を読んだ日のことを覚えているかい?あのとききみは、言葉はこんなにたくさんのことを表せるのかと言ったんだ」ある日、 小川のほとりに腰を下ろしてテイトが言った。「うん、覚えてるわ。なぜ?」
“詩はとりわけそうなんだ。詩の言葉は、口で語るよりもずっと多くのことを表せる。人の感情を目覚めさせるし、笑わせることだって できるんだよ”学校に行くこともできず育った彼女に文字を教えてくれた、兄の友人テイトの導きにより、カイアは本を読み、世界を学び、 やがてぎこちない愛を育んでいく。
という、1952年の母の家出から始まるカイアの過酷な半生と成長の歩みが、濃密な湿地の自然描写と共に刻まれていく物語と交錯する ようにして、1969年に発生した、高校時代はアメフトのスター選手だったという村の人気者チェイスの死体が、沼地で発見されるという 事件捜査の顛末が語られていく。大学に進学したテイトにまで捨てられたという、圧倒的な孤独感の中で、近づいてきたチェイスの誘いに 乗ったカイアは、最後の救いを求めようとしていたのだった。
やがて疑惑の目は、幼いころから“湿地の少女”と蔑まれ続けてきたカイアに向けられるようになり、自発的な証言者も現れて、彼女は逮捕 されてしまうのだが・・・<これは事故か?それとも、チェイスを殺したのは誰なのか?>
2021年度の本屋大賞(翻訳部門)に輝いたこの本は、アメリカの野生動物学者が69歳で挑んだ小説デビュー作というだけあって、単に 美しいだけではない、残酷さも併せもった野生の自然の中で、息を潜ませるように同化して生き延びてきた少女の姿に圧倒されることになる ので、殺人容疑を巡る公判シーンなどのミステリー要素はあくまで付け足しで、どちらの判決が出ようとも、まあそこは想定内だろうと 思って油断していたのだが・・・
カイアの死後、テイトが発見することになる、彼女が愛読していたA・Hの詩が書かれた紙の束と、そこに秘められていた意思、という 種明かしは想定外だった。それが事実だったということにではなく、(それは薄々そうではないかと思っていたから)、それが彼女が選んだ 生き残りの戦略だった、ということに慄いたのだ。
「ホタル」
愛の信号を灯すのと同じくらい
彼をおびき寄せるのはたやすかった。
けれど雌のホタルのように
そこには死への誘いが隠されていた。
・・・
カイアはずっと、この大地や海のものだった。彼らがいま、彼女を取り返しにきたのだ。彼女の秘密も抱え込んで。・・・夜が訪れ、 テイトは小屋に向かって歩きだした。だが、潟湖まで来たところで足を止め、深い木立の奥に目をやった。何百という数のホタルが、暗闇の 先に広がる湿地へと彼をいざなっていた。はるか遠くの、ザリガニの鳴くところへと。
2021/4/27
「愛と性と存在の話」 赤坂真理 NHK出版新書
いわゆる「セクシャル・マイノリティ」を語るときに盲点となるのは、無意識に「ヘテロセクシャル(異性愛者)には問題がない」 という気持ちになることだ。
<そうなんだろうか?>
「男は」「女は」という言葉は、異性愛者の間にだけある「両性を分断する」言語であり、異性を一枚岩の異物として扱う「敵陣営」に対する 言葉なのだ、という。もしこれが、同性愛者がパートナーへの不満を語る言語であったなら、その相手はあくまでも「個人」として扱われて いるはずだから・・・<世間的な通りのよさを除けば、ヘテロセクシャルほどむずかしい関係性はない。>
女性が現在や過去に受けた性被害や性犯罪について、声をあげられる草の根の社会運動、<#MeToo>の当事者には、いつだって特定の 加害者がいたはずだ。ならば、告発の対象は「その人」なわけで「男」ではないはずだが、それとも<#MeToo>は「男性や男性性を 撲滅する」ための運動なのだろうか?
恋愛に積極的でなく、肉欲に淡々とした「草食男子」の恋愛対象が「草食女子」であるのなら、それは仲良く並んで草をはむ「受け身同士の 恋」ということになる。野生動物にとって異性に発情しないというチョイスはないのだから、「恋愛が起らない同種の組み合わせ」それは 「同性である」という意外な結論を導き出す。
「性自認と性指向に多様性を認めよう」というのは結構だが、セクシャル・マイノリティの多様性は、性本来のものであり、性の自然なのでは ないか。それが許されるようになってきたのだとしたら、むしろすべての人の中にある性愛のポテンシャルが、未だに乗りこなされていない ということなのだろう。
<セクシャル・マイノリティは存在しない。>(なぜなら、マジョリティなど存在しないから。)
というこの本は、アメリカに留学した少女の目を通して「戦争責任論」に切り込んだ話題作
『東京プリズン』
の作家が、 いま流通しているどんな用語でも語れない、その人そのものの存在を見るためには、自分という「感じる器」を開いてみるしかなかった、 生の探究の告白である。
「わたしね、女になった自分を鏡で見て、欲情したの。その欲情した自分が誰なのだか、本当はわからないの。これがいちばんのわたしの 真実かな。」
元はエロ本のカメラマンだった、トランスジェンダーの友人Mが、ポツリと言ったときに、「それ、わたしだ!」と反射的に理解できた、 という彼女の、これは『東京プリズン』の「スピンオフ」作品に位置づく佳品なのである。
すべては、言葉と自我の構造を持つ前に起きて、ゆえに、記憶として取り出せなかった。それをたどるには、自分が繰り返し出してくる 物語だけが、糸口だった。わたしが繰り返し出す、わたしに関する物語は、わたしにわたしの取り扱い説明書を出しているようなものだった。
【男が、女の身体をやっている。その男は、女の身体を愛している。だから、心と身体は、ずれたままで一緒にいられる。けれど、女ボディの 乗りこなしには苦労する】
2021/4/22
「椿井文書」―日本最大級の偽文書― 馬部隆弘 中公新書
古文書学に基づいて偽文書を排除し、真正な古文書から過去の姿を復原していくのが歴史学の基本である。この作業が幾重にも積み 重ねられてきた現在の歴史学においては、例えば
「東日流外三郡誌」
のように、 荒唐無稽な内容の明らかに偽作されたものは命脈を保てない。
<ところが、今世紀に入っても、多数の研究者が当たり前のように使っている偽文書が存在した。>
「椿井文書」とは、山城国相楽郡椿井村(現・京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助 1770〜1837)が、依頼者の求めに応じて 偽作した文書の総称だが、中世の文書を近世に写したという体裁をとって描かれた由緒書・系図・絵図の類は、近畿一円に数百点もの数が分布 して、30以上の自治体史にも採用されており、疑いを持つ研究者が少なからずいたにもかかわらず、現代に至っても活用され続けている という点で類をみない、まさに日本最大級の偽文書なのである。
<椿井文書は、なぜかくも広く受容されてきたのか。>
・偽文書の存在に気づいた研究者は、それを分析することには意味がないため、黙殺することで自身の立場を表明するが、黙殺情報は研究者 全体では共有されにくい。
・遠隔地の歴史が相互に符合するように、あらゆるジャンルの史料を複雑に関係づけるという、椿井政隆の着眼点や作成手法が偽文書に信憑性 を帯びさせていた。
・地誌や記紀などの基本文献と内容を合致させたこと、特に南朝や式内社が社会的に重視された近代の思想的背景の中で、それに関わる文書を 積極的に作成した。
・戦前と戦後の歴史学の断絶により、比較的周知されていた文書の存在が忘却された結果、自治体史などに再発掘されたことで脱却することが 困難となった。
などなど、膨大な文書の実例を取り上げながら、その来歴や顛末について、微に入り細を穿った検討の末、その全貌を明らかにしていくので あるが、ようするに、「定着した偽史は町おこしに使われて」おり、「素人目にもわかりやすい、それらしい根拠が」あり、「大半の研究者は 黙殺するが、一部の研究者が拾いあげる」という、後戻りしがたい道程を突き進むことが「偽史」たるものの共通点なのであれば、椿井文書が 受容される構造もそれと同様だというのである。
・隣村との支配権をめぐる争いに勝利したい・・・
・由緒ある式内社であることの証拠があれば・・・
・先祖を辿れば武家であるという系図がほしい・・・
<椿井文書は、人々がかくあってほしいという歴史に沿うように創られていたため受け入れられた。>だからといって、椿井文書に史料的価値 がないというわけではない。一般のみならず多くの研究者さえもが信用してきたという特徴を活かすなら、「偽史がまかりとおる構造とは どのようなものなのか」といったことを我々研究者が自覚的にみることで、歴史学の弱点も浮き彫りになるだろうという。これが決して皮肉で ないことは、「椿井文書に対する私の愛情は、他のどのファンにも負けないはずである。」というあとがきに吐露されているように思う。
その意味では、近世の人々の精神世界を描く素材としての可能性も秘めている。椿井文書が近代社会で活用された要因は、椿井政隆の思想 が極めて受け入れやすいものであった点にも求められる。そのような思想を復原的に考察していく作業も、椿井文書が膨大に残されている だけに充実したものになるのではなかろうか。
2021/4/18
「十二人の手紙」 井上ひさし 中公文庫
7(カーボン複写)
拝啓、くさぐさ思いあまった末一書を呈します。どうか終りまでお目を通され、その上で何分の御返書を頂けますよう、僭越ながら初めに お願いしておきます。
このように申し上げますと、貴女にはもうお気付きの御ことと存じます。貴女と夫との関係につきましては、この花山へまいりましたときから 薄々存じておりましたものの・・・
秋田の酒蔵の御曹司に見染められて嫁ぐことになった主人公が、淡い恋心を抱いていた高校の恩師に送った「結婚挨拶状」、「年賀状」などの 13通の手紙だけで、「結婚」→「妊娠」→「実父の死」→「工場の失火」→「流産」→「離婚」へと至る、彼女の半生の顛末を鮮やかに 浮かび上がらせる――『玉の輿』。などなど、これは、洒脱なエンタテインメントの名手・井上ひさしが、手紙スタイルで綴った物語だけを 集めるという趣向でまとめた、珠玉の短編集なのである。
元気モリモリで上京してきた娘が、就職先の社長との泥沼の不倫の末、破滅の末路を辿る様が、親友と弟それぞれへの手紙で描かれていく ――『悪魔』
「出生届」、「洗礼証明書」、「転籍届」、「起訴状」など、公的書類のみを羅列して、施設に育った修道女が身を持ち崩し、事故死する までを描く――『赤い手』
北海道への単身旅行を計画するOLの求めに応じ文通相手となった男を、「怪しい」と忠告する同僚の無口青年とのやり取りが続き ――『ペンフレンド』
オーストラリアの僻地に単身赴任した新婚の夫に、隣のおばさんが変だと、頻繁に手紙を寄越すようになった妻は、次第に壊れていき ――『隣からの声』
山中に籠って創作に励む聾唖者の画家は、留守宅の妻から届いた強盗殺人事件発生の急報に、聾唖者ならではの名推理をしてみせるのだが ――『鍵』
主演女優への道を目指すという手紙に、高校の演劇部の恩師から励ましを受けながら、ガス自殺した新人劇団員の捜査を行った刑事は ――『シンデレラの死』
というわけで、後はご自分でぜひお楽しみいただきたいと思うのだが、(最後に12編の出演者が一堂に会して繰り広げられるドタバタ劇は 圧巻である。)冒頭の『玉の輿』に出てくる7番の手紙が、なぜカーボン複写なのかといえば、家族の発信はすべて複写をとって控えを残して おくという家憲があったからだった。田舎の大金持ちは臆病なので、出した手紙で足を引っぱられないように、しかも文面はかならず過去の 発信控えにあるものを手本にするという不文律まであるのだ。
「おかげでわたしは夫の愛人への抗議文を、大正時代の発信控えにあった、先代の当主が秋田の芸者さんを囲った際の奥さんの抗議文を写さ ねばならなかった。」(もちろん、これは13番目に肉筆で書かれたもので、離婚して出直すために仙台にやってきた主人公が、恩師に宛て て、自由に書いたものである。)
まあ、これはこれで、そういうお話だと読み流していただけばいいわけだが、井上ひさしの凄さは、最後の最後に付記としてサラっと明かさ れことになる。『玉の輿』を構成する13通の手紙のうち11通の手紙はすべて、市販されている手紙例文集から作者が拝借してきて、並べた だけのものだったのである。
なお、2から12までの11通の手紙はすべて左記の書物群から引用された。7の手紙さえも然りである。書名を列記して感謝の意を表し ます。
平山城児『新版手紙の書き方』大泉書店(以下省略)
2021/4/16
「レンブラントの身震い」 MDソートイ 新潮クレストブックス
人間の活動領域のなかにはひとつだけ、決して機械には立ち入れないと信じられている部分があって、そこには創造性が絡んでくる。 人間には、想像力を働かせ、新しいことをはじめ、芸術作品を生み出すことができる、たぐいまれなる力が備わっているのだ。
しかし今や、従来のトップダウンのプログラミングをやめて、ボトムアップでコンピューター自身に己の進むべき道を計画させようという 「深層学習」によって、ディープラーニングが生み出したアルゴリズムは、プログラマも驚くほどの洞察力に富む動きをして、ついには囲碁の チャンピオンをも打ち負かすまでになった。
<はたして機械には、モーツァルトやシェイクスピアやレンブラントに太刀打ちすること、取って代わることができるのか。>
作品が大量にあればアルゴリズムもそれらしい描き方を習得することができる、と考えたマイクロソフトとデルフト工科大学のデータ科学者 たちが、レンブラントの肖像画346枚を画像変換して徹底的に分析し、巨匠が次に描いたであろう典型的人物のモデルを設定して、実際に 描かせた「次のレンブラント」。
それは、すべての特徴を融合させることでも、平均を作ることでもなく(それはオリジナルとは似ても似つかないものになる)、まるで レンブラントの目を通して世界を見ているかのように、新たな目、新たな鼻、新たな口を作り出さねばならないなど、試行錯誤の連続の結果 だったのだが、イギリスの美術評論家ジョナサン・ジョーンズは、本物のレンブラントの傑作すべてに向き合ったときに人が感じる「あの 戦き」を伝えていない、と言う。AIが描いた絵は「レンブラントの身震い」を引き出すことにみごとに失敗した、というのである。
しかし、その絵をコンピュータが描いたことを前もって聞かされていなかったとして、それでも同じように反応したのだろうか?新しい レンブラントの作成には、それが可能だと証明する以外にさして意味はないが、ほかの人の心の働きを覗き見る窓を提供してくれるという 効用がある。
「そのうちに、実験してみるといいかもしれない・・・美術展の企画監督を巡って、囲碁のような実験をするんだ・・・危険な実験だが、 面白くもある」(HWオブリスト@ギャラリー・ディレクター)
というこの本は、
『素数の音楽』
『数字の国のミステリー』
などの 名エッセイで知られる数学者が、AI進化の最前線を散策して「創造性」の意味を問う、という知的好奇心を刺激してやまないテーマに挑んだ まことに魅力的な一冊なのである。題名もお洒落だし。
「創造的な作品」=再現可能な過程によって生み出されたにもかかわらず、プログラマにはどうやってその出力が作られたのかが説明できない 作品。という、コンピュータの知性を測るテストに乗り出した著者が訪ね歩いたのは、囲碁、美術、音楽、文学と、まことに多岐に渡り、 守備範囲の広さに驚かされるが、このような探索の旅に出ようと思ったのには、AIが猛烈な勢いで新たな方向へと展開していくなかで、 自身が感じるようになった危惧もあったという。
コンピュータがもっとも得意とする「数」と「論理」を扱う数学という分野で、人間は数十年後もあいかわらず数学者という仕事をして いられるのだろうか?
コンピューターが数学科の扉を叩いて、同じテーブルに着かせろと求めたとしても、数学は数と論理を扱うだけでなく、きわめて創造性が 高く、美や美学も関わっている、といって撃退することができるはずだ。直観や芸術的な感受性は、よき数学者になるうえで重要な資質 なのだ。こういった性質を機械にプログラムすることなど金輪際できないはずだ。それとも・・・プログラムできるんだろうか。
2021/4/10
「メインテーマは殺人」 Aホロヴィッツ 創元推理文庫
「しばらく田舎にいたんだろう?・・・新しい子犬も迎えたわけか!」
どうにも不思議でたまらず、わたしはホーソーンをじっと見つめた。この男はいつもこうなのだ。ロンドンを離れていたことは、誰にも話して いない。ツイッターにだって書きこんではいないのに。子犬はというと・・・
「どうしてわかったんだ?」
元刑事で、今は「警察の諮問として働いている」と自称するホーソーンが、殺人事件捜査の専門家として警察ドラマに助言をした、その縁を 頼りに突然連絡を寄こし、人気作家のホロヴィッツに語り出したのは、著名な俳優の母である老婦人が、自分自身の葬儀の手配を済ませた その日に、何者かに殺害されたという事件の話だった。
「実はあんたに頼みたいことがあってね。・・・おれのことを書いてほしいんだよ」
というこの本は、史上初の7冠を制覇した前作
『カササギ殺人事件』
で、 作中作という趣向を凝らしてクリスティへのオマージュを捧げた作者、待望の第二弾である。
コナン・ドイル財団公式認定のホームズ譚新作『絹の家』を発表したホロヴィッツが、今度はホームズへのオマージュを捧げたことは明らかな のだが、何と作者本人が<わたし>として登場するという趣向で、他人への配慮に欠ける探偵の不遜な態度に辟易しながらも、結局ワトソン役 を引き受けることにしたのは、児童向けから大人向け作家への脱皮を図ろうとする時期に、願ってもない足場を与えてくれるかもしれない という色気があったから、という自虐ネタまで用意される。(このホーソーン探偵の活躍は、初めから十作程度のシリーズを予定している そうだ。ちなみに、前作の名探偵ピュントも続編を書くらしい。読むのが大変だ!)
物語は、殺害された老婦人が10年前に起こしたひき逃げ死亡事故の再調査も絡めながら、多数の関係者の証言を積み重ねることで真相に 向かうという、謎解き探偵推理小説の王道を行くものだということ以上に、ここでその詳しい内容を語ることは差し控えさせていただくが、 「あんたはただ、起きたことをそのまま書いていきゃいい。容疑者の話もさらに聞いていく。必要な情報は、すべてあんたに渡るようにする よ。あんたがすべきことは、それを正しい順にまとめるだけだ」という辛辣な批評眼で、文学上の脚色にまでケチをつけてくるホームズ役に 立腹しながらも、ワトソン役としての厳格なルールを順守する姿勢をつらぬいたことで、<探偵>と同じものを見ているはずの<わたし>は、 重要な手がかりはほぼ漏れなく書きとめていたにもかかわらず、自分はそれに気付かない役を演じさせられる。<わたし>が自慢げに吹聴した あるあるの仮説を「賛成できない」と一蹴してしまった、その理由を聞かせろと迫ったわたしに、ホーソーンは肩をすくめて答えた。
「おれに訊く必要はないさ、相棒。あんたが見せてくれた、お粗末な第一章に書いてある。もっとも重要なものは何だったのか、きっとあんた も気がつくよ。何もかも、そこに結びついてるんだから」
もちろん、これはルール上同じ立場にあるはずの、私たち読者に向けての挑戦状でもあることに、賢明な<あなた>は気付かねばならない。 これではあまりに悔しいから、ひねくれ者の暇人はここで予言をしておこう。この物語の最終話では、きっと<わたし>が殺されることに なるだろうと。
いま思えば、この物語を一人称で書くことにしたのは失敗だった。わたしはけっして死なないと、読者にはずっとわかっているわけだから。 一人称の語り手が殺されないというのは、文学のお約束のようなものだ。
2021/4/7
「畸形の神」―あるいは魔術的跛者― 種村季弘 青土社
口伝承文芸学者マックス・リューティーによるなら、「昔話の主人公は欠けたところのある存在」(『民間伝承と創作文学』)で ある。だから欠陥の外形は、当面は隠されている最終場面における価値の逆転のための伏線になり得る。
「醜さや障害が作品の美に転換していることがあり得るというこの信仰に、昔話や神話は満ちている」(リューティー)
その醜い容姿を嫌った母神ヘラによって海中に投げ棄てられ、肢体不自由となったヘパイストスは、レムノス島で鍛冶の修業を積み、最も 美しい作品を創造する。
洪水の予告を受け、神の恩寵に頼ることなく自らの手で箱舟を造ったノアは、9か月の引きこもりの後に懲罰で足が萎え、新生児並みに更新 されて陰萎となった。
弟子入りした小人の鍛冶屋に殺されそうになり、空洞の丸太船で難を逃れるなど、数奇な運命の末跛者となったヴィーラントは北欧神話の 発明家的天才だった。
オイディプスとは「腫れた oidi」と「足 pus」の合成語で、「腫れた足」を意味している。神託を恐れた父王の手で踝を刺し貫かれて山中に 捨てられたからだった。
シェイクスピアの『ハムレット』が、ギリシア劇の『オイディプス王』と「同じ基盤に根ざしている」という、フロイトのエディプス・ コンプレックスの分析は、「人類の情意生活における抑圧の幾百年間かにおける進歩」が介在したがゆえに、抑圧に甘んじるか、それとも 幼児のようにやりたい放題にやってのけるかと、ためらうハムレットのように歯切れが悪く、「あれするかこれするか、それが問題だ。」と、 フロイト自身がためらっているかのようだという。それに比べて・・・
5億年以前にさかのぼる古生代の魚類は鰓と原始の肺を使って水陸両生の呼吸を営んでいた。・・・魚類のところで、生命の故郷たる海に とどまるか、それとも未知の大陸に上陸するかの選択が行われたわけである。
「奇形児の多くは、そのからだの一部をはって、上陸ならぬ降海の見果てぬ夢をなぞりながら、その奇なる発生をとげ終えたごとくである。」 (『海・呼吸・古代形象』三木成夫)
<人間は水中生活に戻りたがるのである。>海への郷愁、生命的遡行本能の呼びかけが畸形を生むという。進化論的系統発生への「いやいや」 をして上陸を忌諱し、降海に立ち戻ろうとする衝動があり得るのだ。
そういえばヘパイストスをはじめとして畸形者はいつも海の傍にいた。そして陸生のわたしたちにそれまでの日常に知られていなかった 「奇なるもの」という発明や新しい美を贈与してくれた。
というわけで、ギリシャ神話、シェークスピア、フロイトなどなど、博覧強記の怪人が「跛者」をテーマに縦横無尽に駆け巡る知的好奇心 満載の本なのであるが、日本の記紀神話にも、伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれながら3歳になっても足が立たなかったために、海に流され てしまったという「蛭子命」の伝説がある。兵庫県の西宮神社が総本宮とされる、「恵比須」は海からやってきた海の神として、漁民の守護 神「えべっさん」となった。
<神は跛(びっこ)を引いて海から訪れる>のである。
これはメランコリーと戯れる子供たちを一応のモティーフにした、自由で気ままなエッセイである。あちらへ行き、こちらに戻り、西へも 東へも気ままに、それこそよろけ歩き、跛行した。
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