徒然読書日記202103
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2021/3/25
「推し、燃ゆ」 宇佐見りん 文藝春秋
「でも、偉いよ、あかりは。来てて偉い」と呟く。
「いま、来てて偉いって言った」
「ん」
「生きてて偉い、って聞こえた一瞬」
成美は胸の奥で咳き込むようにわらい、「それも偉い」と言った。
「推しは命にかかわるからね」
推しアイドルがファンを殴ったため、SNSで炎上してしまった翌日にもかかわらず、ちゃんと登校してきたあたしを「偉い」と褒めてくれた 成美は、ふたつの大きな目と困り眉に豊かに悲しみをたたえた、よく似た絵文字があるような顔で「無事?」と訊いた。リアルでもデジタル でも同じようにしゃべるのだ。この前、推しのライブに行ったままのリュックには、感想をメモする用のルーズリーフとペンしかなかったが、 どうせプールは見学で、後は保健室へ直行なのである。
<推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。>
本年度「芥川賞」受賞作品。
4歳で初めて観た舞台では、12歳でピーターパンを演じていた。高校に上がって偶然見つけたそのDVDを見た時、彼の小さく尖った靴の 先が心臓に食い込んで、
<真っ先に感じたのは痛みだった。>
高校一年生の頃の自分にとって、すでに長い時間をかけて肉に馴染み、時折思い出したように痺れるだけの存在になっていたはずの、それは 痛みだった。劇中何度も「大人になんかなりたくない」と言っていた、上野真幸は今ではアイドルグループ「まざま座」のメンバーになって いて・・・あたしの「推し」になった。
<あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。>
推し始めて一年で、推しが二十年かけて発した膨大な情報を網羅的に収集し、咀嚼した結果、推しの反応の大方は予測がつくほどになった はずだったのだが・・・突然引退を発表した推しに、今自分が持つすべてをささげようと決意した最後のライブの後、未練がましく出掛けた 推しの新居のベランダに見た光景に打ちのめされる。
<あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。>
あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下 が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。
なぜ推しが人を殴ったのかはわからないが、アイドルでなくなってしまった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人に なってしまったのだから。滅茶苦茶にしてしまいたいと思い、目に留まったテーブルの上の綿棒のケースを、叩きつけるように振り下ろした あたしは、後始末が楽なモノを選んだことを嗤う。
<綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、>
あたしは結局、あたしを推していたんだ。暇人はこの小説をそのように読んだ。(もちろん、他にもいろんな読み方があると思うけれど。)
這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
二足歩行は向いていなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。
2021/3/25
「インドネシア大虐殺」―二つのクーデターと史上最大級の惨劇― 倉沢愛子 中公新書
その犠牲者の多くは、軍の巧みな宣伝や心理作戦に扇動された民間の反共主義者によって一方的に虐殺された。少なくとも50万人、 一説によると200万人以上が命を落としたといわれる。深刻な人権問題として、世界各国が抗議の声を上げるべきだったのは明らかだが、 そうした声はほとんど上がらなかった。
<そして今、そのことを知る人はあまりに少ない。>
1965年9月30日。当時の大統領スカルノの親衛隊が、7人の陸軍将軍の家を襲い、そのうちの6人を現場で射殺、あるいは拉致した うえで殺害した。国軍が大統領転覆を図っており、それを未然に防ぐための行動であると声明を出した、「革命評議会」によるクーデター、 「9・30事件」である。
スハルト少将率いる陸軍は直ちに治安を掌握し、この事件は「インドネシア共産党」(PKI)によって演出されたものだとして、撲滅の ための猛反撃に転じる。1966年3月11日、徐々に権威を失っていったインドネシア独立の英雄スカルノは、ついにその権限をスハルトに 委譲する、「3・11政変」である。
この二つのクーデターの間に巻き起こった「PKI党員狩り」によって、後のカンボジアでのポル・ポトの虐殺にも匹敵する、膨大な数の 無辜の人々が犠牲となった。
<なぜ世界各国は沈黙を守ったのか>
西側諸国は当時、共産主義の浸透に危機感を抱いており、世界四大共産党政党として大きな勢力を有していたPKIが一掃されることは、 むしろ好都合と捉えていた。共産党員の迫害に大きな声を上げてしかるべきだった社会主義諸国も、イデオロギーを異にする立場のPKIの 受難に対しては、当初から冷淡な対応だった。頼みの綱の中国共産党は、常日頃からPKIに武装蜂起をけしかけておきながら、文化大革命 開始直前の不確かな国内情勢の中、最後は切り捨てざるを得なかった。
デヴィ夫人の縁などスカルノとの強固な関係を築いてきた日本でも、容共国家から親欧米的な反共国家へと変身したスハルト政権への乗り換え を選択した。外国資本の導入を拒む旧体制から、開発優先の政策へと舵を切ったインドネシアの経済発展への目論見を支援するため、大規模な 資本進出に乗り出していくのである。1970年代以降の日本の経済成長が、こんな未曽有の惨劇の果てに達成されたものであるということ を、今、自覚している日本人はほとんどいないだろう。
「決して歴史を忘れるな。歴史を捨て去れば君たちは空白の上に立つことになる。そんなことをすれば、君たちはやがて当惑し、アモック (制御不能な怒り)に陥る」1966年8月17日の独立記念日に、「決して歴史を離脱するな!」と題しておこなった演説が、結果的に 大統領としては最後のスカルノの演説となった。
歴史に葬られようとしているこの事件について、虐殺事件発生の政治的背景を詳細に追いかけながら、多くの資料や証言にもとづいて虐殺の 実態を正確に掘り起こす。「虐殺した側」と「虐殺された側」、双方の声に真摯に耳を傾け、その歴史を形作った「人」の歩いた軌跡を追い かけたインドネシア社会史の専門学者による、これは、歴史に秘められたやりきれないほどの哀しみや深い怒りが刻み込まれた、発掘遺体 解剖調査のような報告書なのである。
<この国では虐殺の地に慰霊碑一つ建てられていない。>
虐殺が最も激しかった観光地バリでは、道路の脇や風光明媚な海岸の一角に、実はいまだに大量の死体が埋まっている。にもかかわらず、 人びとはそんなことをまったく知らされずに通り過ぎていく。こうして、国際社会はもちろん、国内的にも事件はどんどん風化しつつある のである。
2021/3/19
「コロナ後の世界」 大野和基編 文春新書
新型コロナの封じ込めは、中国のような独裁国家が得意とするところだという指摘もあります。ただし、中国は新型コロナの発生 当時、その情報を隠蔽しようとしました。これも独裁政権だからできたことです。
<中国は民主主義国家であったことがない。それが致命的な弱点なのです>と、21世紀は中国の時代という見方を否定する、学際的な 地理学者Jダイアモンドは、持続不可能な経済で回る世界において、日本が抱える人口減少という課題は、むしろアドヴァンテージになると 勇気づける。外国資源への依存負担が減るのだからと。
百年前に比べると想像もできないほど、世界は複雑に、そして密接につながっています。どこかの誰かの問題が、瞬時にしてみんなの問題 になるということです。あっという間にパンデミックになりました。
<人類は思っていたほどレジリエントではなかった>と、文明をもっと強靭で柔軟なものにする必要性を痛感した、AI研究の理論物理学者 Mテグマークは、これからの時代に「生き残る職業」は何かではなく、「AIで何ができるかを理解し、うまく活用できる人」が生き残る のだと断言する。
今後の日常生活が変容することは疑う余地がありません。もし、爆発的な流行が一時的な収束を迎えたとして、そのとき、新型コロナ ウィルスは、私たちの生き方にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
<デジタル・スキルの加速度的向上が起きた>後の「人生百年時代」における“healthy aging”の重要性を説いた、人材論・組織論の経営 思想家Lグラットンは、自分にとって理想的な働き方を追求すれば、画一的な生き方は時代遅れとなり、私たちの人生は“マルチ・ステージ” 化していくことになると予測する。
新型コロナの世界的な蔓延によって、以前にも増して、世界はどんどん悪くなっている、未来は暗いという認識が広がっています。また、 科学は無力だと軽視する人も増えています。
<ジャーナリズムは、このネガティブなバイアスを作る>と、「最近遭遇した類似例から判断してしまう」ことの罪を語る、認知科学の実験 心理学者Sピンカーは、目の前の危機に惑わされず過去と現在を比べ、データで状況を冷静に判断するならば、我々は楽観主義になるべきだ と諭す。人類はそうして進歩してきたのだからと。
ビッグテック企業全般がますますパワフルになっています。彼らは巨額のキャッシュを貯め込んでいるので、ロックダウンで他の企業が 困窮して守勢に回らざるをえないときに、攻勢に出られるからです。
<もはや高速道路の巨大な料金所に変貌しつつある>GAFAの唯一のミッションは「金儲け」だけだと警鐘を鳴らす、ブランド戦略の連続 起業家Sギャロウェイは、多くのテック企業の幹部が、自分の子供たちにデジタルデバイスを使わせていないことを指摘し、GAFAの負の 側面から目を逸らしてはいけないと警告する。
新型コロナウィルスによるリセッションを比喩的に表現すれば、「人工的な昏睡状態」でしょうか。事故で脳に重篤な損傷を負った患者の 脳機能の一部を、回復するまでの間停止させておく治療法があります。
<本当のリセッションは、新型コロナの猛威が収束した後に来る>からナイキのロゴのようなスウッシュ型になると予測する、ノーベル経済賞 学者Pクルーグマンは、「二歩進んで一歩下がる」ような不透明な回復基調を辿ることになるであろう世界経済の行く末を案じながら、日本の 私たちの足元を照らす道標を指し示す。
私たちはどうなるのか、人類の未来に羅針盤はあるのか。世界を代表する知性6人に問うた、これは混迷を極める時代を生き抜くための考える ヒントの宝箱なのである。
「この新型コロナウィルスの流行拡大において、あえてポジティブな側面を見出すとしたら何か?」
<それは、私たちに深く考えるきっかけを与えてくれたこと。>
6人がすべて、そう答えたことが印象的でした。自分の職業キャリアの価値を見直す、生きる意味を再考する、家族と過ごす時間の大切さ を考える――多くの人にとって、今回のパンデミックが人生をありとあらゆる面から捉え直す機会になったことは間違いありません。 (大野和基「あとがき」)
2021/3/17
「絶対に挫折しない日本史」 古市憲寿 新潮新書
「2009年の衆議院総選挙で民主党の鳩山由紀夫内閣が成立したものの、金銭スキャンダルや普天間基地移設問題で支持率が低下 し、後任には菅直人が指名された」というように、ひたすら内閣の移り変わりが描かれたらどうだろうか。後世の人々は、平成を非常に つまらない時代と勘違いするのではないか。
<なぜ人は日本史に挫折してしまうのか。>
それは、歴史教科書には大したヤマもオチもなく、権力者の歴史が延々と説明されるばかりだからだ。まず、覚える人名や用語が多すぎるのが よくない。自分は専門家ではないから古文書を発見したりはできないが、「こうやって日本史を読んだら、わかりやすいし、面白いんじゃ ないですか」という提案はできる。というこの本は、『絶望の国の幸福な若者たち』でメディアの注目を浴びて以来、若者の立場を代弁し続け てきた気鋭の社会学者による日本史入門近道案内である。
バラバラに生きていた人々が、一部の権力者によってまとめ上げられていく「古代」、それが崩壊していく「中世」、再び列島中が一つに なった「近代」・・・と、日本史はたった三つの時代に分けることができ、この「まとまる→崩壊する→再びまとまる」という流れさえ 押さえておけば、迷子にならずに済む、という掴みを、「これは日本版
『サピエンス全史』
だ!」 (@佐藤優、というか、著者も示唆してるわけだけど)とまで言い切るのは、さすがに言い過ぎだろうとは思うけど、
新型コロナウィルスの影響によって東京オリンピックの開催自体が危ぶまれている。・・・ネガティブな話題には事欠かないオリンピック だったが、まさか新感染症の世界的な流行が直撃するとは誰にとっても予想外だった。
<古代なら大仏でも鋳造していたところだろう。>という、第一部最終章『日本はいつ「終わる」のか(平成〜未来)』は、
『だから日本はズレている』
でも発揮されていた、著者特有のエスプリが効いていて出色だ。
「2042年問題」(団塊ジュニアの寄る辺のない高齢者の集団が大量発生する)に対して、果たしてAIは救世主になり得るのか? 著者が人口減少と少子高齢化に対して、様々な角度から予測してみせる「お先真っ暗」な未来に対し、メディアが持ち上げる若手論客のもう 一方の雄・落合陽一が、「テクノロジーで対処していくことができるので、なんの問題もありません」と断言していることを、「すごいな。」 と揶揄さえしてみせる余裕である。
(そういえば、前に取り上げた
落合陽一の著書
同様、この本にも 各ページ末の注に膨大な量の参考図書が紹介されていて、ホントに読んだのかと脅かされる。)
(ちなみに、暇人はTVでチラ見しただけでは、いまだに古市憲寿と落合陽一の見分けがつかないのだが、じっくり見ることもないので 気にしないようにしている。)
話が随分脇道に逸れてしまった。第一部の「ニッポン全史」に対し、第二部は「神話と物語」、「家族と男女」など、設定されたテーマ別に 改めて日本史が語られる。「本書を読み通せば、日本史の通史を何と8回分もおさらいしたことになる」から、「受験、就職試験にも役立つ」 というのは言い過ぎではないかもしれない。でも、「挫折しない」ことが「面白い」こととイコールであるかどうかは、別である。 少なくとも、暇人は挫折はしなかったけれど・・・
本書に、ほとんど英雄は登場しない。むしろ固有名詞を使うのを意図的に避けてきた。そのせいで誰かに感情移入して読むことは難しい本 になった。代わりに、小説では難しい気持ちよさを意識しながら書いた。それは、まるで神様のような俯瞰した目線で、できるだけ巨視的に 歴史を描くということだ。
2021/3/14
「聖地巡礼 リターンズ」―長崎、隠れキリシタンの里へ!― 内田樹 釈徹宗 東京書籍
大別すれば、“場そのものが聖地”と“物語による聖地”の2タイプに分けることができそうである。前者は地形や特徴的なランド マークをもつなど、いつの世にも厳然と屹立してきた聖地であり、宗教学者の植島啓司氏が「聖地は1oも動かない」と表現したタイプで ある。(釈)
『聖地巡礼 ビギニング』―大阪・京都・ 奈良―
、
『聖地巡礼 ライジング』 ―熊野紀行―
と、これまでは“場そのものが聖地”という地域を巡ってきたのだが、今回、足を踏み入れた地の聖性はあまりに圧力が高く、 「この地からうけたものを、すぐに言語化することはできない」と戸惑うばかりだったという釈によれば、もはや「聖地巡礼の際だけの臨時 シャーマン状態」となって随所でシャーマン系発言を飛ばしながら、物語の重さをしっかり感じ取っていたのが内田だったという。
これはそんな名コンビによる『聖地巡礼』シリーズ第3弾。キリシタン関係の事件や逸話などによって強い宗教性を帯びた“物語による聖地” 長崎巡りの記録である。
<しかし、その物語が尋常ではない。>(釈)
日本の人口が1000万程度の当時に、今の割合と比べれば断然多い40万人以上ものクリスチャンが、長崎にいたという事実が示している ことは、もともと非常に貧しいうえに、歴代領主の苛斂誅求に苦しめらていた島原や天草の民に、ポルトガルの宣教師のみが慈悲の手を差し 伸べたからではないかという。弱者に手を差し伸べることを社会的責務と考えるような人々が制度的に存在しなかった戦国時代の農民は、 慈悲というようなものに触れる機会がなかったのだ。今でも長崎のカトリック人口が日本で最も多いのは、250年前に身内から殉教者を 出したという、宗教的緊張感が長崎人の心性の深いところに染み込んでいるからだ。
人は縁あって宗教の物語と出会う。しかし、「この物語は私のためにあった」という事態になれば、もはや他の物語は必要なくなる。他の 物語では代替不能となる。そのとき、その物語はまぎれもない真実となる。物語が主体的真実となるのだ。そして人は救われる。(釈)
<宗教と信者の双方の切迫が「隠れキリシタン」という解を見出した。>(内田)
「7代後まで信仰を守り続ければ救われる」という日本人伝道師バスチャンの予言を信じた、隠れキリシタンが暮らした地域は長崎県内に いくつもあった。いつか本物の神父さんが来て救われるという「神の国」実現のストーリーに生涯をかけた人々の願いは、250年後に大浦 天主堂に来たプチジャン神父に結実する。遠藤周作『沈黙』の共に泣く神が長崎に与えた、「君は殉教できるのか」という強烈な呪縛は、 キリシタンの心性解釈の多様性によって溶解されるのかもしれない。
釈 「殉教」「バスチャンの予言」「信徒発見」、どれひとつとってみても、強烈な物語です。
内田 長崎の物語は、この先400年経ってもまだ残り続けるでしょうね。
そこにあったのは、「ここで信者を失ったら、列島にキリスト教の最後の足場を失ってしまうキリスト教」の生き延びようとする力と 「ここで信仰を捨てたら、この世界に生きる甲斐を失ってしまう信者たち」の生き延びようとする力の、二つの力の絡み合いが創り出した 何ものかでした。(内田)
2021/3/13
「三つ編み」 Lコロンバニ 早川書房
たらいに浸けられた毛髪は、乳白色になって引きあげられ、着色できるようになるが、ごくわずかの個体はもとの色を保っている。 そんな跳ねっ返りは頭痛の種だ――美しく着色された髪に、頑なな黒や茶色が混入しているのに客が気づくなど、あってはならない。
<なぜか、ランフレッディ家秘伝の技術でも言うことをきかない毛髪がある。>
イタリアで家族経営の家業である毛髪加工を手伝っていた10代のジュリアが、突然の事故で脳挫傷を負った父の後を継がねばならなくなった 時、知らされたのは、会社が多額の負債を抱えて倒産の危機にあるという事実だった。「シチリア人はもう髪の毛を保管しなくなった」 ――原料がなくては、技術上の操業停止なのだ。
よく見なさい、おまえもすることになるんだ。そのとき襲われたにおい、スズメバチの大群のごとく猛烈に襲ってきた、鼻の曲がるような 非人間的なにおいは、いまでも忘れられない。
<じき慣れる、と母に言われた。嘘だった。>
6歳で初めて母の仕事「スカヴェンジャー」(一日中他人の糞便を素手で拾い集める!)に連れていかれた、インドのダリット(不可触民)に 生まれたスミタは、せめて娘を学校に通わせるという願いも絶たれた時、運命と諦めて来世は鼠への生まれ変わりを願う夫を見限り、娘と共に 悲惨な境遇からの脱出を図ろうと決意する。
産休は最低限にとどめ、帝王切開から2週間後にはもとどおりの体型で、疲れた顔は念入りに化粧し、完璧な微笑を浮かべて職場に復帰 した。毎朝、法律事務所の駐車場に入るまえに、近くのスーパーで車をとめ、後部座席からふたつのチャイルドシートをはずし、トランクに 隠した。
<自分の生き方とこれまで築きあげたものを、子供たちは誇りに思ってくれるはず、と考えたがった。>
超過勤務と週末出勤、徹夜の口頭弁論リハーサルも厭わずこなし、2回の離婚などキャリアのために多くを犠牲にしてきたシングル・マザー (3児の母)のサラは、40歳まぢかにして、カナダで評判の法律事務所の次期トップの座を射止め、ようやくガラスの天井を粉砕したと 思った時、爆発寸前との告知を受ける。乳癌だった。
この、映画監督で脚本家のフランス女優が初めて書いた小説が、2017年のフランスの出版界を席巻し、やがて32もの言語に翻訳される 大ヒットとなったのは、不運や試練を果敢に乗り越えようとする3人のヒロインの奮闘を描く「フェミニズム小説」が、女性の自由と自立の 機運が高まる風潮に乗ったこともあるのだろうが、
周囲の色に染まらない“跳ねっ返り”という以外には、何の接点も持たない彼女たちの人生が、“三つ編み”を編み込むように交錯して描かれ ていくこの物語は、凄絶この上ないスミタの境遇と、浮沈の脅威に怯え続けるサラの立場に比べれば、いささか影の薄いジュリアの選択こそを 芯にして、編み上げるのがわかりやすい。
家族のために金持ちとの結婚を迫る母親の意に背き、許されぬターバン男との愛を選んだジュリアは、彼からの助言によりインドから毛髪を 輸入して窮地を逃れる。チェンナイの親戚の元へ逃げる途中、ティルパティの神殿で髪を下ろしたスミタ母娘。その「髪」はジュリアの工場で 加工され、かつらとなってサラの手に渡るのだ。
<サラは鏡にうつる自分を眺める。失っていたものを、髪がいま取りもどしてくれたかのよう。>
サロンをあとにしながら、サラは世界の果て、インドで髪を捧げた女性を思い、それを辛抱づよくときほぐし、加工処理したシチリアの 女性たちを思う。髪をかつらにまとめあげた女性を思う。すると、世界が一致団結して自分の快復のために働いてくれている気がする。
でも、ちょっと待って!
スミタは「それ」以外何も持たないから、「髪」を下ろして神殿に捧げたのだ。何の見返りを得ることもなく。それを受け取ったサラは、 自分のためにではなく、スミタのために闘うのでなければ、これは「フェミニズム」ではなく、「アヘン戦争」の縮図ではないだろうか?
2021/3/12
「<脳と文明>の暗号」―言語と音楽、驚異の起源― Mチャンギージー ハヤカワNF文庫
人間にとって読む能力が本能であるはずはない。なにしろ、文字はごく新しく、数千年前に発明されたばかりだ。ほんの何世代か前 まで、人類の大半には読み書きの能力が根づいていなかった。
<だから、脳の中に文字を読むためのメカニズムが内蔵されているとは考えにくい>という着想から、<文字>は私たちが自然界を認識する 能力をそのまま転用できるようにデザインされており、「ヒトはみな同じ文字を書いている」と看破したのが、
『新記号論』
のご紹介の時にも出てきた、チャンギージーの前著『ヒトの目、驚異の進化』だった。(ゴメンナサイ、まだ積ん読段階で、後先で次に読む 予定です。)
読み書きが本能に見えるのと同様、音声にかかわる二つの能力――話し言葉と音楽――も、本能のように感じられるものの、じつは言語や 音楽など前提にしていない、人間が昔から持つ非常に効率的な脳のメカニズムを転用しているのではないか?
<話し言葉や音楽は、いったいどんな本能をどう活かしているのだろうか?>というのが、著者が挑んだ次なるテーマであり、今回辿り 着いた革新的な仮説とは?
<書き言葉>の文字素が、自然界にある物体の輪郭線の結合部分の特徴的なパターンから生み出されてきたことを、示して見せた前著に対し、 「これは何か?」「どこにあるか?」という疑問に答えることに長けている視覚に較べて、聴覚は「何が起ったか?」をつかむのに向いている ので、<話し言葉>は、固体同士の物理的な相互作用から発生する音に似ており、“ぶつかる”、“すべる”、“鳴る”のたった3つの構成 要素で成り立っているという。私たちの脳に生まれつき組み込まれた言語本能などはなく、ヒトは自然界の音を真似ることによって、すでに 備わった能力を流用して言語能力を発達させてきたのだ。
一方、<音楽>のほうは、人が動いたり何かをやったりするときの音に似ており、音量、音高、テンポ、リズムの4つの要素で成り立っている のだが、これらは、人の動きの基本情報である、距離、移動方向、速度、挙動(足取り)にみごとに符合する。つまり、人間の歩行を模倣して いるというのである。例えば、音高が低いときは動作主が遠ざかりつつあり、高いときは近づきつつあるという、動作音のドップラー効果の 痕跡がメロディーの流れの輪郭に残ることが、『音楽主題事典』に収録された約1万の旋律の分析結果を通して解き明かされるなど、まことに 根気よく、懇切丁寧に示されていく手際には、息を呑むものがある。
ヒトは新たな社会に溶け込むために使いこなすべき技能を、類人猿のころから得意な処理能力に結びつけて構築していかねばならなかった。 そのために一番確実な方法が、新しい技能を徹底的に自然界に似せることだったのだろう。
<言語は“ぶつかる”>、そして<音楽は“歩く”>。
文化が進化するにつれて、自然界を模倣しながら言語と音楽が形成されていき、おかげでホモ・サピエンスは現代人になったのである。
人間がどんな生き物であるかは、解剖したり生息環境を調べたりすればある程度まで判明するだろうが、さらに深く見ると、自ら生みだし てともに進化してきた事物ともからみ合っている。言語や音楽をはじめ、高度に文化的な進化を遂げた知識の総体が、遺伝子や生息環境と 同じくらい、現代の人類を形成する素になっているのだ。ヒトの謎を解くための鍵は、言語などの文化的な所産の奥にも潜む。
2021/3/11
「トンデモ科学の見破りかた」―もしかしたら本当かもしれない9つの奇説― Rアーリック 草思社
「ホルミシス」という単語は、ほとんどの辞書に載っていない。この概念はもっとよく知られてしかるべきものなので、残念である。 この言葉は、大量に使うと有害な作用物質でもごく少量なら有益である、という考え方を指している。
だから・・・<放射線も微量なら浴びた方がいい>?
我々は普通、「放射線によってこうむる生物学的な損傷は被曝量に直線的に比例する」のが一般的だと思っている。(「LNT(直線閾値なし) 仮説」と呼ぶ。)これは、放射線のバックグラウンド・レベルが2倍の地域で一生を過ごせば、放射線の被爆によって癌で死ぬ危険度は2倍に なるだろうということを意味する。(ただし、自然発生的な癌に上乗せされる数が倍になるだけなので、癌で死ぬ危険度そのものが倍になる わけではなく、少し増大する程度であることに注意が必要。)
しかしホルミシスは、「放射線の安全レベルが存在する」(閾値説)だけでなく、「一定レベルまでの放射線被爆は人類の健康を改善して いる」とさえ主張する。3つの可能性(ホルミシス説、LNT説、閾値説)のうちで、放射線が人体に与える実際の影響を最もよく表現して いるのはどの説だろうか?@広島、長崎の生き残った被爆者、A原子力産業で働く労働者、Bバックグラウンド放射線の高い地域と低い地域 など、様々な研究を取り上げ検証した結果は・・・
というこの本は、多数の科学啓蒙書を著した米国の理論物理学者が、世にある「あやしげな科学理論」について、純粋に科学的な方法でその 真偽を論じたもので、『トンデモ科学』と表題にあるため、超能力やUFOやカルトなどを扱った軽い読み物かと思っていたら大間違いの、 つまりはまことに真っ当な科学書なのである。
<銃を普及させれば犯罪率は低下する>
<エイズの原因がHIVというのは嘘>
<「宇宙の始まりはビッグバン」は間違い>
という<トンデモない考え>は、トンデモ度3として、「ほぼ確実に真実でない」と、一刀両断に切り捨てられているが、
<紫外線は体にいいことの方が多い>
<石油、石炭、天然ガスは生物起源ではない>
<光より速い粒子「タキオン」は存在する>
という<奇説>は、トンデモ度ゼロとして、「そうであってもおかしくない」と評価されている。(石油が枯渇しないと困る人たちがいる? とさえ言っているのだ。)
これに対し、<放射線も微量なら浴びた方がいい>という<暴論>については、トンデモ度1(おそらく真実ではないだろうが、誰にも わからない)と微妙なのは、「被爆者の寿命の方が長い」など、一部データに選択的な操作(これはホルミシス効果ではなく、「健康な生存 者効果」である)は認められるにしても、非常に高い線量に先だって低線量の放射線を照射しておくと、高線量による遺伝的障害の程度が おそらく低減することを明白に示すデータは存在するからだ。
もしこの仮説が正しいのなら、たとえば原子力発電所の廃棄物貯蔵所から放射性廃棄物をきれいに除去するために費やされる多額の金は無駄 遣いということになる。
大義の支持者とは違って、真理探究者はなによりもまず、自分たちが確実に知りうることについてつねに謙虚で、新しい証拠――自分たち の見解を支持するものも、それに反対するものも両方ともに――に心を開いていなければならない。あなたが自分でわかっていると考えている ことであるにもかかわらず、あなたが次に出会うトンデモない考えは真実であるかもしれない。しかし、尋常でない主張にはそれを支持する 尋常でない証拠が必要だというカール・セイガンの警句を覚えておくのは、たぶん有益だろう。
2021/3/8
「薔薇の名前」 Uエーコ 東京創元社
よく考えてみれば、1300年代末にドイツ人修道僧によるラテン語の回想記が綴られ、これを1600年代に刊行したラテン語版 があり、さらにこれをネオゴシック調の晦渋なフランス語に訳出した版が刊行され、それをまたイタリア語に訳出してみたことになる。この ような訳稿を私が出版すべき積極的な理由はまずない。
「手記だ、当然のことながら」
と冒頭から、これはあくまでメルクのアドソというベネディクト会修道士が書いた手記を入手して訳出したものなのだ、と弁明し始めた ウンベルト・エーコは、暇人が建築学科の院生だった1976年当時は、イタリアの大学の建築学部で「記号論」を講じている人、として 一躍名を馳せていた。(自分周囲での話)つまり建築にしても文学にしても、およそ「作品」と名の付くものに関しては、<作者の不在>、 <引用の織物>、<概念と隠喩>、<曖昧と多義性>などなど、ちょっと齧っただけの「記号論」を付け焼刃に、やたら小難しく語ってみせる ことが、頭がよさそうに見えてカッコいい、と思い込んでいた時代でもあったので、エーコの「処女小説」とあらば読まねばなるまい、 と勢い込んで読み始め・・・たちまち撃沈してから、今回再読を決意するまで、随分長い時間が経ってしまった。
というわけで・・・時代は、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝が世俗の権威をめぐって鋭く対立していた中世末期。キリストの清貧を信仰の 真理としたフランチェスコ会の決議を、異端的行為と断罪した教皇に対し、皇帝の戴冠を要求する外交特命を受け派遣されたのは、凄腕の 元異端審問官にしてフランチェスコ会修道士の英国人・バスカヴィルのウィリアムであり、これに弟子として付き従ったのが見習い修道士の アドソだった。
名前からして明らかに、名探偵ホームズと助手ワトソンに擬せられた二人が、北イタリアの異貌の僧院で繰り広げられる血腥い連続殺人の謎に 挑んでいく。これはゴシック・ロマン風に彩られた、古典的推理小説なのである・・・かと思ったら、そうでもないことは、エーコ自身が ウィリアムに語らせている。
「わたしは記号の真実性を疑ったことはないよ、アドソ。人間がこの世界で自分の位置を定めるための手掛かりは、これしかないのだから。 わたしにわからなかったのは・・・」
<記号と記号のあいだの関係性だった。>
一連の犯行を支えているかに見えた『黙示録』の図式を追って、ある犯人に辿り着いてはみたが、それは偶然の一致にすぎなかった。相互に 矛盾する原因の鎖が、つぎつぎにたぐられていくと、それらが勝手に独り歩きをして、初期の企みとは無縁な別個の諸関係を生み出してしまう というのである。
「彼には企みなどなかったよ。わたしのほうは間違ってそれを発見してしまっただけだ」
写字室のなかは冷えきっていて、親指が痛む。この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いて いるのかも、私にはもうわからない。
<過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ>
“Stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus”
付記:巻末のこの詩句が『薔薇の名前』の書名の由来のようなのだが、何だかさっぱり意味が分からない。「rosa(薔薇)の s を m に変えて みなさい。」というのがエーコの謎解きだという話もあるそうだが、それこそ著者一流の諧謔(照れ隠し?)のような気もする。
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