徒然読書日記202010
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2020/10/31
「デジタルネイチャー」―生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂― 落合陽一 PLANETS
今、僕の信頼は、静止軌道上の衛星から送られてくる情報とデータベースに託されている。この<計数的な自然>への信頼は無意識的 だが、深く、そして疑いようがない。それは、肉眼では歩くことさえおぼつかない乳白色の霧の中、よどみなく車が走行している事実によって 裏打ちされている。主観的な映像が意味をなさず、己の存在を客観的にしか把握できない暗黒と白色光の中に、僕の意識は浮遊している。
と、おもむろに深い霧に覆われた暗闇の中、曲がりくねった山道を疾走するドライブシーンから、この長い論述が始まっているからといって、 「最近のナビはどんどん性能上がってるね。」「自動運転ももうすぐ目の前だよ。」なんて低次元な話をするのか、などと誤解してはいけない。 (するわけないか。)
<デジタルネイチャー>
生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装すること。それは、「近代 的人間存在」を脱構築した上で、計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、計数的な自然を構築することができれば、言語と現象、アナログと デジタル、主観と客観、風景と景観の二項対立を円環的に超越して、「近代」の呪縛を乗り越えることができる思想だというのである。
<現代は、人間が機械のように振る舞い、機械が人間のような挙動をする時代だ。>
<人間>と<機械>の区別が融解し、何が<実質・バーチャル>で何が<物質・マテリアル>なのかという解像度を超越して、その区別に意味の なくなった世界。そこでは、時間と空間の概念理解がコンピューターの中でのデータのやり取りとして抽象化され、あらゆる物理現象の最適化の ための計算は分散化し自動化できる。<デジタルネイチャー>とは、知能化した超自然とも言うべきものなのだ。
西洋哲学が生んだ<個人>と<社会>、人為と自然、テクノロジーと意味論がもたらしたナイーブな結論を超克し、管理社会と自由意志の ジレンマを、レイヤー化した社会の多様性や、非中央集権型のブロックチェーンによって克服せよ。
コンピューター用語や高等数学は言うまでもなく、ルソー、ベンサム、ヴィトゲンシュタインらの西洋哲学から、荘子、華厳経、芭蕉の東洋思想 まで、縦横無尽(支離滅裂?)に疾走する論旨を追いかけるかのように、300ページ足らずの本文の脇に付記された200余りの詳細な傍注を 読ませることは、少しでも自分が到達した高みの眺望を垣間見せてあげようというご親切なのだろうが、その博覧強記ぶりに凡夫は茫然自失と なり、置いてけぼりを喰らうことになる。
自然の中に、侘び寂を、文化をコンテクストの中で常に自分という計算機資源のルーツを見つめながら、「アート」を作り出していくことが 我々にとっての今後の多動の象徴になるだろう。
というわけで、本書で論じられてきた理論的内容の実践として展開してきたものと美的感覚の接続を議論した成果として、終章に呈示された <アート>なのだが・・・「これ」(確かに世界的評価も高く、物凄いものなのかもしれないが)を創るために、ここまで壮大な理論構築が 必要だったのかと、些か拍子抜けしてしまったのだ。あれだけ学んだ結果が「これ」だけかと思ってしまったのは、暇人の僻み根性なのだ ろうか?(まあ、そうなんだろうね。)
2020/10/21
「ファシズムの教室」―なぜ集団は暴走するのか― 田野大輔 大月書店
この授業では、学生たちが一斉に「ハイル、タノ!(タノ万歳!)」と叫んでナチス式の敬礼をし、笛の音に合わせて教室や グラウンドで行進や糾弾をおこなうのだという。
<そもそも、「ファシズム」とはいったい何だろうか。>
教師扮する指導者のもと、独裁体制の支持者と化した学生たちが、同じ制服を着てファシズムのような示威行動を繰り広げる。この本は、ナチス 時代のドイツを研究対象とする歴史社会学者が、甲南大学の受講生(約250名)を相手に毎年実施してきたという、「ファシズム体験学習」の 舞台裏をも含めた実況中継であり、これから正しく指導しようとするための指導要綱なのである。
「集団で声を出して行動すればするほど、最初は乗り気ではなかった自分が大声を出すようになっていた。最後のひざ枕のカップルに前では、 最前列に自分がいた」「グラウンドに出る前は面白半分な雰囲気だったけれど、教室に戻る際には『やってやった』感がどこか出ていたように 感じる」「自分が従うモードに入った後に怠っている人がいたら、『真面目にやれよ』という気持ちになっていた。」「はじめはためらいが あったのに、最後にはもっと人のいるところで目立ってやりたいと思うようになった。集団のなかでただ従えばいいという気楽さと責任感の薄れ があったからだと思う」
という受講者のレポートを読んでもわかるように、大勢の人々が強力な指導者に従って行動するとき、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に呑み込ま れてしまう。全員で一緒の動作や発生をくり返すだけで、人間の感情はおのずと高揚し、集団への帰属感や連帯感が高まり、敵や異端者への攻撃 に駆り立てられるのだ。
ナチス支配下のドイツ国民は家畜の群れのように独裁者に従っていたように見えるが、単に受動的に言うことを聞かされていたのではなく、 むしろ自分から積極的に欲望の充足を求め、隊列に加わっていったのだった。
ナチスは人びとの欲望を抑圧したというよりはむしろ、それを開放した側面のほうが強かった。ヒトラーを積極的に支持した「彼らは自由だと 思っていた」のだ。と冒頭の1章を充てて、ナチズムという歴史的事例をもとに、ファシズムが人々を巻き込んで暴走していくメカニズムも、 丁寧に分析の俎上に乗せられている。どうやら「ファシズムの本質」とは、集団行動がもたらす独特の快楽、参加者がそこに見出す「魅力」に こそ求められるようなのである。
本当は自分の欲求を満たすことが動機でありながら、自分の行動に責任を問われないという開放感から、思慮なく過激な行動に走ってしまう。 そうした下からの自発的な行動をすくい上げ、「無責任の連鎖」として社会全体に拡大していく運動が、ファシズムにほかならないのだとすれば、 それを悪なるものとして否定するだけでは、誰もがその魅力に惹きつけられ、歓呼・賛同しながら侵略と犯罪に加担していった歴史の教訓を 活かすことはできない。『ファシズムの教室』から得られる最も大きな教訓がそこにある、というのであった。
臭い物に蓋をするような生半可な教育は人びとを無免疫のまま危険に晒し、彼らを加害者に変えてしまうことにもつながる。その意味では むしろ、若い世代に適切な形で集団行動の危険にふれさせ、それに対する対処の仕方を考えさせることが必要だろう。
2020/10/20
「源氏物語が面白いほどわかる本」 出口汪 中経出版
桐壺更衣は、大納言と北の方の間に生まれた。何でも、北の方は皇族につながる血筋で、それなのに大納言は同じ藤原氏でも、大臣に 進めなかったことが、よほど無念だったのか、臨終を迎えるとき、娘を必ず帝のもとへ入内するように言い残した。(『桐壺』巻の一)
(先生)「ところが、帝は数多くの女御、更衣の中から、彼女一人を見そめたんだ。」
(女生徒)「はあ〜、いいなあ。まるでシンデレラみたい。私も桐壺更衣みたいになりたい。」
(男生徒)「でも、女御とか更衣とか、よくわからないなあ。教えてよ。」
というこの本は、数々の予備校で現代国語のカリスマ講師となった著者が、わかりやすく説明するプロとして、専門外の古文『源氏物語』に 挑んだ意欲作である。
(女生徒)「それで、桐壺更衣は帝に愛されて、幸せになったんでしょ?」
(先生)「ところが、そうはならないのが、源氏物語のすごいところなんだ。帝が桐壺更衣を愛すれば愛するほど、彼女は不幸になっていく。」
と、全五十四帖に及ぶ長大な物語を大胆に小説風にアレンジして、男女二人の生徒に平安時代の貴族という特殊な世界を理解させるという スタイルを取っているので、宮中のすべての女性の嫉妬や憎悪をたった一人で耐えなければならなかったことで、しだいに身も心も病んでいき、 ついには死の淵へと追い込まれていく、後ろ盾を持たない桐壺更衣の悲劇のすべてが、実は桐壺帝の深い愛情から始まっている、なんて複雑な 背景もいつの間にか理解できてしまったりするのである。
夕顔のような、はかない女だった。華やかな大輪を咲かせるでもなく、それでいてひっそりと清らかで、一夜のうちに枯れて散るような、 そんな人だった。(『夕顔』巻の四)
(先生)「これが夕顔との出会いだった。はかない恋だった。」
(男生徒)「源氏はどうして素性を隠していたの?」
(女生徒)「そうね。夕顔も名乗らなかったっていうし・・・。」
すでに葵の上という正妻がいる17歳の源氏にとって、ふだんから知っている高貴な女性とは違い、普通の庶民の家に通うのはこれが生まれて 初めてのことだった。しかし、女の素性には薄々思い当たるところもあり、もしそうなら、とても自分の身分を明かすことはできず、誰にも 知られずこっそり忍んでいきたかったのだ。一切の光がない漆黒の闇の中、いつも月の光を背にして、訪れてくる正体不明の男。いつも闇の中で 怯えている少女にとって、それは神の姿に見えたのではないか。
愛してはいけない人だった。どんなに慕っても、一目垣間見ることすらできない。死ぬほど狂おしく思っても、どうにもならないこともある。 (『若紫』巻の五)
(先生)「やがて源氏は恐ろしい知らせを手にすることになる。藤壺女御が懐妊したのだ。」
(女生徒)「藤壺女御って、源氏のお母さんじゃない。信じられない。もう、完全に私の理解の範囲を超えているわ。」
(男生徒)「帝はそのことを気づいたの?」
物語の前半で抱かされた3つの重大な秘密を背負って、源氏は物語の後半へと歩み出すことになる。夕顔の死、藤壺女御との不義、そして若紫の 隠匿。『源氏物語』とは単なるプレイボーイの話ではなく、1千年も昔に書かれながら、現代の我々が読んでも何の違和感を感ずることもない、 愛と罪と運命の物語なのだ。そしてこの本は、『源氏物語が面白いほどわかる本』ではなく、『源氏物語が面白いことがわかる本』だったので ある。是非ご一読を!
私は予備校で教鞭を執っている。そこでは語り口だけで不特定多数の生徒に理解させなければならない。時折、『源氏物語』のエピソードを 話すと、生徒の目が生き生きと輝き出す。それは、誰でも理解できるように、筋道を立てて説明するからだ。『源氏物語』は語り口一つで、今の 若い人にも十分面白くて、刺激的な物語なのである。
2020/10/19
「嘘と正典」 小川哲 早川書房
「現在の共産主義思想は、マルクスとエンゲルスが共同で書いた『共産党宣言』が元となっています。マルクスとエンゲルスのどちら かがいなかったとして、共産主義は存在していたでしょうか?」
CIAモスクワ支局の工作担当員ホワイトは、グルジアのホテルのバーで偶然隣り合わせた、モスクワ大学のドイツ人留学生クラインと興味深い 会話を交わす。『共産主義の起源』という彼の研究テーマは、「マルクスが思想を、エンゲルスが経済を担った」という観点から、マルクスと 出会う前のエンゲルスを扱っていた。フランクフルトの空港でまたも偶然再会したクラインから、エンゲルスがある電信技師の証言で島流しを 免れたという裁判記録の話を耳にした時、ホワイトはモスクワ電子電波研究所の静電加速器研究者ペトロフとのコンタクトに成功し、入手した ノートの情報の裏を取っているところだった・・・
という、今回書下ろしの表題作『嘘と正典』を大トリに配して、これまで雑誌に発表された短篇5篇を収めた、これは小川ファン待望のSF 短篇集なのである。
19年前の過去に戻って、証拠の映像を撮って戻ってくるという、空前絶後のマジックを成功させたのち、母が自殺した42年前へと失踪して しまった父。稀代のマジシャン竹村理道のそのトリックを解くため、同じマジックに挑戦しようとする姉。果たして「タイムマシン」は本物 だったのか?(『魔術師』)
64年の人生で積み上げてきたものすべてを、奇麗に処分して亡くなった父は、なぜか「テンペスト」という名の凡庸な競走馬だけを作家の僕に 遺していった。そんな父が病室で書いていたという、悲劇の名馬「スペシャルウィーク」の系譜を遡る未完の原稿の、続きを書きつなぐことに、 僕はいつしか夢中になっていく。(『ひとすじの光』)
未来はまだ存在していないのだから「未来は変えられる」というのは嘘であり、もし何かを変えられるとしたら、それはすでに存在している 「過去」なのです。と、<王>に向かって男が語り出した寓話のような真実の話。それは<失い続けた男>が「現在」を「過去」に譲り渡すこと で果たした<永遠>の復讐だった。(『時の扉』)
音楽を「貨幣」と「財産」の二つにわけて管理している、少数民族ルテア族が暮らすフィリピンのデルカバオ島へと高橋大河が出掛けることに したのは、仲違いしたままだった作曲家の父が遺した「ダイガのために」という楽曲の謎を解くためだった。これまで一度も演奏されたことが ない最高価値の音楽を聞くために。(『ムジカ・ムンダーナ』)
などなど、それぞれの作品ごとに同じ作家が書いたとは思えないような趣向を凝らしていながら、背後に流れている「時間」というテーマへの 拘りは共通している。
というわけで、ペトロフから「電子を過去の任意の場所に放出することができる」という重大な発見を打ち明けられたホワイトは、冷戦に つながったソ連の誕生を阻止するには、エンゲルスを島流しにするという<共産主義を消滅させるための偶然>を引き起こせばいいと思い付く のだが、この用意周到な作家が企んだ筋書きがそんなに「甘く」ないことくらい、冒頭唐突に展開される裁判の中ですでに明かされていたことに 気付かねばなるまい。
4年前から準備はできていた。《アンカー》として《正典》を守るために、そして世界の《計算量》を減らすための準備だ。あの日、 《正典の守護者》の《中継者》からメッセージを受け取って以来、落穂拾いのような地味な任務を繰り返してきた。今日の裁判で証言をする 任務はその締めくくりだった。
2020/10/18
「心臓に毛が生えている理由」 米原万里 角川学芸出版
口頭で発言するとき、人は、なぜか10人中7〜9人が、文頭に、次のようなフレーズを添える。
“I think that〜/We consider that〜”
(わたしはロシア語の同時通訳者だが、この文を読んでくださる大多数の方々には、馴染みがないと思うので、英語の例文で説明する)
同時通訳で長たらしい複文が出てくると、文のピリオドまで聞いているわけにはいかないので、フレーズ単位で片づけていくことになる。 たとえば・・・“I think that she loves him.”なら、「彼女は彼を愛している、とわたしは思う」ではなくて、「わたしの考えでは、彼女は 彼を愛している」という風に。しかし、発言者は「わたし」なのだから、考えの主も「わたし」であることは分かり切っており、「わたし」は 省いても構わないのではと考えた同時通訳初心者が、「思うに、彼女は彼を愛している」と訳しているのを横目で見やりながら、「フン、ひよこ だわね」とベテランは、心の中で呟くことになるというのである。そう思っているからこそ、そう発言するのであることを考えれば、情報を 伝えることに主眼を置けば、「彼女は彼を愛しています」と訳せば十分なのだ。さて、逆に、原発言が日本語だった場合・・・
というこの本は、
『嘘つきアーニャの真っ赤な 真実』
で大宅壮一NF賞を、
『オリガ・ モルソブナの反語法』
でドゥマゴ文学賞を受賞した作家であり、
『打ちのめされるようなすごい本』
などで、手練れの書評家としても名高かった著者が、各誌に書き遺した エッセイ集なのだから、どの一節を読んでも面白いことは間違いないのだが、特にロシア語同時通訳者として体験したエピソードに秀逸なもの が多いように感じる。
ロシアでは何度も同じ単語を反復するのは野暮であり、そんな発言をするくらいなら、黙っていたほうがましだ、という意地が発言者に漲って いるため、「幼いミーシャ」「ライサの夫」「ペレストロイカの開始者」「グラースノスチの父」「ソ連最初の大統領」等々、多種多様に使い 分けられる単語を訳した著者は、50回以上「ゴルバチョフ」という語を発することになる。子供の頃から叩き込まれた美意識に従った発言者の 努力は、日本語に訳す時点で水泡に帰するのである。
さて、訳す方向が逆になるともっと困ったことになる。日本人スピーカーは「森首相は・・・森首相は・・・」の連発で、時々「総理」と言い 換えるくらいなのだ。このまま訳したのでは、聞き手のロシア人には恐ろしく幼稚で無知無教養な人と思われるので、同時通訳ブースの中で 身悶えしながら言い換えようとするのだが、頭に浮かんでくるのは「霞が関の蜃気楼」「サメの脳味噌の持ち主」「日本を神の国と思い込む リーダー」・・・と、口にするのもはばかられるフレーズばかりだった。
というわけで、冒頭のエピソードに戻ることにするけれど、「彼女は彼を愛していると(わたしは)思います」というのを訳すには、最初から、 “I think that〜”という構文にしておけばよいわけだが、日本語の場合、「彼女は彼を愛しているとは思わない」なんて最後のところで 裏切られることもある。そんな時には、“I think that she doesn't love him.”(彼女は彼を愛していないと思う)と切り抜けることになる のだが・・・
しかし、「彼女は彼を愛しているとは思わない」と「彼女は彼を愛していないと思う」の間には微妙な違いがある。このミクロな差異が気に なって仕方がないタイプの人には、もちろん同時通訳という職業は向かない。同時通訳者の心臓が剛毛に覆われていると言われるのは、そのせい だろう。
2020/10/17
「『読まなくてもいい本』の読書案内」―知の最前線を5日間で探検する― 橘玲 ちくま文庫
「何を読めばいいんですか?」と訊かれるたびにぼくは、「それより、読まなくてもいい本を最初に決めればいいんじゃないの」と こたえてきた。
「現時点で、1億2986万4880冊の書物の存在が確認されています。あなたは何冊読みましたか?」というのは、シリコンバレーの ベンチャー企業のオフィスに貼ってある「人生がもっと長くなったら何をしますか?」というポスターに添えられたコピーだそうだ。人類の知の 圧倒的な堆積を知れば、どの本を読んだとか、何冊読んだとかの比較には何の意味もなく、まずは選択肢をばっさり削ってしまえばいいことに 気付く。
<でも、どうやって?>
20世紀半ばから、従来の「学問」の秩序を組み替えてしまうほど大きな変化が起き、主に「人文・社会科学」と呼ばれる分野に甚大な影響を 及ぼし続けている。この“ビッグバン”と形容するほかない潮流の原動力になっているのが、<複雑系><進化論><ゲーム理論><脳科学> <功利主義>などの爆発的な進歩だという。
<これさえわかれば、知の最先端に効率的に到達する戦略はかんたんだ。>
書物を「ビッグバン以前」と「ビッグバン以後」に分類し、ビッグバン以前の本は費用対効果に見合わないので、読書リストから(とりあえず) 除外する。こうして「知のパラダイム変換」を乗り越えた最新の「知の見取図」を手に入れてから、古典も含めて、自分の興味のある分野に 分け入って行けばよいというのだ。こうした考え方は<邪道>であり、とくに人文系の学者からは「人間力を鍛えるためには教養が必要だ」と いうお定まりの反論も沸き起こるかもしれないが、彼らは大学で教えている学問(哲学や心理学、社会学、法律学、経済学のことだ)のほとんど が、もはや時代遅れであることを知っていて黙っているのではないのか。
<古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、なんの意味もない。>
というわけでこの本は、「読むべき本」の膨大な渦に巻き込まれて悩む若者たちに、余計な苦労をしないようにという配慮から描かれた道標 なのではあるが、暇人のようにいまだに<古いパラダイム>を生きている人間にとっては、いささか厄介な読書案内であったことを、正直に 告白せねばならない。「もう読んでしまった本」が「読まなくてもいい本」として除外されてしまうということは仕方がないとしても、という ことは逆に、知の最前線への探検に赴こうとすれば、「まだ読んでない本」が章末のブックガイドに続々と列挙されていることになるわけで、 しかもそれが、暇人の知的好奇心を余計に刺激して、「これから読んでみたい本」の棚に加わることは必定の、まことに憂慮すべき事態に 陥ってしまったのだった。
本書を読みすすめながら、私はかすかな胸の痛みとともに青春時代のあれこれを思い起こすことになった。人生において無駄な苦労をあえて する必要などまったくない。だが、すでにしてしまった苦労をどのように位置づけて無害化ないし再利用するかは、重要な課題のひとつである。 本書はそうした課題を与える本でもある。(吉川浩満「解説」)
2020/10/14
「物理数学の直観的方法」―理工系で学ぶ数学「難所突破」の特効薬― 長沼伸一郎 ブルーバックス
果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、 予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が 1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。
というのは、<かつて「オイラーの公式」をこれほどいとおしく表現した文章があっただろうか?>と、暇人も絶賛したことがある、「πとiを 掛け合わせた数でeを累乗し、1を足すと0になる。」ことへの、小川洋子(
『博士の愛した数式』
)による文学的オマージュだったのだが・・・
まず、原点を地球の北極点と考える。そしてこの点に、発信器つきのビーコンか何かが設置されているとする。一方この附近にいる船には これを受ける受信器があって、この電波により北極点のビーコンとの間の距離が測定できる。船の受信器にはエンジンのスロットルレバーが 連動しており、北極点からの距離が遠ければ遠いほどスロットルは開かれてエンジンの出力は増す。
というのが、「eのαt乗」という関数を、船の航行をモデルに一般化した、物理数学の直感的方法による映像描写だということになる。 「eのαt乗」をtで微分すればα*「eのαt乗」となるから、船は北極点からの距離にαをかけた速度で進んでいくわけなのである。 さて、この船をeの0乗=1における出発点(1.0)から、北極点をはさんで対称の点(−1,0)までもっていくにはどうすればよいか。 直通で行こうとすれば北極点の上を通過しなければならず、そこでは速度0となるため船は止まってしまう。よって迂回コースを見つけねば ならない。ここで「eのit乗」を考えると、速度はiとなるから方向が右90度に回転して、北極点を常に左側真横に見るように舵が コントロールされていくことになる。つまり、「eのit乗」という関数は(1,0)を出発点として、原点を中心に半径1の円を描いて (−1,0)に至るということが分かるのである。では(−1,0)に到達するまでに、一体どのくらいの時間がかかるかといえば、半径1の 半円の円周上(=長さπ)を時速1で航行するのだから、π時間である。よって、「eのiπ乗=−1」(証明終わり)
といった具合に、ベクトル解析、フーリエ変換、複素積分など、理工系学生の前に立ちはだかる数学の「10の難所」を次から次へと取り上げ、 厳密さよりも、学ぶ目的や概念自体の粗筋だけでもわかる方が早道で、それにはイメージを描くことの方が重要だと説く「福音の書」の、 これは復刻普及版なのである。
一般読者から見れば専門的でありすぎるが、専門家の目からすれば簡略に過ぎるという「中間のレベル」をカバーする方針をとった、という ことなので、当然、暇人(理工系ではあるが、気分は文科系の一級蘊蓄士で〜す)には歯が立たない部分も多々あったことは認めざるを得ない。 でも「オイラーの公式」については、小川洋子の解釈も「簡潔な軌跡を描く」というあたりが、結構核心をついているような気がして、 取り上げてみた次第。これは決して、負け惜しみではない。
かつてオイラーが「真の数学者とはeのiπ乗=−1という式の正しさが(計算用紙を介さずに)理解できるものである」といった意味の ことを言ったと伝えられている。オイラーがもっていたイメージがどんなものだったかは知るよしもないし、またこれと同じだったとも思わない が、それは存外、こういった素朴な感じのものだったかもしれない。
2020/10/8
「ダーウィンの『種の起源』」 Jブラウン ポプラ社
彼の祖父の一人は、詩人であり、初期の進化論者である、医者のイラズマス・ダーウィンであり、もう一人は、有名な陶工の ジョサイア・ウェッジウッドである。
歴史家たちは彼の才能を二人の祖父に帰したがるのだが、知的で、自由思想で、科学好きの家庭的雰囲気の中で育ったという以外、性格的に似た ところはなかった。ようするにダーウィンは、のちに業績を上げるにあたっての物質的基盤を具え、「金に不自由することのない、英国の インテリ」として生まれたのである。
<『種の起源』の歴史は、それが出版されるずっと以前に始まっていた。>
というこの本は、大著のダーウィンの伝記で知られる世界的な生物史家が、その豊富な知識に基づき、ダーウィンの生い立ちから晩年までの足跡 をたどることで、ダーウィンなる人物が「進化」という現象の見取り図を描いたみせた、『種の起源』という著作の意味と、その後に巻き起こっ た論争の背景を説いたものなのである。
「生存のための闘争を理解する素地は十分にあった。・・・このような状況では、より適した変異が保たれ、より適していない変異が捨て去られ るのだということに、すぐに気づいた。こうして私はついに、使える理論を発見したのである」。(『自伝』)
ビーグル号での航海を終え、マルサスの『人口論』の知見との出会いなどを経て、深い考察の末に着想することになった「自然淘汰」という概念 は、自然界における神の役割を否定し、英国の生活と制度の中に深く根を下ろしている自然神学の伝統を覆すことになる「危険な考え」である ことは理解しており、それから20年後に『種の起源』として出版されるまで、その理論のエッセンスは揺らぐことはなかったとはいえ、 ダーウィンは決して「無神論者」ではなかった。<種は神の手を経ずに出発した>という画期的な考えを思いつき、それを確信するに至った ・・・だけだったのである。
「私たちの祖先はサルなのか?」「私たちは、アダムとイブの物語を投げ捨てて、この世における我々の目的は動物のそれと変わらず、無意味で ある、と考えるしかないのだろうか?」という論争を巻き起こしたとはいえ、『種の起源』という著作は、聖書が本当に真実であるか否かを 論じるための問いかけなどではなかった。19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、大英帝国の勢力拡大期には、競争と前進が必要不可欠 な「進化」の神話が語られるようになり、「適者生存」という言葉の導入によって、自由主義や優性主義が闊歩して、ダーウィン主義の科学的 側面と遺伝学との齟齬が問われることにもなった。
そして21世紀の初め、学識の発展とともに洗練された「自然淘汰」という観念は、全地球的規模でたいていの生物学的考えの基礎となっている。 『種の起源』という書物は、ダーウィンが主要な論点において決して揺るぐことがなかったがゆえに、今日まで生き残ったというべきなのだろう。 「自然淘汰」という観念が表しているように、それは読み手がどう読みこなすによって、いかようにも生まれ変われるもののようなのである。
それゆえ、彼の著作は、教会の伝統や社会の道徳観に対してことさらに挑戦しようとした、孤立した声ではなく、西欧の思想をさまざまに 変容させるもととなった中心点と見ることができるだろう。
2020/10/8
「室町の覇者 足利義満」―朝廷と幕府はいかに統一されたか― 桃崎有一郎 ちくま新書
室町時代に、仮想現実(バーチャルリアリティ)空間を作った人がいた。まさかと思うが、本当だ。その仮想現実の名残を、かなりの 確率であなたは見たことがある。
第一層が公家文化の寝殿造風、第二層が武家文化の書院造風、第三層が禅宗様と、階層ごとに様式が異なる混合体(キメラ)で、寺の代名詞に までなった全面金箔貼りの仏教施設「金閣寺」がこれほどまでに異様なのは、造らせた足利義満という人物の思想が異様であるからだ。金閣寺は 北山という場所にあるので、金閣寺が代表する当時の文化を、教科書では「北山文化」と呼びならわすことになってはいるが、それは「北山 (だけで、10年間だけ、義満だけが愉しんだ超ローカル)文化(というより個人の趣味)」だった、というのである。
父・義詮の死によって、足利義満が10歳で三代将軍を継承した時、室町幕府は管領細川頼之の主導で運営されており、南北朝は分裂したまま だった。敵対する勢力を屈服させてから創立された頼朝の鎌倉や家康の江戸とは異なり、足利一門の大名たちを統制できないまま、見切り発車で 成立した室町幕府において、将軍の絶対的な権力を確立することが容易でなかったのは、自立する大名たちは幕府と利害が対立すると、安易に 「南朝」の権威を頼って反乱を匂わせたからだ。「南朝を始末すべきだ」と気づいた義満が、後見を脱して真の将軍として振る舞い始めた時に 描いた構想は、武力による殲滅でも、南朝と幕府の講和でもなかった。
<自分が将軍であるまま、朝廷の一員となり、朝廷の主導者となればよいのだ。>
軍事的には優勢でも、身分的には下位の幕府が、南朝と講和することは永遠にできない。ならば、朝廷と幕府は従来の形のまま結合し、義満が 北朝の代表となる。そう考えた義満は、朝廷の掌握という計画を始動し、二条家に取り入って朝廷儀礼の奥義を究めることで、ついには昇進と 所領与奪の権力を握ることに成功する。単なる室町幕府の将軍を超えて、朝廷も何もかもを支配する、画期的な統一権力としての地位、 『室町殿』の誕生であった。
というこの本は、先にご紹介した
『平安京は いらなかった』
と
『武士の起源を解き あかす』
において、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史という専門の立場から、新たに掘り起こした確かな史料に基づきながら、 まことにユニークな仮説を提示してみせる著者が、「天皇の地位を奪おうとした」という説すら流布された、史上に類がない絶対権力者・足利 義満の“規格外”ぶりに迫ってみせた意欲作なのである。
応永2年(1395)、半ば臣下で半ば君主という“武士の長であると同時に廷臣の長である者”としての人臣位を極めた足利義満は出家した。 しかし、後継の4代将軍義持には、「室町殿」という最高権力者の地位はもちろん、幕府の実権さえ継承されなかったため、『室町殿』の内実が 変わった。“武士の長と廷臣の長を従える何者か”に変貌したことををどう目に見える形で表すか、という次の課題への回答として、『北山殿』 が誕生したのである。
出家により、室町殿が幕府と朝廷から飛び出し、どちらの一員でもなくなり、完全に外部からそれらを支配する立場になった。そのことを 可視的に表現するためには、朝廷・幕府の物理的実体である京都から出ればよい、と。そうした観点から探した時、京都北西の北山は 最適だった。
先頭へ
前ページに戻る