英語好きのあなたに質問です。
“I wish I knew.”
を、あなたならどう訳しますか?
と東大の新入生に聞けば、十中八九「私がもし知っていればなあ」と訳すのは、これが仮定法過去の典型文であり、「そう訳さないと減点されて
しまう」からだ。しかし、「ようするにどういう意味?」と尋ねれば「知らないってことだよ」とちゃんとわかっており、「でもそんなの訳じゃ
ないでしょ?」と逆襲されるという。
というわけでこの本は 30年以上にわたって東大で英語や翻訳について研究し教えてきた著者が、退職記念として行った最終講義をまとめた
ものなのであり、書かれてあるものを「文法的」に正しく解釈し、辞書の言葉で置き換えるのが翻訳だと思い込んできた人の「常識」を破壊
する、貴重な翻訳経験の宝石箱なのである。
“At the Court of an Emperor ( he lived it matters not when ) there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one,
who though she was not of very high rank was favoured far beyond all the rest.”
というのが、世界で初めて『源氏物語』の全編を日本語以外の言語に訳したAウェイリーによる、第一帖「桐壺」英訳版冒頭の一節なのだが、
時代的にも地理的にもかけ離れた文化の中で生きている読者にも意味が分かり、内容がイメージできるよう説明的な情報が入るため、原文より
長くなっている。
“In a certain reign there was a lady not of the first rank whom the emperor loved more than any of the others.”
と、これに比較してサイデンステッカーの訳は、事務的と言いたくなるほど飾り気のない単純な構成だが、「いづれの御時にか・・・」という
原文には忠実である。
「最初から英語で書かれたかのような英語に翻訳する」、英米の翻訳ではスタンダードなウェイリーのスタンスが「同化翻訳」と位置付けられる
のに対し、オリジナルの言語の言い回しや構文が見えるようにして、明らかに翻訳であることが分かるように訳すサイデンステッカーのスタンス
は「異化翻訳」と呼ばれる。それは単なる単語レベルの置き換えなのではなく、「なんとはなしに不自然なのは異国の物語だからなんだろう」
と、英米読者に感じさせることこそが肝なのだ。
“Brian looked over the top of his evening paper. He was holding the remote in his hand but he didn't turn down the sound.
‘He wasn't left, was he?’”(『 Burninng End 』ルース・レンデル)
寝たきりの姑の世話を自分だけがさせられるのは「男には下の世話ができないから」と言われ、「じゃあ、お義父さんだったら?」と尋ねた妻
への夫の反応なのだが、神のような視点から三人称の語りで書かれている原文のスタイルは英語ではいいとして、これをそのまま引き継いで
日本語に訳したのでのは平板な印象をまぬかれない。
<夫はこっちを見たけれど、読んでる夕刊を下げもしない。リモコンを持ってるくせにテレビの音は大きいまま。それで「残されたの、父さん
じゃないだろ?」ときた。>
と、視点を妻に切り替えるだけで、耳にタコができるほど聞かされた妻の不平不満にうんざりする身勝手な夫という、日本のお茶の間の風景が
浮かび上がってくる。たいていの人は西欧で言う逐語訳・自由訳を、それぞれ日本の従来の直訳・意訳と同じものとして論じようとするが、
はたしてそれは正しいのか?というのである。 西欧語同士と、西欧語と日本語では、その間の距離がまったく異なっており、それはもはや質的に異なったものとして扱う必要があるのでは
ないかというのが私の直感ですが、そのことについても誰も議論してくれません。