徒然読書日記202005
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2020/5/30
「理不尽な進化」―遺伝子と運のあいだ― 吉川浩満 朝日出版社
生物の歴史が教えるのは、これまで地球上に出現した生物種のうち、じつに99.9%が絶滅してきたという事実である。私たちを 含む0.1%の生き残りでさえ、まだ絶滅していないというだけで、いずれは絶滅することになるだろう。
生き残った生物は、なんらかの点で生存に有利だからこそ生き残ったのだから、そこで描かれるのは紆余曲折はあれどサクセスストーリーの歴史 となるだろう。しかし、これを絶滅した敗者の側から見た失敗の歴史として捉え返してみると、そこにはまったく異なった眺望が開けてくること になる。
<絶滅した生物は、結局のところ、遺伝子がわるかったのか?それとも運がわるかったのか?>
その生物がどれだけ優れているかとか、どれだけ環境に適応しているかといったこととは関係なく、純粋に運のみが生死の分かれ目を左右する 「弾幕の戦場」と、同時に存在するほかの種や、新しく生じてきたほかの種との生存闘争の結果という「公正なゲーム」の2つのシナリオが、 絶滅への筋道としては考えられるが、現在の生物の多様性が生み出されるうえで支配的な役割を演じたのは、実はこの2つが組み合わされた、 より複雑な第3のシナリオなのだという。
「ある種の生物が生き残りやすいという意味ではランダムではなく選択的だが、通常の生息環境によりよく適応しているから生き残りやすい というわけではない」。それは「遺伝子」を競うゲームの支配が「運」(途中でルールが変わるとか)によってもたらされるシナリオという 意味で、まことに「理不尽な絶滅」なのである。
<でもそれは、私たちがふだん抱いている進化のイメージとはずいぶん異なる。>
進化論の根幹をなす「自然淘汰説」という常識が想定するのは、競争と闘争を通じた優勝劣敗の掟が支配する能力主義の世界のはずではなかった だろうか?いや、ご心配なく。自然淘汰も理不尽な絶滅/生存も、どちらも正しいのだ。「自然淘汰説」を正しく理解してさえいれば・・・ それは、「適者生存」という言葉にあるとおり、生き延びて子孫を残す者を、まさしく適者(=適応した者)として理解すればいいだけのこと なのである。
自然の世界で適者であるための条件は、生き延びて子孫を残すということだけだ。それを弱肉強食や優勝劣敗の掟で包み込むのは、自然淘汰 の原理を人間の勝手な価値観(多くは時代の要請)とすりかえる誤りである。
「適応しなきゃ淘汰されるぞ」といった説教や、「ものすごく進化したな」といった感想、あるいは「進化極まる」などといった世間にあふれる キャッチコピーは、すべて水戸黄門の印籠的な「言葉のお守り」なのであり、私たち非専門家が語る「進化論」から、説教、感想、ポエムを 除けば、ほとんど何も残らないほどなのだ。
こうして、進化論の専門家の間では主流派(ドーキンスとか)となった「適応主義」に対し、孤独な闘いを挑んだのがグールドだった。
「進化生物学は、歴史を扱う科学の最たるものである。ところががちがちの適応論は、生物と環境との関係を現時点での最適性という孤立した 問題と見なすことで、皮肉にも歴史を無意味なものとして片づけてしまっている」(SJグールド『嵐のなかのハリネズミ』)
結局は惨めな負け戦に終わってしまう、このグールドによる適応主義批判を「逆なでに読む」ことによって、素人の混乱と専門家の紛糾とに 等しく光を当てること。それがこの<『種の起源』を人文科学的なオープンスタンスで論じた結果、多くの思考のヒントを供する寓話(@島田 雅彦)>の後半を占めるハイライトなのである。
胸騒ぎの訪れとともに、私たちは「それは人間であることとなんの関係があるのか」「それは進化/進化論となんの関係があるのか」という 逆向きの問いの前に立たされることになる。本書とともに育んできた理不尽さの感覚が、問いの往復路線へのチケットになるかもしれない。
2020/5/28
「罪の声」 塩田武士 講談社文庫
俊也は取り憑かれたように何度も男児の声を再生した。どこかに相違点はないか。そればかりを考えてクリックを続けた。だが、文言 も周囲の「ゴー」という音の大きさも全て同じだった。聞くほどに疑念が確信へと変わっていく。
「これは、自分の声だ。」
入院中の母から探し物を頼まれた曽根俊也が、父の遺品の中から偶然発見したのは、黒革のノートと透明のプラスチックケースに収まった カセットテープだった。日に焼けた紙に濃いブルーの万年筆でぎっしりと英文が埋まった、かなり古いと思われるノートには、<ギンガ>と <萬堂>の会社情報が記されたページがあった。そしてカセットテープから流れてきたのは、「きょうとへむかって、いちごうせんを・・・」 と、録音を意識して無機質ながら、紛れもない幼いころの自分の声。それは30年以上も前に複数の製菓・食品メーカーを恐喝し、毒入り菓子 で世間を震撼させたまま未解決となった、あの<ギン萬事件>で使用された声だった。
というわけでこの本は、いうまでもなくあの<グリコ・森永事件>をモデルにして書かれた、あくまでフィクションの謎解き物ではあるのだが、 事件の発生日時・場所はもとより、犯人グループからの挑戦状の内容から、当時の事件報道まで、ほぼ史実通りに再現したというだけあって、 大日新聞社会部の年末企画「昭和・平成の未解決事件特集」に、文化部から応援として駆り出された記者・阿久津英士と共に、埋もれた新事実 発掘に果敢に挑戦して、<たぶんこうだったんじゃないか>劇場(@チコちゃんに叱られる)の再現を試みるというのも、それはそれで一つの 正しい楽しみ方ではあるだろう。
しかし、寡黙で仕立て屋一筋の職人として生涯を閉じたはずの父が、あんな事件に関わっていたとはとても考えられないと、悶々とするうちに、 阿久津の調査取材活動の進捗と交錯するように進められていくことになった、「事件に巻き込まれた子供」としての俊也の苦渋に満ちた疑似 探偵行脚の方が、どちらかといえば、この物語の主筋であることに気付くなら、これはむしろ<こんな人生があったのかもしれない>劇場の 傑作として味わうべき本なのだろう。
犯人が録音テープに使ったとされる子どもは3人。うち1人の未就学児は自分だと考えていいだろう。残る2人は十代の少女と小学校低学年 ぐらいの男児と言われている。
<「テープの子」は自分だけではなかった>
「僕は録音テープについて記憶がありませんでした。でも、当時小学2年生だった聡一郎さんは憶えていると思うんです。知っていたとしたら、 なおさら苦しんだはずです」
姉を目の前で殺害され、母を捨てて逃亡し身を隠し続けてきた、生島聡一郎の壮絶な半生にようやくピリオドが打たれ、最愛の母との再会を 果たした記者会見の席で、「念のために、お互いが親子であると証明できるもの」をと促されて、母の千代子がおずおずと差し出した、膝の上 で握り締めていた古い巾着袋。そこから出てきたものは、母子が逃げ込んだ兵庫県の作業員寮で、母の誕生日に「何もあげるもんないから」 と息子がくれた、一番大切にしていた宝物だった。
「これ・・・、ギンガのキャラメルのおまけなんです」
ギンガのおまけの箱から、あの青いスポーツカーを見つけたとき、彼は無邪気に喜びの声を上げたはずだ。純粋な笑みを湛え、家族に おもちゃを自慢する男の子の姿が頭に浮かぶ。俊也は息が苦しくなるほど胸を圧されたが、スポーツカーが聡一郎のもとへ戻ってきたことを 希望と捉えた。
2020/5/20
「ヤクザマネー」 NHK「ヤクザマネー」取材班 講談社
男は時間ちょうどに姿を現した。・・・人目を引く大きな体。ダブルのダークスーツに、ストライプのワイシャツ。シャツの第一 ボタンまできちんととめて、やや派手目の柄物のネクタイを結んでいた。第一印象は、中小企業を経営するワンマン社長といった感じである。 しかし・・・
<左手の小指の第一関節から先がなかった>
平成19年8月、場所は東京・銀座の日本料理の名店。この半年間、複数の暴力団への取材交渉を進めてきたが、記者との面談取材には応じて くれた組員も、「お前、頭がおかしいのか。何の得があって、お前の取材に応じなきゃいけねえんだ」と、いざ撮影となるとあっさり断られ続け てきた、NHKテレビドキュメンタリーの取材班の面々にとって、これが初めて突破口が開けた瞬間だった。
「コクピットの撮影は構わない。しかし事務所の全体はダメ。それからいちばん大事なことだが、自分が誰なのか絶対に分からないようにして くれ」暴力団、とりわけ資金力のある経済ヤクザを追いかけ、暴力団員が「シノギ」と表現する、資金獲得活動の現場への潜入を狙いとする、 密着取材が始まったのである。
<ヤクザマネー>それは証券市場やITベンチャー企業への投資や融資など、日本社会の表経済にも深く介入して膨張を続ける暴力団の闇の 資金のことだが、全国の暴力団が得る1年間だけで1兆円を超えるとされるその資金の、実態はまだはっきりとは分かっていないというのが 現状なのだった。
腕をむき出しにして、色落ち加工が施されたジーンズをはき、しかも裸足というラフなスタイル。およそ暴力団の事務所には不釣り合いな 格好の男が、そこにいた。長時間座っていても腰が痛くならないような、ゆったりした黒革のイスに、足を組んで悠然と座っていた。
ごくありきたりのマンションの一室の6畳ほどしかない無機質な空間に、ずらりと並んだ12台のディスプレイとパソコン、そして床の上を 這うむき出しの配線。「コックピット」という名のデイトレードルームに土日を除いて通い詰める、濃いカーキ色のタンクトップの男は、時折 右手でマウスをクリックしながら説明した。
「1回買ったり売ったりするのに1000万円以上のロットが多いんですよ。1日に20回くらいトレードする日もあるんですよ」
毎日3億円を動かし、1日に1%の利益を出させて、月に20%。イコール6000万円が転がり込んでくるという、「なかなかいいシノギ」 なのである。暴力団が資金を出し、運用はプロのトレーダーに任せる。表経済の世界で大手企業が外部委託を進めるように、裏経済でも 「シノギ」のアウトソーシングは進んでいた。
・ベンチャー企業の駆け込み寺となったブラックエンジェル
・「企業舎弟」の時代からから、カタギ「共生者」の時代へ
・たとえヤクザだろうと稼げるならば「勝ち組」という世評
<膨張するヤクザマネーは、日本という国のひとつの姿を、映し出しているのだ。>
闇の資金は、経済の中枢を侵蝕し、すでに抜き差しならないところにまで来ている。それを許したのは、新興市場とベンチャー企業育成の 名のもと、十分な検証も修正も行わないままに推し進められてきた国の規制緩和政策。そして、マネーゲームに踊る経営者や投資家をもて はやし、カネこそすべてと言わんばかりの「拝金主義」に毒されてしまった私たちの社会ではないだろうか。
2020/5/19
「売春島」―「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ― 高木瑞穂 彩図社
・警察や取材者を遠ざけるため、客はみな監視されている
・写真や動画を撮ることは許されない
・島から泳いで逃げた売春婦がいる
・内定調査に訪れた警察官が、懐柔されて置屋のマスターになった
・売春の実態を調べていた女性ライターが失踪した
「“売春島”というヤバい島がある」
名古屋から近鉄志摩線に乗って鵜方駅で下車、車で15分ほど走ってポンポン船に乗り継ぎ、ものの3分もすれば辿り着くことのできる渡鹿野 (わたかの)島。周囲約7キロの島のあちこちに、パブやスナックを隠れ蓑にした“置屋”と呼ばれる売春斡旋所が立ち並び、民宿、ホテル でも当然のように女を紹介してくれる。なんと、わずか200人ほどの島民全ての生活が売春で成り立っているという、ここは現代ニッポンの “桃源郷”なのである。これまで度々取材者が訪れ、この島の内情をリポートしてきたから、ネット上の口コミなどでその噂は知る人ぞ知る (暇人は知らんかったが)ものとなってはいた。
<その“売春島”が、今、消えようとしている――。>
そんなわけで、この島に魅せられてしまったという社会・風俗・犯罪専門のノンフィクションライターが、歴史の生き証人たちを訪ね歩き、 本音で語り合うことで、一人歩きする噂の真相に迫り、この島が“売春島”となるに至った背景と、ドラム缶から札束が溢れたという最盛期 から、一気に凋落していった全貌を暴きだす。<長きにわたって売春産業を続けてきたこの島で、いったい何が起っていたのか。>という迫真の ルポなのである。
ナンパされたホストに200万で売られた17歳の少女は、来る日も来る日も男に買われる日々に追いつめられ、「島から泳いで逃げてきた」 と告白した。家出少女を売り飛ばすブローカーと、そのカネを回収するためカラダを売らせる置屋経営者、そこに少なからずヤクザが介在し、 美味しい“シノギ”を貪る仕組みだ。
<そもそも“売春島”は、なぜ娼婦が売られてくる島になったのだろうか。>
江戸時代から“風待ち港”として帆船の船乗り相手に夜伽をする“ハシリカネ”をルーツとする、養女を受け入れ売春させる芸子置屋の文化の 存在。1957年に売春防止法が施工され、島外から時を前後して移住してきた四国出身の4人の女が始めた、スナックを隠れ蓑とした置屋に よる売春の復活と隆盛。1988年国際リゾート構想に巻き込まれ、クリーン化を進めようとする逆風の中、とどめを刺されることになった 2016年の伊勢志摩サミット開催。
2019年久しぶりに連絡を取った元娼婦の証言によれば、売春島はさらに疲弊しているそうだ。
娼婦は徐々に減り、いまや日本人が2人とタイ人が2人の、計4人。島に住んでいるのはタイ人ひとりだけで、残る3人は仕事に応じて通い で来ている。売春目的の客が来ることもあるが女のコが少ないため需要に応えることができず、置屋は負の連鎖に陥っているらしい。
2020/5/13
「戦後史の解放T 歴史認識とは何か」―日露戦争からアジア太平洋戦争まで― 細谷雄一 新潮選書
一つ大きな問題がある。それは、われわれの外交の経験、そして外交の理解が、圧倒的に国際社会のそれからずれていることが、 しばしばあるということだ。そのような、ずれた視点から国際情勢を眺めても、なかなかそれを深く理解することは難しい。
<日本人が陥っていた「ずれ」とはどのようなものなのか>
「親米/反米」という言説が歴史認識においても浸透してしまっていることで、保守勢力と革新勢力の間の激しい対立を生み出した―― 「イデオロギー的な束縛」
あらゆる歴史の歯車が「1945年8月15日」から動き始め、それ以前の歴史と戦後史が完全に断絶しているという歴史観につながる―― 「時間的な束縛」
戦後史を語る際にあまりに狭い世界に閉じこもり、日本を世界から切り離して、日本国内を閉じられた空間として論じてしまう―― 「空間的な束縛」
これら3つの束縛から戦後史を開放して、よりひろい器の中に「戦後史」を位置づけし直すこと。戦後史の源流を辿って、それがどのように 戦後史の骨格を創っていったのかを見ていくこと。世界の中の日本という視点から、日本史が世界の歴史の中にどのように埋め込まれて、どの ように日本が国際社会と相互作用をもってきたのかを辿ること。これは気鋭の国際外交史学者が立ち向かった、「世界の存在しない日本史」と 「日本の存在しない世界史」からの「戦後史解放」の格闘の試みなのである。
日清・日露や第一次世界大戦において、日本政府は国際協調に基づいて政策を決定し、国際法を遵守して国際社会の大きな潮流と整合した行動 をとっていた。それが、アジア太平洋戦争で中国と泥沼の戦争を続けながら、東南アジアのイギリス領に侵略する計画を立て、オランダ領 インドネシアの石油奪取を企てる。ノモンハンではソ連軍との戦闘を行い、ついにはアメリカと全面的な戦争へと突入していくことになる経緯 を、詳細に跡付けていったこの論考が明らかにしたのは、戦前の日本が陥った本質的な問題は、イデオロギー、時間、空間という3つの束縛 からくる国際主義の欠如と、「孤立主義」への誘惑だったというものだった。国際政治を正しく捉える想定を持たず、自らの権益拡張や正義の 主張を絶対的なものとみなし、その進路を見誤ったことが、破滅の道につながったというのである。
だとすれば、国際主義を回復することこそが戦後の日本の大きな目的でなければならないが、その精神の重要性を理解するのは容易ではない だろう。自国の正義や自国の利益を絶対視する傾向は、どの国においても色濃く見られるものだからだ。現代に至っても日本を取り巻く国際 環境は厳しく、また孤立主義の誘惑は強力なのだから、たとえば・・・戦争放棄の理念をあたかも憲法9条のみに存在する尊い日本固有の精神 であるかのように錯覚し、ノーベル平和賞を要求することは美しいふるまいとは言えまい。
<戦後の日本はむしろ平和主義という名前の孤立主義に陥っているというべきではないか>
国際社会における正義や規範を無力であると突き放し、自らの価値を絶対的で自明な正義として語ることは、戦前の日本が国際社会から 孤立して破滅したときに歩んだ道程と同じものではないか。
2020/5/10
「つけびの村」―噂が5人を殺したのか?― 高橋ユキ 晶文社
一度に5人が殺害されるという大事件が発生した村には、地元だけではなく東京からも多くの記者が詰めかけたが、そんな彼らが 何よりも注目したのは、“カラオケの男”の家のガラス窓に掲げられた不気味な「貼り紙」だった。
<つけびして 煙り喜ぶ 田舎者>
2013年7月21日、山口県周南市の山間部にある金峰(みたけ)で、全焼した民家2軒から3人、別の民家2軒から2人、頭部に外傷の ある遺体が発見された。やがて、わずか8世帯・12人のこの集落の住民で、放火をほのめかすような貼り紙を残して姿を消した男が、現場 付近を捜索していた機動隊員に逮捕される。毎朝・夕にわざわざ窓を大きく開け放ち、村中に大音量で歌を響かせる“カラオケの男”保見光成 による、これは「平成の八つ墓村」事件に違いないと誰もが思った。
――だが、それは決意表明でもなければ、犯行予告でもなかったのである。
週刊誌の記者である著者が、事件から3年半もたって金峰地区を訪れることになったのは、なんと“夜這い風習”についての取材依頼を受けた からなのだが、すでに殺人と非現住建造物等放火の罪で死刑判決を受けていた保見は、当初認めていた犯行の自白を突然翻し、無罪を主張して 最高裁に上告していた。広島高裁の控訴棄却理由では、「近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つよう になった」と認定されているのだが、これが本当に「思い込み」だったと言えるのかについて、主に殺人事件の公判を取材するフリーライター としても活動してきた著者は疑問を持っていた。
金峰地区には“夜這い”の風習があり、戦中に徴兵を免れた村人が保見の母親を強姦しようとして、保見の年の離れた実兄に追い払われた。 保見家が「村八分」となった発端ともいうべきこの「事件」について、広島拘置所で保見に面会し話を聞いたという、ある週刊誌の1本の記事。 これは一応、“いじめ”に絡む真相を確かめる取材にもつながると、新幹線の中で腹を決めて始まった、名もなき村の風習の発掘調査のような ルポなのだ。
実際に村人たちから話を聞くと、「つけび」の貼り紙は以前に村で起こった別の不穏な出来事に合わせて貼られたものだと知った。いざ村に 足を踏み入れてみれば、そこにはネットやテレビ、雑誌といったメディアにまったく流れていない「うわさ」が、ひっそりと流れ続けていた。 ワタル(光成の本名)の自宅向かいの家で開かれる「コープの寄り合い」は、そんな「うわさ」の発信源だった。
「Uターンしてきた村人が、他の村人たちに村八分にされた挙句、恨みを抱いて犯行声明を掲げたのちに起こした事件」なのだと、それほど 強い関心を持たずに事件の報道を耳にしていた「事件と無関係の者」たちは、ネットやメディアにはびこる噂に踊り、いまもそう信じている ことだろう。
――もちろん私自身もそう信じていた。自分で取材に行くまでは。
取材を重ねて得た結論はノーだ。彼が戻ってくる前から、村にはうわさが漂い続け、また彼が「嫌がらせ」を受けていると感じても致し方の ないような出来事が起こっていた。両親を看取ったのちに、ひとり暮らしとなったワタルは、その空気の中で孤独を深めるとともに、妄想性 障害を進行させた。
2020/5/5
「靴ひも」 Dスタルノーネ 新潮クレストブックス
私は二人をカフェに連れていき、おいしい食べ物と飲み物でテーブルを満たした。二人の会話を引き出そうと努めながらも、結局は ずっと私が自分の話をすることになるのだった。・・・アンナは兄を指差しながら、おかしなことを尋ねた。
「ねえ、お兄ちゃんに靴ひもの結び方を教えたって本当?」
大人になったとき、どうすれば私のような仕事ができるのか、といったような質問が出ることを密かに期待していたアルドがうろたえることに なったのは、そんな結び方をする人はほかにいないという、変な靴ひもの結び方を息子のサンドロに教えたことがあったかどうか、まったく 思い出せなかったからだ。それはまだ幼なかった子どもたちを、妻ヴァンダのもとに置き去りにして若い女へと走ったアルドが、4年後に望んだ 子どもたちとの関係修復の席でのことだった。
――あのジュンパ・ラヒリが惚れ込んで英訳し、2017年NYタイムズ<注目の本>に選ばれた話題沸騰のイタリア小説。
もしも忘れているのなら、思い出させてあげましょう。私はあなたの妻です。わかっています。かつてのあなたはそのことに喜びを見出して いたはずなのに、いまになってとつぜん煩わしくなったのですね。
と理路整然と子供たちのために改心することを諭しながら、まるで埒が明かない夫の態度に次第に怒りを募らせ、絶望の内に自らを「殺す」に 至った妻。そんな夫婦関係の危機によって、家族の絆が崩壊していく様がギリギリと締め付けるように描かれていく、ヴァンダからの9通の 手紙からなる「第一の書」。
私は重苦しい悲しみを感じた。といっても、それは私の感情ではなく、ヴァンダの悲しみだった。まるで生き物であるかのように家の世話を していたのは妻だったからだ。
結局、50年も連れ添って老夫婦となったアルドとヴァンダは、夏のヴァカンスに出かけた留守宅を荒らされ、愛着ある品々を滅茶苦茶にされて 困惑するのだが、行方不明になった飼い猫を心配するばかりの妻を尻目に、部屋の片づけを続ける夫が見つけたのは、黄色く変色しゴムひもで 留められた封筒の束だった。再読した妻からの手紙に対し、あの時の自らの行動の回想を交えながら、ようやく返答された心の声は、今さら 妻の耳に届くはずもなかった、という「第二の書」。
それからの数時間はすこぶる爽快だった。おそらく、この家で過ごしたなかで、もっともさわやかな時間だったろう。私たちは、部屋から 部屋へと家じゅうの物を引っくり返してまわった。
両親から休暇中の飼い猫の世話を頼まれたアンナが、兄と合流して実家へやって来たのは、親に要求しようという生前相続の相談をするため だったのだが、中年となった彼女の、子どもの頃からため込んできた両親に対する鬱屈した感情が、兄との思い出語りのうちにそのはけ口を 求めて暴走してしまう「第三の書」。
結局、家族が負ってしまった過去の古傷が、癒えることはもうないのだろうか?いや、あの日、カルロ三世広場のカフェで会ったとき、 「ひもの結び方」の話で「感激して泣き出した」父の姿を、あなたは覚えてはいないか?
<靴ひもがほどけたのなら、また結び直せばいいのである。>
そのときふと、直接の因果関係があったわけではないが、子どもたちを他人のように感じるのはなにも驚くに値しないと思い至った。 もともと私は、二人のことをどこか他人のように感じていたのだから。
2020/5/3
「地形の思想史」 原武史 角川書店
慰霊碑の後方には、澄み切った空をバックに富士山がそびえていた。視界をさえぎるものは何ひとつない。裾野から頂上にかけて稜線 がなだらかな弧を描き、圧倒的な存在感をもって迫ってくる。
<なぜオウム真理教は、この地にサティアンを建設したのか。>
たとえ登頂しなくても美しい富士山の山容は、古くから人々にさまざまな宗教的インスピレーションを呼び起こしてきたため、背後に富士山を 望むその「麓」には、多くの宗教団体が吸い寄せられるように集まり、本部や道場や施設を置くことになった。しかし、富士吉田市の富士講を 振り出しに、旧上九一色村のオウム真理教、富士宮市の白光真宏会と日蓮正宗という順番で、富士山の山容を眺めつつ、山の北側から西側に かけての「麓」に点在する施設やその跡を、実際に歩いてみた著者の印象はいささか違うものだった。
ふと思った。麻原が「第一上九」の第2サティアンから「第二上九」の第6サティアンに移ったのは、富士山の存在感を相対的に小さく しようとしたためではなかったかと。
<麻原は、できれば視界からまるごと富士山を消し去りたかったのではないか。>(第四景 「麓」と宗教)
書物を読むだけでわかった気になってはいけない。自分の足で歩いてみないことには、「生存の意味」をわかったことにはならないと繰り返し 説いた、柳田國男の教えにならって、「読む」ことよりも「あるく」ことに重点をおいて、いわゆる観光地とは異なる国内のさまざまな場所に 出掛けながら、地形と思想の浅からぬ関係について考察したという、これは「歴史散歩」好きにとっては垂涎の、紀行文風エッセイの逸品 なのである。
皇太子・明仁が、時代の歩調に合わせるようにして、名もない「岬」(だからこそプリンス岬と呼ばれた)に確立させた、核家族にふさわしい 私的保養所の記憶。
自由民権運動の中心地であった五日市と、「軍事ダム」建設に反対する共産党山村工作隊の拠点となった小河内の運命を引き裂いた、急峻な 「峠」の物語。
ハンセン病療養所が開設された長島と、被爆者検疫所が置かれた似島。前近代以来の「浄穢」思想と近代の「衛生」思想が凝縮された二つの 「島」の負の歴史。
倭建命の東征に命を捧げた弟橘媛の伝説が残る「湾」。
昭和天皇が陸軍士官学校の所在地として命名した「台」。
大物政治家の母親を大事にする思想を育んだ「半島」。
地形と思想の関係を探るための旅なら、実はまだまだ続けることができるというこの本は、雑誌連載を加筆訂正したものなのだが、 <日本の一部にしか当てはまらないはずの知識が、あたかも国民全体の「常識」になっているケースは、まだほかにもあるのではないか。> これもまた、柳田が鳴らした警鐘なのである。
人間の思想というのは、必ずしも都市部のような、自然の地形とは関係のない人工的な空間だけで生み出されるわけでもない。逆に地形が 思想を生み出したり、地形によって思想が規定されたりする場合もある。たとえ自然を破壊する開発がいくら進もうが、長い年月をかけて つくられた地形そのものを根本的に改変してしまうことはできない。
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