徒然読書日記201907
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2019/7/25
「科学する心」 池澤夏樹 集英社インターナショナル
何がきっかけというわけでもないのだが、科学についての自分の考えを少し整理してみようと思った。抽象と具体の中間を行く散漫な 思索を試みる。
<僕のなかには、「文学少年」と「理科少年」がいたんです。>
(『理不尽な進化』著者・吉川浩満との対談)
文学はいずれ書く側に回るにせよ自分で本を読んでいればいいのだから、大学で教わる必要はないと大学進学前に考えて、とりあえず、 トレーニングが必要で一人じゃとてもできないからと、そんな曖昧な根拠で理科系に進んだこともあり(結局途中で数学に挫折して中退した)、 『スティル・ライフ』、『マシアス・ギリの失脚』、
『すばらしい新世界』
など、 代表的な自らの文学作品のそこかしこに、科学的な題材をごく自然に忍び込ませてきた著者が、最先端の科学技術が目まぐるしく進歩していく 昨今も、科学に対する貪欲な興味を失うこともなく、精力的な読み書きを継続する中で、失われつつある「体験の物理」や「日常の科学」を、 愛おしむかのように綴った、これはまことに知的好奇心をくすぐってくれる珠玉のエッセイなのである。
吉川はこれをスポーツに喩える。バスケットボールがいきなり小学校の運動会の障害物競走に変わる。大きな図体の選手はハシゴを抜けられ ない。つまりそれくらい「理不尽な」ルール変更が多くの絶滅の理由だったというのだ。
進歩や改良としての「進化」の背後には、99.9%の生物の絶滅が隠れているという、吉川浩満『理不尽な進化』の紹介。
先が読めないままに高速で走っている。カーブの先が見通せない。この車にはブレーキがない。・・・我々に未来を洞察する力はない。 アルコール依存症の治療が自分が病気であることを認めるところから始まるように、この事実をまず認めよう。
「農業革命」がヒトを奴隷化したのなら、同じことが資本主義や、グローバリゼーションについても言えるのではないかという、ハラリ
『サピエンス全史』
への言及。
ここで「心配そうに」という副詞を添えるところがファーブルの人間性であって、だからこれは論文ではなくエッセーなのだ。・・・これの おかげで彼は広く読者を得たということができる。文学をまったく含まない報告を読むのは楽しくない。
『昆虫記』を書いたファーブルは広くモノを集めて研究する博物学者ではなく、科学に少し文学が混じった生態学者であるという分析。
対局に勝った囲碁ソフトに自分が勝ったという喜びはないだろう、自分がないのだから。スイッチを入れないかぎり対局は始まらない。 対局をしたいという「思い」が生じることはない。
映画『ブレードランナー』から触発された、AIには「考える」ことはできても、「思う」ことは(今のところ)できないという考察。
などなど、専門的な話題から絶妙に脇道にそれていく、「文学的まなざし」を具えたアマチュア科学者の面目躍如といったところなのであるが、 公務がないかぎり月・木曜の午後と土曜はまる一日、吹上御苑の生物学研究所に熱心に通いつめながら、興味は分類という地道で着実な分野に 限定されたという、「帝王の科学」としての博物学に徹した、本邦最強のアマチュア科学者「裕仁さん」に捧げられた、オマージュのようなの でもあった。
ぼくは科学者としての昭和天皇のことを考えている。世間一般はそれを彼の趣味くらいに思っていたようだが、実際にはもっとずっと本格的 なもので、彼こそは「科学する心」の体現者だったのではないかと思うのだ。
2019/7/20
「精読 学問のすゝめ」 橋本治 幻冬舎新書
≪天は人の上に人を造らず≫は、まだ一つの文章の半分で、その後に≪人の下に人を造らずと言えり。≫と続いて一つの文章になり ます。≪言えり≫の≪り≫は完了の助動詞で、「誰かが言った」ということです。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』と聞けば、「ああ、あれね」というこのフレーズが、即座に口から出てくるくらい有名なわけだが、「誰もが読んで おくべき教養書」という位置付けだからこそ、逆に「ちゃんと読んでいる人」は意外に少ないのではないだろうか。
たとえば、出だしにある≪天≫とはなにか?
これは福沢のオリジナルではなく、どこかにあったものを持って来たもので、その典拠はアメリカ合衆国の独立宣言だろうというのが定説と なっているのだが、“All men are created equal.”(すべての人間は平等に創られている)のだとすれば、創ったのは≪神≫だということに なる。しかし、「こないだまで江戸時代」である明治5年当時の日本人に、アメリカの独立宣言の平等の思想が受け入れられるだろうか? むしろ、日本人にとって馴染みのあるお釈迦様の誕生時の言葉、≪天上天下唯我独尊≫がそこに隠されているのではないか、というのが著者の 読みなのである。
「神様の世界も人の世界も含めて、我だけが尊い」と言った釈迦は「神様より上」ということになるが、重要なのは「お釈迦様が一番えらい」と いうことではない。やがてそのことを人に説くようになる釈迦が言ったのは、「天上天下唯我独尊」の「我」とは、釈迦ただ一人ではなく 「誰でも」だということだった。
≪されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もあり て、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。≫
≪万人皆同じ位≫で≪生れながら貴賤上下の差別なく≫を天が保証しているにもかかわらず、世の中に「先祖伝来の田畑」と同じように ≪貴賤貧富の別≫が無くならないのなら、「なぜそれが生まれてしまったのか」という、歴史的、社会的背景を探らなければならない。
「あなたが学問をして世の中を動かす」ことをしなければ、「いくら明治の新しい世の中が来たってなんの意味もない」と考える福沢は、 「学問をすればこういういいことがあるよ」と誇大なことを言って、人を学問の方向へ向かわせようとした。だからこその『学問のすゝめ』 だったというのである。
これは「ここにあなたの学ぶべき≪学問≫がダイジェストしてありますから、この本を読めばあなたの≪学問≫はもうOKです」という ノウハウ本ではない。福沢諭吉は「自分を確立しろ。そして政治と向き合え」と、あなたを叱咤激励しているというのだった。
「“勉強の必要”を説いて、読者に“自分で勉強しなさい”と言っている本が『学問のすゝめ』なので、私の仕事はここで終わりです。 後は自分で読んで下さい」――こう言って終わるのが、『学問のすゝめ』にはふさわしい終わり方だと思います。
2019/7/13
「武揚伝 決定版」(上・中・下) 佐々木譲 中公文庫
勝は首をかしげて訊いた。「野心を隠すというのは、どういう意味だ?」
「ごくごく小さな所領、と見える土地を賜るのです。雄藩にはならぬと、証をたてる。家臣団は江戸を離れてその土地に移り、慶喜公はわずかの 重臣とともに江戸詰めとなればいかがでしょう。朝廷薩長の危惧を振り払うことができます」
「その小さな所領というのはどこだ?」
「蝦夷ガ島です」
と、榎本武揚が初めて勝海舟にその構想を明かしたのは、慶応4年(1868)閏4月のことだった。江戸城の無血開城から20日が過ぎても、 江戸府中の至るところでは強盗が横行し、彰義隊と占領軍との小競り合いが繰り返されていた。しかも、占領軍将兵を馬鹿にしきった江戸の町民 は、治安維持には全く協力しようとせず、ただただ苦情を寄せるばかりの毎日に、とうとう自分たちの手には負えぬと認めた大総督府は、勝に 江戸の治安維持は徳川方に任せるという江戸鎮撫の委任状を渡すこととなり、これを好機ととらえた勝は、水戸に退隠した徳川慶喜を江戸城に 召し返そうと画策、その目論見を警戒する京都政権はだんまりを決め込んでいたのだ。
武揚の構想の詳細を確認した勝はしかし、徳川が蝦夷で雄藩に成長するまでのあいだに、薩長に好き放題をやられては、日の本が倒壊してしまう とこれを否定する。
立ち上がりかけた武揚に、勝は言った。「早まるなよ。脱藩者を引き連れて蝦夷ガ島へ向かう、なんてことも許さん」
それは考えたことがなかった。脱藩者を引き連れて蝦夷ガ島へ向かう?悪くない構想ではないか。
<いいことを聞いた。>
英明そうに見えて、所詮小賢しくて器用なだけで、周囲の者を心服させるほどの人物ではなく、せいぜいが日本橋の大店の三代目といったところ で、「われらはあの方に、何度も裏切られ、煮え湯を呑まされた」と、家臣団からもほとほと愛想を尽かされてしまった徳川慶喜。
そんな慶喜を今更もう一度担ぎだそうとする勝海舟には、たしかに世の先行きを見通す知性と、激情に流されぬだけの分別と、大きな戦略を 描ける想像力があったが、「地位と金を手にしたとき、勝なにがしが最初にしたことは、妾を囲うことだったと聞いたぞ。」と、悲しいことに 彼には、仲間を惹きつける人望がなかった。
そんな二人と対比するかのように、薩長軍を迎え撃って幕臣の務めを全うせんと苦闘する、榎本武揚の人物の大きさが描かれることになる中巻を 挟んで、函館を拠点にした自治州の樹立を宣言した武揚の、ようやく実現した途端、儚く散っていくことになった「蝦夷共和国」という夢の 存亡が描かれていく下巻と、そんな壮大な構想を生み出す布石ともなった、青年時代の蝦夷地巡察やオランダ留学という、青春時代の成長譚が 仕込まれる上巻がある。
これは、ありえたかもしれない、もう一つの「明治維新」の、夢の痕跡のような物語なのである。
2019/7/8
「ある明治人の記録 改版」―会津人柴五郎の遺書― 石光真人編著 中公新書
柴五郎翁の遺文に初めて接したとき、おそらく誰もが受ける強いショックを、私も同じように強く受けて呆然とした。呆然とした というより、襟を正したというほうが適切かもしれない。
<いったい、歴史というものは誰が演じ、誰が作ったものであろうか>
柴五郎は安政6年(1859)、会津若松藩280石取りの御物頭(隊長)で、裃着用を許された上級藩士という家柄の5男として生まれたが、 薩長藩閥政府より朝敵の汚名を着せられた会津戦争において、祖母、母、姉妹を失い、自らは俘虜として江戸に護送された後、下北半島の火山 灰地に移封された。
「ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生き ながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、 敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が 幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、思いおこして苦しきことかぎりなし。」
父と開墾を始めた斗南の原野の3、4坪の草葺の掘立小屋に、建具はあっても畳はなく、板敷きに蓆を敷き、骨ばかりの障子には米俵を藁縄で 縛り付けたが、陸奥湾から吹きつける北風は部屋を吹き貫け、消炭を燃やす炉辺にあっても氷点下15度という極寒の中、衣服は凍死を まぬかれる程度のもので、米俵に潜って寝た。海岸に流れ着く昆布、若布を集めて干し、棒で叩いて木屑のように細かくし、これを粥に炊いた 通称「オシメ」で、かろうじて飢餓をしのぐ極貧の生活。奪い合うように手に入れた犬の死体を、塩で煮て食べる毎日が続けば、吐き気を催し ながらも眼をつむって一気に飲み下す。これは副食ではなく、主食なのである。
「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の 賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと 流罪にほかならず。」
一藩をあげての流罪にも等しい、史上まれにみる過酷な処罰事件が、今日まで1世紀の間、具体的に伝えられず秘められていたこと自体に、 私どもは深刻な驚きと不安を感じ、歴史というものに対する疑惑、歴史を左右する闇の力に恐怖を感ずるのである。
その後、藩政府の選抜により学問修業のため青森県庁の給仕として派遣された柴五郎は、大参事・野田豁通の知遇を得たことから命運をつかみ 取り、脱走、下僕、流浪の艱難辛苦を乗り越えた末に軍に入り、藩閥の外にありながら陸軍大将にまで上り詰め、軍界における中国問題の権威 となったという、まさに立志伝中の人物(北京駐在武官時代の、特に「義和団事件」における総指揮官としての活躍は、列国の称賛を受けた らしい。)なのだが、
「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」 と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲み込んだ、会津の国辱の怨念がそれを根底で支え続けてくれたことも、間違いでは ないようなのだ。会津精神の化身ともいうべき、生粋の明治人の面目躍如である。
(明治10年)2月18日、鹿児島地方不穏の形勢いよいよ逼迫の風説しきりにして、近衛歩兵一連隊は京都に派遣され、その他、陸海軍 将校、内務官吏にして関西に急行するものはなはだ多し。20日、余の日記に次のごとくしるしたるをみる。
「真偽未だ確かならざれども、芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」
2019/7/4
「ものがたり西洋音楽史」 近藤譲 岩波ジュニア新書
(西洋の古代から現代までの)各時代の音楽様式は、前後の時代の様式と、あるいは、時を隔てた他の時代の様式とも強いかかわりを もっていて、そうしたかかわりが「西洋の音楽文化」の過去から現在までの連続性とまとまりを作り出しています。
とはいえ、<各時代に、他の時代とは異なった、その時代の音楽の様式と文化がある>のは、時代ごとに異なる音楽観、価値観、美意識、 聴き方、社会的・文化的状況があり、それを映したきわだった独自性を具えているからだ。「音楽史」という物語を、その源流から現在の私たち になじみの音楽様式に向かってくる、ひと続きの<流れ>として見るのではなく、各時代の音楽様式の独自性を尊重して、たがいに異なる独立 したいくつもの音楽様式の<交替>として見ること。私たちに私たちの音楽と文化があるように、過去の時代にもそれぞれの文化があり、当然、 そこには様々な関わりや共通性があるとしても、一つ一つはそれ自体の価値をもった独自の存在であって、けっして「途中の段階」ではない のだから・・・
神に語りかける「祈り」の言葉として、礼拝式で伴奏なしの一本の旋律線だけで歌われた「単旋聖歌」(グレゴリオ聖歌)という中世・ゴシック 期の教会音楽が、やがて、人間の耳にとって美しく響くものとしての、「多声音楽」(ポリフォニー)へと花開いたルネサンス時代。
「劇的」な手法を通して「感情」の表現が重要な要素となる中、音楽表現の新しい形式としてオペラが誕生し、器楽が興隆したバロック時代に なると、バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディに代表される名前が遺されるような「作曲家」が初めて出現するのだが、それはまだ「技術」の粋を 極めようとするものだった。
「作曲家」が単に優れた技術をもつ「職人」ではなく、「美」という普遍的な価値を追求する「芸術作品」の創造者として、音楽文化を牽引する 英雄となった時代。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが時期を同じくして輩出したこの時代が、後に「古典派」と呼ばれることになった のは、気高い表現と均整のある形式を重視する、古典主義的な時代精神を共有していたから・・・というよりも、この3人の作曲家たちの音楽 が、その後に続いた19世紀のロマン派の音楽家たちに「模範」として受けとられ、不朽の価値をもつ「古典」となったからだ。
これ以降のモダニズムへと続く作曲家たちは、自らの個性的な作品を生み出すためには、この「古典」を意識し、乗り越えようと格闘しなければ ならなくなったのだ。
というわけでこの本は、時代を代表する作曲家と作品、演奏法や作曲法などなど、音楽についての考え方の変遷を丹念にたどることで、 クラシック音楽というものの歴史を、全くの門外漢でも「なるほど、わかった」と勘違いするくらいに、俯瞰的にレクチャーしてくれる優れもの なのである。
中世が「言葉の贈りものとしての音楽」を、ルネサンスが「言葉を収める伽藍としての音楽」を、そしてバロックが「音楽の劇場」の実現を めぐって展開したのだとすれば、芸術の概念が確立した18世紀後半からその概念が崩壊する1970年代までを、「芸術としての音楽」を 追求した時代として一つに括って考えることができるでしょう。
2019/7/1
「身分差別社会の真実」 斎藤洋一 大石慎三郎 講談社現代新書
江戸時代の身分制度を示すものとして、しばしば「士・農・工・商・えた・ひにん」ということがいわれる。そして、いちばん身分が 高かったのが士(武士)で、ついで農(農民)、工(職人)、商(商人)とつづき、最下層とされたのが「えた(穢多)・ひにん(非人)」 身分だったと説明されることがある。
<天皇はどこへいったのだろうか。>
同様に、ここには公家も含まれていないし、僧侶・神官も含まれていない。山の民(木地師・山窩など)や海の民(漁民)、芸能民も含まれて いない。江戸時代の身分制度を示すことばとしては、まことに不正確・不十分な「士・農・工・商・えた・ひにん」ということばが、広く使われ るようになったのは、皮肉なことに、昭和に入ってから被差別部落の人々との融和を図ろうとした、国家主導の「融和教育」という学校教育に おいてだったのである。
<江戸時代の身分制度とはどのようなものだっただろうか。>
公家に生まれた者は公家身分、武士に生まれた者は武士身分、「平人」に生まれた者は「平人」身分、「えた」に生まれた者は「えた」身分に なるものと、その身分は生まれによって決まり、それを変更することは原則としてできないというほどに、江戸時代の身分制度は非常に強固な ものだったが、それは決して、政治権力や法令によって「強制」されたものなのではなく、それを当然とする共通の意識=観念が広く存在して いたからだという。
<じつはこうした共同観念のほうが、政治権力による「強制」よりもさらに強い「強制力」をもっているといえる。>
将軍を頂点とする武士(および天皇を頂点とする公家)という支配身分が、その他の人々を被支配身分として支配した時代=江戸時代。 「身分不相応」なことをすると社会の安定がそこなわれるという、「差別」によって成り立っていた身分制社会では、身分間の差別だけではなく、 武士のなかにもさまざまなランク付け(家格)があり、同じ大名でも雲泥の差という「差別」があったし、農民や町人にも、ランク付けによる 差別はあった。武士から差別された農民や町人が、お互いがお互いを差別するとともに、さらに「えた」身分を差別する。それは、なんとも やりきれない「差別構造」なのだった。
<なぜこうした身分制社会ができたのだろうか。>
「人外」という最も低い身分として、農民・町人などが構成する社会から「排除」されていた、「えた」「ひにん」などと呼ばれた人々。 「ケガレ」を「キヨメ」る能力を持つ者という役割を生業として受け継ぎながら、「ケガレ」を転嫁し差別されることとなっていった顛末。 身分制社会の矛盾が最も顕著に現れている部分に注目することによって、「身分差別社会」の矛盾を追求し、江戸の社会構造を捉え直そうと した、これは、江戸時代の農村史研究者による意欲作なのである。
そもそもなぜ人が人を差別することを当然とする社会がつくられ、維持されてきたのかという、いちばん肝心な問題については、十分な答え を見いだすことができなかった、この問いは、現在においても重要な問いであり続けていると思われる。
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