徒然読書日記201903
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2019/3/29
「漂流怪人・きだみのる」 嵐山光三郎 小学館文庫
これほど散らかし放題の部屋を、はじめて見た。野菜や、カビのはえた干物、塩辛の空きビンなどがゴミため場のようにばらまかれ ていた。カレーライスの皿が食いちらかしたまま、置いてあった。
<そのゴミの上に、きだみのるは白髪の坊主刈りで入道のように座っていた。>
昭和23(1948)年、53歳のときに『気違い部落周游紀行』を雑誌「世界」に連載して毎日出版文化賞を受賞したきだみのるは、山田 吉彦という本名でファーブルの『昆虫記』(岩波文庫)を訳した後、昭和9年に政府給費留学生として渡仏し、マルセル・モースに師事して 社会学を学んだが、昭和14年にパリ大学を中退して、戦時下のモロッコへと無謀な放浪を挙行し、『モロッコ』(岩波新書改訂版)を書き 上げた無頼派の学者だった。
学生のころから放浪願望があり、『ロビンソン漂流記』やランボーの放浪詩にあこがれていたという、当時28歳の嵐山光三郎は、雑誌『太陽』 の編集者として、日本列島津々浦々の小さい村を旅して、部落の人々の生活や習慣を採集するという企画を受けた75歳のきだの、最後の取材 紀行に志願して同行することになる。
きだみのるの身体のなかで少年時代の記憶が渦をまいている。潮流がぶつかりあって漂流物を吸いこむように、強引な引力が、頭、胸、 背中から腹にかけてぐるぐる、ぐるぐると渦をまく。うっかり近づくと、吸いこまれる。恐ろしい相手だ。手ごめにされそうだ。けれど、 会ってみたい。
<きだドンは昆虫の本能を志向する。>
なみはずれた食欲、知識人嫌いの女好きで、ワイ談を好みながら、哲学を語り、幸福論をぶち上げ、大杉栄らアナキストたちとの思い出を語る。 部落で手に入った新鮮な馬肉を洗面器で手捏ねして作った、きだ流タータル・ステーキを喰らいながら、浴びるように酒を飲む、宴会騒ぎの 毎日。(なぜか料理もうまいきだドンの、野趣あふれた特製料理の数々が、味のあるイラスト付きで解説されているのもうれしい趣向である)
傍若無人で迷惑極まりない偏屈老人の奇行に振り回される周囲の部落民たちは、理解者も多いとはいえ、遠巻きに敬遠し、体よく拒絶される ことにもなるのだが、そんな部落民たちをまるで<昆虫採集>のように観察するきだの目は、ときに怜悧なまでに理知的なことに驚かされる ことにもなる。
そして、そこに少年のようなミミくん(7歳)がいた。
小学校にも行かず、4歳のときからきだと行動を共にし、東南アジアへの取材力にも連れ添った、おかっぱ頭で半ズボンをはいたこの美少女が、 やがて、あの『子育てごっこ』(三好京三)のモデルとなった事件の顛末が、この本の後半を占めることになるわけだが、そんなことなど露 知らなかった28歳の嵐山にとって、これは75歳の漂流怪人の最後の5年間を共に過ごした、青春のほろ苦い記憶の結晶なのである。
私がきだみのるに出会ったのは晩年の5年間であった。停滞と沈澱を嫌うきだみのるは流浪生活を完結させるために定住せず、家から去り、 妻から去り、文壇から去り、空漠の彼方へむかって歩みつづけていた。そこにミミくんがいた。自分をとりまく縁者から遁走しつづけていた きだみのるが唯一別離できなかったのがミミくんであった。
2019/3/24
「自殺会議」 末井昭 朝日出版社
僕が自殺のことを書くようになったのは、母親が愛人とダイナマイトで心中していて、そのことをまるで仇でも取るかのように書き まくっていたからです。そのことを免罪符にして、不謹慎なことも書いてきましたが、自殺しないで欲しいという気持ちは、ずっと昔から 持っています。
という<壮絶な過去>を誇る(?)著者は、2013年に『自殺』という本を出し、それがきっかけでたびたびトークショーに呼ばれるように もなったのだが、それなりに切実な状況にある人たちの前では言葉に詰まることが多く、つくづく自分が狭い範囲でしか自殺のことを捉えて いないことに気付かされたという。それならばと・・・いっそ勉強させてもらうつもりで、「自殺」に縁のある(?)方々から話を聞き、 まとめてみることを思い立つ。
母親が入院していた病院の屋上から飛び降りて即死した、元週刊誌記者の岡映里は、その後双極性障害を患い、自らもベランダから飛び降り そうになる。
<選択をすることは尊いことだから、それでよかったんだっていうふうに思ってあげるのが一番いいかなと思っているんです。>
日本の三大自殺名所・東尋坊の用心棒として、自殺企図者の防止活動を続けている、元警察官の茂幸雄は、600人以上の悩みごとを聞いて きた。
<「誰も私の苦しみを解決できる人はいない」という企図者に、「大丈夫です。なんとかできますよ」とはっきり断言すると、耳を傾けて くるんです。>
息子が自殺したのは自分が殴ったことが原因ではなかったかと悔やむ、映画監督の原一男はその落とし前を映画でつけようとしていた。
<自分が死なせてしまったという罪悪感が消えていくことってないなあって感じがして、そういう形で思い出すことがせめて息子とつながって いる時間だなあって>
筋ジスで寝たきりの岩崎航は、このままでは希望はない、死のうと思ったとき、存在の奥底から何のために生きてきたんだという気持ちが 湧き上がり、詩人となった。
<自分のなかで生きる手ごたえっていうものがあれば、別にその人がどんな状況であろうが、人にどう言われようが、思われようが、関係 ないんですね>
これ以外にも、自殺が少ない町を研究している人、死にたい人からの電話をすべて受けている人、自殺をテーマに絵を描いている人、 などなど。
みなさんツワモノばかりです。こんなにたくさんの人と自殺の話をしたのに、誰一人として深刻な雰囲気にはなりませんでした。共通して いるのは、どの人も大変な状況を乗り越えてきていることです。だからこそ、笑って話せるのではないかと思います。
自殺でもしなきゃやってられない世の中なのだから、感度のいいアンテナを持っている人は、人々の悪意をついついキャッチしてしまうこと になる。だから、自殺する人は犠牲者なのであり、真面目で正直な人が犠牲者になるのだ、と断言する著者の眼差しがとても優しく見える のは、
<たぶん自殺する人が好きだからだと思います。>
というこの本は、これから自殺しようかと考えている人の、その「自殺」を止められる特効薬にはならないかもしれないが、生きづらさを 感じている人の、その「生きづらさ」を解消するヒントぐらいにはなるかもしれない、一服の清涼剤のような対話集なのである。
2019/3/20
「『地方ならお金がなくても幸せでしょ』とか言うな!」
―日本を蝕む「おしつけ地方論」― 阿部真大 朝日新書
東京で起こっていることは地方でも起こっている。格差の拡大や貧困の増大、地域コミュニティの衰退、地域文化のグローバル化 といった現象は、東京だけの問題ではない。しかし、私たちはそれが地方では起こっていないと思ってしまいがちである。
「おしつけ地方論」(大都市の人々がつくる地方に関する一方的かつ支配的な表象)が、その謎を解く鍵になるというのである。 たとえば・・・
<地方の若者は収入が低くとも周囲との経済格差のことなど気にせずハッピーに過ごしている>
(『HIGH&LOW』マイルドヤンキーのドラマ)
→地方には周囲との経済格差に敏感に反応しながら、妬みやそねみ、やり場のない苛立ちを抱えた若者もいる。
(『悪人』吉田修一原作の映画)
<地方は上京後の「裕福な大人時代」と対をなす「貧しい少年時代」の象徴である>
(『木綿のハンカチーフ』太田裕美の歌)
→団塊ジュニア世代にとっての地方は上京後の「貧しい大人時代」と対をなす「豊かな少年時代」の象徴である。
(『偏路』本谷有希子原作の劇)
<地域コミュニティのベースになるような昔懐かしい「理想の商店街」が地方にはある>
(『ナミヤ雑貨店の奇蹟』東野圭吾原作の映画)
→商店街の理想化は、東京発の「昭和ノスタルジー」ブームの投影である。
(『ALWAYS三丁目の夕日』西岸良平原作の映画)
<地方の文化は、東京の劣化コピーであったり、その土地のローカルな伝統に根ざしたものである>
(Rhymesterなどイケてる東京系ヒップホップ)
→地方の文化は、グローバルな文化から影響を受けつつ独自に形成されることがある。
(X JAPANなど地方都市のビジュアル系)
などなど、地方に対する一方的な見方=「おしつけ地方論」に、「本当にそうか?」とツッコミを入れて、別の見方を提示するのは、 <地方の表象の多面性>こそが、人々にとっての地方の現実を多面化するからだというのが、この社会学者の意図するところなのである。 本来多様であるはずの地方の現実を多面的に見つめ直すというのは、いわば「当たり前」のことを言っているに過ぎないのだが、 にもかかわらず、見たいものだけ見、都合のいいことだけしか知ろうとしない、「おしつけ地方論」を求める人々の欲望の理由を探ること こそが、本書のテーマなのだった。
おしつけ地方論とは、グローバライゼーションの影響下、自分たちのまわりで起きていることが別の場所(地方)では起きていないと 信じたいという、大都市に住む人々の「現実逃避」の思いと、その問題から目を逸らそうとする政治的意図が絡み合って広がっていくもの なのである。
2019/3/18
「カササギ殺人事件」 Aホロヴィッツ 創元推理文庫
「チャールズ?この原稿、結末部分はどうなっちゃったんですか?ミステリの原稿を読ませておいて、誰が犯人かわからないように しておくなんて、いったいどういうこと?これを聞いたら、かけなおしてくださいね」
と日曜の午後の自宅で、名探偵<アティカス・ピュント>シリーズの最新作に、最後まで目を通した担当編集者のスーザンは、困惑した面持ち で、原稿を渡してくれた上司、<クローヴァーリーフ・ブックス>のCEOであるチャールズに留守電を入れることになる。
<こんなに腹立たしいことってある?>
と下巻の冒頭で、私たち読者がスーザンと同じ気分を味わわされることになるのは、上巻を占めるアラン・コンウェイ作の『カササギ殺人事件』 というシリーズ最高傑作が、作中作であるということを迂闊にも忘れて、読み耽ってしまったからだ。
というわけで・・・
(以下は、若干のネタバレを含むことになるので、これから謎解きに挑もうという方は、できれば読まないでください。)
「あの男は、わたしが知りたかったことをすべて教えてくれたよ。あの男こそは、この事件のきっかけを作った人物なのだからね」
「本当ですか?いったい、何をしたんです?」
「自分の妻を殺したのだ」
と意味深な幕切れの原稿を残したまま、不審な自殺を遂げてしまった作家コンウェイの、その死の真相を解き明かすことができなければ、 『カササギ殺人事件』の失われた最終章を読むことはおろか、正しく想像することさえできず、真犯人を突き止めることもかなわない、 なんて<二重の謎解き>に、素人探偵スーザンと共に私たち読者も立ち向かわねばならなくなるという、それはそれでミステリー好きには 垂涎の展開となるのだった。
<アガサ・クリスティー作品への完璧なオマージュ>として、物語のあちこちに様々な仕掛けが施され、種明かしも用意されていることも、 絶賛されているのだが、熱心なクリスティーの読者ではなかった暇人にとっては、当然そちらのほうはあまり堪能することはできず、上巻は 随分古典的な格調高いミステリーだなという印象で、読み進むことになったのだけれど、
“もっともあやしい容疑者は、けっして真犯人ではない”と、メモ帳とペンを用意して結末を推理するスーザンの、下巻における「探偵 (ごっこ)物語」の方は、さすがにイギリスを代表する人気探偵ドラマの脚本家という世評に違わぬ読み応えである。
さて・・・折角のご忠告を無視して、未読にもかかわらずここまで読んできたアナタは今、ネタバレなんかなかったじゃんと思われたのでは なかろうか?そんなことは、実はこの老獪な著者も、上巻冒頭ですでに警告していたことなのである。
二転三転する物語、手がかりや目くらまし、そして、最後にすべてをすっきりと説明してくれて、どうして最初から気がつかなかったの だろうと地団駄を踏まずにはいられない、満足のいく種明かし。
そう、そんな喜びを期待して、わたしはこれを読みはじめたのだ。でも『カササギ殺人事件』はけっしてそんな作品ではなかった。そう、 まったく。これ以上の説明はいらないだろう。わたしとちがって、あなたはちゃんと警告を受けたことは忘れないように。
2019/3/16
「英単語の語源図鑑」 清水建二 すずきひろし かんき出版
語源のパーツには3種類あります。主に語の先頭に付いて方向や位置関係・時間関係、強調や否定などを表すものが「接頭辞」で、 主に語の真ん中に来てその単語の意味の中核を表すものが「語根」、そして単語の最後に付いて単語の品詞の機能や意味を付加するものが 「接尾辞」です。
たとえば、“attraction”という単語なら、
接頭辞 at = の方へ(adの異形)
語根 tract = 引く
接尾辞 ion = 名詞をつくる
なので、「引き付けるもの」→「魅力」という意味になることがわかるわけだ。え?“attraction”=「魅力」と、そのまま丸暗記で 覚えちゃった方が楽ではないかって。確かにこの単語1つだけの話なら、そう思われても仕方がないのかもしれないが、
con(共に)+ tract =「引き合う」→「契約」
ex (外に) =「引き出す」→「エキス」
dis(離れて) =「引き離す」→「気晴らし」
と、同じルーツ(語源)の単語を芋づる式に増やせるところが、「最も効率的な英単語の覚え方」と言われる所以なのである。
さらに、どちらも「調べる」という訳語になってしまう“survey”と“inspect”の場合などでも、
sur(上から)+ vey (見る)=「概観する」
in (中を) + spect(見る)=「検査する」
と、似ている単語それぞれの「正確な意味」の違いを知ることもできるようになる、なんて利点もある。
しかし、この本の本当の「売り」は実はそこではなく、これが英単語の語源「図鑑」であるというところなのである。これは「図鑑」なのだか ら、1単語につき1つのとてもお茶目なイラストが付いているのだが、(“tract”の場合は玩具のようなトラクターとか)それは単なる「挿絵」 ではなく、語源が持つ意味の直感的な理解を促す「イメージ」が、私たちの記憶に強く定着するように工夫されたものなのだという。
本書を読み終えたときには、語源学習をするうえで特に重要な12のグループの接頭辞を理解し、さらに103の語根とそれを含む語を 理解できるように・・・
なっているかどうかは人それぞれだろうが、(少なくとも暇人は、これをトイレで読んだので、もう水に流してしまったヨ〜)イラストと語源 のイメージ力によって、より立体的な語彙のネットワークが脳内に構築されたような、おぼろげな<実感>はないわけでもないのである。
2019/3/13
「仏像と日本人」―宗教と美の近現代― 碧海寿広 中公新書
近代以降、西洋的な美術鑑賞の文化が日本に輸入され、やがて、仏像もまた美術品ととらえる風習が形成される。その結果、仏像を 信仰対象として拝むのではなく、美術品として鑑賞し語る人々が増えた。
美術と宗教のあいだで揺れ動く、近現代の日本人の心模様を追跡しながら、そこに見出される、新しい宗教性の諸相を明らかにすること。 それが、仏像と日本人の関係について、その宗教的な側面がどう変わってきたのかに主な関心があるという、この近代仏教研究者の意欲作の 狙いなのである。
最初期、飛鳥時代の日本の寺院はそもそも仏像の安置場所として始まったものであり、信仰対象となる仏像は大きな位置を占めていた。 権力の集中する空間となった中世の寺院とそこに祀られた仏像には、階層を超えた幅広い信仰が向けられることになったし、寺請制度により 菩提寺となった江戸時代の寺院では、普段は秘仏としている本尊を開帳して、信者に結縁の機会を与えるなど、巡礼文化が活性化した。 ただし、明治以前には、そうした仏像をめぐる動きのなかに、決定的に欠けている要素があった。
<それは、「美術」という観点から仏像を語り、鑑賞する習慣である。>
仏像が美術品として再定義される契機となったのは、祭政一致の国家づくりを目指した明治新政府が、神道を純粋化しようとした発令した 「神仏分離令」だった。「この日本という国から仏教を一掃せよ」という「廃仏毀釈」の過激な排斥運動が、仏像に代表される歴史的に価値 あるモノの逸失につながるに及び、皮肉なことに、国内の古器旧物の保護に関する建言が、仏教界の外側から湧き上がってくることになる。 「集古館」(後の博物館)の必要性が説かれ、まずは応急措置として、文化財を展示する「博覧会」が開催されたのである。「日本には、 国内外に誇示すべき文化財が多数ある」という認識は、1873年のウィーン万博に文化しか差し出すモノがなかった、明治政府内で共有 されていた。
『古寺巡礼』(1919年)において、仏像は美術品であると、宗教による解脱よりも、芸術による恍惚に没入した和辻哲郎。
『大和古寺風物誌』(1943年)において、仏像は彫刻ではなく仏であると、博物館のような場になった寺院の信仰の退廃を危惧した 亀井勝一郎。
『巡礼の旅』(1965)において、理屈上の問題はひとまずわきに置き、まずは巡礼をやってみた白洲正子は、美か宗教かではなく、 美ゆえに宗教なのだと確信する。
仏像を美術的に鑑賞する文化が、近代以降の日本社会に定着していく中で、それでも、そこには依然として宗教や信仰が重要な問題となり 続けてきた事実がある。仏像鑑賞が現代日本で、それなりにポピュラーな文化であることを象徴しているのが、『見仏記』(1993年)を きっかけとする仏像ブームである。いとうせいこうとみうらじゅんによるこの本は、伝統的な信仰からは自由に「仏」を「見」ることの楽しさ を教えてくれるバイブルとなったのだ。しかし・・・
信仰を持たずに寺院を訪れ、信仰を持つ者と場を共有する観光客にも、何らかの宗教性は芽生えうるのだろうか。
いずれにせよ、数々の古寺で仏像を見つめる観光客の経験は、その経験の多元性にこそ可能性が認められる。
2019/3/10
「FACTFULNESS」
―10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣― Hロスリング 日経BP社
質問 世界中の1歳児の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子供はどのくらいいるでしょう?
A 20% B 50% C 80%
もしアナタが間違えてしまったとしても、あまり心配する必要はない。実際、このクイズには多くの人が間違えているのである。さまざまな 国の、さまざまな分野で活躍する、医学生、科学者、投資銀行のエリート、ジャーナリスト、そして政界のトップまで、どれほど優秀な人 でもだ。正解率は平均でわずか13%。(日本ではなんと6%)A,B,Cのいずれかが書かれたたくさんのバナナの中から、チンパンジーが <正解C>を選ぶ確率33%よりも、それは低いことになるのだが・・・
<多くの人が、チンパンジーにすら勝てないのはなぜだろう?>
何千もの人々に、貧困、教育、保健、ジェンダー、環境など、世界を取り巻く状況の変化にまつわる事実についての数百個以上の質問を 繰り返してきた、スウェーデンの医師であり、公衆衛生の専門家でもある、著名な教育者ハンス・ロスリングが、数十年もかけて辿り着いた 答えは、自分のクイズに、最もネガティブで極端な答えを選ぶ人が多いのは、「ドラマチックすぎる世界の見方」が原因ではないか、 というものだった。しかもそれは、決して知識のアップデートを怠っているからだけではなく、最新の情報にアクセスできる人でさえ同じ罠に はまってしまうというのである。
質問 現在、低所得国に暮らす女子の何割が、初等教育を修了するでしょう?
A 20% B 40% C 60%
正解率はわずか7%。(日本も同じく7%)多くの人はA(正解はC)を選ぶが、20%以下の女子しか小学校を卒業しない国は、 アフガニスタンや南スーダンなど世界でも稀なのである。さらに、低所得国に住んでいる人は、多くの人の想像(回答の平均は59%)に 反して、世界の人口の9%しかいないのだから、ほとんどの人が思い込んでいる、世界は所得格差で分断され、過半の人が惨めで困窮した 生活を送っているというのは、完全な勘違いなのである。
という「分断本能」を皮切りに、「ネガティブ本能」、「直線本能」、「恐怖本能」など、人間の脳の機能が陥る10個の思い込みの罠を 上手に抑えることで、「事実に基づいて世界を見る」ファクトフルネスの大まかなルールを習慣づけるための、これはまことに実践的な 指南書なのである。
事実に基づいて世界を見ると、心が穏やかになる。ドラマチックに世界を見るよりも、ストレスが少ないし、気分も少しは軽くなる。 ドラマチックな見方はあまりにも後ろ向きで心が冷えてしまう。
事実に基づいて世界を見れば、世の中もそれほど悪くないと思えてくる。これからも世界を良くし続けるためにわたしたちに何ができるかも、 そこから見えてくるはずだ。
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