徒然読書日記201901
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
2019/1/30
「試験に出る哲学」―「センター試験」で西洋思想に入門する― 斎藤哲也 NHK出版新書
高校で学ぶ倫理という科目には、宗教、西洋思想、東洋思想、日本思想がぎゅっと詰まっていますが、西洋哲学の部分を取り出すと、 入門的な内容がじつにバランスよく配置されています。また、そこから出題されるセンター試験の内容も、それぞれの哲学者の核となる思想を 問うものになっている。
<センター試験に出題される高校倫理の内容が、哲学入門にも使えそうだ。>
と気付いたのは、あのベストセラー
『哲学用語図鑑』
を編集しているときに、ブ厚い哲学辞典よりも、倫理の教科書のほうが役立つことが多かったからだという。著者は 東大哲学科を卒業後、通信添削の老舗Z会を経て、学習参考書の編集や執筆も手掛ける、人文思想系フリーランス編集者の雄なのである。 だから「試験に出る」とはいっても、これは決して受験生向けに書かれた学習参考書ではなく、西洋哲学のあらましと大きな流れを一般向けに 解説した本なのだ。
問 ベーコンは、正しい知識の獲得を妨げるものとして4つのイドラを挙げた。次の会話において、「劇場のイドラ」に囚われていると 読みとれるのは誰であるか。(1999年・センター本試験第3問・問3)
という設問に続いて、父母と兄(高校生)妹(中学生)の4人家族がプラトンのイデアについて話し合う、という冗談のような状況設定の出題 にしても、ここで解説されることになるのは、17世紀ルネサンスの「科学革命」(神学との分離による地動説など)による近代科学の成立と、 それと軌を一にして、中世を支配したスコラ哲学の閉鎖性からの離陸を企てたベーコンの方法論についてなのである。
アリストテレスが定式化した「三段論法」では、最初に普遍的な大前提を立て、そこから一般的な結論を導く。(「人間は死ぬ」+「ソクラテス は人間だ」→「ソクラテスは死ぬ」)しかし、これでは大前提となる命題そのものを導くことはできないのだから、新しい知識を発見すること はできないことになる。
これに代えて、ベーコンが新しい学問の方法として提出したのが、集めた個別の事実から一般的な法則を導く推論のやり方「帰納法」だった。 (「イワシは卵から生まれる」+「アジも・・・も卵から生まれる」→「あらゆる魚は卵から生まれる」)先入観(イドラ)を排し、実験や 観察を通じて真理を探究する――帰納法を重視するベーコンの哲学は、イギリス経験論の祖となって引き継がれていくことになる。
といったような感じで、ソクラテス、プラトンの古代ギリシャ哲学から、ニーチェ、ウィトゲンシュタインの近代批判の哲学まで、選りすぐり の20問で、哲学史上のビッグネームを順番に解説してくれる(ただし現象学などは除外されている)、これは、興味はあっても哲学に まったく触れたことのない人や、学び直しをもくろむ人にはうってつけの好著なのである。
え?設問の答えはどうなったかって?ご心配なく。
最後まできちんと解説さえ読めば、「なんだかよくわからなくなっちゃった」妹より、「倫理の教科書や高校の先生の説明もわかったな。」 という兄の方が怪しいと分かる仕掛けなのだ。
2019/1/29
「壬申の乱と関ヶ原の戦い」―なぜ同じ場所で戦われたのか― 本郷和人 祥伝社新書
近世日本の最大の会戦「関ヶ原の戦い」(1600)が行われた古戦場(現・岐阜県不破郡関ケ原町)に赴き・・・徳川家康が本陣を 置いた桃配山に足を延ばしてみました。見ると、説明の札が立っている。なになに、桃配山の名は壬申の乱に際して、大海人皇子(のちの天武 天皇)が兵たちに桃を配った故事に由来する――。
<ん、「壬申の乱」(672)だって?>
さらに調べてみると、南北朝時代にも「青野ヶ原の戦い」(1338)という重要な合戦が、ほぼ同じ場所で行われていることがわかった。天智 天皇の死後、その後継を正嗣・大友皇子の近江政権と、吉野に隠棲して機を窺っていた弟・大海人皇子が争った、古代最大の内戦「壬申の乱」。 北朝の天皇を戴く足利尊氏の室町幕府に、吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇が、京都奪還を目指して挑んだ「青野ヶ原の戦い」。秀吉亡き後、 秀頼の下で揺らぎかけた豊臣政権に対し、新たな武家の棟梁は徳川だと雌雄を決しようとした「関ケ原の戦い」。その後の歴史を大きく動かす ことになった戦いが、いずれも同じ地、<不破=青野ヶ原=関ヶ原>で戦われたのはなぜなのか?
これは、いまやテレビでもお馴染みの売れっ子・中世政治史専門家が、スリリングな謎解きに挑んだ、胸のすくような「模範解答」の一冊 なのである。
天皇・皇后の即位や崩御といった代替わりや、摂政・関白の死去などの大事が起きた時、朝廷は固関使(こげんし)を派遣、関所の防衛を しっかりするよう役人たちに指示をしました。
律令時代に行われていた「固関(こげん)」という朝廷の儀式がある。北陸道を固めるのは越前国の愛発(あらち)関(現・福井県敦賀市付近 に推定)、東海道を固めるのは伊勢国の鈴鹿関(現・三重県亀山市付近に推定)、そして、京都に攻め入ろうとする敵を食い止める防衛拠点の 3カ所目として、中山道を固めていたのが美濃国の不破関だった。
京の都の天皇や貴族にとって、仮想敵は必ず「東からやって来る」わけだから、これら3つの関から東側の鄙(田舎)を「関東」と呼んで 警戒していたのである。(ちなみに、自分たちが住むのは「関西」ではなく、「上方」と呼ばれる都会である。)
「壬申の乱」では「天皇」が生まれた。国外重視から国内重視への政策転換で、対等外交の姿勢から「日本」という国号が使われ、三関が 置かれて日本の東の国境が確定した。「青野ヶ原の戦い」では「武士の世」が生まれた。政治権力は奪ったものの徴税権はなかった鎌倉幕府に 対し、室町幕府軍は戦いに勝ったことで将軍権力を確立することになった。「関ケ原の戦い」で「統一国家」が生まれた。東軍が勝ったことで、 日本列島の中心が西から東へと移り、関東や東北の開発が進んで、日本という国家の領土は倍になった。都を防衛する上で戦略的に重要な場所 だった「不破(関ケ原)」を、江戸幕府が厳重に支配することはなかった。(伊勢と彦根に東国と西国の防衛ラインを引いた。)
「敵は西からやって来る」という想定の下では、不破はもはや重要な場所ではなくなったから、というのがこの痛快な論考の結論なのである。
実際、明治維新では、薩摩・長州を中心にした官軍と徳川幕府軍が戦いましたが、攻める官軍は江戸城を奪取するために西から東に攻め 下っています。
2019/1/25
「世界一簡単なフランス語の本」―すぐに読める、読めれば話せる、話せば解る!― 中条省平 幻冬舎新書
"Aujourd'hui,Maman est morte.
Ou peut-etre hier,je ne sais pas."
(『L'Etranger』A.Camus)
<フランス語は、読めれば、できる>と断言する第1章の、わずか30数ページのレッスンで、英語に比べれば極めて明快で超簡単な、 フランス語の綴りと発音の関係を憶えてさえしまえば、アラ不思議。
<オジュルデュイ、ママン・エ・モルトゥ。
ウ・プテトゥル・イエル、ジュ・ヌ・セ・パ。>
と、20世紀を代表するフランス小説の有名な冒頭の一文が、まるで本物のフランス人になったかのように、スラスラと声に出して読める ようになってしまう。いやいや、もちろん、それは美しい錯覚で、「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には わからない」(『異邦人』カミュ)という意味であることは、全然分からないのだけれど、とにかく読めさえすれば、フランス語は難しい という偏見の壁は突破できるというものなのだ。
第2章で名詞に男女の性別があることと、定冠詞と不定冠詞及び形容詞の、単数と複数でのそれぞれの組み合わせ方をサラッと流したら、 (そんないい加減なと言ったって、フランス人だって完璧にはできないんだから、あまり気にしないことだ。)第3章からはいよいよ、動詞を 使った文章に挑戦!
とはいうものの、最初に出てくる動詞は、etre <エトゥル>と avoir <アヴワル> と aller <アレ> の3つだけなのだが、 etre <エトゥル> は be動詞、avoir <アヴワル> は have、aller <アレ> は go なので、(英語で考えるとわかるように)これだけで、 なんとなく現在、過去、未来の時制の表現までお勉強できてしまうことになるのである。(もちろん、男女、単複、時制での変化は憶えねば ならないが)
あとは、否定、疑問、命令の基本的な文型を教わって、人称代名詞や前置詞の知識を加えれば、
"Vous parlerez le francais."
<ヴ パルルレ ル フランセ>
「あなたがたはフランス語をしゃべるだろう」
2019/1/23
「天皇と儒教思想」―伝統はいかに創られたのか?― 小島毅 光文社新書
神武天皇がわが国をお始めになった、その当時の精神に立ち戻ること、すなわちそこへの復古が、明治政府のアジェンダだった。 慶応3年12月9日(グレゴリオ暦では、すでに年があけて1868年の1月3日)に発せられたいわゆる「王政復古の大号令」に、 「諸事神武創業之始ニ原キ」という文言が見える。しかし・・・
<明治維新で行われた「復古」は、近年普及した表現を借りれば「創られた伝統」だった。>
・古来ずっと続いているかのように思われている、天皇の「お田植え」と皇后の「ご養蚕」の儀式は、昭和天皇が始められたものだった。
・神道式に造営された墓に土葬が基本とされる皇室の宗教は、奈良から江戸時代までは仏教だったため火葬で執り行われていた。
・祖先祭祀と豊作祈願という王権の正統性を示すはずの重要な儀式も、明治維新での皇霊殿設置が四親廟による本格的な祭祀規定の始まり だった。
・天皇家が二つに割れて抗争した「南北朝」時代、それまでの北朝中心史観が覆され南朝が正統と裁定されたのは、北朝系の明治天皇の御代 だった。
・それまでは「吉凶之象兆ニ随ヒ」(太政官布告)改元してきた従来のやりかたを、「革易」(改元詔書)して一世一元とすることにしたのは、 明治政府だった。
以上のように、表向きは「復古」を掲げながら、その内実は「伝統の創出」であったことは、たとえば暦の改革を見てもわかる。明治6年、 明治政府は誰に強要されたわけでもなく、それまでの太陰太陽暦を廃止して、近代的で単純な太陽暦へと改暦する。(閏月を廃止することで、 1ケ月分の給与を節約できるからという、大隈重信による苦肉の財政危機対策だったらしい。)キリスト教会が16世紀に制定した暦を用いて、 仏教や神道の信者とあろうものが、平然とその宗教行事を行うことは、天皇制にとって由々しき事柄ではないのか?
「古来そうだったのだから変えてはならない」と、伝統的な天皇のありかたをめぐって声高に叫ばれる、一部論者の一見学術的・客観的な主張 は、そのじつきわめて思想的・主観的な虚像にすぎないのである。
8世紀初頭、ヤマト政権は中国から与えられた「倭」という国号を使用するのをやめ、自分たちで「日本」という国号を考案して外国(中国・ 韓国)政府に届け出た。『古事記』と『日本書紀』の編纂は、日本が天地の誕生以来一貫して続いており、その君主として天皇がいるという 物語である。日本が模倣しておこなった律令制定や歴史書編纂の、お手本となった中国がそうしていたのは、儒教思想に基づくものだった のだから・・・「日本」も「天皇」も、儒教をその思想資源としていた、と言ってよいのではないか?
<2700年前に神武天皇が即位したと信じている方々には、本書の内容は刺激が強すぎるかもしれない。>
というこの本は、天皇陛下の「おことば」に端を発する一連の議論において、皇室の伝統を云々する人たちの言説への違和感から、人々に とっての常識的通念とは異なるものの見方を示すことで、天皇の「古来のありかた」という思い込みを覆すために投じられた一石なのである。
8世紀以来、天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが、その内実は変容してきた。江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末 維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化している。 そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。
2019/1/20
「元年春之祭」 陸秋槎 ハヤカワ・ミステリー
天漢元年、雲夢の荒野で、晩春の夕映えのなか少女が雉を射抜いた。上には長襦、下には大袴をまとい、犀皮の矢筒を背負った姿は、 武人と見まがういでたちである。傍にはこの地で育った少女が木陰に立ち、単衣を身につけて、夕暮れどきの温気に耐えながら友人が射抜いた 獲物を手に提げていた。
長安の富裕な豪族の長女に生まれ一家の巫女となる宿命を背負った、文武両道・才気煥発ながら怜悧な少女・於陵葵(おりょうき)と、 楚の国の祭祀を担う名門でありながら没落した貴族・観家の末娘で、蒙昧無知・凡庸至極ながら気立ての優しい少女・観露申(かんろしん)。 その日出会ったばかりの二人は、まるで古くからの友だちででもあるかのように、<動物を殺した>ことについて言い争いを始める。
「弓術はただの技術ではない。礼書の言葉によれば、“射は仁の道なり。射は正を己に求む。己正しくして而る後に発す。発して中らざるとき は、則ち己に勝つ者を怨みず、反りて己に求むるのみ”。勝負の色のある格闘の術と比べると、弓術のかなりの部分は敵と張りあうというより も自分との闘いで、そこから自身の弱点を克服して、“仁”の境地まで到るの」
「ずいぶんと高尚なことをいうけれど、それより前に葵はこの血の流れる現実をよく見て。この屍と、命を奪うためにつけた傷が葵のいう“仁” だっていうの?もし徳行を求めているだけならただの的で稽古や力試しをすればいいのに、どうして生きているものを屠る必要があるの?」
え?少女たちの会話にしては、セリフがいささか時代がかっている?だって、天漢元年といえば前漢最盛期・第7代武帝の治世、つまり紀元前 100年のお話なんだから、これでいいのである。
というわけでこの本は、ハヤカワ・ミステリ創刊65周年を記念する作品で、古代中国にその舞台を設定した華文本格推理の傑作という触れ 込みなのだが・・・
巫女になる身として古礼の見識を学ばんがため、観家に投宿していた於陵葵の目の前で、次々と発生することになる殺人事件は、その舞台設定 を抜きにすれば、「犯人がどこかに消えてしまう」という、オーソドックスな密室型のミステリーとして現代にも通用する仕掛けなのだから、 (途中2度にわたって、「読者への挑戦」が挟み込まれるという、お楽しみもある。)
まるで科挙試験かと思わせるような、「四書五経」などの漢籍からの引用や、新解釈がスラスラと口をついて出てきてしまったりして、まだ 少女であるにもかかわらず、儒者としての宗教的素養が、言葉の端々から当たり前のように顔を覗かせたりするのは、中国の復旦大学で古典 文献学を専攻した著者の、過剰なサービス精神の現われにすぎず、物語の本筋にはあまり影響しないので、気にせず読み飛ばせばよい。
なんて思ったら、大間違いで・・・実はそこにこそ、この作品を「ミステリ史上に残る前代未聞の動機。」(@三津田信三)とうならせた、 ヒントが隠されていたのである。
一応、ネタバレにつき文字を白くしておくけれど、まぁ先にこれを読んだところで、謎が解けてしまうことはないだろうなぁ。 (解けちゃったら、ごめんね。)
――
自分の死をもって相手を傷つけるの?そんな方法で自分の愛を表す人がいるの?それを愛と呼んでいいなら、そんな 愛は結果だけみれば、憎しみとどこもちがわないじゃない。
――
ちがう、露申。それこそが最高の愛になるの。いにしえの名臣、直言極諫、身を殺して仁をなすといわれる人たちは、 まさにこの道理をおこないに反映させた――自分の死を用いて君主の心に傷を残し、そして諫言の目的を達する。兵をもって楚国を破った 伍子胥もそう、楚国の復興に心を砕いた屈原も同じこと。二人の自殺の理由は同じような忠愛、自分の見識を君主の生命の一部分にすることに あったの。
先頭へ
前ページに戻る