徒然読書日記201811
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2018/11/26
「消された信仰」―「最後のかくれキリシタン」長崎・生月島の人々― 広野真嗣 小学館
徳川幕府の禁教令下で、250年以上にわたって弾圧を逃れながら密かに信仰を守ってきた特異な歴史を考えれば、スポットライトが あてられて当然の存在に思える。しかしながら、日本政府や長崎県の当局はその存在をほぼ無視している。
<あるいは意図的に“消そうとしている”のではないか――。>
2018年5月3日、日本の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を、国内では22番目の登録遺産とすることが、ユネスコから勧告 された。しかし、日本政府が自ら出した推薦をいったん取り下げて、構成資産を見直し3年後に改めて再推薦するという、不可解な過程の末に、 <今なお大切に守られています>から、<現在ではほぼ消滅している>ことにされてしまった、一つの<信仰>があった。
服装は毛皮ではないものの、正装というよりは着流し風に腰に帯を締めているから「毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯を締め」という(新約 聖書の)表現と、ワイルドさでは通底するものがある。ただ、拭えない違和感もあって、どうしても、ツッコミを入れたくなる。なにしろ、 ヨハネの頭髪が「ちょんまげ」なのだ。
東シナ海に浮かぶ最果ての島、「生月島(いきつきしま)」。そこは、「かくれキリシタン信仰」の祈りが現在も静かに守られているという、 組織的な信仰がかろうじて残る最後のエリアなのである。
この<ちょんまげ姿の洗礼者ヨハネ>を隠れて拝む人々というのは、いったいどんな場所で、どんな気持ちで、どうやって祈るのだろう。 こうした聖画を残すのは、長崎でもこの生月という辺境の島だけの信仰の特徴だと知った著者は、平戸島から橋でつながる生月島へと向かう ことになった。
第24回「小学館ノンフィクション大賞」受賞作。
徹底的な幕府の禁教政策によって、純粋なキリスト教信仰を保持することはできず、在来の伝統的諸宗教との習合が不可避であった、江戸期の 「潜伏キリシタン」に対し、明治以降の「隠れキリシタン」の信仰の姿は、土着化の過程で本来のキリスト教から大きく変容し、日本の伝統的 諸信心と渾然一体となった民俗宗教を形成している。それは、もはやキリスト教とは全く別物の何かになっており、「隠れていないし、 キリシタンでもない」のだから「カクレキリシタン」と表記すべきだという主張すらあるのだ。
「オラショ」(ラテン語の祈祷 oratio に由来)と呼ばれる独特の<祈り>は、250年以上にわたって口伝で暗唱されてきた。「御前様」と いう信仰の対象は、教会を設けることができなかったため、持ち回りで信徒の自宅に保管され、観音扉の棚の中にしまい込まれている。 「でうすぱーてろひーりょうすべりとさんとのみつのびりそうなひとつのすったんしょーのおんちからをもって、始め奉る、あんめいぞー」 時折、額、胸、両肩を立てた右手の親指でさし、十字を切りながら、こうした祈りが45分近くも続くのである。
「今日の<かくれ切支丹>はかくれ切支丹ではなく、その抜け殻であり、一般の人々には古い農具を見る以上の興味もない」 (『かくれ切支丹』遠藤周作)
確かに、「祈りのかたち」は世界遺産にはならない。しかし、この辺縁の島の人々の“伝えようとする意思”こそ、宗教が痩せていく現代に、 見出されるべき価値ではないのか。それがこの著者が、綿密な取材を通して胸に刻み込むことになった、大いなる<問い>だった。
生真面目な神父ほど、担任する教会が世界遺産候補になることを、異口同音に敬遠したという話を何度か耳にした。大浦天主堂のように なります、と。天主堂の拝観料は600円(2018年4月から1000円に値上げ)、もはやここは「祈りの場」ではなかった。(中略) 世界遺産というブランドに目がくらんでいるうちに、静謐な祈りの場を“キリスト教でない何ものか”に変容させているのは、そっちの方では ないのか――。
2018/11/19
「日本史のツボ」 本郷和人 文春新書
「万世一系」という言葉の通り、日本という国が自分の歴史を認識するようになってから、天皇は途絶えることなく存在してきました。 その一方、天皇の在り方、その位置づけは時代によって大きく変わってきます。その変化はなぜ、いかにして起きたのかを論じることで、日本の 歴史の流れがみえてくる。
白村江の敗戦によってアイデンティティ・クライシスに陥ったヤマト王権が、率先して外来文化を採り入れ、咀嚼し、積極的に「日本」独自の 「国のかたち」を示して諸豪族を束ねていこうとした、天智、天武、持統の時代が「天皇」という呼称の始まりだった。唐が著しく国力を衰退 させ「外圧」が消失すると、天皇は勇ましい地域の「王」から、宮中に籠り現状追認を志向する雅な「王」へと変質する。
やがて、鎌倉から室町へと続く武家政権の時代に、政治的実権を武家に奪われることになった天皇の存在が、それでも必要とされたのは、土地の 権利をめぐる論理としての「職の体系」以上のものが構築できておらず、天皇家を滅ぼしてしまったら、幕府の信用さえ丸潰れになってしまう からだった。そこまで存在を縮小された天皇が、なぜ明治維新に際して、いきなり「王」としての役割を担わされることになったのか?
<その答えは、「庶民の期待」だと思います。>昭和の敗戦など、日本が「外圧」による危機に晒されたとき、新しい「ヴィジョン」を掲げる。 それが日本の歴史における天皇の役割だというのである。
というわけでこの本は、日本の歴史を時代ごとに細切れにするのではなく、ひとつのテーマを軸に、古代から近世、頑張って近代まで、通しで 考えることで、見通すことができるのではないか。と考えた、
『戦いの日本史』
などの著作で、いまや 引っ張りだこの東大史料編纂所教授による意欲作なのである。
選んだテーマは、天皇、宗教、土地、軍事、地域、女性、そして経済の合計7つ。「むかし」との比較を通じて「いま」の位相を明らかにして くれるのも、歴史学なのだから、わたしたちが当たり前だと思って疑問を抱かずにいる「いま」の位相を改めて示すことで、それを改善するため のヒントを生み出すこともできるだろう。歴史はどういうベクトルで動いているのか。その方向性や指向性を模索する。
これは「点」ではなく「流れ」をつかむために、押さえるべき「ツボ」の指南書なのである。
この7つのテーマは互いに深く関連し合っています。たとえば天皇という存在がなぜ鎌倉から江戸まで650年を超える武家政権の下で 続いてきたのかを考えると、土地制度のあり方にいきあたります。また日本史を軍事で捉えようとすると、当然、各地域ごとの地理や発展を 見なくてはなりません。したがって、重要なポイントとなる事件や人物が、テーマごとに異なる視点、異なる切り口で登場します。それに よって、歴史の奥行き、単なる年表上の出来事ではなく、立体的な存在感を感じてもらえたら――。そんなことを考えています。
2018/11/18
「ゲンロン0 観光客の哲学」 東浩紀 ゲンロン
ぼくは、村人、旅人、観光客という三分法を提案している。人間が豊かに生きていくためには、特定の共同体にのみ属する「村人」 でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的な ありかたが大切だという主張である。
<観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想する。>
イギリスがEUからの離脱を決定し、アメリカで「アメリカ第一」を掲げるトランプが大統領になり、世界中でテロが相次ぎ、日本ではヘイト スピーチが吹き荒れる。2017年のいま、人々は世界中で「他者とつきあうのは疲れた」と叫び始めている。「他者を大事にしろ」という リベラリズムの単純な命法に、もはや誰も耳を貸そうとしなくなってしまったのだ。
21世紀の世界においては、国家と市民社会、政治と経済、思考と欲望は、ナショナリズムとグローバリズムという異質なふたつの原理に導かれ ている。いまも国民国家(ネーション)は生き残っており、政治はいまだにネーションを単位に動いているが、経済はネーションを単位とせず、 世界中から貨幣を集めている。つまり21世紀の世界には、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることの できないグローバリズムの層があり、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なって、統合されることなく、それぞれ異なった<二層構造>の 世界秩序を作り上げたというのである。
では、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐ(ヘーゲル的な成熟とは)別の回路はないのか?市民が市民社会にとどまったまま、 個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか?観光客の哲学なるものは、その可能性を探る 企てなのだと、この気鋭の批評家は宣言している。
<観光客>とは何か?
観光客は、訪問先をふわふわと移動し、世界のすがたを偶然のまなざしで捉える。ウィンドウショッピングをする消費者のように、たまたま 出会ったものに惹かれ、たまたま出会った人と交流をもつ。だからときに、訪問先の住人が見せたくないものを発見することにもなる。 観光客とは、帝国の体制と国民国家の体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称なのである。
ネグリとハートが『<帝国>』において提唱した、マルチチュードという概念は、連帯しないことによる連帯を夢見るしかないという意味で、 否定神学的なマルチチュードだった。それに対し、たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように 見えてしまう、そんな錯覚の集積がつくる連帯を考えること。
というわけでこの本は、『存在論的、郵便的』、
『動物化するポストモダン』
、
『ゲーム的リアリズムの誕生』
、
『一般意志2.0』
など、 20年近くにわたって、先鋭的な批評のスタイルを貫き続けてきた著者が、いままでの仕事をたがいに接続するように構成することで辿り 着いた、<観光客>とは、つまり郵便的マルチチュードの連帯のすがたなのだ、という提言なのである。
2018/11/17
「彼女は頭が悪いから」 姫野カオルコ 文藝春秋
2016年春に豊島区巣鴨で、東京大学の男子学生が5人、逮捕された。5人で1人の女子大学生を輪姦した・・・ように伝わった。 好奇をぐらぐら沸騰させた世人が大勢いた。これからこのできごとについて綴るが、まず言っておく。
<この先には、卑猥な好奇を満たす話はいっさいない。>
田園都市線「あざみ野」。都心に通勤至便と謳われながら、紛れもなく“郊外”の、ごく庶民的な家に暮らす神立美咲は、地元の県立高校を卒業 し、河合塾の偏差値48枠に位置づけされる、横浜郊外の水谷女子大学に進学した、ごく普通の女子大生だった。
地下鉄日比谷線「広尾」。交通至便なわりに閑静な一帯の国家公務員宿舎という、そこそこに裕福な家庭の次男として育った竹内つばさは、私立 の中高一貫男子校に進んだ兄を横目に国立の教育大付属高校に進学し、予定通りに東京大学に入学した、絵に描いたようなエリート学生だった。
そんないささか釣り合いのとれない2人が、出会うことになったのは、赤レンガ倉庫のオクフェスで、東大生が合コン目当てに主催している 「星座研究会」と、水大のこちらは真面目な「野草研究会」が偶然隣り合わせたからだった。やがて意気投合して会場を抜け出した2人は、 水上バスの上でキスをするという、美咲にとって自分の暮らしにはおこらないはずだったドラマチックな冒険から、<白馬に乗った王子様>の ような、いささかぎこちなくて、微笑ましい恋が始まった・・・はずだった。
それが、どうしてこのような事件に至ることになってしまったのか、(それは、実際にこの本を読んで確かめていただきたいのだが・・・)
「世に勘違い女どもがいるかぎり、ヤリサーは不滅です。」「被害者の女、勘違いしてたことを反省する機会を与えてもらったと思うべき」と、 被害者であるにもかかわらず、ネットリンチに実名でさらされることになった美咲が出した、<東大を退学すること>という唯一の示談の条件に 対し、
「部屋に自分で行っておいて被害者ヅラの女子大生の親より、せっかく東大まで行かせたのにこんなことで実名出された男5人の親のほうが、 すごく怒っていると思う」という世間の風潮に後押しされるかのように、金銭など別の条件で示談できないかと、伝手をたどって水大の教授に 打診してきた、つばさの<才媛>の母に対し、
「息子さんを含む、事件にかかわった5人の男子学生の前で、あなたが全裸になって、肛門に割箸を刺して、ドライヤーで 性器に熱風を当てて見せるから示談にして、とお申し出になってみてはいかがですか」
(文字を白くしておきます。)
と、才媛を「罵倒されて、侮辱された」と憤慨させた水大教授からの回答。それこそが、彼女が誇らしく思ってきた東大生の息子が、実際に 美咲にした行為だった。そして、そのつばさが「巣鴨の飲み会で、なんで、あの子、あんなふうに泣いたのかな」と、いまだに本当にわからない で困惑しているというところにこそ、この事件の、やりきれない<鬱陶しさ>があるのだ。
彼らは美咲を強姦したのではない。強姦しようとしたのでもない。彼らは彼女に対して性欲を抱いていなかった。彼らがしたかったことは、 偏差値の低い大学に通う生き物を、大嗤いすることだった。彼らにあったのは、ただ「東大ではない人間を馬鹿にしたい欲」だけだった。
2018/11/15
「古生物学者、妖怪を掘る」―鵺の正体、鬼の真実― 荻野慎諧 NHK出版新書
(妖怪という言葉が初めて登場した8世紀の末に編纂された)『続日本紀』で記された妖怪とは、原因のわからない気味の悪い事象の ことを指していたそうだ。その後、先の異獣やもののけ、あやかしなど、様々な呼ばれ方をされてきたものが、いま一般には妖怪と認識されて いる。
<古生物学的視点で、古い文献に記載されている不思議な生物や怪異の記載を読み解くと、いろいろおもしろいことが見えてくる>
クマやイタチなどの祖先の、肉食の哺乳類化石を専門とする古生物学者である著者が、そんな確信を抱いたのは、不完全な化石の断片を前に、 絶滅した生き物や古環境をあたかも見てきたかのようによみがえらせていく「妄想力」が、文書中のわずかなヒントから真実を「復元」すること に応用できれば、古文献を「掘る」ことで妖怪や怪異の正体に近づけるのではないかと思ったからだった。
文献が残されている時代には生存していなかったため古文献には残っていないが、近現代に入って地層の中から実際には分布していたことが 分かることもある。古生物学者が自身の生きる時間とは別の、生き物についての時間空間的な軸を持っていることも重要だというのである。
<「ヤマタノオロチ」はどういう発想のもとに生じたか?>
胴体から延びる頭と尾が16方向に延びるイメージは、通説となっている洪水のイメージよりも、火山噴火を描写したという寺田寅彦の説の方が 説得力がある。やおら8つ酒を満たした甕に頭を突っ込んで酔っ払って眠ってしまうのも、湖沼に火砕流が突っ込んでその動きを止めたという 方が、筋が通る。ヤマタノオロチの描写は、火山活動をもとにして記述されているのではないか?
(このお話については、前にご紹介した
『火山で読み解く古事記の謎』
(蒲池明弘 文春新書)の方が読みごたえがある。)
<「鵺」は実際いた生き物を描写していたのではないか?>
頭がネコで背がトラ、四肢がタヌキで尻尾がキツネ、それが夜な夜な皇居の屋根に現れて、恐ろしい声をあげて鳴き、気味悪がられた。
それが『源平盛衰記』に描かれた妖怪「鵺」の姿なのであるが、これが仮に空想の生き物なのだとすると、もう少し恐ろしい描写をしたほうが、 より怖がらせることができたのではないだろうか。恐ろしい声というのも、重低音で吠える獣らしさのあるものではなくて、トラツグミという 鳥の寂しげなさえずりなのである。故郷から迷い込んだ人里の屋根の上で、雷におびえるネコのようなか細い声で鳴いている、木登りのうまい 夜行性の生き物とは・・・
絶滅した大型のレッサーパンダ(300万年前の化石が新潟県で発見されている)ではないか?
もちろん、これらの説はフィクションである。これを信じるとか、信じないとか、そういう観点で評価されるのは本意でないと、著者も断言して いるのである。
目の前に現れた未知の生物、それを正確に記述する姿勢は、各々の時代においては最先端の知の集大成であっただろう。文書がウソをついて いないという前提ではあるが、科学以前の「科学者」である当代の識者らによって記載された珍しい動物や自然現象の正体は何か。私の興味は そこである。怪異とされたものを古生物学的視点から見つめ直してみる。本書ではその手法を「妖怪古生物学」として提唱したい。
2018/11/12
「『その日暮らし』の人類学」―もう一つの資本主義経済― 小川さやか 光文社新書
わたしたちは、未来のことを考えることは当たり前だと思っている。将来にまったく思いを馳せることのない人間などいるのだろうか。 また、わたしたちは、時間は直線的、単線的で均質的なものだとも思っている。・・・わたしたちはいつの間にか便宜的に生み出された時間の 概念に生活や社会、経済のリズムを合わせ、人間の生存を時間によって規定するようになった。
<そのような時間に規定されない暮らしとは、どのようなものだろうか。>
アマゾンの狩猟採集民ピダハンの言語には、過去や未来を示す時制がきわめて限定的にしか存在しない。彼らはその場限りの道具しか作らない し、食料を保存することもない。葬式や結婚式、通過儀礼もなければ、創世神話も口頭伝承もない。曽祖父母やいとこの概念も存在しない。 つまりピダハンは、実際に見たり体験したりしたことのない事柄に言及しないし、そもそも関心を示さないのである。そして、それゆえにこそ 彼らは「現在」をあるがままに生きており、自分たちの文化と生き方こそが最高だと、自信と余裕をもって「よく笑う」。
タンザニアの焼畑農耕民トングウェ人は、簡単に入手できる食糧資源に強く依存する傾向があり、できるだけ少ない努力で暮らしを成り立たせ ようとする。それは、どれだけ多くを生産できるかを競い合いながら、日々の生活に追い詰められているわたしたちの資本主義社会とは真逆の 世界である。トングウェ人は集落を訪れる客人をもてなすために、生産した食糧の40%近くも分け与えてしまう。困ったときには逆に、自分 たちが近隣の集落の客人となればよいのだ。つまりそれは、全員が損をしないよう「いかに努力をしないか」を競うことで、結果として最小限 の努力でギリギリの生計を維持しようとする社会なのである。
“Living for Today”(その日その日のために生きる)
近年、中国とアフリカをはじめとした発展途上国において台頭著しい草の根のインフォーマル交易が、主流派経済にとって無視できない存在と なろうとしている。タンザニア北西部の都市ムワンザで、2001年から足かけ15年実施してきた、零細商人マチンガの商慣行や商実践、 社会関係の調査。
「絶えず試しにやってみて稼げるようなら突き進み、稼げないようなら撤退する」という彼らの個々の戦術と、寛容で柔軟なネットワークの構築 が、いまや情報産業の発展をはじめとした特定の状況に支えられて、突如革新的なシステムとして評価されるようになってきた。たとえば、 中国のコピー商品の氾濫ひとつをとってみても、安さとスピードを極限まで高めれば、人びとの短期の買い替えのニーズを掬い上げることが できるのだ。それは、実はわたしたちと同じ資本主義経済の論理で動いているのだし、むしろ「より徹底的に新自由主義化」した経済システム を形成しており、主流派の経済システムが生み出している問題や不公正を解決する場とさえなっているというのだった。
日本では「根拠のない自信」といった言葉をよく耳にする。この言葉も設計主義的合理主義に基づく効率主義、能力主義の言説である。 自信や余裕を持つのにどんな根拠・基準、あるいはルールが必要なのだろうか。ピダハンの民族誌を読んでいて、ふとそんなことを思った。 生きていることからのみ立ち上がってくるような自信と余裕、そして笑いが彼らにはあった。本書で論じた Living for Today の生き方が 新しい人類文明の可能性を切り拓くことに、少しでも寄与できたなら幸いである。
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