徒然読書日記201810
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2018/10/29
「光明皇后」―平城京にかけた夢と祈り― 瀧浪貞子 中公新書
先帝陛下の奉為に、国家の珍宝たる種々の翫好および御帯・牙笏・弓箭・刀剣、兼ねて書法・楽器などを喜捨して東大寺に入れ、 廬舎那仏およびもろもろの仏・菩薩、一切の賢聖に供養せん。(『国家珍宝帳』)
天平勝宝8歳(756)6月21日、聖武(太上天皇)の七七日忌にあたり、東大寺の廬舎那仏供養として施入された聖武遺愛の膨大な遺品の 数々。(ちょうど今、奈良国立博物館でそのごく一部が公開されている、第70回正倉院展の宝物がそれである。暇人も今回初めて拝見してきた。 圧倒された。)
冒頭の引用は、皇太后の光明子が、そこに添えられた目録(『東大寺献物帳』)のはじめに記した願文なのである。生前聖武の好んだ品々をみる につけ、ありし日が思い出されて泣き崩れてしまうから,施入することで悲しみを紛らわせ、仏の加護を仰ぎたいというのだった。
光明皇后には毀誉褒貶相半ばする、二つのイメージが常に付きまとっている。ひ弱で優柔不断な聖武になり代わって、政治権力の中枢で独裁権を 振るった、則天武后のような女傑のイメージと、病人に薬を与える施薬院や、貧しい人々を救う悲田院を設けた、慈悲深く信仰心の篤い聖母の イメージと。信仰面では美化され、政治面では悪評高い、天平時代を代表するヒロイン光明子の実像は、いったいどちらが正しかったのか?
これは20年も前に、『最後の女帝 孝謙天皇』(吉川弘文館)と『帝王聖武 天平の勁き皇帝』(講談社)を著していながら、結局、光明皇后 を論じなければ、聖武天皇論も孝謙女帝論も終わらないと、満を持して奈良時代の諸相に挑んだ古代史研究者の意欲作なのである。
光明子は生涯、その二面性(皇后としての公の立場と、藤原氏の娘としての私の立場)の使い分けに心を砕かねばならず、それが政争の火種と 表裏の関係にあったという宿命を負わされていた。
「黒作懸佩刀」
天武嫡系のシンボルとして、草壁皇子が常に身につけていたこの佩刀は、草壁夭逝を中継した母・持統天皇から、擁護者と見込まれた時の太政 大臣・藤原不比等へと託されたのだが、結局、<草壁→不比等→文武→不比等→聖武>という受け渡しをたどった歴史は、聖武の死後東大寺に 献納されることで、終止符が打たれることになる。光明子は、天皇家を輔弼し、草壁皇統の継承を貢献してきた藤原氏の象徴を、娘の孝謙女帝 に継受させることを断念したのである。
この「国家珍宝帳」にも記載されている「黒作懸佩刀」が、今は<除物>という付箋を貼られて、由緒書きのみで現物は存在していないのだと いう。配偶者も子供もいないにもかかわらず、自分こそが唯一、聖武の正当な継承者と刷り込まれてしまった、異常なまでの嫡系意識をもって いた孝謙女帝。娘のために、そんな固執を断ち切るため、佩刀を天武傍系の淳仁天皇へと継受させるため、それは光明子の手で持ち出された のではないか?というのが、この著者のスリリングな読みなのだが・・・
いずれにしても、一旦譲位しながら重祚して、怪僧・道鏡とともに、父聖武の思想を継承しようとした称徳女帝の思いに反して、時代は天智系の 血脈である桓武天皇へと移っていくことになるのである。
幼なじみの夫聖武を支え、最大の理解者となったのが光明子であった。また聖武没後は、女帝となった娘孝謙の行く末に心を砕いている。 光明子の生涯は、まさに奈良時代の政治、社会、文化、宗教に大きく関わる、というより時代を動かす原動力となったといえる。皇后の生涯を 説き明かすことは、奈良時代の歴史そのものを解明することでもある。
2018/10/24
「グレイト・ウェイヴ」―日本とアメリカの求めたもの― Cベンフィー 小学館
19世紀末、とりわけ独立宣言100周年に当たる1876年以降四半世紀の間、アメリカでは版画、磁器、柔道、仏教、芸者、 サムライといった、日本のあらゆるものがちょっとしたブームになった。振り返ってみると、こうした興味が巨大な波のように押し寄せたという のは、ありそうもないとも言えるし、必然とも言える。
“Gilded age”(金ぴか時代)
アメリカ南北戦争(1861〜65)後の、産業の急速な発展と軽薄な成金趣味が横行した時代。繁栄だけを求めるアメリカ人には、もはや太陽 が光り輝く遠い昔の、調和のとれた理想郷である“Golden age”(黄金時代)を勝ち取ることなどできはしない。そんな彼らに期待できるのは、 はがせばその中身は汚い不純物にすぎない、金メッキがせいぜいである。そう考えたマーク・トウェインが名付けたという“金メッキ時代”、 それは不朽の呼称になった。
“Old Japan”(開国する以前の日本)が、厳格な清教徒を祖先とする貴族的なニューイングランドの人たち、ボストン市民を惹きつけた答えの 一つがそこにある。彼らは“Old Japan”に“Golden age”を、あるいは消えてしまう前にどうしても行ってみたい世界の面影を見たような気が したのだ。
というこの本は、“Old Japan”の探求や保存にみずからを捧げた鑑定家、収集家、科学者といった旅行者たちの物語を綴ったものであり、 日本人漁師・万次郎と捕鯨業者・メルヴィルという2人の漂流者のすれ違いから始めて、日本に魅せられた人々と日本人仲間の交流が丹念に 描かれていく。
貝殻収集家から“Old Japan”の保護者となったモース。
火星からのメッセージを確信していた天文家のローウェル。
異国的で奇怪なものを崇拝した作家のハーン。
サムライの芸術といえる柔道を指南することで大統領を懐柔した鑑定家のピゲロウ。
彼らは一様にダーウィンの進化論の信奉者であり、絶滅寸前の探求の対象を今のうちに、という切迫した思いに駆り立てられていたのだが、 皮肉にもまさにその同時期に、当の日本は近代国家への脱皮を目指し、25年という短期間に国際社会への仲間入りを果たさんと奮闘努力して いたことになる。つまり、“Old Japan”はその発見の瞬間に消えてしまったとも言える。これこそが、なぜボストンが日本に関する多くの 知識と、高い価値のある芸術作品の宝庫になったのか、という理由の一つなのである。
まさに、<オールド日本が黒船に仰天したとき、金ぴかアメリカは美しい日本に恋をした。>のだった。
こうした日本と西洋の文化的交流こそ、私がこの『グレイト・ウェイヴ The Great Wave 』というタイトルによって表したい何よりも重要な 意味である。ペリーの開国以降、日本にやってきたアメリカ人たちの巨大な波と、一方でアメリカにおける日本の影響という返す波。・・・ 最終的には、見せかけの約束と繁栄のただ中で、不安定感と大きな危険が差し迫っている緊迫感に満ちた、アメリカのギルデッド・エイジと 日本の明治時代に共通した空気を捉えることをめざしている。
2018/10/21
「ブルックリンの少女」 Gミュッソ 集英社文庫
そこできみはハンドバッグを探り、タブレットを出した。パスワードを叩いて写真フォルダーを開き、一枚の写真をみつけるため 検索を始めた。ぼくに目を合わせ、何かつぶやきながらタブレットを見せた。そして、ぼくはきみから強奪したも同然の秘密を直視する破目に なった。
「これがわたしのやったこと・・・」
結婚式を3週間後に控え、6か月前に知りあったばかりの婚約者アンナと、コートダジュールで夏の終わりの休暇を楽しんでいた人気小説家の ラファエルが、過去のことを聞こうとするたびなぜか話題をそらすアンナに、「秘密をもつのはよそう」と執拗に迫ってしまったのは、離婚と いう苦い経験があったからだった。
<三つ並んだ焼死体>という、想定外のおぞましい光景。
意味不明のまま、直後に失踪してしまったアンナの行方を追い求めはじめたラファエルと、隣人の元警部マルクの捜索の旅は、過去に起こった 連続少女拉致監禁事件や、未解決の身代金誘拐事件、不審な自殺や事故死などの顛末を掘り起こしていくことになるのだが、今は小児科の研修 医となったアンナの、その過去に秘められた<数奇な運命のいたずら>とは、いったい何だったのか?
というわけでこの本は、現在フランスでもっとも人気のある作家の一人、ギョーム・ミュッソの手になる濃密な仕立てのミステリーの逸品なの であれば、時空間(過去と未来、フランスとアメリカ)を縦横無尽に駆け巡るハイテンポな展開と、こちらが追いつめられるようなサスペンス をお楽しみいただけばよいのだが、
出産から10日目には職場復帰し、結局育児放棄して去っていった前妻のため、愛息テオのイクメンとなることを選んだラファエルを筆頭に、
自分の名前が三面記事に載らないように、誘拐された10歳の息子の身代金をすぐに支払い、その後は寄宿舎に押し込めて話そうともしなかった 富豪の父。
男は不真面目で移り気、卑怯者、嘘つき、格好つけている、信用できないと決めつける女系家族の中で、隙間風のような顔のない父。
不倫の末にできてしまった子を、「血の繋がりで家族が構成されるのではない」という身勝手な解釈で、我が子と認めようとしない名士の父。
と、これは様々な家族のきずなの中で描かれた、父親たちの物語でもあるのだから、
14歳という女の子にとっては難しい時期に、手に負えなくなった娘に暴力をふるってしまったその日から、本当に娘を失ってしまったマルク に、「わたしたちが愛しあっていること、お互いに理解しあっていることをもっと正直に言うべきだった。」と最後の最後になって、こんな 胸を衝かれるような手紙を出してくるなんて・・・そら、あんさん、反則ですってばさ。
地獄に落ちてみると、幸せな思い出の蓄えがあることの大事さが分かる。わたしはそれをいつも頭のなかに思いうかべる。寒さと怖さを 和らげるために。わたしはママンが教えてくれた詩を暗唱したり、音楽教室で習ったピアノ曲を頭のなかで演奏したり、それにパパが選んで くれた小説を自分に語ってみたりする。・・・
2018/10/19
「鳥類学者 無謀にも恐竜を語る」 川上和人 新潮文庫
ここ10年ほどの恐竜学の進展はめざましい。そのなかで特に注目されるのは、羽毛恐竜の頻々たる発見と、それにともなう 鳥類と恐竜の類縁関係の再考だ。もはや鳥類が恐竜なのか、恐竜が鳥類なのか、混然一体としてわからなくなってきているほど彼らの関係は 親密である。
2007年、ティラノサウルスの骨から抽出されたアミノ酸の配列を分析した結果、ワニやトカゲよりもニワトリやダチョウと近縁であること が明らかになった。それまでは、形態に基づくもののみだった鳥と恐竜の類縁性が、はじめて分子生物学的にも示唆されたのである。未知なる 巨大生物への憧憬という魅力をもつ恐竜学は、一方で、遺された骨の化石を元にそのすべてを類推するしかないという弱点を孕んでいた。 これに対し、形態や行動をつぶさに観察することができる鳥類学なのであれば、鳥類と恐竜に浅からぬ縁があったということは、まさしく僥倖 であるに違いない。お互いの緊密な類縁関係を拠り所とし、鳥類の進化を再解釈することで、恐竜の生態を復元できるのではないか。
というこの本は、『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』と嘯いた異色の鳥類学者による、軽妙洒脱な科学エッセイの第二弾なので ある。
<恐竜学的不確実性>
恐竜学において認識されている「種」とは、あくまでも骨の形態が似ているものの集まりでしかない。別種とされているものも、じつは同種で あるという可能性もある。
<羽毛恐竜は飛べるとは限らない>
最初は保温や繁殖のディスプレイなど飛翔以外の機能のために進化してきた羽毛の一部が、だんだんと大型で丈夫になることによって、 飛翔にも役立つようになった。
<恐竜はどんな色だったのか>
鳥類の祖先だとわかってから、それまで地味な褐色だった恐竜が急にカラフルに描かれるようになってきたが、図鑑で描かれた色は、ほぼ確実 に違っているだろう。
<恐竜はさえずりを奏でるか>
鳥類のなかで比較的古い時代に進化したのは、ダチョウやキジ、カモなど、比較的鳴き声が単純な種だから、複雑な歌声を恐竜に期待するのは かわいそうだろう。
などなど、門外漢の鳥類学者がそこまでしたり顔に、恐竜についての妄想を語ってしまっていいのだろうか、だって?「鳥類は恐竜だ」と 言い出したのは、恐竜学者の方なんだから、いいに決まっているじゃないか、と虚勢を張って見せてはいるが、ワニ類(爬虫類)から鳥類への 大進化の途中にあって、両者から愁派を送られ続けているアイドル的存在の恐竜学者に対する、
これは、身の程知らずの鳥類学者からの、まことに切ないラブレターなのである。
私はあくまでも現生鳥類を真摯に研究する一鳥類学者である。・・・恐竜学に精通していないと胸を張って公言できるし、古生物学会にも 地質学会にも入っていない。・・・あくまでも、鳥の研究者が現生鳥類の形態や生態を介して恐竜の生活をプロファイリングした御伽噺だと、 覚悟して読んでほしい。
2018/10/5
「武士の日本史」 高橋昌明 岩波新書
(多くの日本人は)武士といえばまず刀を連想するだろうが、古来武士は「弓取」と呼ばれ、刀取などとはいわない。武士を象徴する 武器は刀ではなく、長い間、弓だったからである。
<でもどうして弓なのか。>
こんな誤ったイメージが生ずるのは、江戸時代と戦国時代以前とでは、武士のあり方が大きく異なっているからだ。そして、戦国以前の武士の 歴史のほうがずっと長いのである。(もちろん、その歴史は連続しているのだから、共通する面もある。)「武士の発生から近代にも残る武士 意識まで、つまり武士にかかわる全歴史を、それぞれの時代の特色を明らかにしながら扱いたい。」これは、長年武士研究を牽引してきた著者 が、そんな私たちの<常識>に突きつけてみせた、<武士の実像>という試金石なのである。
<武士が発生した古代・中世の時代、武士は芸能人だった。>
「武」という芸(技術)によって他と区別された社会的存在として、自分の技芸の能力を不断に練磨し、家業として子々孫々に受け継がれて いくものだった。
<甲冑など優れた装飾の武具は、平安期工芸美術の粋を集めた貴族社会の産物だった。>
紛争当事者の実力行使を抑止・制圧しようとする天皇や朝廷の意志を「代表的に具現」して、武士は美々しい大鎧を身にまとい、飾り立てた 馬に跨って現場に向かった。
<武士の表芸である弓馬の芸(馬上の射芸)を駆使した戦闘の情景を、再現することはとても難しい。>
去勢していない気性の荒い暴れ馬に乗って弓を引くため、馬には二人の「口取」が必要だったから、特別な場合を除いて疾走することなど できなかった。
<あたりまえの話だが、刀は接近戦以外では弓にかなわない。>
騎馬兵の主力兵器である弓矢で負傷させ、落馬した敵のとどめをさすのは鑓などの打物で、刀(脇差)は首級を取るのに使われた。
<死のいさぎよさを根本とする『葉隠』のような武士道の思想は、近世において極めて孤立した主張だった。>
名利を渇望する「渡りもの」的な生き方が主流であり、よく戦ったうえで敵のために虜となることは、必ずしも恥辱ではなかった。
<新渡戸稲造の『武士道』は、日本をよく知らない彼の脳裏にある「武士」像をふくらませて紡ぎだした創作である。>
騎士道との類推で「義の道」を説くその武士道論は、日本のよき精神的伝統を育成するものとしてキリスト教を位置づけ、東西文明の交流を 図ろうとしたものだった。などなど、というわけで・・・
我々は日本が武の国とか日本人は勇敢な民族だとかいう確かめようのないプロパガンダに乗ぜられるのではなく、むしろ「軍事面での 勇敢さ」を不要とする、平和と安全保障の国際関係、国際環境を構築する方向で、それこそ勇敢に、粘り強く努力すべきである。いわずもがな のことだろうが、日本の武士の歴史を学ぶのには、そういう今日的な意味もある。
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