徒然読書日記201809
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2018/9/26
「帝国軍人の弁明」―エリート軍人の自伝・回想録を読む― 保阪正康 筑摩選書
昭和の戦争(満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争)の軍事的責任、政治的責任はどのような 形になるのだろうか。1945年8月15日(国際法的には9月2日になるのだが)のあと、こうした責任を 戦後社会が具体的に問うたことはない。
<なぜ日本国民は自らの手で、責任を問うことをしなかったのか>
1.東京裁判(極東国際軍事裁判)が行われたこと。
2.こうした責任論は昭和天皇に及ぶと考えていたこと。
3.戦後すぐに東久邇首相が訴えた「一億総ざんげ」がなんとはなしに受けいれられたこと。
という安易な回答に走ることに不快感を覚え、高級軍人たちが残した回想録や手記という第一級の昭和史資料 を読み解くことで、
<軍事上の責任者たちはどのような思いをもって、戦争指導を行ったのか>
<誰が彼らに国民をまるで弾丸の一発の如くに扱って、死を強要することを許したのか>
<これまでの日本の歴史の先達に対して、将来の児孫に対して、どのような申し開きをするのか>
を改めて問おうとした、これは昭和史研究の碩学が、昭和陸軍の本質に迫った検証の記録なのである。
(ちなみに、今回は陸軍に絞って採り上げられており、より巧妙に責任逃れをしているともいえる海軍の将官 たちについての検証は、またいずれとのことである。)
石原莞爾『世界最終戦論』、堀栄三『大本営参謀の情報戦記』、田中隆吉『日本軍閥暗闘史』、磯部浅一 『獄中日記』、そして瀬島龍三『幾山河』など、ここに取り上げられた10人の高級軍人の回想録や手記を 読めば、
個々の戦争の局面において<主観的願望を客観的事実にすりかえる>という、日本の軍事組織の共通の欠点が 如実に露呈していたり、戦後の回想記の中では、最高位の軍事指導者を批判するその口で、「私は知らな かった」という責任逃れが高級軍人の常套句になっていたりもするが、むしろ良心的とも思えるような感情の 吐露が主流を占めていることに気付かされることになるわけで、逆に・・・
「わたしは政治家のような浮草稼業は厭だ、大衆に媚びへつらうなんてできないと常に言っていました。」 と、長年の腹心であり秘書官を務めていた赤松貞雄の証言で、「内心では政治家を馬鹿にしていた」ことが 明らかな東条英機など、東京裁判でA級戦犯容疑者に指定されたような、その責任があまりに重い者(参謀 総長の杉山元とか)の生の証言こそが残されるべきであったのに、
そんな彼らが、ひたすら法廷での弁明にのみ終始し、回想録や手記の類をまったく残していないのは、自らの 心情や足跡は歴史に残したくなかった、ということなのだろう。
軍事上の責任が問われるべき軍人と、必ずしもそうではない軍人との、回想録の類を見分ける目を持って ほしいというのが、この著者の切なる願いなのである。
今後はこれまで残されている軍官僚の証言や公式記録から、その負の位置づけをより明確に行っておく べきだと、私は考えている。それができなければ次代の者もまた軍官僚の歴史的責任を見逃すとの誹りを 受けることになるであろう。
2018/9/9
「12歳の少年が書いた量子力学の教科書」 近藤龍一 ベレ出版
量子力学の本というだけで山ほどあるわけだが、その中身といえばほとんどが、簡略な文章と平易 な図による“入門書”と、難解な文章と大量の数式による“専門書”に二分されているのが現状である。 (中略)
中間書が少ないことで負担となるのは講義がいまいち分からない理工系の学生であるのは勿論、一番負担 なのは入門書と専門書を行ったり来たりしてその分時間が無駄になる上、その挙句、分からないで終わって しまっても質問して解決してくれる人を持てない私のような独学者である。
「量子力学を自分のものにしてやろう」
と、近藤少年が決意したのは9歳のときだったそうなのだから、そんな憂き目にあってしまうのもわからない ではないのだが、だからといって、いくらなんでも中学受験のわずか2日後に、「こんな本があれば」と 思っていた本を自分で書いてみたくなったという人も珍しいだろう。
というわけでこの本は、<業界最年少>の12歳の少年が書いた、「一般読者から見れば専門的であり過ぎる が専門家の目からすれば簡略に過ぎる」(@『物理数学の直観的方法』)<一見中途半端>であることこそが、 専門書へのよき橋渡しとなるに違いないという、「量子力学」への招待状なのである。
「量子力学」は文字通り量子の力学ということで、ミクロの世界を支配する力学、つまり量子の振る舞いや その物理的性質を論じ、数学的・科学的考察をしてゆくことによりミクロの世界を究明しようという学問で ある。
マクロの世界を記述する基礎方程式が、ニュートンの運動方程式 F=mα であったのに対し、ミクロの 世界を記述する基礎方程式は、シュレディンガー方程式(ここには記述不能!)で表される。基礎方程式が 大きく異なっている時点で自明であるが、ミクロの世界で発生する物理現象は、マクロの世界で発生する それとでは大きく異なる。
と、まずは「量子力学とは何か」という最も基本的な事柄の説明から始まって、量子力学の成り立つ過程や 背景を重視した発展史が、懇切丁寧に語られていくのだが、
波長と振動数の関係から、レイリー=ジーンズの法則(空洞輻射)、エネルギーと振動数の関係、そして プランクの法則(プランク定数)まで、前期量子論(古典力学の破綻)へと至る道筋を、前後の説明や式変形 がどのように展開されているのかまでも、決して手抜きすることなく辿られていく。
つまりこれは、この紛れもなき俊英の独学者が、自ら歩んできた学習のステップを、追っかけ再生で見せて もらっているような、「量子力学」習得のためのレッスンビデオだったのである。
まことに残念ながら、「行列力学」あたりまでは何とか付いていけた暇人も、肝心の「波動力学」に至って 数式を追いかけることは諦めてしまったけれど、マクロの世界とミクロの世界の境界がどこにあるのかと 論じることに意味はなく、扱う物体の大きさと量子力学の不可思議性が反比例の関係にあることだけでも、 何となく腑に落ちたことが、この本から得ることのできた最大の収穫だった。
量子力学では、分からないものは「分からない」として理解するしかないのだ。非常に気味悪いことでは あるが、これがマクロとミクロという2つの世界の差なのである。
2018/9/8
「送り火」 高橋弘希 文芸春秋
「夢のようなって、どんな街を想像しているの?」
「高層ビル建ち並ぶ煌びやかなネオンの街を、若ぇ男女が手ば繋いで、マフラー靡かせて、微笑み浮かべて 歩いてら。」
晃の想像する東京が、再放送で観る90年代のテレビドラマのようで、歩は苦笑した。すると晃は少し照れた ように笑い、
「なんだよ、田舎者ば馬鹿にしてら?」
商社勤めの父の転勤で、一年半ほど過ごした東京から津軽地方の山間に広がる集落へと引っ越してきた歩は、 来春には市街地の学校と統合されて廃校となる中学の、12人しかいない三年生のクラスに、珍しい転入生 として仲間入りすることになった。
どうやら学級の中心人物であるらしい晃とすぐに親しくなり、その彼を起点に他の生徒とも打ち解け、気づけ ば集団に属している。それが、転校を繰り返すうちに、いつのまにか身に付けた、歩の集団への溶け込み方 だった。
休み時間には教室で談笑し、給食後には校庭でボール遊びをし、放課後に少しばかり「花札」をする。 「花札」の敗者への罰ゲームとして、軽い気持ちで実行に移された刃物の万引きにしたところで、それは、 本当にナイフが欲しかったというよりも、ただ万引きがしてみたかったから・・・のはずだった。
本年度「芥川賞」受賞作品。
晃が仕組んだいかさまで、常に「花札」の敗者となり罰ゲームを強いられ続けてきた幼馴染の稔は、意味不明 に頭蓋を割られ、疑似的に硫酸を浴びせられ、縄跳びで首を絞められても、照れたような薄笑いを浮かべる ばかりだったのだが、
お盆に集落の若衆が帆柱に火を灯した三艘の葦船を引いていき、「河へ火を流す」という六百年以上も続いて いるこの土地の習わし。その夏祭りの夜に、中学の先輩から呼び出された暗い森の中で強いられた「マストン 先生」と呼ばれる狂気のゲームで、やはり犠牲者に選ばれた稔は、顔貌も変わり赤い涙を流しながらついに 壊れ、刃物を振り回して先輩を血祭りに上げると、歩に向かってきた。
「僕は晃じゃない!晃ならとっくに森の外へ逃げてるんだよ!」
「わだっきゃ最初っから、おめぇが一番ムガついでだじゃ!」
都会から来た他所者として、深入りすることを避け、一段高い位置から俯瞰するようにやりすごしてきた歩に とって、それはこの地に来て初めて、そしてもしかしたら最後に目にすることになった、地に這いつくばって 見上げるような映像だったに違いない。
焔と河の畔には、三体の巨大な藁人形が置かれていた。一つの影が、松明の炎を藁人形の頭部へと掲げる。 藁人形の頭が燃え盛り、無数の火の粉が山の淵の闇へ吸われていく。それは習わしに違いないが、しかし 灯籠流しではなく、三人のうちの最初の一人の人間を、手始めに焼き殺しているようにしか見えない。
2018/9/3
「大学病院の奈落」 高梨ゆき子 講談社
群馬大学病院(前橋市)で2011〜2014年、腹腔鏡を使う高難度の肝臓手術を受けた患者約 100人のうち、少なくとも8人が死亡し、病院が院内調査委員会を設置して調べていることがわかった。 8人を執刀したのはいずれも同じ医師。同病院ではこれらの手術は事前に院内の倫理審査を受ける必要がある としているが、担当の外科医は申請していなかった。(2014年11月14日読売新聞)
「腹腔鏡手術は、おなかに5カ所くらい小さい穴を開ければよいので、開腹手術のように腹部を大きく切り 開くのと違って臓器が空気に触れないですから、患者さんのためにも楽だし、回復が早いですよ」
執刀医から受けたそんな説明を信じて手術に踏み切った家族は、なぜこんなに早く亡くなることになったのか、 という強い疑問と後悔の念に苦しむことになった。
腹腔鏡手術は、小さな切り口から細いカメラや手術器具を挿し入れ、モニター画面に映し出された体内の映像 を見ながら、臓器の切除や縫合を行う手術であり、確かに、そのメリットから、大腸や胃の手術ではすでに おなじみと言ってよいほどポピュラーになってはいたのだが、肝臓がんのように、構造が複雑な部分にできた がんは、開腹で行ってさえ手術は極めて難しく、専門家の間でも「腹腔鏡手術を行うべきではない」という 意見が大勢を占める。
にもかかわらず、安全性や有効性がまだ確立していない研究段階の治療法が、病院の倫理委員会に諮られる こともなく、保険適用外の手術として実施されていること。
患者は自費診療としての高額な医療費を負担しておらず、病院側が研究として費用を負担することもなく、 保険診療だったことにして、診療報酬を不正請求していた疑いがあること。
肝臓の機能が切除手術後も持ち堪えられるかどうか評価するための検査が行われておらず、患者・家族への 説明の記録も不十分であったこと。
腹腔鏡手術を一人で担当した医師は、開腹手術でも5年間で10人もの患者を死亡させており、執刀医として の技量に明らかに問題があると思われること。
県下トップの大病院で、周辺の県からも患者がやってくる北関東一の医療拠点でもある群馬大学病院で、 いったい何が起こっているのだろうか?
社会部で厚生労働省を担当したことから医療の分野に関わり始め、その後医療部に移って臨床現場の取材を 手がけるようになっていた読売新聞女性記者による、これは衝撃のルポルタージュなのである。
「群馬大学の問題は、いわゆる医療事故とは異質。医療の質が問われている」
おざなりな院内調査への批判噴出に、改めてつくられた外部の第三者が主導する調査委員会が出した報告書に おいて、ただでさえ外科医不足の地方大学が、第一外科、第二外科とわざわざ二手に分かれて同じ診療を 別々に行う非効率が、診療に悪影響を及ぼしたことや、教授選などの権力争いを背景に、自らの技量に 見合わない「手術ありき」の成果を競い、功を焦る雰囲気があったことなど、
事実経緯と検証結果、そして再発防止に向けた提言が、概要説明だけで一時間半も費やされる異例の長さで 発表されることになったわけだが、
置き去りにされた形となった患者と遺族たちにとって、自分たちが舐めることになった辛酸の時の長さに 比べても、それはずいぶん苦々しいものであったに違いない。
「奈落の底に幾度落とされたら良いのだろうか」
ある患者の家族は、手術後に付け始めた闘病日記にそう記していた。重い合併症による凄絶な苦痛と闘い 続ける患者に、なすすべもなく絶望的な気持ちで寄り添った家族にとって、それは共通の思いだったのでは ないだろうか。
2018/9/2
「暗幕のゲルニカ」 原田マハ 新潮社
目の前に、モノクロームの巨大な画面が、凍てついた海のように広がっている。
泣き叫ぶ女、死んだ子供、いななく馬、振り向く牡牛、力尽きて倒れる兵士。
それは、禍々しい力に満ちた、絶望の画面。
パブロ・ピカソの<ゲルニカ>だ。
1937年、母国スペインの内戦でパリに疎開中だったピカソが、フランコ率いる反乱軍による空爆に怒りを 込めて描いた、この反戦のシンボルは、パリ万博スペイン館パビリオンの壁を飾ったのち、迫りくるナチスの 影から逃れるように、ヨーロッパ各国を巡る旅を続け、ついにフランコ軍に制圧されたスペインに帰ることは なく、ニューヨークのMoMA美術館に受け入れられることになる。
―展覧会が終わったあとも、そのままあの作品をMoMAに留めてほしい。スペインが真の民主主義を取り 戻すその日まで、決してスペインには還さないでほしい。それだけが、たったひとつの条件だ。―
というピカソの意志によって<亡命>していたゲルニカが、ようやくスペインに返還されたのは、独裁政権を 握り続けたフランコが他界した1981年のことだった。そしてそれは国の所有物となり、厳重なコンディ ション管理のもと、今もマドリッドのプラド美術館の壁に展示さているわけなのだが・・・、
2003年2月1日、国連安保理議場ロビーで行われた、アメリカ合衆国国務長官コーネリアス・パワーの 会見ニュース映像。
「報告いたします。本日、国連安全保障理事会の決議の結果、イラクへの武力行使はやむなしとして――」
瑤子は、目を見張った。
パワー国務長官の背後に――<ゲルニカ>がない。
そこには、<ゲルニカ>ではなく、暗幕が下がっていた。
悲劇の舞台を覆い隠す緞帳のような、暗幕が。
ロックフェラー家が「精巧な複製画が欲しい」とピカソに依頼し、オリジナルと寸分たがわぬ構図とサイズで 制作されたタペストリー。1985年に国連に寄託され、安保理会議場のロビーを飾ってきたその作品が、 突然姿を消したのである。
いったい、誰が〈ゲルニカ〉を隠したのか?
というところまでが、ほとんど事実というこの物語を、ゲルニカの制作現場に立ち会った、ピカソの愛人で 写真家のドラ・マールと、2001年の自爆テロで夫を喪った、MoMAのキュレーター八神瑤子という 世紀を隔てた二人の女性の視点で、並行的に追いかけていくことになる。
主題はあくまで一枚の絵、<ゲルニカ>なのである。
第二次大戦下の非常時に、ピカソは絵筆一本で闘いました。絵筆が銃よりも、大砲よりも、空爆よりも ずっと強いことを、作品を通じて証明したのです。
ピカソが遺したメッセージにもう一度目を向けてほしい。アートの力を皆で分かち合いたい。そのためにも、 私は、本展に、なんとしても<ゲルニカ>を展示したいと強く願いました。
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