徒然読書日記201808
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2018/8/22
「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。」
―コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする― Kフェラン だいわ文庫
この30年、多くの企業に入り込み、「目標による管理」だの「競争戦略」だのとお題目を唱えて 回ったすべての経営コンサルタントを代表してお詫びします。
「御社をつぶしたのは私です。」
というこの本は、経営コンサルタントとして、そして大企業のマネージャーとして、約30年の輝かしい実績 を誇ってきたにもかかわらず、むしろその経歴の中で、自分たちが適用していた経営戦略理論の多くが まちがっていることに、じわじわと、しかし確実に気づいていった、大手コンサルティングファーム出身 コンサルタントによる、まことに正直な衝撃の告白なのである。
<コンサルは「芝居」で商売している>
コンピューター並みの明晰な思考力で問題を解決したように見せながら、本当はクライアントの関係者の思惑 を読み取るのがうまいだけだったり・・・
<ビジネスは「数字」では管理できない>
企業がさまざまなモデルを導入し、数値データに従って意思決定を行っても、期待していたような成果は 決して得られない。ビジネスは理屈どおりにはいかないからだ。
<「数人のコンサル」が歪んだ流れをつくった>
各戦略はそのまえの戦略の欠点を補うものではあるが、やがてその戦略自体の欠点が浮び上がってくる。 経営手法を次々に開発して売り込むのを、やめさせるしかない。
<「確実にまちがっている」理論の数々>
本書は独自の研究成果や私の考え方を示すのでなく、ビジネスについて私が信じていたことは何もかも まちがっていた――そう気づくまでの道のりを描いたストーリーだ。
彼女自身の仕事に対する考え方が大きく変わるきっかけとなった、そのストーリーがどのような道のりを 辿ったのかについては、ご自分で読んでいただくとして、これは決して単なる「懺悔録」ではないことだけは、 申しあげておかねばならない。
彼女が言いたかったのは、役に立たない経営理論に頼るのはもうやめて、代わりにどうするかということ なのであり、ともかく大事なのは、モデルや理論などは捨て置いて、「みんなで腹を割って話し合おう」 という、驚くほどに当たり前のことなのだった。
ほぼ確実にまちがっているより、ひょっとしたらまちがっているかもしれないほうが、ずっとマシでは ないだろうか?そんなのはもちろん、当たり前のことだろう。でも実際、この本はどんな本かと訊かれたら、 まさに当たり前のことを書いた本だと言いたい。
2018/8/19
「お化けの愛し方」―なぜ人は怪談が好きなのか― 荒俣宏 ポプラ新書
「お化けとの付き合い」を実現するためには、お化けのことを知らなければならない。とくに重要 なポイントは、お化けとお付き合いするために見につけなければいけない「マナー」だ。
平家の亡霊に導かれて墓地で琵琶語りする姿を確認した寺の和尚の手で、全身に般若心経を書く呪法を施され 亡霊からは見えなくなったはずが・・・という小泉八雲の『耳なし芳一の話』を聞かされて、毎夜おばあさん の怪談語りの怖さに身をふるわせていたアラマタ少年は、はっと気づくことになる。
「これだ、お化けとの付き合い方が、昔はちゃんと知られていたのだ」
以来60有余年、亡霊やお化けと一緒に仲良く暮らすことはできないのか、という疑問を胸に抱きながら、 古今東西の民話や伝承の渉猟を続けてきた、博覧強記の神秘学・博物学の巨人が、その「出し殻状態」に 火を付けてくれたという、中国の怪談に想を得て書き上げた「最後のひと絞り」。
この本は、お化けとの恋愛を志願する、アラマタ先生渾身の最後の「お化け学」の集大成なのである。
『剪燈新話』(せんとうしんわ)
高尚な文芸の世界に毒を注ぐような戯作として、化け物が登場する伝奇小説が発禁などの弾圧を受けていた、 そんな時代の常識に反発するかのように、明の時代に一世を風靡したこの「怪奇談」には、社会の規律を 破って水商売の女性と愛をはぐくんだり、女房を二人持ったり、果ては死んだ女や、それこそ魔物のおんなと 甘い恋をささやくようなそんな願望が、古くからある怪談奇談に託して語られていた。
ちょうど戦国時代の動乱のさなかの日本にも、ほとんどの収録作品が日本風に翻案され、元本とはまるで違う 独自の恋愛奇談へと発展していくことになる。
『牡丹燈籠』(ぼたんどうろう)
死んだ人は穢れたものである。これを無視して恋愛を発展させると、やがてやせ衰えて死んでしまうから、 亡霊との同衾はとんでもないご法度だ。という「牡丹燈記」(ぼたんとうき)を原作に、江戸時代に浅井了意 が翻案したこの物語は、現世では叶わなかったがために、人に祟って邪気を振りまくようになった死者の、 その恋を成就させることで、円満に成仏してもらうという道を選んだ。
そしてそのことが、上田秋成の『雨月物語』から三遊亭円朝の『怪談牡丹灯籠』へと至る、怪奇ロマンの文学 の系譜へとつながっていくことになる。
<できれば、あの世での恋人はこころ優しい死女におねがいしたい。>
この本はこれまでのお化け話の解説書とは違う。誰はばかることなくお化けに恋をする方法を書き留めた、 じつにありがたい本かもしれない。まずは夜中にでも読んでほしい。もちろん怖くない。あなたもお化けと 一緒に暮らしたくなるような本なのだから。
2018/8/8
「古文を楽しく読むために」 福田孝 ひつじ書房
日本語には敬語というものがあります。他の言語にはこれほど体系的なものはないと言われて いますが、この敬語が理解できているかどうかが古文読解において重要な鍵を握ることがあります。
敬語は大きく二つに分類される。
<此方は顕にやはべらむ。>
というのは、「顕にやあらむ」の「あり」を「はべり」に変えることで、話し手が聞き手への敬意を示す、 「丁寧」な言い方の代表選手である。
<いと儚う物したまふ。>
というのは、動詞「物す」に「たまふ」をぶら下げて、その動作の為手に敬意を抱いていることを示す、 「尊敬」の言い方の代表選手である。
では<斯かる序に見たてまつりたまはむや。>というのは?
これは「たまふ」が「見る」主語に対する「為手尊敬」であるのに対して、「たてまつる」の方は「見られる」 目的語にあたる受手への敬意を示す「受手尊敬」の表現なのである。
つまり、「丁寧」の敬語は話の内容・話柄には関わらず使われるのに対し、「尊敬」の敬語は話の中に登場 する人物に関わって使われているということなのだ。古文の読解において敬語は、誰のことを指し示している のかを、前後の文脈から考えることにつながることが多い。敬語を通して古文を読めば、人間関係のありよう が分かったり、作品における細やかな配慮を読み取ることができるようになる。
<まずはだれが話しているのかからはじまる>のである。
なんてお話が、『源氏物語』「若紫」巻の垣間見の場面を例文として、現代語訳と詳しい解説も交えながら 滔々と語られていく。
『宇治拾遺物語』から、歴史的仮名づかいについて。
『枕草子』から、「やまとことば」について。
『伊勢物語』から、係り結びについて。
『古今和歌集』から、和歌の技法について。
などなど、12章に及ぶ個人授業を楽しく読み進んでいきさえすれば、
<君がため衣の裾を濡らしつつ春の野に出でて摘める若菜ぞ>(『大和物語』173段)と、女の親が梅の花 びらに寄せて差し出した庭の菜を、<いとあはれに覚えて引き寄せて>食べた、良岑の宗貞の心情も、 推し量れるようになりにけるかも。
2018/8/2
「失われた手稿譜」―ヴィヴァルディをめぐる物語― FMサルデッリ 東京創元社
ジェンティーリは心が震えた。脇にぴったりと張りついているトッリとともに、小さな子供の ような好奇心を燃やしつつ、テーブルに置かれた書物のページを繰っていった。(中略)計り知れない価値を 持つ音楽の遺産、この瞬間まで世界から忘れ去られていたかけがえのない宝が、二人の眼前で全容を現わそう としている。
1926年、サン・カルロ修道院から「鑑定をしてほしい」と、トリノの国立図書館に梱包された大きな箱の 山が届く。そこに入っていた膨大な数の自筆楽譜は、ヴィヴァルディの未発見の「手稿譜」だった。
ヴェネツィアの名家でありながら、莫大な借財を背負いウィーンへと逃れ、貧窮のうちに客死した ヴィヴァルディ司祭。兄の遺品の価値を知り、その散逸を恐れた理髪師(当時の外科医)の弟の手によって、 こっそり運び出された「手稿譜」は、ヴェネチアの愛書家の貴族や、イエズス会の欲深い司祭の元を転々とし、 遺産相続の争いにも巻き込まれながら、150年の時を経て、その価値がまったくわからない修道院へと 寄贈されることになったのだが、
実を言うと、ヴィヴァルディの手稿譜のページを繰っていたときから、なにかが欠落しているのでは あるまいかという疑念がジェンティーリの頭をよぎっていた。巻によっては曲の途中から1ページ目が始まる こともあったし、曲の途中で巻が終わり、どこを探しても続きが見当たらないこともあった。
すでに「手稿譜」の半分は失われていた。しかも、偶数巻だけがそっくり欠落しているという、最悪の状態で ある。
どうしてこのような事態になったのか?
はたして奇数巻はどこにあるのか?
失われた残り半分の行方を追う、地道な探索作業の傍らで、忍び寄るナチスの影から、貴重なコレクションの これ以上の散逸を防ぐための、スポンサー探しという活動も並行して進められていくことになった・・・。
というわけでこの本は、ヴィヴァルディの「手稿譜」という人類の遺産が辿った、150年の数奇な道筋を 描いた波瀾万丈の展開なのだが、驚くべきことに、これはヴィヴァルディ研究の第一人者による、ほとんど 史実に基づいた物語なのだった。
<トリノ王立大学 学長
1938年11月20日(ファシズム暦17年)
案件 ユダヤ人種が所有する大学教官資格の失効について>
歌劇の作曲家であり、オーケストラの指揮者であり、リヒャルト・シュトラウスの友人であり、和声学に 関する有名な理論書の著者であり、ヴィヴァルディを再発見して最初に楽譜の出版を手掛けた音楽学者である ジェンティーリ教授は、柱廊の下を避け、あえて車道を、普段よりもゆっくり歩いていた。
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