徒然読書日記201806
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2018/6/28
「書店主フィクリーのものがたり」 Gゼヴィン ハヤカワepi文庫
『善人はなかなかいない』(フラナリー・オコナー)
これが自分のいちばん好きな本だと、彼女がいったとき、想像もしていなかった彼女の性格の不可思議な部分 や、素晴らしい部分や、訪れてみたいような暗い部分もほの見えてきた。ひとは退屈な嘘をつく、政治に ついて、神について、愛について。きみは、ある人物のすべてを知るための質問を知っているね。
<あなたのいちばん好きな本はなんですか?>
出版社の営業担当アメリアが、急逝した前任者の引き継ぎとして、小島に一軒しかない書店「アイランド・ ブックス」を初めて訪問し、地味ではあるが、読んでさえもらえればだれでも好きになるはずと、『遅咲きの 花』という80歳の老人が書いたゲラを、満を持して手渡そうとしたとき、
「哀れな老妻が癌で死ぬという哀れな老人のみじめったらしい回想録なんてぜったいごめんだ。」と、 いかにも傲慢な態度をとられて激怒してしまったというのが、偏屈な書店主A・J・フィクリーとの最初の 出会いだった。(このあたりでの、本の「お好み」をめぐって交わされる、風刺のきいた会話のやり取りが、 物語の伏線として秀逸だ。)
プリンストンの大学院でE・A・ポーを研究していたフィクリーに、故郷のアリス島で本屋を開こうと持ち かけた最愛の妻ニコル。2年前にそのニコル(彼女は妊娠2ヶ月だった)を自動車事故で喪ってから、彼は 飲酒に逃げる自暴自棄の生活を送るようになっていたのだ。
そんなある日、外出から戻ったフィクリーは、床の上に置き去りにされた2歳の赤ん坊(マヤ)を発見する。 <この子には本好きな子になってほしいと思います。だから本がたくさんあるところで、そういうことに 関心のある方たちのあいだで育ってもらいたいのです。>ピンで止められた書き置きを読み、「マヤは自分が 一人で育てよう」と決意したときから、フィクリーの止まっていた時間は、ゆっくりと動き出すことになる のだった。
というわけで、血のつながりのない人々が、「本」を間に介して交わりを深め、固く閉ざされていた心を ゆっくりと溶かしながら、愛を育んでいく。『本屋大賞』に輝いた、この心温まる物語は、どうぞご自分で 手にとって、お楽しみいただくとして、
『愛について語るときに我々の語ること』(レイモンド・カーヴァー)
ぼくが思いなやんだのは、われわれがものを書くとき、愛しているものより、嫌いだったり/憎んでいたり/ 欠点があると思っているものについて書くほうがずっと楽なのはなぜかということだ。これはぼくが大好きな 短編なんだよ、マヤ、でもいまはまだ、きみにその理由を話すことはできない。
<きみもアメリアも、ぼくの大好きなひとです>
と、各章の冒頭に置かれた、フィクリーお奨めの短編へのコメントが、どれもこれも切ないほどに胸に迫って くるのは、これが、いまこの時点でこれを読んでもらいたいと、最愛の娘だけのために練りに練って遺された、 極上のコースメニューであるからだ。
「本読み」の最大の喜びは、その人の「お好み」の本をピタリとお奨めしてさし上げる、「本のソムリエ」に なることではないかと、暇人は思っているのである。
ぼくたちはひとりぼっちではないことを知るために読むんだ。ぼくたちはひとりぼっちだから読むんだ。 ぼくたちは読む、そしてぼくたちはひとりぼっちではない。
2018/6/25
「脳の意識 機械の意識」―脳神経科学の挑戦― 渡辺正峰 中公新書
意識の宿る機械を作ることなど、そもそも可能なのだろうか。多くの科学者や哲学者は、それが 原理的には可能であるとの立場を今日とっている。その理由の一つとしてあげられるのは、ニューロン単体 への理解が進み、その振る舞いが明らかになってきたことだ。
<まずは、あなたが目の前に置かれたリンゴを見ていることを考えよう>
(注:この本で扱う意識は、もっとも原始的な「感覚意識体験=クオリア」にその対象を絞っている。)
第一のステップとして、あなたの脳のニューロンを一つだけ、生体のものと寸分違わぬ機能をもつ人口のもの に置き換えてみる。このニューロンに入出力していた、元の神経配線を完全にコンピューター上に再現できる なら、他のニューロンはその置き換えに気づくことはない(はずだ)。
同じ要領で、2個目、3個目と次々にニューロンをコンピューターの中に取りこんでいったとして、(次第に 両者の間の電気スパイクのやりとりが、コンピューター内で完結するニューロンの組み合わせが増えて行く ことになるが、)途中のどこかで、どれか一つのニューロンが置き換わった途端、パタリとリンゴの視覚体験 だけが消失するなんてことがあるだろうか。(あるいは徐々に薄れていく?)
たとえ、あなたの脳に残るニューロンが最後の一つになったとしても、その最後の一つは、生体脳の中の一員 であったときとまったく同じように振る舞うに違いない。そしていよいよ、すべてのニューロンがコンピュー ターの中に取り込まれたとき、元の脳に宿っていた意識は、仮想的な神経回路網に、変わらず宿り続けること になる。
これは、<機械に意識が宿った>と言うべきではないのか?
というのが、日々、意識にまつわるマウスの脳計測実験を行いながら、意識の神経メカニズムに思いを馳せ、 頭を悩ませている、気鋭の脳神経科学者が、「フェーディング・クオリア(fading qualia)」と呼ばれる 思考実験の末に到達した、合理的な推論の結果なのである。
脳の機能単位としてのニューロン、複数のニューロンによる神経回路網、数億程度のニューロンからなる脳の 一部位、そして脳全体へ。電気スパイクによる0か1かの信号で伝達された情報が、神経伝達物質を介して、 マイナスからプラスまでの連続的な値をとる電位差として伝えられる。
専門用語も交えて懇切丁寧に解説されていく、脳を構成する物質と電気的・化学的な反応の仕組みを聞き かじった後に、私たち凡人にようやく理解できるのは、<脳は、ちょっとばかり手の込んだ電気回路にすぎ ない>という、どこにもブラックボックス(未知の仕組み)など隠されてなどいない脳の、いったいどこに 意識は宿るのか、ということこそが衝撃だということなのである。
<未来のどこかの時点において、意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのは ほぼ間違いない>と確信する水先案内人の後ろ姿を懸命に追いながら、現代科学の最前線を駆け巡り、人間と 機械が交わる未来の姿を垣間見る、<知的冒険の旅>にあなたも出掛けてみませんか?
もし、人間の意識を機械に移植できるとしたら、あなたはそれを選択するだろうか。死の淵に面していた としたらどうだろう。たった一度の、儚く美しい命もわからなくはないが、私は期待と好奇心に抗えそうに ない。機械に移植された私は、何を呼吸し、何を聴き、何を見るのだろう。肉体を持っていた頃の遠い記憶に 夢を馳せることはあるだろうか。
2018/6/18
「43回の殺意」―川崎中1男子生徒殺害事件の深層― 石井光太 双葉社
星哉は虎男にカッターを返した。虎男は覚悟を決めて受け取った。ここまでやったら、とどめを 刺すしかない。そんな決意めいた思いがあったのかもしれない。新しい刃を出し、倒れたままの遼太の左側の 首をカッターで力いっぱい切り裂いた。刃先が「ずしん」と皮膚の奥まで刺さる感触があった。
「息してるか」(虎男)「少ししてんな」(星哉)
2015年2月20日未明、川崎市の多摩川河川敷で、当時中学1年の上村遼太君の全裸の刺殺死体が、遺棄 された状態で発見された。上村少年の全身に刻まれた作業用カッターによる切創は43ヶ所に及び、そのうち 首の周辺だけでも31ヶ所に達していた。その出血量(全血液の3分の1にあたる1リットル)はショック死 に至るに十分なもので、おそらく意識は混濁し、手足の感覚はなきに等しかったはずだが、そんな状態で、 凍りつくような風が吹きつける川を泳いで渡るよう命じられ、最後の力を振り絞って土手に這い上がったまま、 放置されたのである。
世間を震撼とさせたこの事件から7日が経ち、日本中が固唾を飲んで見守る中、ついに逮捕されたのは、既に ネット上で噂されていた通りの3人の不良少年達だった。
<川崎中1上村遼太君全裸殺人、「8人組グループ」の首謀者>(「週刊文春」2015.3.5)
<「イスラム国」を真似した「中1男子」リンチ殺人の凶悪少年たち>(「週刊新潮」2015.3.5)
スポーツ万能で、屈託のない明るさがあったため、同級生の中でも人気者だったはずの遼太は、なぜ年上の 少年たちの不良グループに仲間入りすることになったのか?
普段から暴力をふるわれていたにもかかわらず、加害少年たちとの親交をさらに深め、一緒に居続けようと したのはなぜなのか?
そんな疑問を解き明かさんがために、この
<異色のルポライター>
は、できるだけ多くの周辺関係者から話を聞き、起きた出来事を細部まで見つめ 直そうとする。遼太が加害少年たちとどのように出会って、どのような時間を共有していたのかはもちろん、 彼の生い立ちや育ってきた家庭環境にまで、立ち至ろうとするのである。
家庭内暴力と両親の離婚、窃盗や深夜徘徊などの非行、飲酒・喫煙と不登校などなど、この事件の背景や経緯 に(残念ながら現代の日本では)特に際立った特異性があったわけではない。思春期の子供が家庭や学校で 失った居場所を外の世界に求めること、似たような境遇の仲間たちとの交わりで心の隙間を埋め合わせよう とすることは、珍しいことではないはずだ・・・が。
新聞や雑誌はいつまでも記事を掲載し続け、多摩川の河川敷に集まった献花の人々は事件から2、3ヶ月 経っても途切れることなく、NHKのドキュメンタリーにまでなった。
<どうしてこれだけ多くの人々がこの事件に関心を寄せ続けたのか>ということこそが、綿密な取材を進めて いくにつれて、著者の脳裏に浮かび上がってきた、最大の疑問だった。
「河川敷に花を持って集まっていたのは、家庭や社会の中でまさに遼太みたいに問題を抱えて苦しんでいる 人ばかりでした。だからこそ、遼太の気持ちがすごくわかるし、自分に重ねたくなる。それがあれだけの人が 河川敷に集まった理由じゃないでしょうか」(河川敷清掃ボランティア・竹内七恵)
その通りなのかもしれない。だとしたら、それだけ大勢の人々が遼太のように家族にすら打ち明けられ ない苦しみを抱え、街を彷徨っているということでもあるのだ。
2018/6/13
「すらすら読める風姿花伝」 林望 講談社+α文庫
一、この口伝に、花を知ること、まず仮令、花の咲くを見て、よろづに花と譬へはじめし理を わきまふべし。
(「花」というのは何であるかを知ること。たとえば花の咲くのを見て、万事を花に喩えたその根本の道理を 弁えたらよい。)
「花」というものは、必ず散り失せるからこそ、また咲くころに「珍しい」と愛でることができるのだから、 「能」も一つのところに停滞安住しないで、次々と新しい芸態に移っていくことが、まずは「花」なのだと 知るべきだ。
先人からの芸の風姿を継承しつつ、心から心へと言葉を超越して「花」を大切に伝授していくこと。
それが、
650年も続くことになった『能』という仕掛け
をほとんど一代で確立してしまった、不世出の天才・ 世阿弥が、この『風姿花伝』という奥義書を著すにあたって、題名に込められていた意図だった。
時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひ て、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。
(一時かりそめの花をほんとうの花だと思い込んでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。)
ながい修業の期間を過ぎてぱっと花開く時が来ると、慢心の虫に取りつかれやすい。(このころを「初心」と いう。)修練というものはすればするほど、また一層おのれの欠点未熟に思いが至り、そこでさらに一段の 修練を積むのである。
「初心忘るべからず」とは、この一生の芸能の分れ道をいう、戒めの言葉なのだ。
<人の好みもとりどりなれば、いづれの風体をも残しては叶ふまじきなり。>
(いつ使うかは考えずに、いつでもすぐに取り出して使えるよう、抜け落ちなく技を用意しておく心がけ)
<物まねに、似せぬ位あるべし。ただその時の物まねの人体ばかりをこそたしなむべけれ。>
(その写実の対象の心的内面にまで立ち入ると、あえてそれらしく真似ない物まねとなる)
などなど、世阿弥が「花」という言葉に象徴させたかった、芸能のもっとも大切な勘所の、曰く言い難い ところが、惜しげもなく披露されているのは、これが、一代に一人と限定して相伝すべきと口伝された、 一子相伝の秘事なればこそ、なのであるが、
「才能は必ずしも遺伝しない」と醒めた感性の持ち主であった世阿弥は、血縁ではなく才覚知性人格に すぐれた者が、芸(と家)を継げばよいと考えていたらしい。どちらにしても、そのような人物でなければ、 『風姿花伝』がすらすら読めるはずはないのである。
さるほどにわが家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。「秘すれば花、秘せぬは 花なるべからず」。
(「知っていること」を知られてもいけない。「秘めておくからこそ、それが花になる。あからさまにして しまったら、もはや花ではない」のである。)
2018/6/10
「漂砂のうたう」 木内昇 集英社文庫
径のいたるところに、金魚が散らばっていた。
赤いのや黒いのが息も絶え絶えに雨に打たれている。飛び跳ねているのはほんの一握りで、ほとんどがエラと 口だけを緩慢に動かし、横たわっていた。
「金魚は生簀から出たらどうなるんかのう」
江戸幕府が瓦解して10年、幕府に仕える御家人であった武家の二男坊だった新右衛門は、役を継ぐ道を失い うろたえる父兄を脇目に、身分を捨て、定九郎と名を変えて、根津遊郭の美仙楼で立番(客引き)となって 糊口を凌ぎながら、無為な毎日を過ごしていた。
ある日、少しの晴れ間も見せず、10日も降り続いた雨のせいで、今にも溢れそうになった藍染川の橋の上で、 「赤い玉」が、突然、水面から跳ね上がった。地面でもがく金魚の様は、生簀を出たところで死ぬだけだった という残酷な現実を、容赦なく定九郎に突きつけてくる。
雨に洗われた下駄の歯が、足下で喘いでいる金魚の上に、寸分の違いもなく振り下ろされる。ブチッと 爆ぜる音が足の裏に伝った。
平成11年度「直木賞」受賞作品。
粉雪のように舞う綿虫の、ザラリとした空気感までが、「見てきた」かのように活写されて、鮮やかに浮かび 上がってくる根津遊郭の書割風景の中で、その場で「聞いていた」かのような臨場感で、チャキチャキッと 交わされていく廓言葉に煽られるかのように、「何かをしなくてはならない」ような焦燥が、背中を駆け あがってくる。
「花魁にとっちゃ『自由』ってのは路頭に迷うのと同じことさ。」と嘯く、根津遊郭随一の花魁・小野菊は、 年季明けを間近に、金のかかる「道中」を挙行しようとする。「外の世界を信じてなければ、籠から放たれた ところで、自由にはならない。」と、何かを企んでいるようなのだが・・・
(籠から放たれたところで自由になれないのは、新しくなった世の中に必要とされていないからではない のか?)
「アタシァ一生掛かってもお師匠さんにはなれないの。」と、自分より年下の師匠・三遊亭圓朝に敵わない ことを認めながら、寄席の賑やかし程度の役しか与えられずにきたポン太は、ようやく二つ目に上がったと、 カラカラと笑う。
(だったらどうして、そっから逃げねぇんだ。そこに居たって、失い続けるばっかりじゃあねぇか。)
「ねェ、お兄いさん。そんなに奪えるもんじゃあないんですよ、その人の芯にあるものなんてさァ。周りが 奪えるのはね、些細なもんなの。せいぜい巾着くらいなもんですよォ」
時代の大きな流れに翻弄されながら、川底に蟠って漂う砂粒のように、誰もが懸命に生きている。
他人に投げ付けてきた言葉の刃が、自身に向けられるべきものであったことに、定九郎はようやく気付く のだった。
軽口で受け流そうとして口ごもった。定九郎はひたすら、失うことが怖くて逃げていたのだ。世相に、 時代に、周りの人間に、奪われ続けたのが自分の辿った道であるはずだった。けれど奴らはいったい、 なにを奪っていったのか。自分は、なにを奪われたのか。
2018/6/9
「<おいしさ>の錯覚」―最新科学でわかった、美味の真実― Cスペンス 角川書店
食の喜びは心で感じる、口ではない。この考えを突き詰めると、なぜ料理が――たとえどれだけ 完璧なものであっても――必ずしも心に残らないのか説明がつく。何が食事を楽しく、刺激的で、そして記憶 に残るものにするのかを知るには、“そのほかの要素(こと)”の役割を理解しなければならない。
<ガストロフィジクス>(新しい食の科学)
食通と呼ばれるような人々の優れた食体験に注目して、文化と料理の関係を考察する「ガストロノミー」 (美食学)と、慎重に調節された一連の感覚刺激に対して人々がどのように反応するかを調べる「サイコ フィジクス」(精神物理学)の合成からなるこの学問は、私たちが食べ物や飲み物を味わうときに生じる 複数の感覚に作用する要素を研究し、それが人々の行動にどのように深く関係しているのかを突き止めよう とする。
一つの感覚(たとえば視覚)がほかの感覚(たとえば味覚)に大きく影響するという「クロスモーダル」 (統合感覚)。(赤い照明をつけると、黒いグラスに注いだワインがより甘くフルーティーに感じられる。)
雰囲気、目に入る光景、匂いから、椅子の座り心地やテーブルの大きさまで、すべての情報に影響された 一つの知覚が脳内で統合される「マルチセンソリー」(多感覚)。(優れた料理はそれ自体がおいしいだけ ではなく、“そのほかの要素”の影響を避けることは絶対にできないのだ。)
というのが、「噛み砕いたときの音をヘッドホンで増幅させると、自分が食べているポテトチップスが、 実際よりサクサクであると感じる」ことを実証して、2008年に「イグノーベル栄養学賞」を獲得した、 このオックスフォード大学の知覚研究者が、更なる治験を重ね、満を持して発表した主張なのである。
コース料理の一品として、ホールスタッフが魚介料理――タピオカと泡に混ぜたパン粉でつくった “ビーチ”に並ぶ刺身――を片手にテーブルにやってくる。もう一方の手には、イヤホンがついた貝殻の形の MP3プレーヤーをもって。
<言われたとおりにイヤホンを耳にさすと、海の音が聞こえてくるのだ。>
イギリスの三ツ星レストラン≪ザ・ファット・ダック≫のヘストン・ブルメンタールを、世界最高のシェフの 一人に押し上げた、これが、同店の名物料理「サウンド・オブ・ザ・シー」だった。海岸に打ち寄せる波の音 と空を飛ぶカモメの声を聞きながら食べるほうが、モダンジャズを聞きながら食べるよりも、はるかに シーフードはおいしいのだ。
ガストロフィジクス研究を通じて得られた斬新なアイデアのいくつかは、まず創造的なモダニスト・ レストランで採用され、そこで集められた見識が次第にほかにも広がることで、人々はこれまでよりもずっと 感覚的で、より記憶に残り、おそらく健康的でもある(少量でも満足できるとか・・・)食事ができるように なるはずだというのだった。
有名シェフのアンドニ・ルイス・アドゥリスが言ったように「喜びは口の中だけで感じるのではない」 のであり、実際には主に精神で感じられるのだ、と多くの人が気づくことで、ほんとうの意味での発展が 始まるのだ。
2018/6/7
「声のサイエンス」―あの人の声は、なぜ心を揺さぶるのか― 山ア広子 NHK出版新書
声の特徴が異なるA・Bの二人に同じ言葉を同じ速度で話してもらい、被験者にそれを聞いた印象 を回答してもらいました。その結果、Aに対しては90%超の人が「信頼できそう、リーダーになって ほしい、友人になりたい」といった、良い印象を抱いたのに対して、Bはそのような票をほとんど獲得する ことができませんでした。
<人は語られた言葉より、声によって動かされている。>
なぜ声が、そのように人の心を動かすのかといえば、耳から大脳の聴覚野を通って脳内で処理される際に、 声の「内容」は、意識的に言葉を理解しようとして、理性を司る大脳の新皮質(言語野)に送られるのに 対して、声という「音そのもの」は、無意識裡に大脳のもっとも深いところにまで届き、本能を司る旧皮質を 刺激するからなのである。
石の壁を背にして、大群衆を前に朗々と響いたイエス・キリストの「山上の垂訓」。
師匠から弟子に、その趣や機微を声で唱えることで口伝されてきた、日本の「伝統芸能の技」。
音響装置を巧みに使い、演劇のようなパフォーマンスで国民を熱狂させた、ヒトラーの
「劇場型演説」
。
言葉を無視して心の奥底に届き、私たちの感情を揺り動かしてしまう、「声」には恐るべき力があるのだ。
日本人の約8割もの人が「自分の声を嫌い」だと思っているという調査結果を紹介しました。また同時に、 自分の声を録音して聴いたことがある人の場合、90%以上の人が「自分の声を嫌い」と答えたということも お話ししました。
<それは「脳が出したい声」ではないからです。>
これほど多くの人が、生まれたときからほぼ毎日出してきた、人とのコミュニケーションに欠かせない自分の 声を、嫌悪しながら使わねばならないとは。しかも、客観的に録音された声、つまり自分に聞こえているの ではなくて、自分以外の人に聞こえている声は、もっと嫌いだというのである。
というわけでこの本は、音が心身に与える影響を主に音響心理学、認知心理学をベースに研究・調査してきた 音声ジャーナリストが、世界の最新の研究成果を踏まえながら、「声の影響力」を明らかにすることで、声 そのものの不思議で素晴らしい力を教えてあげようというものであり、
自分の声に自覚的であるならば、どんな困難の中にあっても自分で人生を切り開いていくための最強の武器と なり、あなたの心身の健康を強力にサポートする治療師にもなるような、素晴らしいものだとまでいう のだった。(ちょっと眉つば?)
まあ、嘘だと思うのなら、自分で読んでみてください。
本書では、声と脳という観点から、脳が望む声になる方法をお伝えします。それぞれが持つ唯一無二の 「脳が望む声」。それは何ひとつ持たなくても、あなたの身ひとつで人に思いを伝え、人の心を動かし、 そして自分自身を心身から変えていくことができます。それは、これからの人生を変えるほどの力となり 得るでしょう。
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