徒然読書日記201710
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2017/10/23
「浮世絵細見」 浅野秀剛 講談社選書メチエ
例えば一、二枚の錦絵を買ったとしよう。今でいえば鞄のような物を持っていれば、それに入れて持ち帰るのは可能であるが、 折りたくないのでそのまま入れると、傷が付いたり端が折れたりしそうである。だから丸めて入れて帰るのかなと想像してみる。何も 入れ物を持っていない場合はどうするのだろう。今よりはるかに紙が高かった江戸時代に、紙袋のようなものに入れて渡すことは考え られない。
<包紙――浮世絵はどのように売られたか>
一枚から数枚の錦絵を購入した場合、くるくると筒状に丸め、店の名などを入れた「掛紙」に包み、細長い紙片を廻して合せ目を捻って 留めて客に渡した。では、組物や揃物など枚数が多く丸められない場合や、丸めたくない高級品の場合はどうしていたのか?
大きな紙の右側を後ろに折り込んで、その端を表の内側に折り込み、更に上下を後ろに折り返す「包紙」が使用されていた例はあるが、 錦絵の基本的な大きさである大判の包紙についての伝存例はなく、いまだによくわからない。
これが、「客はどのようにして浮世絵版画を持ち帰ったのか」という長い間の(他にはあまり誰も気にしないような)疑問を解くために、 浮世絵版画の初期の販売形態や、図版形状の変遷、伝存している包紙の網羅的調査など、いま知り得ることをすべて網羅した上での、 日本を代表する浮世絵研究者による「わからない」宣言なのである。
<鈴木春信の死と判型>
「春信判」と呼ばれる大きなサイズの中判が、いつ小さな中判に移行したのかが分かれば、錦絵の制作時期の区別など、いろいろなこと をクリアにできるかもしれない。
<二種類の右図の謎>
大判二枚続きの錦絵には、時に左側は同一で、右側の図だけが違っているものが存在する。他の絵師の肉筆画に依拠していることを指摘 され、判を変えたと思われる節がある。
<写楽の見立と創造>
写楽の「役者絵」は、実際の興行に基づかない、理想の役者を配置したシリーズとなることも多い「見立絵」だった。衣装も写楽の独創 のようだ。
<広重は東海道を歩いたか>
広重は実際には全部を歩いてはおらず、その地の絵師が描いたスケッチを江戸に送ってもらい、それに基づいて描いた可能性もある らしい。
というわけで、浮世絵を読むというのは、対象になる浮世絵について、色々な角度から考えてみる、そして調べてみるということである。 そして、また見て考える。その繰り返しである。それが実に楽しいのだという。
世の中には、人それぞれの「楽しみ方」があるものなのである。
絵を見て、なぜなのだろうと疑問がわいたら、それを解決するのにどういう方法があるかを考え、調査・研究の未来を展望するので ある。つまり、先々のことを想像する。展望がありそうだということになれば、ひたすら資料を集める。集めるとは、ある基準を決めて、 類似のものを、あるいは役立ちそうなものを懸命に集め、分析することである。
2017/10/20
「能」―650年続いた仕掛けとは― 安田登 新潮新書
よく「能はわからない」と言われます。ですが、バンドに明け暮れていた自分がここまで夢中になって続けてこられた魅力を お話ししたい、そんな風に思っています。なにしろ能は、やっていてお得なことが多い。よく言われますが単に「眠くなる」だけ だったら・・・
<そもそも650年も愛され続けるわけがありません。>
高校教師をしていた24歳の頃、「あんなしんき臭いの見てられるか」と否定的だった能鑑賞に、同僚の美術教師に誘われて、最初に 見た舞台で、「幻視」(はっきり水面に浮かぶ月の風景が見えたのだとか)を体験して度肝を抜かれ、やがてのめりこみ、ついに弟子 入り、いまではその「しんき臭いの」を仕事にしてしまった、という61歳の下掛宝生流能楽師が、
観阿弥が着想し、世阿弥が完成させた「夢幻能」の構造。
<この世をなにかしらの「無念」状態で去った人の声を聞き、言えなかったことやできなかったことをしてもらい、またあの世に送り 返す>という「残念」を昇華させる物語構造の仕組みから始めて、「能面」、「謡」、「摺り足」、「序破急」、「能舞台」などに いたるまで、
世阿弥が仕掛けた「愛される」ための工夫の数々と、「必要とされてきた」効能の秘密を、体験的に語り尽くそうとしてみせた快著 なのであれば、
<能は「老舗企業」のような長続きする組織づくりのヒントになる>
「初心忘るべからず」という観阿弥・世阿弥父子が残したもっとも有名な言葉は、「それを始めたときの初々しい気持ちを忘れては いけない」という意味ではない。「初」のもとの意味は「衣(布地)を刀(鋏)で裁つ」、すなわち、まっさらな生地に初めて鋏を 入れることを示すのだから、「折あるごとに古い自己を断ち切り、新たな自己として生まれ変わらねばならない、そのことを忘れるな」 という意味なのである。
「時々の初心」、「老後の初心」、「披き(お披露目)」、できないと思う「自己イメージ」をバッサリ裁ち切り、新しい身の丈に 合った自分に立ち返る。その「初心」の技を各個人の習い性にしてしまう「稽古」のシステムこそが、度重なる試練を生き延びさせて くれた知恵なのである。
<健康長寿のヒントになる>
節をつけて謡う「謡」や、重心を落として歩く「摺り足」といった独特の身体作法が、何歳になっても元気に現役を続ける能楽師の 健康を支えている。
<不安を軽減し、心を穏やかにする効能がある>
桶狭間の戦を前に「人生50年〜」の節を舞った織田信長の舞は、「心を落ち着ける」などという生易しいものでなく、ストレスを そのまま行動エネルギーへと変換するための術だった。
などなど、秘する「もの」ではなく、秘する「こと」が大切なのだとする世阿弥の、「秘すれば花」の凄みに触れることができるに 違いない。
能を芸能として大成させたのは世阿弥ですが、信長、秀吉といった戦国時代の雄のみならず、式楽化(公式行事で使う芸能として 認定)し政治のシステムに組み込んだ徳川幕府、それを強固にした歴代の将軍や大名たち、明治の功労者たちに至るまで、各時代の トップが推奨した理由は、トップマネジメントのための芸能として優れているからにほかなりません。
2017/10/12
「町を住みこなす」―超高齢社会の居場所づくり― 大月敏雄 岩波新書
本書では、(戦後多く開発されてきた日本の)住宅地が現在抱える少子高齢化問題、人口減少問題、空き家空き地問題 といった諸課題をどのように理解し、解いていく手がかりを見いだせるかを、さまざまな観点から解きほぐしていくことを目的と している。
<そのカギを握るのが「町の多様性」である。>
人口構成や世帯構成の多様性。
建物のもつ機能や用途の多様性。
移住と定住の間にある地域への根付き方の多様性。
地域に存在すべき居場所の多様性。
これらの「多様性」に対する視点を欠いていたことが、「35歳と生まれたて」の若い家族を受け入れるために開発された、戦後の 日本のニュータウンが、いまや高齢化、スラム化の危機を迎えるに至った要因ではないかというのである。
関東大震災後の復興住宅として建設された「同潤会・住利アパート」の1927年から90年までの63年間の歴史をたどり、戦災の 焼け跡から、戦後ベビーブームや高度経済成長を経て、居住者たちがどのようにこのアパートに住み続けてきたかを調べた、卒業論文 『同潤会猿江アパートの住みこなされ方に関する研究』。(増築によって隣り合う2つの住戸をつないだり、アパート内に「離れ」を もつ例まであったり・・・)
この本は、家族とその生活の器である住戸が、必ずしも一対一の固定的な関係ではなく、時の移ろいや家族構成の変化に柔軟に対応 できていることに気付かされ、それ以来、常識や固定観念にとらわれない住まい方をずっと追いかけてきたという、東大建築計画学教授 が、今後「町を住みこなせるものにしていく」ために考え得る具体的な方策を提示してみせた、ユニークな処方箋なのである。
「人生のスパンで住宅を考える」
「町の多様性が近居を可能にする」
「同じ町の中で移り住む Gターン」
「町のあちこちに主(あるじ)感のある場を」
「居場所で住まいと町をつなぐ」
人は町の中の空間や町に住む人びとの中に、ある種の「資源」を発見し、それを利用しながら自らの生活課題を解決していく体験を 積んでいく。「そういうときにはここに行くもんだ」「そういうときには誰々さんに相談すれば解決するんだ」といった、解決のための 「薬」が町のあちこちに点在していることを体得し、居続けたいと思った人びとによって、町は時間をかけて拠点化されていくのだ。
そうして拠点化された結果、この町を人びとは「地元」と呼ぶようになるのである。
ある人にとって、時間をかけて町全体があたかも薬箱のような存在になること、そのことをもって、我々は「住めば都」と表現する のだろう。
2017/10/7
「本当に住んで幸せな街」―全国「官能都市」ランキング― 島原万丈+HOME'S総研 光文社新書
東洋経済新報社が全国の都市を対象に毎年公表している「住みよさランキング」は、23年間も続くランキングで、(中略) 直近の5年連続で「住みよさ第1位」に選ばれているのが、千葉県の印西市です。
ちなみに、2016年度の第2位は愛知県の長久手市で、第3位は富山県の砺波市だったという。
<なぜ印西市は「住みよさN0.1」なのか?>
それは、「住みよさ」なるものの算出基準が、
「安心度」 人口当たりの病院数など(以下同様)
、 「利便度」 大型小売店舗の面積、
「快適度」 都市公園の面積、
「富裕度」 課税対象所得額、
「住居水準充実度」 持ち家の世帯数
、 などによって測られているからだ。
つまり、施設や公園、住宅といったものが、より多く、より大きく、より新しければ、その都市は「住みよい」という判断が下される のであり、実際にその街に住んでみて気持ちがいいのか、快適なのかとは、まったく関係のない「指標」にすぎないということなので ある。(う〜む、納得!)
それでは、「どの都市が住むのに本当に魅力的なのか」、「どこに住むと自分が求める自分らしい暮らしができるのか」という「都市の 魅力」を測るために、まったく新しい物差しを提案してみせましょうとばかりに、この本が差し出してきた「これからの都市はどうある べきか」を考えるための価値観とは・・・
「官能都市」(Sensuous City)
先ずそのワインの色、香り、味の特徴を把握し、出来れば数値化する。次に知識のライブラリーの中からそれに近い産地、銘柄、更に 生産年の変動幅以内にあるかどうかを検討し、それらの特徴を誰にでも理解できる言葉で表現する。(日本官能評価学会)
と、まるで赤ワインを利き酒するソムリエのように、都市の「官能度」を評価してやろうという、これはまことに意欲的な取り組みなの である。
測定に使用された指標は、「関係性」と「身体性」からそれぞれ4つに関する、32項目のアクティビティ。
「共同体に帰属している」お寺や神社にお参りしたなど(以下同様)、
「匿名性がある」平日の昼間から外で酒を飲んだ、
「ロマンスがある」路上でキスした、
「機会がある」イベントやセミナー・市民講座に参加した、
「食文化が豊か」庶民的な店でうまい料理やお酒を楽しんだ、
「街を感じる」活気ある街の喧騒を心地よく感じた、
「自然を感じる」木陰で心地よい風を感じた、
「歩ける」家族と手を繋いで歩いた、
つまりこれは、その街で人はどんな行動を取っているのか、といった「動詞」で都市を評価することが「売り」の試みなのである。
共同体がありつつ匿名性もあり、ロマンチックで、刺激的な出来事に出合うチャンスもある。食文化が豊かで、歩いて楽しくまちも 自然も身近に感じられる。その都市に住めばなんだか毎日が楽しそうだ。私たちは、そんな人間らしい動機をまず構想すべきではない でしょうか。
2017/10/4
「英語の帝国」―ある島国の言語の1500年史― 平田雅博 講談社選書メチエ
「英語の帝国」はまずブリテン諸島から始まった。後に英語と称されることになる言語は、5世紀に海を越えてやってきた ゲルマン人の戦士によってイングランドにもたらされた。
中世から近代にかけて、ウェールズ、スコットランド、アイルランドへ、そして新世界へと侵略していくイングランド帝国の足跡は、 そのままが英語の帝国が拡大していく道筋であり、英語を強制され、書き言葉が標準化され、固有の言語が死滅していく歴史となった。
ブリテン諸島を越えて大英帝国という大きな舞台に英語の帝国が広がっていく過程には、アメリカ、カナダ、オーストラリア、 ニュージーランドなど、白人英語話者の「植民地入植」による英語の移植と、インド、アフリカなど、異民族の非英語話者に「帝国支配 の言語」を押し付けるための教育システムの導入があった。戦争や暴力の「悪行」によって獲得された「帝国」と違い、教育が利他的な キャンペーンとして行われた「英語の帝国」は「善行」の帝国である。
「出世に不可欠」と、英語を学ばせない親は一人もいなかったウェールズ。
外の世界で利益を受けると気づいて、英語で授業を行わない学校には通わせなかったスコットランド。
息子に英語を学ばせれば「生存競争の階段を楽に登っていける」と、不信を抱くガンジーに訴えた事務所の書記。
親たちの希望で、初等教育で現地語のスス語を学校で話すことは一切禁止されたシェアラレオネ。
1920年代の親たちが、子供を学校に入れる理由の一つが、自らは読み書きできない英語の習得だったのだ。しかし・・・
「英語の帝国」の構築を推進し、そこから利益を得た人々は、普通の親たちを巧妙にこれになびかせる「英語帝国主義」のメカニズム を作っていた。
「英語は英語で教えるのがもっともよい。」
「理想的な英語教師は英語を母語とする話者である。」
「英語学習の開始は早いにこしたことはない。」
「英語に接する時間は長いにこしたことはない。」
「英語以外の言語の使用は英語の水準を低下させる。」
という、どこかで聞いたことのあるような5ヶ条の「信条」は、グローバル化の要請に対応するためには、幼時から英語を学ばせるしか ないと考えているらしい、日本の文部科学省が定めたものなんかではない。
これは、アフリカの「新興独立国家」における「第二言語としての英語教育」のために開催された、1961年のマケレレ会議に報告 されたもので、移民に支配言語を押し付けるために取り入れられた「前理論的」なものであり、確固たる定説と考えることは危険という 代物なのだった。
中学・高校の英語教育は英語で行い、小学校では5年生から「教科」、3年から「外国語活動」となるらしい、今の日本では、1年生 から塾通いを始めたり、ゼロ歳児のうちに母親と一緒にネイティブ・スピーカーの元へと、英語を早くから学ばせることに躍起となって いるようだが・・・
こういった「英語の帝国」の歴史を知ったからといって、子や孫がうまく英語を話せるようにはならないが、いまの過剰な「英語熱」 を冷静に考え、「自己植民地化」から免れるヒント、過去を見据えて未来を展望する一助ぐらいにはなるだろう。
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