徒然読書日記201708
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2017/8/28
「異才、発見!」―枠を飛び出す子どもたち― 伊藤史織 岩波新書
ここにくれば、特別な英才教育をするのかと受け取られることも多いが、決して天才を育てる場所ではない。また、一般的な 学習の遅れをサポートし、不登校だった子どもを学校に戻すことを目的としたフリースクールやボランティア団体は今までにもあったが、 それとも違う。
東京都目黒区駒場にある東京大学先端科学技術研究センターの敷地内に建つ、なかでも最も古い校舎。かつては航空研究所があったため、 日本の航空史を語る上で極めて重要な木製風洞を有するという、1号館の地下にその「教室」はある。
<ROCKET>(もちろん航空研に因んだ通称だ)
“Room Of Children with Kokorozashi and Extra-ordinary Talents”
「学校に馴染めず、不登校の子どもたちの中には、特化した才能を持った子どもたちもたくさんいてね、その才能をもっと伸ばすことが できたらおもしろいと思いませんか?」(人間支援工学研究室・中邑賢龍先生)
そうこれは、今までは出過ぎた杭としてつぶされてきた子どもたちを、社会に適応させるために強制する場ではなく、枠からはみ出した まま、特化した才能をつぶさないで、いきいきと生きられる社会を作ろうというプロジェクトなのである。
突出した能力はあるものの、オールマイティに物事をこなせるわけではないため、教室に居場所を見つけられずに不登校となったのだが、 不登校で時間がたっぷりあるため、一つのことを突き詰め、夢中で取り組んでいるうちに、ますます好きなことにのめりこんでしまい、 <同じ歳の子どもとはまったく話が合わなくなってしまった。>そんな子どもたちが全国から集まってきた。(601人の応募の中から 男子14人、女子1人が第一期生に選ばれた。)
学校では自閉症、注意欠陥多動性障害、学習障害として認識される、「発達障害」の困難を抱えている子どもたちが多いのだが、
・ROCKETの現場に教科書はいらない。時間の制限もない。
・与えられたテーマから自由にやりたいことを見つけ出す。
・子どもたちは世界で活躍するトップランナーの講義を受ける。
・やりたいことを申請し、それが認められれば実行することもできる。
・申請したプログラムをしっかりとやり遂げる責任も子どもに課す。
という方針のもと、彼らがいきいきと目を輝かせ、得意な分野を追及し、才能を誰にも邪魔されることなく発揮できる「居場所」を 作ったのである。
現在、一期生、二期生を終えて、不登校だった彼らは学校に行き始めたのだという。それは、学校では孤立していても、仲間のいる 居場所を得たということなのかもしれないが、「子どものことを真剣に考えるのであれば、好きなことをやって突き抜ける勇気も必要だ」 と、安心する親たちを尻目に、中邑先生はいささか不機嫌である。
検索エンジンで情報を探し、頭でっかちで知識だけは豊富になる、今の引きこもりの子どもたちに、「自分の周りの狭い世界ではなく、 現実の広い社会の中で、自分の立ち位置がどこにあるのかはっきりと知れ」と言う。
ROCKETとは「挑発する」プロジェクトなのだ。
2017/8/24
「すごい進化」―「一見すると不合理」の謎を解く― 鈴木紀之 中公新書
生存に有利な形や色といった生まれつきの性質(これらを「形質」といいます)をもっている個体は、結果的により多くの 子孫を残し、遺伝によって後の世代にもそうした形質が増えていきます。このプロセスを「自然淘汰による進化」と呼びます。
<それでは進化は本当に完璧さをもたらしているだろうか。>
わざわざ孵化しない卵=「栄養卵」を生んで幼虫に共食いさせる親がいる。
(もし栄養卵が子への追加的投資だというのなら、はじめから大きい卵として投資すればよいのでは?)
異種のメスに誤った求愛をしてしまう、みさかいのないオスがいる。
(子孫を残せないエラーをなくすより、正解を取りこぼさないようにした方が、リターンが大きいから?)
自然淘汰の絶え間ないチェックは、不利な形質が生き残れるほど甘くはなく、いま現在見られる生き物の戦略は、さぞかし巧みで合理的 であるはずなのに・・・
<弱肉強食の世界で、このような進化の不合理性が見られるのはなぜなのか。>
著者が属する進化生物学者の間では、進化を自然淘汰でどこまで説明できるのか、という点について驚くほどの考え方の違いがある そうなのだが、(自然淘汰の原理は認めるとしても、さまざまな制約によって淘汰が妨げられたり、まったくの偶然によって有利でない 形質が維持されたりすることを重視するなど)
一見すると不合理な形質や生態に焦点を当て、「実は合理的に機能しているはずだ」という見方で「進化はどれほどすごいのか」を吟味 していこうという、「自然淘汰をできる限りあきらめない」というスタンスが、この著者の真骨頂なのである。
本当に生存力の高い個体でなければ発信できないような無駄なシグナル(孔雀の羽根とか)で、オスは魅力をアピールし、メスはそれを 好むという「ハンディキャップ理論」。
病原菌などの寄生者に対抗するために、毎世代必要とされる短期的な対応策として宿主が遺伝的な組み換えを要したことが、有性生殖が 無性生殖に卓越した理由であるとする「赤の女王仮設」。
天敵からの攻撃を避けるため、毒針を持つハチに模様や飛び方を似せながら、「あまり似ていない擬態」となってしまったアブに したって、
遺伝や発生のメカニズムにより完璧に近づけない「制約仮設」。
別々の地域に生息しているため完全な擬態が要求されない「ひとり相撲仮設」。
複数のモデルや天敵に対応する必要がある「八方美人仮設」。
天敵はだいたい似ていれば区別しないから「そこそこで十分仮設」。
似すぎてしまうと間違って求愛してしまう「求愛エラー仮設」。
などなど、むしろその不完全さに着目することで、様々なアイデアが浮かび上がってくることになるのである。
我々の想像を超えた自然界の摂理は、<不合理だから、おもしろい>のだ。
地球上の生物の多様性を生み出した進化はそもそも驚嘆に値するもので、私がくり返して強調するまでもありません。ただそうは 言っても、すごくないように見える生き物の形や振る舞いがあるのも事実です。しかしながら、そこであきらめずにつぶさに観察して いくと、一見すると不合理に見える形質ほど、実は「すごい進化」の秘密が隠されているのだと、私は考えています。
2017/8/19
「浄土真宗とは何か」―親鸞の教えとその系譜― 小山聡子 中公新書
親鸞の教えは、一見すると革新的かつ分かりやすく見える。親鸞自身も、自分の教えを易行(いぎょう)であるとした。 しかし、呪術が日常的に行われていた時代に、はたして容易に受け入れられたのだろうか。
経典読誦や念仏が、仏菩薩に由来する超自然的な力によって極楽往生できると期待して、日常的に行われる「呪術」であった時代に、 悟りも正しい修行もない「末法」の世なのであれば、もはや自己の努力による修行(「自力」)で成仏や往生を得ることはできないと 否定し、ただひたすらに阿弥陀仏の力にすがることのみが、その居所である極楽浄土へ導いてもらえる道だ、と信じることこそが肝要 である。と説いたのが、浄土真宗の開祖・親鸞の「他力」の教えだった。
難解な経典を読むことも、超人的な修行をすることも不要(「絶対他力」)であり、たとえ殺生を生業とする者(「悪人正機」)や 無学の者であっても、「他力」の信心を得て念仏を称えさえすれば、極楽往生することができる、とするこの教えは、特に、それまで 往生を絶望視していたような人びとにとっては、さぞかし魅力的に映ったに違いない。しかし、信仰する者の弱さを許容するかのような この柔軟さゆえに、浄土真宗は日本最大の仏教宗派へと発展できたのだと、
<本当に、そう言ってしまってよいのだろうか?>
というわけでこの本は、浄土真宗の開祖として理想化するかたちで、親鸞やその家族や継承者を語ることは、信仰する立場からである ならば大いに意義があるが、学問的な立場から彼らの等身大の姿を活写するためにはまた別のアプローチが必要になると、親鸞の師法然 やその弟子、親鸞の家族、継承者、さらには浄土真宗教団を確立した蓮如の教えと信仰まで、理想化することなく歴史の中に位置付け、 具体的に明らかにしようと、豊富な史料に基づき描き出した、気鋭の日本宗教史学者による意欲作なのである。
家族は必ずしも親鸞の信仰と同じ信仰を持ってはいなかった。継承者も親鸞の教えを敷衍して、門弟に向けては他力信仰について説き つつも、実際の信仰はそこにある内容と同じだったとは言えなかった。(たとえば、彼ら自身が病気や臨終といった生命の危機に瀕した 時、彼ら個々人の信仰の真髄が露わとなった。)
そして、当の親鸞自身が晩年になって、いまさら「他力」信心を得ることの難しさを痛感したりもしていたのだ。
<煩悩を抱える我ら人間にとって、愚の自覚に徹することは非常に困難なのである。>
「人間が救われるにはどうしたら良いか」。そのことに苦悩し、自ら「愚禿」と称して揺れ動いた人間親鸞のほうが、理想化された 親鸞よりも、よっぽど魅力的である。また、それぞれの時代の中で親鸞の教えを受容し、工夫しながら門弟に説き続けた継承者がいた からこそ、現在の浄土真宗があることを忘れてはならない。
2017/8/13
「傷だらけのカミーユ」 Pルメートル 文春文庫
油断もあるだろう。長く生きてきた、あるいは人生をめちゃくちゃにされた経験があるという場合、自分にはもう免疫がある と思い込む。カミーユがそうだった。妻を殺されるという言いようのない苦しみを味わい、立ち直るのに何年もかかった。そういう試練 をくぐり抜けると、これ以上ひどいことは起こらないと思ってしまう。
親友アルマンの葬儀(食道癌だった)に出かけようとしていたカミーユのもとに、突然警察から電話がかかってきて、携帯の連絡先の 使用頻度トップがあなたの番号なのだが、アンヌ・フォレスティエという女性をご存知ですかと訊かれる。「武装強盗に巻き込まれ、 病院に搬送されました」というのだが、女性係官の声色からすればどうやら重体であるらしい。あの悲惨な事件から5年がたち、 ようやく立ち直りかけていたカミーユにとって、アンヌは新たに巡り合ったかけがえのない女性だった。
『悲しみのイレーヌ』
『その女アレックス』
に続く、カミーユ・ヴェル−ヴェン警部シリーズの第3作。
偶然、犯行現場で犯人と鉢合わせをし、瀕死の重傷を負わされたアンヌが、病院搬送後も執拗にその命を狙われることになったのは、 一体なぜなのか?
捜査の担当から外されることを逃れようと、信頼すべき部下ルイはおろか、理解ある上司グエンにさえ、アンヌの素性を明かすことも できず、周囲から浴びせられる疑惑の視線を撥ねつけるかのように、これまでに培ったあらゆる伝手を辿りながら、事件の真相解明に 突き進んでいくカミーユだったが・・・
<
それは罠だ。
> *一応、文字を白くしておきます。
と言ってしまったところで、決してネタバレと謗られる恐れはあるまい。だって、著者自身がこのお話の冒頭で、はっきりとそう書いて いるんだから。(もっとも、暇人を含め、誰もそんな事には気が付かず、読み進んでしまうだろうけど。)
この罠にはまると人はガードを下げる。だが運命はそれを見逃すはずもなく、ここぞとばかりに襲ってくる。そして襲われた人間は、 “偶然”という矢は狙いを定めて放たれるのだったと改めて思い知らされる。
そんなわけで、「もう二度と愛する者を失いたくない。」という切ない思いに端を発したカミーユの、すべてを擲ってもいいとでもいう かのような献身的な独り芝居は、すべてにけりをつけるためには、最後まで行くしかないという、痛みにも似た恍惚感のうちに終演を 迎えることになる。
決めたのはカミーユだった。そして、傷ついたのも・・・
ひとりになって、母が遺したアトリエでゆっくり時間をかけてコニャックを啜っていた時、彼の脳裏をよぎったのは、ニコチン中毒に より、彼に「低身長症」という宿命を刻んで逝ってしまった、赦すことのできない女性の面影だった。
これは、慟哭の三部作「完結編」なのである。
おかしなことにカミーユは、いい年をして、不意に母が恋しくなった。どうしようもないほど恋しくて、我慢しないと泣いてしまい そうだった。
だがこらえた。一人で泣いても意味がない。
2017/8/6
「日本語のゆくえ」 吉本隆明 光文社
ぼくは詩の問題や文芸批評の問題を仕事にしてきましたから、言語論といっても、コミュニケーション論ではない言語論を 考えていました。言い換えれば、コミュニケートするために言葉を発するのではない部分の言語、あるいはディスコミュニケーションの 言語、それが問題なんだと考えてきました。
<「芸術言語論」のモチーフは何かというところからお話しします。>
というこの本は、現在著者が最も関心を集中している課題とその周辺の問題について、母校・東工大の学生を対象に語ったことを内容と している。
時代によって変化する作品の表現の変遷を、言語論の観点から詳細に分析しようとした「表現転移論」について。
(『源氏物語』は、文学史的にいえば平安中期の作品だが、文体論からいえば、現代にもってきても少しも不足はない作品である、 とか・・・)
文学における芸術的価値は、自分が自分に問うという問い方の問題としての「自己表出」にあるということについて。
(『彼岸過迄』におけるモチーフと優れた描写のズレと、理想を願望するもうひとりの自分という「世界視線」の必要性について、 とか・・・)
国家はもちろん、社会的集団や複数の人間が集まって何事かひとつのことを成し遂げようと考えた場合に出てくる問題としての 「共同幻想論」について。
(6百首以上の短歌の大部分を統治感覚が占めていて、これじゃあ「帝王学」で芸術にはならないと思い知らされた、昭和天皇の歌集 『おおうなばら』、とか・・・)
つまり、この『日本語のゆくえ』という論考は、著者がかつて一世を風靡した『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』を、 ブラッシュアップせんという宣言のようなものなのだ。
さて、このまことに意欲的な講演を締め括るにあたって、<自身も詩を書いてきたりしてきた文芸批判家>は、<今の若い人たちの詩> を少しまとめて読んでみることにしたのだが、<詩を言葉で表現するという意味合いにおいても、社会がどうなっていくか、あるいは どうなっていけばいいのかという問題においても、まったく「無」に等しい状態になっている。>というのが、いまの20代、30代の 人の詩を読んだときの全体的な印象だった、というのである。
なぜこういう詩が生まれたのか、そういうこと自体がわからないといえばわからないわけで、そのわからなさは、たとえば、朝日新聞の 一面に「『イザナギ景気』以上の景況を呈している」と書いてある、なぜ朝日新聞はそんなことを書くのかわからない、という わからなさだという。どうして好況なのかという現象の内側をちっともめくらないで、上から言われたから書いたのか、本当にめでたい ことだと思って書いたのか、それもわからない。
結論めいたことをいえば、神話としての現代詩、あるいは神話としての若い人たちの詩ということを考えることはまず不可能だ、 ・・・ここには何もないよ、という兆候だけは非常にはっきりとうかがえた。そういう意味では、これはとても重要な兆候なんだな というふうに解釈しています。
というわけで、こんなハイレベルな論考を、ちびちびと細切れに読み進みながら、最後までトイレで読み通してしまったことに、 すこしばかり申し訳ない気分の暇人なのでした。
2017/8/6
「中動態の世界」―意志と責任の考古学― 國分功一郎 医学書院
たとえば、私が「何ごとかをさせられている」のではなく、「何ごとかをなしている」と言いうるのはどういう場合か? そこにはいかなる条件が必要であるのか?言い換えれば、私が何ごとかをなすことの成立要件とは何か?どうすれば私は何ごとかをなす ことができるのか?
<「私が何ごとかをなす」とはどういうことなのか?>
「私が何ごとかをなす」という文は、「能動 active」と形容される形式のもとにある。能動とは呼べない状態のことを、われわれは 「受動 passive」と呼ぶ。この、われわれが(中学の英文法以来?)慣れ親しんでいる「能動態」と「受動態」という文法上の区別は、 すべての行為を「する」か「される」かに配分することを求めている。
「する」という行為の出発点は「私」にあり、また「私」こそがその原動力であることを強調するものなのだから、そこには「意志」の 存在が喚起されてくる。そして、それが自分の「意志」で自由に選択した行為であるからには、そこには「責任」が伴ってくる ことにもなる。
<責任を負うためには人は能動的でなければならない。>
しかし、ちょっと考えてみればすぐに気が付くことであるが、(と、著者は簡単におっしゃるのだが、暇人のような凡夫は、そんなこと 考えてみたことさえない。)能動の形式が表現する行為が、必ず能動性のカテゴリーに一致するわけではないし、だからといって受動の 形式で表現できるわけでもない。(このあたり、たとえば、謝罪を求められた場合どうなれば謝ったことになるか、薬物依存に陥った 場合の責任の所在は、などなど、まことに丁寧な議論が展開されている。)
<それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない。どうしてなのだろうか?>
8千年以上前には、能動態でも受動態でもない「中動態 middle voice」なる態が存在していて、これが能動態と対立していた。 (受動態は、ずいぶんと後になってから、中動態の派生形として発展してきたものなのだという。中動態という中間的な名称はその後で 作られたものだった。)
<「能動」では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示しているのに対し、「中動」では、動詞は主語がその座と なるような過程を表している。>(Eバンヴェニスト)
能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になったのに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内に あるかが問題になるのである。
中動態と能動態の区別を根底に置く言語からならば、この世界はどのように記述されるのだろうか?
言語の表舞台からは消えてしまったように思われるのだが、本当にそうだとすれば、中動態はなぜ消滅してしまったのか?
というわけでこの本は、あの
『暇と退屈の倫理学』
によって、私たち読者を究極の<退屈しのぎ>の世界へと誘い出してくれた著者が、
文法上の差異がどのようにわれわれの思考の奥深くで作用し、それによって世界の見え方がどのように変わってくるのかということを、 論理明晰にして懇切丁寧に解き明かしてくれたものなのである。
本来言語は、出来事を描写するためのものであり、主語が過程の内にある「中動態」の世界では、意志(と責任)の存在は要請される ことはなかった。言語が行為者を確定するものへと移行していく歴史の中で、能動と受動の区別が派生し、結果として中動が姿を消す ことになったのは、社会が責任を問うことを必要としたからだが、
<強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常に あふれている。>であるならば・・・というのが、著者の狙いのようなのである。
思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少し ずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで 得られるわずかな希望である。
2017/8/3
「カラダの知恵」―細胞たちのコミュニケーション― 三村芳和 中公新書
カラダの細胞は人の数よりも5千倍も多い(37兆個)。細胞が人でいう「単一民族」であるかというとそうではない。 生まれも機能も異なる。2百種類以上の細胞の集団だ。であるのに、内外の刺激にてんでバラバラに反応することもなく、だいたいは 一貫している。(中略)カラダは横のつながりばかりか、時間と空間との縦の流れにおいても統一した自己を維持しようとする。 身体的には昨日のわたしと今日のわたしはちがうのに、どうしてカラダは心も含めて統一性を保っていけるのだろう。
<それはカラダのなかに細胞どうしの「コトバ」があるからだ。>
たとえば、ケガによって血が出たとすると・・・、
・すぐに白血球が集まってきて、傷口に「炎症」を起こし、
・サイトカインという「警報分子」を放出して、傷の延焼を防ぐ。
・血液を固まらせる「止血」という手品を華麗にあやつったあと、
・微生物を食べて、無限な数の「抗体」をつくるという魔術まで展開する。
「コトバ」(情報分子)を分泌できる浮遊細胞を、血管やリンパ管という道路を使ってつねに循環させ、カラダの異変をすぐに察知する。 それは、微生物の侵入と感染のひろがりを防ぎ、傷ついた組織を修復するために整備された、まことに見事なシステムなのである。
<印をつける>、<宛名をふる>、<道標をおく>、<パターンを知る>、<符丁や暗号をつかう>、そして、<何度も念を押す> (まことに頼もしいことに、わたしたちのカラダはあの手この手でコトバをあやつり、いくえにも安全策を講じているのだ。) などなど・・・、「コトバ」と、それを使いこなす文法としての「カラダ」のしくみには、人社会のさまざまなシステムを彷彿とさせる 「知恵」が溢れているのである。
「外科侵襲学(ゲカシンシュウガク)」
筆者が専門とするこの難しそうな学問は、人が手術を受けたとき、あるいはケガをしたときにカラダのなかでおきる反応を科学的に 観察することで、発明とか創造とかとは違い、すでにカラダに隠された、ケガに対する反応形式を探り当てようとする学問なのであり、 ケガや感染症を乗り切るための、アッと驚くようなとても人智のおよばないカラクリが潜んでいることを発見したりできるのは、 <35億年間にわたり生物が体験と学習とを延々とくりかえしてきた賜物だ>というのだった。
だからなのか、どんな生命体も行き着くところ、おなじようなシステムをもつようになるというのは?そして人社会に大いに参考と なるシステムが埋もれている、そんな気がしていた。
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