徒然読書日記201706
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2017/6/29
「縄文とケルト」―辺境の比較考古学― 松木武彦 ちくま新書
たとえば、日本古代の都城である平城京や平安京が中国・唐の長安城によく似ているのは、形やデザインがそこから伝わって きたからである。だが、イギリスと日本の先史時代に、そのような直接の文化伝播はない。
<形やデザインが驚くほどよく似た遺跡が、はるかに隔たった両地域にあるのは、なぜなのか?>
そんな遺跡を残した社会の姿を、隔たった地域どうしで比べてみて、両者の共通点と相違点をあぶり出し、相互の歴史的特性を明らか にしようとする営み。
「比較考古学」。
この本は、モノの分析をとおしてヒトの心の現象と進化を解明せんとする
「進化考古学」
の第一人者が、新たな武器を手に辺境の遺跡を巡り歩き、ユーラシア大陸の東西両端で相似の位置を占める二地域の歴史の歩みが みせた共通性、「ケルト」と「縄文」の正体に挑んだ意欲作なのである。
<歴史上の同じ環境において同じ必要性にかられたとき、技術段階も同じならばよく似た遺跡が残されるのだろうか。>
約1万年前、氷期が終わって温暖化した中緯度地帯の平原や森林では、豊かになった資源に頼って、人びとは多人数で定住するように なった。約5千年前、太陽活動の変化による冷涼化の危機に直面した大陸中央部の平原では、農耕を強化するために王や都市を核とする 「文明」の社会ができた。しかし、そこから離れた辺境の島々では、集団のきずなを強化し、資源をもたらす太陽や季節の順調なめぐり に精神的な働きかけを行う「非文明」の社会が発展する。
「非文明」の社会とは、定住して大きな社会を作り始めたヒトが、初めて発展させた第一次の高度な知の体系の上に構築されたシステム であり、「アナロジー」の網をつむぎ合わせることで、万象のしくみを説明しようという、ホモ・サピエンスが長い進化の結果として 普遍的に共有する心の働きなのである。たとえば「ストーン・サークル」は、日本列島やブリテン島だけではなく、この段階に属する すべての社会で認められる、「ヒトの集いの象徴」なのだ。
「文明」とは、見かけや外面をそぎ落とし、原理と構造をえぐり出すことを旨とする、人類第二次の知識体系であり、実利的な合理性が 極めて強いため、その威力は絶大である半面、万物を統制して収奪する志向も強く、不平等や階層化を導く結果となった。「ケルト」 とは、大陸の中央部から西方へと進んだこの動きを、一つの人間集団の移動拡散というドラマになぞらえて、後世の人びとがロマン 豊かに叙述したものだ。いっぽう、東方に向かった同様の動きは、弥生時代に稲作をもたらした「渡来人」、古墳時代に先進的技術を もってやってきた「帰化人」として描かれることになった。
ともあれ、西と東のケルトは、ともにその最終の到達地であるブリテン島と日本列島とにそれぞれ歴史的な影響を及ぼし、環濠集落 のような戦いと守りの記念物や、不平等や抑圧を正当化する働きをもった王や王族の豪華な墓をそこに作り出した。紀元前3千年を過ぎ たころから紀元前後くらいまでの動きである。
両地域がその後の歴史でたどることになった歩みの違いは、大陸との間を隔てる海が広かったか、狭かったかの違いであり、東西ケルト の動きの最終的帰結ともいえる大陸の古代帝国、漢とローマが両国に関った程度と方向性の違いによるのだろう。
というのが、この日本考古学者が導き出した、今のところのストーリーなのだった。
2017/6/26
「偽装死で別の人生を生きる」 Eグリーンウッド 文藝春秋
2013年7月7日の午後、昼食を終えて仕事に戻ろうとした街路清掃人が、マニラ・パサイ市のロハス大通りと解放通りの 交差点で自動車事故を目撃した。・・・運転者らは近くのサン・ファン・デ・ディオス総合病院へ救急搬送された。モンテロを運転して いたのは、エリザベス・L・グリーンウッドというアメリカの白人女性だった。
<搬送先で、彼女の死亡が確認された。>
公立小学校の教師だった彼女は、先の見通しのない人生から脱出するため、退職して大学院へ進学する道を選び直したのだが、それは 逆に、自分を経済的に破滅させてしまう道でもあった。(誰のせいでもない、すべては自分のせいなのだが・・・)<総額で6桁の学資 ローン>、いや一生分の利息を足せば50万ドル近くにもなる、重荷を背負ってしまったことに気付いたのである。安いベトナム料理店 で、教師時代の同僚相手に、債務者監獄行きか、はたまた逃亡生活かと、愚痴る彼女の耳元で、その同僚が何気なくつぶやいた。
「死んだことにする、という手もあるよね?」
そんなわけでこの本は、<自分の死を偽装する>などということが本当に可能か、ということを実証せんと企てた体当たりレポート なのである。
別の人に生まれ変わりたいという願望に応えるため、顧客の情報を隠蔽、攪乱し、その人生を消し去ってしまう<失踪請負人>。
死亡偽装はほとんどが保険金詐欺を動機とするため、保険会社からの依頼を受けて全世界を飛び回り、ほぼすべての嘘を暴いてきた という<偽装摘発請負人>。
カヌーでイングランドの北海岸に漕ぎ出して溺死の偽装に成功し、5年もの間のほとんどを自宅の2階で暮らしながら、同居する息子に も気付かれなかった<カヌーマン>。
マイケル・ジャクソンは生きていると、彼が仕掛けた史上最大の悪ふざけ、偽装死のたくさんの証拠を示してみせる<ビリーバー>。
様々な<関係者たち>への入念な取材を続けるうちに、死亡事故を偽装するベスト(?)な方法を見出した彼女は、フィリピンへと 向かうことになる。
「つまり、フィリピンは死ぬのにもってこいの場所ってことね!」
こうして、まんまと自分の<死亡証明書>を手に入れることに成功した彼女は、しかし、それを提出することまではしなかった。 (本名で、こうして顛末本まで出版しているのだから、そんなことは言うまでもないことなのだが・・・)つまりこの本には、死亡偽装 の興味深いノウハウやエピソードが満載ではあるのだが、死亡偽装に伴う感情的・精神的代償まで勘定に入れると、どうやら、あまり お勧めとは言えないようなのである。
死亡偽装するなら、戻ってきてはいけない。妻に会いに戻ってはいけない。恋人に会いに戻ってはいけない。子どもに会いに戻って はいけない。・・・保険金の支払いを狙っているなら、欲張ってはいけない。保険金は控えめな額にすること。・・・死亡偽装に成功 したら、変装して別人になりすますこと。ただし、ファーストネームは本名と同じにすること。自分の名前をネット検索しないこと。 足がつく元だ。死亡偽装後は、車の運転をしないほうが身のためだ。車は捨ててしまおう。・・・
2017/6/20
「読んでいない本について堂々と語る方法」 Pバイヤール ちくま学芸文庫
<読まずにコメントする>という経験について語ることは、たしかに一定の勇気を要することである。・・・読書をめぐって は、暗然たる強制力をもつ規範がいくつもあって、それが私がここで扱おうとしている問題に正面から取り組むことをむずかしくして いるのである。
<なかでも以下の3つの規範は決定的である。>
1.神聖とされる本(それがどんな本かは所属する社会階層により異なるが)を、読んでいないことは許されない、という読書義務。
2.本は初めから終わりまで全部読まねばならず、飛ばし読みや流し読みは、まったく読まないのと同じくらいよくないことだ、 という通読義務。
3.ある本について多少なりとも正確に語るためには、その本を読んでいなければならない、というわれわれの文化における暗黙の 前提。
<しかし、そもそも「読んでいない」とはどういうことなのか?>
ある本についての会話は、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について、交わされる場合がほとんどで ある。ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体=<共有図書館>を把握していることが、書物について語るときの決め手 となるのであれば、ある本に関して重要なのは、むしろその隣にある本なのであり、その本が他の諸々の本に対してどのような位置関係 にあるかさえ分かっていれば、その本の内容はよく知らない、つまりしかじかの本を読んでいなくても、別にかまわないということに なるのである。
<それでは、「読んだ」ということは正確に何を意味しているのだろうか?>
注意深く読んだ本と、聞いたことすらない本とのあいだには、(「読んでいない」が噂は耳にした、など)実にさまざまな段階があり、 我々は誰もが、何年もかけて築き上げてきたそんな読書体験を通じて、我々の大切な書物を秘蔵する<内なる図書館>を、自身の内部に 宿している。我々が書物について語る場合、話し手のうちの誰も、話題にしている本を読んでいない、あるいはざっと読んだだけ、 というのは考える以上によくある状況なのだが、たとえ全員がその本を手に取ったことがあり、読んだことがあるという、もっと珍しい ケースでも、そこで話題にされているのは、現実の書物よりも断片的な、個々によって再構成された、他の読者のものとはまったく別の <遮蔽幕としての書物>なのであれば・・・、
読んだことのない本について面白い会話を交わすことは全く可能であり、会話の相手もそれを読んでいなくてもかまわず、むしろその ほうがいいくらいだ。
という、これはまったく『読んでみなくてはわからない』、表題に偽りありの快著なのだった。
私は批評しなければならない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ。(オスカー・ワイルド)
2017/6/10
「平安京はいらなかった」 桃崎有一郎 吉川弘文館
いや、もちろん誰かが必要と信じたからこそ造られたのだが、それは幻想というべきか、一種の妄想にすぎない。平安京は 最初から無用の長物であり、その欠点は時とともに目立つばかりであった。細かいニュアンスを省いて、誤解を恐れずに極論すれば ・・・
<あのような平安京など、最初からいらなかった。>
なぜそんな不要な平安京は造られ、しかも1000年以上もの間存続することになったのか。当初の理念はかなり早い段階で時代遅れ となり、平安京(京都)は何度でも、新たな時代の実態に合わせて造り替えられてきたのだが、あの“碁盤の目”の街並みが保たれて いる限り、そこには決して失われなかった<何か>があったはずだ。
<では、それは何か?>それを平安京造営の最初に遡って考えてみようとした、気鋭の日本中世史学者による、これは誠にスリリングな 古代史への挑戦状なのである。
<朱雀大路は日常的に通行するための街路ではなかった。>
平安京(およそ5キロ四方)を東西に二分する中軸線上を南北方向に通る朱雀大路は、道幅が82m(25車線に匹敵する!)もあった。 この大路に面する宅地との間は、高さ3.3mの垣で完全に遮断され、通行人は物理的に出入りできないようになっていた。人が通行 するためでないのだとしたら、この道はいったい何のためにあるというのか。それは、外交使節(渤海使)と祭礼(大甞会)のみが通る ことを許される、重要な通路として演出された“舞台”装置だったのだ。
<“平安京図”のような姿の平安京は歴史上ただの一度も存在したことがなかった。>
天皇の宮殿は都の中心軸の北端に置かれたので、天皇の視点から左に見える平安京の東半分が“左京”、西半分が“右京”と呼ばれた のだが、考古学的発掘調査によると、右京の北西部や南西部には、低湿地や池の跡しかなく、人が住んだ痕跡が出土しない。平安遷都が 決定されてから11年後の延暦24(805)年に、桓武天皇は造宮職を廃止するのだが、それは平安京が計画通りに完成したからでは なかった。この時期は蝦夷との長期戦のさなかにあり、巨大な出費を強いられていたことから、平安京造営を投げ出したのだ。天皇が 「やめよう」といえば造営は終わる。結局、平安京は全体を完成させる喫緊の必要性が乏しい、無駄に大きな都城なのだった。
平安京は、もとはといえば、唐や新羅との軍事的な緊張関係の中で、律令国家の威信を物体化させたものだったから、実用性は容易に 犠牲にされた。しかし、律令国家の都の完成形がようやく生まれ落ちようとしていた時、すでに時代は唐を中心とする国際秩序とは距離 を置くべきものとなってしまっていた。平安京の“使いにくさ”という本質も、昔の誰かが夢想した“あるべき姿”に縛られさえしな ければ、この都市的インフラには、まだそれなりの使い道がある。
こうして、平安京の一部は“京都”へと変貌して、生き残ることになった、というのだった。
平安京が理想の都ではなく、妄想の産物だと認めるまでに、朝廷は200〜300年の葛藤を必要とした。本書は、その葛藤の果て に中世的な“割り切り”が急速に訪れ、やがて劇的な社会転換に襲われて、“平安京”が命脈を終えるまでの道筋を跡づけるものである。
2017/6/9
「キリスト教は役に立つか」 来住英俊 新潮選書
キリスト教信仰を生きるとは、正しい教えに従い、立派な人物の規範に倣うことではない。
キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むこと である。
キリスト教とは「神の子が十字架上で死ぬことによって人類の罪を贖った」と信じる宗教である、と言うのは、それはそれで間違いでは なかろうが、もしも、「神と人がともに旅路を歩む」という「一対一」の関係性を深めることの中に、人間がこの地上を生きることの 最も深い充実を見出せる、と言うのであれば、
<神を信じない者にとっても『キリスト教は役に立つ』のではないか?>
灘高・東大法学部から一流電機企業へと、「立身出世」を目指す企業人として、順風満帆のエリートコースを歩みながら、入社6年目 (30歳)に、いろいろと考えるところがあって突然洗礼を受け、カトリックの神父へと転身を図ることになった。
「今の私はカトリック信者になって良かったと思っています。大胆に言うと、より幸福になりました。」と振り返る著者(66歳)が、 その「私にとって良かったこと」を、できるだけ宗教的な語彙を使わずに、世俗に近い言葉で話してみることで、「それは自分にも 良いことかもしれない」と読者が感じてくれれば嬉しいという、これは「幸福」の処方箋のような本なのである。たとえば・・・
<キリスト教も現世利益を祈る>
「お祈りは人々にとっての善を求めるもので、自分の利益のためにするものじゃない」というのは間違いである。あるべき立派な人間で はなく、あるがままの「今のこの私」が、まずは自分の願いをもって、しっかりと神と向き合うところから、神との歩みは始まるのだ。
<神が人間に質問する>
「いまは人間が神に質問する。しかし、本当は神が人間に質問する。」それがキリスト教である。すでに答えを知っているはずの神が あえて質問をするのは、辛い悩み事は意識から遠ざけてしまいがちな人間には、質問してくれる存在が必要だからなのだ。
などなど、人間は「神の似姿」として創造されたのであれば、神と人間のあいだの関係は、人間Aと人間Bのあいだの関係になぞらえ て理解することができる。つまり、人間と人間が一緒に歩む経験から、神と人間が一緒に歩むことについて理解を深めていく一方で、 キリスト者が神と共に歩んだ経験に支えられて、人間と人間が一緒に歩むことについての洞察も深めていくことができるのだ。 そしてこの循環の中で、キリスト者の生き方はスパイラル的に少しずつ深まっていくものなのであれば・・・
キリスト者が体得した「人と人が一緒に歩む」ことについての実践的な知恵は、キリスト教信仰を共有しない方にも何らかの参考に なるのではないかと期待しています。
2017/6/5
「勉強の哲学」―来たるべきバカのために― 千葉雅也 文藝春秋
まずは、これまでと同じままの自分に新しい知識やスキルが付け加わる、という勉強のイメージを捨ててください。むしろ 勉強とは、これまでの自分の破壊である。そうネガティブに捉えたほうが、むしろ生産的だと思うのです。
<では、何のために勉強をするのか?>
それは、会社や学校という環境の中で、「こうするもんだ」という周りの「コード」に「ノって」生きてきた自分を自己破壊し、別の 考え方=別の言葉を使用する環境へと引っ越して、不慣れな新たな「ノリ」に入ることで、かえって「自由になる」ことができる。 だから・・・
<勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。>
そのためには、周りのノリにコミットすることをやめ、共同体から分離した「キモい人」となって、環境から「浮いた」語りを操作 できなければならない。これまでは、ある環境でスムーズに行為するために「道具的」に使用してきた、その言語をそれ自体として おもちゃのように操作する、「玩具的使用」の意識を高めていくこと。
<ツッコミとボケが、本質的な思考スキルである。>
周りが当然のように言っている、その根拠をあえて疑って、「そうじゃないだろ」と否定を向け、真理を目指すのがツッコミ= アイロニーであり、根拠を疑うことはせず、一人だけ急にわざと「ズレた発言」をすることで、見方を多様化するのがボケ= ユーモアである。
<アイロニーを過剰化せずユーモアへ折り返すこと。>
勉強の基本はもちろんアイロニカルな姿勢にあるのだが、現状を俯瞰的(メタ)に批判することがあまりに過剰になれば、実現不可能 な極限に至ってしまう。「言語の環境依存性」から「外に出よう」というアイロニカルな意識は保ちながら、「環境の複数性=言語の 複数性」を認めること。ユーモアとは、アイロニーのようにコード破壊的ではなく、「一周回って」環境依存性を認めるような、 「ひねり」という新しい見方を導入するスキルなのである。
<享楽的こだわりが、ユーモアを切断する。>
ユーモアによって、あらゆる見方から見方への「目移り」が可能になってしまえば、それはそれで、言語は意味が飽和して機能停止に 陥ってしまう。複数の選択肢を比較し続けるというユーモア的な方法を、ベターな結論を仮固定することで途中で中断し、また再開 できるのは、個々人に享楽的なこだわりがあるからだ。こだわりのそもそもの発端、偶然的で無意味な出来事に立ち戻り、自分の興味 関心の背景を反省し、その意味を捉え直すことで、享楽的こだわりは変化しうる。
<信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。>
というこの本は、
『動きすぎてはいけない』
で華々しくデビューを飾った、フランス現代思想の俊英が考える、「勉強」を有限化する技術について の解説書なのであるが、なんだか物凄く腑に落ちて、暇人って今さら「来たるべきバカ」にならなくったって、結局「元々のバカ」 だったんだと、深く納得してしまった。
環境のなかでノっている保守的な「バカ」の段階から、メタに環境を捉え、環境から浮くような「小賢しい」存在になることを 経由して、メタな意識をもちつつも、享楽的こだわりに後押しされてダンス的に新たな行為を始める「来たるべきバカ」になる。
2017/6/4
「比ぶ者なき」 馳星周 中央公論新社
「そなたの新しい名前だ。等しく比(なら)ぶ者なき。そなたに相応しい名前ではないか。これより、その名を使うがよい」 (中略)
軽(かる)は英邁だ。だが、まだ若い。その若さが屈託のない信頼となって史(ふひと)に向けられる。なにもかもが 真っ直ぐなのだ。その軽を、史は己の行く道を塞ぐ邪魔者になるかもしれぬと考えていた。
「身に余る光栄にございます」史=不比等(ふひと)は静かな声で言った。
中大兄(天智天皇)より藤原の姓を賜るほどに寵愛され、その右腕として辣腕を揮った、英傑・中臣鎌足の息子であったが故に、天智 亡きあと、その後継者・大友皇子との乱を制し大王の座についた、弟の大海人(天武天皇)には疎まれることとなり、朝堂に出仕する ともままならずに、無為の時を過ごしてきた藤原不比等が、ようやくその傑出した政治力を発揮することができるようになったのは、 30歳になるまで舎人として懸命に仕えることで、その信頼を得てきた天武の子息・草壁皇子が、帝位に就くことなく早世してしまった からだった。草壁の母・讃良(ささら)大后は、まだ幼い草壁の息子・軽皇子を帝位に就けたい一心で、両刃の剣となることも承知の 上で、不比等の策に頼ることとし、自らが即位(持統天皇)して、孫を擁護する道を選んだのである。
「天照大神という神がおります。その名のとおり、太陽のごとくこの世を照らす神です。男神なのですが、我らはこれを女神に しようと思っております」
「なるほど。天皇が天照大神ですな」人麻呂の目に光が宿った。
「はい。天照大神は天上にあって天上の世界を統べております。そして、地上にあるこの国を統べさせるために、孫を送り込むのです」
「新しい神話を作らせている」不比等は声を低めた。
それまでは、豪族たちの合議によって選ばれていた大王を、徳と智によってこの国に君臨する天皇という血筋として、その正統性を 保証してしまうこと。代々の天皇が神の子孫であるという前提を覆されぬよう、蘇我馬子が遺した業績を厩戸皇子の業績に置き替え、 その生々しい記憶と共に葬り去ってしまうこと。不比等が主導した、この国初の正史『日本書紀』の完成は、嘘であれ戯言であれ、 正式な史書として詔されることで、覆すことのできない歴史となってしまったのだが、それと引き換えに、天皇家が差し出すことに なったものは、取り返しのつかないほど大きな代償だったと言わねばならない。
軽皇子(文武天皇)の夫人となった不比等の娘・宮子が産んだ、首(おびと)皇子(聖武天皇)に、不比等と橘三千代の娘・安宿媛 (あすかべひめ)が嫁ぐ。こうして、皇族でない女性として初めて皇后となった安宿(光明皇后)が産んだ男子が、藤原家の血筋を 引く初めての天皇となる。その天皇に藤原の娘を嫁がせ、子を産ませ、またその子を天皇にする。藤原の家が未来永劫栄え続ける、 遠大なる戦略。これこそが、壬申の乱で失われてしまった、鎌足の氏族の威光を取り戻さんとした、不比等の一念だったのだ。
「不比等とは吾のことだけを申すのではない」不比等の声は歌を詠んでいるかのようだった。
「不比等とは藤原の家のこと。等しく比ぶ者なき氏族。それが藤原の家だ。皇族ですら藤原の家の前では色褪せる。それが藤原の 家だ」
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