徒然読書日記201702
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2017/2/24
「涙香迷宮」 竹本健治 講談社
のっぺらぼうに 雪女 のつへらほうに ゆきおんな
鵺や化猫 鎌鼬 ぬえやはけねこ かまいたち
おとろしも居て 群れ歩く おとろしもゐて むれありく
酔ひ醒め忘る 身ぞ伏せよ ゑひさめわする みそふせよ
と、妖怪づくしを七五調に織り込んだこの詩のようなものは、48個の「かな文字」を一字ずつ、すべて使用して作った「いろは歌」 というものなのだが、驚くべきことに、「子」から「夷」まで十二支の名が付けられた、地下室のすべての個室の4面の壁には、 頭の文字が全て違う48首の「いろは歌」が展示されていた。そんな酔狂な「隠れ家」を遺していったのは、『萬朝報』を創刊して 明治のジャーナリズム界を牽引した巨魁・黒岩涙香(実在の人物)で、
松桐坊主 櫻笑む まつきりはうす さくらゑむ
雨添へ得ぬを 追分と あめそへえぬを おひわけと
揺れぬ牡丹に 紅葉来よ ゆれぬほたんに もみちこよ
猪鹿蝶や 色なせる ゐのしかてふや いろなせる
と、花札の五光に猪鹿蝶や青丹まで詠みこんでみせたり、
珠聯ね居て 知恵ぞ選る たまつらねゐて ちゑそえる
五聯を目指し 延び含み これんをめさし のひふくみ
行け豈無理と 追へばよも ゆけあにむりと おへはよも
顔色失せぬ 易き罠 かほいろうせぬ やすきわな
と、ノビやフクミやオウという連珠用語を駆使したりと、様々な「遊芸」にのめりこんでプロ並みの域に到達したばかりでなく、 乱歩にも影響を与えた一流の探偵小説家でもあった涙香なのであれば、これらの「いろは歌」には、何らかの暗号のようなものが 仕組まれているに違いないのである。
というわけで、この封印されてきた「謎」の解明に取り組むことになったのが、皆さまご存じ(暇人は知らなかったが、これは シリーズ物なのだ)史上最年少の大三冠棋士・牧場智久で、
石音へ即 二段バネ いしおとへそく にたんはね
荒らせ貪れ キリチガヒ あらせむさほれ きりちかひ
悩み増すゆゑ 目も虚ろ なやみますゆゑ めもうつろ
和を得で更けぬ 囲碁の夜 わをえてふけぬ ゐこのよる
なんて「いろは歌」を、自分でもいとも簡単に作ってしまうほどの天才(なんとIQ208!)ゆえに、恋人の美少女剣士・武藤頼子の 絶妙のアシストもあって、スラスラと暗号を解いてしまうことになる。
もちろん、これは実際には涙香が作ったのではなくて、作者が作ったものなのだから、自分で作ったものを自分で解けるのは当然と いうべきなのだし、むしろ、49首目の「いろは歌」が最初にできて、それに合わせて残りの48首を後付けで作り上げたと 思われるのだが、この49首目の暗号が出色のできで、解いた智久より、作った涙香(いや、作者)に座布団3枚なのである。
ちなみに、物語の本筋の方は、ちゃんと殺人事件が起こったりして、犯人探しのミステリー仕立てなのではあるが、まあ、こちらの 方はあまり気にしなくていいです。
2017/2/17
「国のために死ねるか」―自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動― 伊藤祐靖 文春新書
先ほどまで我々の艦は、30ノット超の猛スピードで北上する奴らを追いながら、何発も何発も警告射撃の砲弾を炸裂 させていた。一つ間違えれば、拉致された日本人もろとも工作母船を吹き飛ばしかねない、127ミリ炸裂砲弾の連続発射。だが、 奴らはまるでひるむことなく逃走を続けたのだった。それがいきなり停止した。
<止まっちまった>
1999年3月22日、大学卒業後の入隊12年目で、海上自衛隊の航海長に昇格して、最新鋭イージス艦「みょうこう」に 乗り組むようになっていた私は、富山湾に何百隻と浮かぶ漁船の中から、偽装した北朝鮮の不審船を見つけ出すようにという 緊急発令を受ける。自衛隊史上初の海上警備行動となった、世に言う「能登半島沖不審船」事件に、副長として遭遇することに なったのである。
間近に威嚇射撃を受けても全くひるむことなく、水柱を避けながら猛スピードで逃走を続ける敵に、畏怖にも近い念すら抱き始めて いた私は、止まれ、止まれ、と念じて警告射撃をしていたはずにもかかわらず、現実に「止まった」ときには、頭が真っ白になって しまう。次は工作母船内の立ち入り検査ということになるのだが、拳銃をもって突入していくことになる検査隊員たちは、経験が ないどころか、訓練さえ受けたことがなかった。
「航海長、お世話になりました。行って参ります」と、公への奉仕の思いを胸に、悲壮感の欠片もなく、清々しく出撃していこうと する部下たち。
<これは間違った命令だ>
そうやって“わたくし”を捨てきった彼らを、それとは正反対の生き方をしているように見えてしまう政治家なんぞの命令で 行かせたくなかったのだ。
というわけでこの本は、この事件を契機に自ら志願して、海上自衛隊内に初の特殊部隊である「特別警備隊」の創設に関わった 張本人による、部隊構築過程でおきたこと、結果としてどんな部隊ができて、それがどうなっていったかという顛末を赤裸々に 明かした衝撃の手記なのであり、
たとえば、優秀な人が多いのではなく、優秀じゃない人が極端に少ないのが日本という国の特質で、それが自衛隊の組織的戦闘力の 強さになるとか、強い相手に勝つためには、自分が能力を発揮できる環境ではなく、自分も発揮しにくいが、相手がさらに発揮し にくい環境を創出すべきなど、その過程で体得されていった「組織論」や「戦略論」には、我々一般人にも大いに学ぶべきところが あるのだが、
「特警隊」準備室の設立から7年たって、いまだ創隊途中であるにもかかわらず、艦隊部隊への異動を内示された伊藤は自衛隊を 辞め、武力衝突の島ミンダナオへ飛ぶ。<日本は本気で特殊部隊を使う気がない>という確信からだった。
『国のために死ねるか』という問いは、平和憲法の幻想にしがみつきながら、腑抜けた日常をやり過ごしている、私たち日本人に 向けられたものではない。『(こんな)国のために死ねるか』という、それは自らの喉元に突き付けた、刃であったようなのである。
<この身を捨てるに値する何が日本という祖国にあると言うのか>
ある日、現地でとった弟子に、「あなたの国は、おかしい。(中略)その地に生きる子孫のために先祖が必死で伝承してきた掟を 捨ててしまうような国家、国民の何をいったいどうして守りたいのか?」と言われた。私は、一言も返すことができなかった。
2017/2/12
「ターミナル・エクスペリメント」 RJソウヤー ハヤカワ文庫
ピーターは咳払いをした。「ハロー」
「だれだ?やっぱりサカールなのか?」
「いや、わたしだよ。ピーター・ホブスンだ」
「わたしがピーター・ホブスンなんだ」
「いや、きみはちがう。わたしだ」
「いったいなんの話をしているんだ?」
<きみはコンピュータ上につくられたシミュレーションなんだよ。>
医学生時代の脳死移植手術の体験から、人間の死の判定に疑問を抱き、生物医学用機器の会社を設立して軌道に乗せたピーターは、 自社で開発した新型の脳スキャナーを、瀕死の老女の頭に取り付ける了解を得て、小さな電気フィールドが人体から離れていく 瞬間を、記録することに成功する。
<これは、ひょっとしたら「魂」ではないのか?>
その正体を探ろうと考えたピーターは、友人の人工知能研究者・サカールの手を借りて、自らの脳をスキャンさせ、コンピューター 上に精神の複製を3つ作らせた。
ホルモン反応や性衝動など、肉体と関係のあるすべての要素を削除した、「スピリット」(死後の生)
老いや死の恐怖など、肉体の衰えに関係のあるすべての要素を削除した、「アンブロトス」(不死)
そして、基準になるものとして、何も変更を加えぬままとした、「コントロール」(未改変)
ネット上にある、あらゆる情報へのアクセスを許された彼ら、3人の<シム>は順調に成長し、それぞれなりの人格を形成していく ことになるのだが、ある日、ピーターの最愛の妻キャシーの不倫相手と、ピーターが苦手としていた義理の父親が、立て続けに殺害 されるという事件が勃発する。
<どの「シム」が犯人なのか?>
と模索を続けるうちにも、敏腕女性刑事・サンドラの捜査の手は、容赦なくピーターへと迫ってくるのだが、その時、第3の事件が 発生して・・・、
本当の物語は、実はここから始まっていくのである。
1995年度の「ネビュラ賞」受賞作品であり、2011年の近未来を描いたサイエンス・フィクションではあるが、「音声認識 技術(進みすぎ!)」以外は、まことに臨場感にあふれているという意味で、作者の先見性に圧倒される傑作なのである。
サンドラはかすかに両肩を持ちあげた。「あたしにはなにもできない」声は弱々しく悲しげだった。「死にかけているのよ」
ピーターは目を閉じた。「わかっている。ほんとうに申し訳ない。だが、ひとつだけ方法があるんだよ、サンドラ――きみの手で この事件にけりをつける方法が」
2017/2/11
「数学する身体」 森田真生 新潮社
起源にまで遡ってみれば、数学は端から身体を超えていこうとする行為であった。・・・正確で、確実な知を求める欲求の 産物である。曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない。
一方で、数学はただ単に身体と対立するものでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のない ところに数学はない。
<数学はいつでも「数学する身体」とともにある。>
3個以下の物については、数えなくてもその個数を瞬時に把握する能力(subitization@認知神経科学)を持っていた人間が、 両手足の指を使うところから始まって、限られた身体で何とか工夫をして、少しでも多くの数を捉えようとしたところから、やがて 「数」という道具は生まれた。「自然数」(=1,2,3・・・)とは、決してあらかじめどこかに「自然に」存在していたわけ ではなく、もはや道具であることを意識させないほどに、それが高度に身体化されたから、「自然」と呼ばれることになったのだ。
というこの本は、東大の文科2類(経済系)から数学科に転向し、現在はどこの組織に属することもなく、在野の独立研究者として、 全国各地で「数学の演奏会」などのライブ活動を行っているという、<30歳、若き異能のデビュー作>なのである。 (小林秀雄賞を受賞している。)
「道具」としての数字が次第に「身体化」されていく過程の中で、明らかに「行為」(たとえば紙と鉛筆を使って計算すること)と みなされたことが、今度は「思考」(頭の中で想像上の数字を操作すること)とみなされるようになる。記号操作の体系を「道具」 として利用して、高度な抽象化を究めてきた「数学的思考」の歴史と変遷を辿りながら、「数学とは何であり得るか」と問い続けて きた筆者が、最終的に流れついたのは「心」の問題だった。
数学を「道具」として「心」の探求に向かい、「心をつくる」ことによって、「心」を理解しようとした、アラン・チューリング (「計算する機械」と人工知能)と、
数学は「心」の世界の奥深くへ分け入る行為そのものであると捉え、「心になる」ことによって「心」をわかろうとした、岡潔 (数学の中心にある「情緒」)と。
この、性格も研究も思想もかけ離れた二人が、ともに「数学者」と呼ばれるということこそが、数学という営みの可能性の広さを、 端的に象徴しているのではないか。道具が変われば、それを用いる数学者の行為、さらにはその行為が生み出す「風景」も変わる。
数学もまた、数学に固有の風景を編む。歴史的に構築された数学的思考を取り巻く環境世界の中を、数学者は様々な道具を駆使し ながら行為(=思考)する。その行為が、新たな「数学的風景」を生み出していく。
<数学者とは、この風景の虜になってしまった人のことをいう。>
もちろん、その通りだろうし、そこにこそ暇人のような凡人が数学者に対して抱く、嫉妬にも似た憧れの依って着たる由縁もある のだが、ひょっとしたら・・・この著者にも、<その風景>は見えていないのではないか?・・・という疑念を、 どうしても拭い去ることができない暇人なのだった。
2017/2/10
「宇宙は『もつれ』でできている」―「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか― Lギルダー 講談社ブルーバックス
「アインシュタイン、仮にあなたが光の粒子性を多少なりとも常識的に証明できたとして」と、周囲には目もくれずに ボーアはこう続けた。「本当のところ、回折格子の使用を禁ずる法律が通過する事態を想像できると思いますか?」
「あるいは逆に」とアインシュタインは反撃した。「光が波の性質しかもっていないとあなたが証明できたなら、警察がフォトセル (光電池)の使用を禁止できると思いますか?」
1923年夏、コペンハーゲンに講演に訪れたアインシュタインは、出迎えたボーアとの会話に熱中するあまり、会場へと向かう 市電を2度も乗り越すことになった。
量子世界が抱える「波動」と「粒子」(あるいは「位置」と「運動量」)というパラドックスを、「相補性」という概念を用いて 克服しようとした「コペンハーゲン解釈」の巨魁・ボーアに対し、自らの独創だけで「相対論」を生み出した天才・アインシュタイン は、まるで「幽霊」による遠隔作用でも受けたかのような、奇妙なふるまいを許容する「量子論」には、致命的な欠陥があるという 疑問を抱いていた。
「知の好敵手」と互いを認め合う生涯の友人でもあった、この二人の間で交わされた「量子論」を巡る論争は、言うまでもなく フィクションなのではあるが、
<会話によって、我々が日々暮らし、体験する世界がさりげなく、あるいは劇的に変わることがあるように、物理学者たちの活発な 会話によって、いかに量子力学の発展の方向性が繰り返し変わってきたかについて語った>
この本は全編、そんな「会話」によって成り立っていると言ってもいい本なのであり、2000年に大学を卒業した、女性科学 ジャーナリストである著者が、まるでその場に居合わせていたかのように思われたとするならば、著名な物理学者たちの遺した膨大な 書簡や論文、回想録などを逐一あたり、明記された日付に交わされた(交わされたであろう)会話として、その一つひとつの要旨を 完全に記録するために、実に8年もの歳月をかけるという「苦労」のし甲斐もあったというものだろう。
さて、彼らを、そして後に続く数多の聡明な若き才能たちを悩ませた、奇妙な現象=「もつれ」とは何だったのか?
「量子」とは、ある時は<波>またある時は<粒子>のようにふるまう物理的な実体で、エネルギーや運動量、スピンなどの物理量を もっている。二つの実体が互いに作用しあうと、その量子は単独としての存在を失い、そこに「もつれ」が生じる。この「相関性」は、 お互いがどれほど遠く離れようとも完全に保たれ、一方の物理状態(たとえばスピン)だけを測定して確定してしまえば、もう一方の 量子の物理状態は、いっさい測定することなく、瞬時に自動的に決定してしまう。たとえ両者の間に地球がすっぽり入るほどの距離が あったとしても・・・
光速を超えることで、明らかに特殊相対性理論に違反してしまう、この量子の「もつれ」が、その後どのような論争の末に、乗り越え られて来たのか?門外漢の暇人には、そのあたりの詳しいことは、実はこの本を読んでみても、さっぱりわからないことだらけ なのだが、だからといって、20世紀の量子物理学者たちの群像劇を描きだした、まるで映画のような格闘物語の面白さは決して 色褪せることはない。
これは彼ら自身が「もつれ合う」様をこそ、楽しむべき本なのである。
科学の強みというのは、歴史の偶然性を取り除き、純粋な知識に到達することができるということである。その一方で、この知識と いうものは、特定の時代の特定の場所で、特定の情熱をもって生きる人々によって、パズルのピースをはめるように一つずつ構築されて いるのだ。状況次第で、科学はある方向ではなく別の方向に展開していく。
2017/2/5
「伝説のプロ野球選手に会いに行く」 高橋安幸 白夜書房
われわれが部屋に入っていっても無言。こちらの存在にさしたる興味はなさそうなおもむきだ。しかし、表情はやわらかい。 名刺を差し出すと、一人ひとりに自分の名刺を手渡してくれた。名刺には、苅田久徳、という文字だけが印刷されている。
「えーと・・・、うぉっほっほっほ、こんな暑い日にご苦労さん。わたしも大変だよ、こんな暑くて。これまでの取材ではね、こんな 暑い日はみんな断ったの、うん」
「苅田久徳」、明治44年生まれの87歳(注:取材時)。
うなじのところで長い白髪をオールバックに束ね、細身の体にグレーのTシャツ、ラフな白のコットンパンツという洒落たスタイルで、 右耳だけに付けている補聴器を邪魔そうにする以外、90近い年齢を全く感じさせることもなく、挨拶も待たずにいきなり貫録たっぷり に語り出したこの男こそは、昭和9年の日米野球に遊撃手として出場後、アメリカ遠征の中で二塁手の重要性に開眼、その後の日本の 野球そのものを変えたという、誰もが「天才」と認める名内野手なのである。
というわけでこの本は、98年から03年にかけて、野球雑誌に連載されたインタビューを収録したものなのだが、ニュースフィルム で見る以外には、つまりは現物は誰もリアルタイムでは見ていない(著者は65年生まれ)、往年の名選手たちばかりなのだから、
<現役時代を知らない、文献でしか知りえない、伝説の野球人の生に触れる。その迫力に驚き、緊張し、ときに笑い、圧倒された自分 自身に嘘をつきたくない>
という方針の下、インタビュー中に起こった出来事、その前後も含めて口調もそのままに、さらには聞き手の側の心情までも吐露される ことで、まことに臨場感あふれた、上出来の再現ドラマを見るような、楽しい読み物に仕上がっているのである。
「ワシもね、レフトに打とうと思えばもっと打てた。しかしね・・・やっぱ右へ打ったほうがチームにとってよかった。だからワシの 本当の、正味の値打ちというのはね、文字だとか映像には残ってないんだ。残念がら。かっかっか」
とタバコに火をつけた、ライト打ちの名人「猛牛・千葉茂」(大正8年生まれ)。
「語り尽くされているというより、自分のことをたらたらしゃべるのは活字ではなんにもならないんだ。・・・そんなものは自慢話に すぎないから。『400勝、すごいですね』と称える相手に、『ああ、それはすごかったよ』と真剣に答える馬鹿がどこにいる?」
と安易に問いかける者の覚悟を迫った、「天皇・金田正一」(昭和8年生まれ)。
「フォークの元祖・杉下茂」、「怪童・中西太」、「牛若丸・吉田義男」、「悲運の闘将・西本幸雄」、「和製ディマジオ・小鶴誠」、 「鉄腕・稲尾和久」、「名将・関根潤三」。
誰もが皆、遠い眼をして現役時代の雄姿に思いを馳せながら、時に当時に比べてぬるい環境に甘んじるプロ野球の現状に苦言を呈する 場面もあるけれど、誰もがまた、いまだに胸の奥深くに熾き火のようにくすぶった、野球への熱情を抱え続けていることを確認できた ことこそが、「会いに行った」ことの手柄であったことは、玄関先に待機して、ついつい長居してしまったことを詫びる私たちを わざわざねぎらってくれた、終生変わらぬ最大のファンからの一言で、十分明らかなのである。
「とんでもありません。おかげさまで主人が元気に過ごせて、とってもうれしいです。いつもしょぼくれて元気がないのに」
「そんな・・・」
「なんか、久しぶりに野球の話ができて。お友だちとのお話と全然違うんですね。私の知らないことばっかり。あ、あなた、 楽しかったでしょ?皆さんから若さをちょうだいしたんじゃないの?」
照れに照れたのか、小鶴さんは夫人の問いかけには何も応えず、「そいじゃ」と言って、軽く右手を上げた。
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