徒然読書日記201701
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2017/1/31
「ピカソになりきった男」 Gリブ キノブックス
その朝は、・・・墨で描く闘牛の絵に全身全霊で集中していた。すべてがそこに存在し、強く感じさせるようにしなければ ならなかった。すべてが振動していなければならなかった。とくに、何一つ正確であってはならず、詳細すぎるのもいけない。闘牛場を描く のは単調な曲線、観衆とピカドールの槍、突撃する牡牛をあらわすのは点々だ。人間が動物に挑む挑戦。流れる血。そして死。
<そういうわけで、その朝、俺はピカソだった。>
創作に取りかかる前は、何日間もかけて研究に没頭し、専門書を読んでは読み直し、試作を繰り返す。しかし、いざ創作にかかれば、その瞬間、 調べたことはすべて忘れ、精神を自由に、手先を軽く、力を抜いたままにしておかねばならない。こうして俺は、失敗しては何度も再開し、 何年もの月日をかけて、興奮と慣れの入り混じった気分で描くという、この画家の高みに、ときどき到達するようになったのだが・・・。
それから俺は、少し前にパリのセーヌ通りの専門店で買った古書を手に取った。最初の頁を開き、イーゼルの前にいる画家が二人の小天使を 身につけている奇怪な絵を描いた。同じ手の動きで日付を書き加え、≪M・シュヴァルツへ≫となぐり書きをし・・・
<この瞬間、俺はもうとっくにピカソではなかった。>
マルク・シャガールと署名する作業は、何年もの経験のおかげで数秒で済んだが、この献辞があるだけで、本の価値は十倍になった。
というわけで、この本は、1948年、フランスで娼館を営む両親のもとに生まれ、数年間の路上生活を送るなど、幼少より破天荒な人生を強い られる中、つねに水彩道具を肌身離さず持ち歩き、ついにはその恵まれた画才を、天才的な「贋作作家」として開花させた男の自伝である。
贋作ビジネスのからくりの中に組み込まれることで、バラ色の飽食の時代を過ごし、あぶく銭を湯水のごとくばらまく生活を数年間経験した後、 2005年に逮捕、禁固4年、執行猶予3年、1年間の保護観察付き処分の刑を受け、「贋作作家」としての前途は絶たれた。これまでに彼が描いた と認めた「贋作」はすべて没収、破棄された・・・ということになっているのだが、現在でもなお、「ラ・ガゼット・ドゥルオー」 (著名オークションの出品リスト)に俺の絵が載っている、と著者は言う。
ピカソが言っているように、「巨匠をうまく模倣できないから、オリジナルなものを作ることになる」のであるとすれば、名画の単なるコピーでは なく、巨匠が描いたかもしれないまったくの新作を創造する、ギィ・リブの行為は、「オリジナル」と「贋作」との境界線の曖昧さを、鑑賞するもの に突き付けてくるものでもある。ギィ・リブの不幸は、「巨匠を模倣して時間を使い、そして、うまくできるようになったことだった。」と言わねば なるまい。
<逮捕された日、俺は本当の画家になった。>
三十年近くのあいだ、俺は自分の様式で他人になりすましていた。俺の手や目は、ピカソやルノワール、マティス、さらにはダリの手であり目 だった、・・・俺は彼らのように描くことを身につけ、そうして自分自身の絵を忘れ、贋作の迷宮にはまり込んで、自分を見失うほどになった。 ・・・しかし、ついに自分自身に戻れるのだった。偉大な巨匠の高みを忘れ、自分の足でうまく切り抜けられるようになるのだった。
2017/1/21
「汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師」―インテリジェンス畸人伝― 手嶋龍一 マガジンハウス
「バード・ウォッチャー」――。BBCは自然番組の解説を担当するナイトをこう紹介した。BBCの担当者が彼の公職を知っていながら、 そうした肩書きを付けたのかどうかは分からない。
マックスウェル・ナイト――。
この男こそは、イアン・フレミングの『ジェームス・ボンド』シリーズで描かれた、スパイマスター「M」の原型となった、英国情報局保安部MI5 の重鎮なのである。諜報の世界で「バード・ウォッチャー」といえばスパイを意味するため、職場の同僚たちはナイトの肩書を耳にするたびに、 懸命に笑いをこらえたという。しかし、狙った獲物を射程に入れると、相手に気づかれないように姿を隠してそっと近づき、細心の注意を払って 周囲の様子を窺うことを怠らない。「野鳥観察者」という呼び名は、むしろ彼のスパイとしての資質を、見事に言い当てたものだったというべき なのかもしれない。
ジョン・ビンガム――。
そんなナイトが、第二次世界大戦前夜、イギリス国内に浸透していたナチのシンパに秘かに接近させ、彼らの巣に潜り込ませたカッコウの卵である。 こちらは、ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』で描かれた史上屈指の魅力的な主人公、小柄で、肥り肉で、猫背で、分厚い眼鏡を かけた、風采の上がらない老練のスパイマスター、ジョージ・スマイリーの原像ではないかと言われている。
ジョン・ル・カレ――。
このスパイ小説の巨匠自体が、本職はイギリス外務省に在籍する外交官にして、実のところはイギリス秘密情報部員だったのだが、(ちなみに、 ル・カレ、フレミング以外にも、グレアム・グリーン、サマセット・モーム、フレデリック・フォーサイスなど、イギリス秘密情報部が擁する人材は 絢爛にして豪華なのである。)ジョン・ル・カレことデービッド・コーンウェルの父ロニーは、自分自身をも完璧に騙し、すべてを実現してしまう という、類い稀な天分を持つ生まれながらの詐欺師だった。
というわけでこれは、元NHKワシントン支局長で現在は外交ジャーナリスト・作家、というよりはインテリジェンス専門家という位置付けの著者が、 「二重スパイ」のキム・フィルビーや、「銀座を愛したスパイ」リヒャルト・ゾルゲなど、古今東西の伝説的スパイマスターの謀略から、 「パナマ文書」のモサック・フォンセカ、「ウィキリークス」のジュリアン・アサンジ、「世紀の内部告発」エドワード・スノーデンといった サイバー世界の内幕までを、次から次へと惜しむことなく曝け出してみせながら、愛すべき畸人たちに恭しく捧げられた恋文のような本なのである。
<詐欺師の父親の存在をイギリスの情報当局は知っていたのだろうか。>
インテリジェンス・ワールドでは、偽りと欺きと裏切りを日常として生きなければならない。そうした宿命を背負う者が、詐欺師の父親のもとで 育っていれば、桁外れの人間的魅力にさらに磨きがかかり、そのうえ忍耐強さも備わっているはずだ。そんなスパイはエージェントの心を鷲掴みにし、 思いもかけぬ戦果をあげるかもしれない。
それゆえ、リクルーターは、詐欺師の息子も悪くないと考えたのだろう。
2017/1/20
「掏(スリ)摸」 中村文則 河出文庫
長屋や低いアパートが並ぶ汚れた路地から、見上げると、その塔はいつもぼんやりと見えた。霧に覆われ、輪郭が曖昧な、古い白昼夢の ような塔だった。どこかの外国のもののように、厳粛で、先端が見えないほど高く、どのように歩いても決して辿り着けないと思えるほど、その塔は 遠く、美しかった。
<小さい頃、いつも遠くに、塔があった。>
成長を要求する身体が求めるままに、他人のものを手にすることに罪悪を感じることのないような、そんな万引き暮らしを強いられる中で、あらゆる ものに背を向けるように育ってきた(らしい?)僕は、ある日小学校の学級委員が見せびらかしていた時計を盗み、皆が見ている前で床に落とした。 それは、自分の犯罪的行為が、塔を除けば初めて、周囲にさらされた瞬間だったのだが、よってたかって皆に「泥棒だ」と囃したてられ、床に押さえ つけられるという恥辱の中で、僕が感じていたのは、「解放」という染み入るような快感だった。
その時、教室の窓から塔が見えたが、今こそ何かを言うだろうと思った塔は、肯定も、否定もすることなく、美しく遠くに立つだけだった。
<光が目に入って仕方ないなら、それとは反対へ降りていけばいい。>
「あの塔が見えなくなるまで、何かを盗もう」と決意した僕は、やがて東京を仕事場とする天才スリ師となり、僕の行為がある一線を超えた時・・・、
<いつの間にか、あの塔は消えた。>
「大江健三郎賞」受賞作品。
実は、本当の物語はここから始まるわけで、詳しくは読んでいただければいいのだが、簡単に言うと・・・
仲間が関わっていた「闇仕事」を手伝わされたばかりに、目をつけられてしまった相手が「最悪の男」木崎で、再会した時、天才スリ師でなければ 不可能な「3つの小さい仕事」(これがなかなかに秀逸な設定)を依頼されるのだが、「失敗すれば――お前が死ぬ」し、「断れば――最近仲良く している子供と母親をを殺す」と、まことに古典的に脅されてしまうことになるのである。
「他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨することは、神に似てると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も 味わっているのは神だ。」
結局、不可能と思われたミッションを完遂した僕は、それにもかかわらず、雑居ビルと雑居ビルの間の、人が二人通れるほどの狭い隙間で、木崎に 腹を刺されてしまう。
「お前は、運命を信じるか?お前の運命は、俺が握っていたのか、それとも、俺に握られることが、お前の運命だったのか。だが、そもそも、それは 同じことだと思わんか?」
その時、隙間の外の、さらに向こうの霞む領域に、塔が見えるのだが・・・
<高く遠く、それはただ立ち続けていた。>
こちらから塔が見えるからといって、塔からこちらが見えているわけではない。でも、<神>ってむしろそんなものではないのか、と思った次第である。
手が無意識に金を求めるなら、それはスリに適していた。血に染まったコインがぶつかれば、その人間は、こちらを見ることになる。あの男はスリを 甘く見たのだ・・・(中略)人影が見えた時、僕は傷みを感じながら、コインを投げた。地に染まったコインは日の光を隠し、あらゆる誤差を望むように、 空中で黒く光った。(完)
2017/1/15
「何もかも憂鬱な夜に」 中村文則 集英社文庫
あの時、あの人は、僕の頭をつかんでそう言った。まだ小さかった僕の頭は、あの人の大きな手によって、簡単に押さえつけられていた。 僕の死を止めたのは、あの人の、その腕の力だった。僕は、施設のベランダから、飛び降りようとしていた。
「自殺と犯罪は、世界に負けることだから」
乳児院に捨てられ、施設で育ったせいで、小学校の高学年になってもクラスに馴染めなかった僕に、あの人は学校へ行けとは言わなかった。クラシックや ロックのレコードを聞かせ、自分が選んだ映画や本のリストをつくって、図書館へ借りに行かせた。
「お前は、まだ何も知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」
中学卒業の日、「孤児でよかった、あなたに会えたから」という恩師への僕の言葉に、涙を流した施設長は、高校を卒業してしばらくぶりに会い、 「刑務官になる」と言った僕の報告に、まるで少しでも僕に触れていたいかのように、何度も肩を叩いた。
その夜をやり過ごしたら、また続いていけるのだろうか。眠れなくて、つらい夜。そういう人達が集まり、焚き火を囲み、同じ場所にいればいい。 (中略)話したい人は話し、聞きたい人は聞き、話したくも聞きたくもない人は、黙ってそこにいればいい。焚き火は、いつまでも燃えるだろう。 何もかも、憂鬱な夜でも。
中学からの仲で、高校に入ってから何もかも話すようになった真下から、僕の高校の寮に宛てて、その青い大学ノートが郵便物として届けられたのは、 川に身を投げた彼の溺死体が発見された直後だった。僕に対する怨恨のようにも、自棄に似た感覚のようにも思えたこのノートを、真下が僕に送り届けた 理由は判断できなかったが、真下が行方不明になったと知らせを受けたとき、なぜだか僕は彼が川にいるものだと思い込み、川まで走ったのだった。
「遠くに、月があった。・・・あんだけ遠いところに、月がある。それなのに俺はこんな風に、毛布の中で、ここで死ぬ・・・。恐かった。生まれて 初めてだ。月は、俺に関心がない。なのに俺はここで、もうすぐ絶対に、一人で小さく死ぬ。宇宙があるのに、完全に一人で、暗いところで」
育ってきた境遇が似ているからという理由で、刑務官として担当させられることになった20歳の山井は、新婚の夫婦を刺殺した罪で捕えられたのだが、 死刑が確定してしまう期限を1週間後に控えながら、控訴しようともせず、その理由については頑なに口を閉ざし続けていた。
小さい頃の僕が、どうにかなりそうになる度に、何度も手を差し伸べ、「自分以外の人間が考えたことを味わって、自分でも考えろ」と教えてくれた 施設長への憧憬。
「だめになってしまいたい。美や倫理や、健全さから遠く離れて」という、その恐怖の思いに気付いてやれなかった真下への悔悟。
「殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思っているから」
と、自らの思いに真摯に向き合う中から、紡ぎだされてきた僕の言葉は、やがて山井の凝り固まった気持ちを解きほぐし、『目覚めよと呼ぶ声』(@バッハ) を、山井の脳裏にも響かせることになる。
何もかも憂鬱な夜でも・・・<お前は、生きていてもいいんだ> と。
「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか? 全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい」
2017/1/10
「蜜蜂と遠雷」 恩田陸 幻冬舎
なんだ、この恐怖は?
その恐怖は、少年が最初の音を発した瞬間、一瞬にして頂点に達した。三枝子は文字通り、髪の毛が逆立つのを感じたのだ。その恐怖を、隣の二人の教授と 他のスタッフ、つまりこのホールにいるすべての人が共有していることが分かった。それまでどんよりと弛緩していた空気が、その音を境として劇的に 覚醒したのだ。
<違う。音が。全く違う。>
近年、ここで優勝した若者がその後著名コンクールで優勝することが続き、とみに注目を集めるようになった、3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノ コンクールの、書類選考落選者を対象にしたオーディションが開催されていたパリ会場に、遅刻してやってきたその少年は、ステージ衣装ではない まったくの普段着で、そのへんに溢れているような16歳のガキんちょだった。日本の小学校を出てから渡仏したこと以外、学歴、コンクール歴など 何もない真っ白な履歴書に、添えられていた1通の推薦状。
<皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。文字通り、彼は『ギフト』である。恐らくは、天から我々への。だが、勘違いしてはいけない。試されているのは 彼ではなく、私であり、審査員の皆さんなのだ。>
それは、世界中からの尊崇を集めながら、晩年は弟子を取ろうともせず最近亡くなった、伝説的音楽家ユウジ・フォン=ホフマンからのものだった。
風間塵――養蜂家の父の手伝いで各地を渡り歩く生活のため、正式な音楽教育を受けていないばかりか、自宅にはピアノすらない、にもかかわらず5歳から ホフマンに師事。「僕がいなくなったら、ちゃんと爆発するはずさ」と、生前にホフマンが知り合いに言葉を残したという、それは「世にも美しい爆弾」 だったのだ。
本年度「直木賞」受賞作品。
栄伝亜夜――内外のジュニアコンクールを制覇し、CDデビューも果たしながら、庇護者だった母が13歳のときに急死したことで、表舞台から姿を消して 7年が経ってしまった元・天才少女。
高島明石――生活者の音楽は、音楽だけを生業とする者より劣るのかという疑問から、妻子ある勤め人の身でありながら、音楽家としてのキャリアの最後を 賭けて応募した、28歳の最高齢出場者。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトール――5歳から7歳まで日本で暮らしたペルーの日系三世で、フランスで神童としての頭角を現し、現在はアメリカの 名門ジュリアード音楽院に所属する優勝候補の大本命。
と、毛並みも経歴もまったく異なる4人のコンテスタントたちの、ここに至るまでに費やしてきた楽曲との格闘の日々を背景にしながら、第一次から第三次 までの予選と最終本選までの二週間に渡り、丹念に選曲されたに違いない一曲、一曲が、圧倒的な筆致で美しく奏でられていくことになる。
<世界はこんなにも音楽に満ちている――>
圧倒され飲み込まれそうになるピアノの、塊となって迫ってくる音楽の中から、頭の中に鳴り響く風間塵の声に触発されるかのように、
「これからも音楽家としてやっていける」という確信を得た明石。
「見失ってしまっていたあたしの音楽」を取り戻した亜夜。
「自分の作った曲を演奏して発表したい」という野望に火をつけられたマサル。
その時、私たちは気付くことになる。『ギフト』とは何であったのかということに・・・
審査員の誰もが、この素晴らしいしめくくりに満足感を覚えていることだろう。充実したコンテスタントたちに巡りあえて、自分たちは幸運だと思って いるはずだ。ふと、ホフマンの仕掛けた「爆弾」とは何だったのだろう、という疑問が湧いた。
そう、ずっと考えていたはずだ――あたしたちは、ホフマンの放った矢は、どこを目指していたのだろうと。
2017/1/4
「げんきな日本論」 橋爪大三郎 大澤真幸 講談社現代新書
日本人が、どこから来て、どういう価値観と行動様式をもっている人びとなのか、自分の言葉で説明できる――これこそ、21世紀を生きる 日本人の、元気の源でなくて何だろう。
と考え、歴史上の出来事の本質を社会学の方法で、つまりは日本のいまと関連させる仕方で掘り下げてみんと、古代、中世、近世から、それぞれ6つずつの 疑問を用意したのが、当代社会学者では屈指の論客・橋爪大三郎で、
設定された18個の問いをめぐって、お互いに仮説を出し合い、相手の仮説に触発されてさらに論点を加え、そうすることで、ふたりでひとつの明晰な 回答へと向かっていく。これこそ、生きた「弁証法」である。
と受けて立ったのが、自他ともに認める好敵手・大澤真幸ということになれば、
<なぜ日本の土器は世界で一番古いのか>
(稲作開始以前の狩猟採集時代にこれほど持ち運びに不便な土器が造られたのは、日本中いたる所に居心地よい場所が分散しており、すでに定住していた からだ。)
という、「はじまりの日本」から始まって、
<なぜ日本には源氏物語が存在するのか>
(武家とは違い父系社会ではなかった貴族の社会では、子どもの本当の父親が誰であるかということにほとんど関心がなく、王宮にハーレムがなかった。 公的空間に男女がいて、コミュニケーションをする世界を描いたのが、世界では日本にしかない源氏物語なのだ。)
という、「なかほどの日本」を経由し、
<なぜ攘夷のはずが開国になるのか>
(政争の中、倒幕のため戦略的に朝廷を担いで攘夷を唱えたが、本気で攘夷するつもりもできるとも思っておらず、本当に追求したかったのは独立を全う することだった。幸運なことに米国が条約を結んでくれたため、主権国家として認められた日本は一気に開国へと進んだ。)
という、「たけなわの日本」で締め括られる、
この<日本列島で起こったあれこれの出来事が、人類史のなかでどういう意味をもつのか、普遍的な(=世界の人びとに伝わる)言葉で、語ろうとする 試み>が、「わくわくする刺激的な体験」(@橋爪)や、「どんどん分かっていくという快楽」(@大澤)に導いてくれるものになることなど、あの
『ふしぎなキリスト教』
を読んだ人ならば、 初めからから分かっていたことであるに違いない。
そう、「日本ってこんなにおもしろい!」のだ。
橋爪 この本は、よくある「日本人論」と、まるで違ったものになる。内容から言えば、日本人じゃなくて、むしろ外国の人びとに読んでもらいたい。 日本社会とはどういうものか、合理的に、客観的に、見取り図が描いてあるんだから。
大澤 外国の人に理解できるように語るということは、結局、普遍的な概念をもって説明するということですからね。結局、日本人自身にとっても、 そのように語ることができなければ、自分をほんとうに理解したことにならない。
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