徒然読書日記201610
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2016/10/29
「地震と独身」 酒井順子 新潮文庫
東日本大震災によって、家族の問題は大きくクローズアップされています。非常事態が発生した時、まず人々が考えたのは、家族が 無事かどうかということ。無事であれば胸を撫でおろし、連絡がとれなければ不安でいっぱいに。震災は、あらゆる人が家族の大切さを再確認 した出来事でした。
では、<独身の人達はどうしていたのであろうか?>
人が世を去った時、その人を悼み、思うのは家族なのだと、東日本大震災1周年記念式典における遺族代表の言葉を聞きながら、今さら思い 知らされることになった、自らも『負け犬の遠吠え』でその名を馳せた<独身者>であるがゆえに、震災によって語られた多くの家族の物語 とは対照的に、あまり見えてこなかった独身者の姿を捉えてみたいと思い立った著者は、震災によって影響を受け、人生が変わってしまった <独身者>たちに実際に会って、その率直な思いに耳を傾けてみることにした。
配偶者や子供の心配をする必要がなかったからと、既婚者たちが放棄した震災後の現場で、<独身者>はとてもよく働いていた。
「私は『今一緒にやらないで、いつやるんだろう』って思ったんです。」と、瓦礫となった土木機械会社の復興に孤軍奮闘する父をみて、都会 での一人暮らしを早めに切り上げ、畑違いの父の仕事を手伝うことにした娘がいる。
「自分のことを考えずに済んだので、独身でよかったなぁと思いましたね。」と、自らも被災者であるからこそ、近所の人や知り合いの痛みを 実感し、高齢のお客様の自宅を訪ね歩いてサポートする、美容院の店主がいる。
「結局、今被災地を離れたらすごく後悔するだろうなと思って、航空券をキャンセルしました。」と、カンボジアでのNPO活動の合間に、 ボランティアにやってきただけのはずの被災地に、そのまま居着いてしまったIT技術者もいる。
「絆」=「ほだし」
それは、「つなぎとめるもの」であると同時に「縛りつけるもの」といった意味をもつ言葉なのだが、配偶者や子供という、明確な「ほだし」 を持たない<独身者>にとって、今回の大震災は、自分がいったいどこにつながっているのか、そしてどこにつながっていないのかを、真剣に 考えさせられる機会になったに違いないという。
これは、彼ら、彼女ら、一人ひとりが紡ぎあげた、<個>の物語の記録ともいうべきものなのである。
震災後、「絆」という文字が世にはあふれました。この場合は「ほだし」ではなく「きずな」と読むわけですが、「きずな」はただ家族や 友人知人の間にのみ、結ばれるものではありません。遠く離れた地の人でも、また会ったことすらない人でも、家族のように心配し、助け合う ことができるという今風のつながりは、ほだしをもたない独身者たちが自由に紡いでいったものなのであり、それはこれからの日本に、一つの 可能性を示しました。
2016/10/29
「後妻業」 黒川博行 文春文庫
「住民票、家具持ち込み、顔出し、この三つです」
守屋は指を立てて、「まず、後妻は入籍前に住民票を移して、狙った相手と同居しているという形を作ります。次に、ドレッサー、ベッド、 洋服ダンスを家に持ち込みます。そうして、地域の老人会などに顔を出して、中瀬の妻です、とアピールします」
「それ、みんな当たってます」
朋美が高校のクラスメートだった弁護士の守屋を訪ねることにしたのは、外出中に脳梗塞で倒れ入院していた91歳の父、中瀬耕造が急死した からだった。耕造は新しく購入したマンションで、通いでやってくる武内小夜子(69歳)と暮らしていたのだが、その小夜子から「公正証書 遺言」なるものを突き付けられたのだ。
<自宅の土地及び家屋を除く他の財産の全部を、遺言者の内縁の妻、武内小夜子に包括して遺贈する。>
それは、いつの間に父が書かされたものなのか、実の娘たちにとっては全く寝耳に水の、予想だにしない内容だった。
<後妻業>
妻に先立たれ一人暮らしをしている資産家の高齢者に狙いをつけ、後妻に入って財産相続の権利を確保するか、それが駄目なら内妻として 公正証書を作らせた後、何らかの方法で夫の命を縮めたりしながら、ついにはその財産を我が物にしてしまうことを<生業>とすること。
「あいつ、スケベやねん。勃ちもせんくせにちんちん触ったら、えらい興奮して、わたしのパンツを脱がそうとする。せやから、一回、 一万円であそこを見せたるんや」
「あんた、金とって見せてたんか・・・」
結婚相談所を経営する柏木亨と、古くからの会員であるらしい小夜子との間で交わされる、軽妙な大阪弁の漫才のような遣り取りを追ううちに、 これはという老人が相談所に来たら、柏木が資産目録を確認して小夜子を紹介し、小夜子がその老人を誑し込んでいく、という<後妻業>の テクニックが、次第に明らかになって行くという趣向なのだが・・・
、
「それに、もっとおかしなことがある。その、つるぎ町の同じ現場で、元木日出夫という堺の資産家が車の自損事故を起こしてる。平成 13年10月9日午後11時、武内宗治郎と同じく崖下に転落して、脳挫傷で死亡した。」
「元木日出夫の妻の名前は、柏木さん、いわんでも分かってるやろ」
守屋の依頼を受けて、小夜子の身元調査を引き受けることになった、元暴対刑事の興信所調査員・本多による、報告を書くためだけなら あまりにも度の過ぎた、必要以上に深追いした調査(もちろんそこまでやるには、本多にもそれなりの事情があるのだが・・・)の末に、 暴き出されてくることになる柏木と小夜子の、暗い影の中に埋め込まれてきた恐るべき遍歴の姿を垣間見るとき、
わたしたちは、<業>の業たる由縁を知ることになるのである。
2016/10/26
「謎の独立国家ソマリランド」―そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア― 高野秀行 本の雑誌社
ソマリアは報道で知られるように、内戦というより無政府状態が続き、「崩壊国家」という奇妙な名称で呼ばれている。
国内は無数の武装勢力に埋め尽くされ、戦国時代の様相を呈しているらしい。一部では荒廃した近未来を舞台にした漫画になぞらえ、 「リアル北斗の拳」とも呼ばれる。
陸が「北斗の拳」なら、海は海賊が跋扈する――これまた人気漫画になぞらえれば――「リアル ONE PIECE」。日本の自衛艦派遣をめぐって いつものように憲法違反だ、いやそうじゃないという議論が繰り返された。
いったい何時代のどこの星の話かという感じがするが、そんな崩壊国家の一角に、そこだけ十数年も平和を維持している独立国があるという。
<ソマリランド共和国>
国際社会では全く国として認められておらず、「単に武装勢力の一部が巨大化して国家のふりをしているだけ」という説もあるらしいが、 情報自体が極端に不足しており、その全貌は誰にもよくわからないという、まさに謎の国「地上のラピュタ」なのだという。
<結局、自分の目で見てみないとわからないという、いつもの凡庸な結論に達した。>
これは、早稲田大学探検部当時に執筆した『幻獣ムガンベを追え』で、知る人ぞ知る(知らない人は知らない)華々しいデビューを飾って以来、 「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、誰も知らないものを探す。それをおもしろおかしく書く」をモットーに、世界各地を 渡り歩いた、当代随一の「辺境作家」による、まさに命懸け(本人にその意識は薄いようなのだが)ともいうべき、渾身のルポルタージュ なのである。
旧約聖書のサミュエルに由来するという「ソマリ(Somali)」人の居住域は、地中海からアラビア半島に及ぶ「旧約聖書文化圏」の辺境にある。 乾燥した半砂漠に住む遊牧民である彼らは、個人主義で、地道にコツコツ努力することは大嫌いで、押しが強く交渉ごとは得意という民族的 特質を持っていた。
有史以来、「国家」を持ったことがない彼らが、初めて「国家」という概念に遭遇したのは19世紀だった。イギリスがソマリ東北部の土地を おさえて「ソマリランド」と勝手に名前を付け、ほぼ同時にイタリアが南部の土地にやってきて、こちらも勝手に「ソマリア」と名付けて しまったのである。1960年、5つの地域に分割された各植民地の独立、さらにソマリ民族が一堂に会するソマリア連邦共和国の結成、 そして有力氏族間の権力闘争による分裂。
イサック氏族中心の民主主義国家 ソマリランド
ほぼダロッド氏族の海賊国家 プントランド
ハウィエ氏族を中心に戦乱が続く 南部ソマリア
現在、ほとんど「三国志」状態に陥ってしまっている旧ソマリアの、このくんずほぐれつの状況を、そのままお伝えしたところで、ソマリが どんどん遠ざかっていってしまうだろうからと、
ソマリ地域の北部に住む「イサック奥州藤原氏」
旧ソマリア時代に栄華を極めた「ダロッド平氏」
ダロッド政権を武力でひっくり返した「ハウィエ源氏」
と、あくまで便宜上のネーミングを施したことで、行ったこともない土地に住む、見たこともない武将たちの姿が浮かび上がってきてしまう ところが、この著者の手柄なのである。
え?直接お目にかかって、もう少しお話が聞いてみたい?
う〜ん、今ごろはきっと古代エジプト王朝時代の謎の王国「プント」を求めて、ソマリランド東部の2千メートル級の山をラクダで踏破して いるところだろうから、多分、無理だと思うけどなぁ。(って、この本読みなさいよ!)
もしソマリランドに援助や投資がなされるなら、私は日本で唯一の、そして世界的にも数少ない外国人のソマリ専門家としてぜひ参加したい ――とは露一つ思っていない。
私がやりたいのは未知の探検だからだ。
2016/10/25
「村上春樹はノーベル賞をとれるのか?」 川村湊 光文社新書
まず、ありうべきノーベル賞についての誤解を解くことから始めたい。それは、ノーベル文学賞が必ずしも世界最高の優れた小説や 詩などの“文学作品”を書いた人間に与えられるものではないということだ。
<文学者という範疇にはとても入らないような人の、広い意味での文化的著作も含まれている。>
Tモムゼン(歴史家)、Bラッセル(哲学者)、Wチャーチル(政治家)などが受賞している。
<必ずしも世界的な“大文豪”といわれる人が受賞しているわけではない。>
Fカフカ『城』、Jジョイス『ユリシーズ』、Mプルースト『失われた時を求めて』などが受賞していない。
では、<ノーベル賞はいかに選ばれるか?>
というわけでこれは、ノーベル文学賞の歴史を紐解きながら、その「傾向と対策」を詳細に分析することで、はたして三度目のノーベル文学賞 が日本にもたらされるかどうか、もたらされるとするならそれはいつか、をお節介にも検討して差し上げようという本なのであるが、
<ポルノはタブー>
<極端な政治思想を嫌う>
<エンタメ系作家に授賞はない>
<前衛性はむしろ評価される>
など、いくつかの不文律のような<傾向>が指摘されはするものの、
<同じ言語、同じ国の受賞者が連続することはありえない>
という、言語別、国別、民族別、大陸別、地域別などのローテーションこそが、かなり厳密に考慮される、最重要の選考基準になっている ようなのである。
なれば、<村上春樹はノーベル賞をとれるのか?>
どうやら、村上の最大のライバルとなるのは、カズオ・イシグロ (
『わたしを離さないで』
など) ということになりそうだ。誰一人として日本語を解することができないノーベル文学賞の選考委員会(スウェーデン・アカデミー)にとって、 日系英国人であり、英語で小説を書いている彼も、“同じ日本人作家”であると意識されているに違いないからだ。
だから、もしカズオ・イシグロが先に授賞してしまったら(それは大いに可能性のあることだが)、現在、60代後半に差し掛かっている 村上春樹が、随分先になるだろうその次の「日本人受賞者」の発表を待つことはとても無理だろう・・・。
でも、この「傾向と対策」、あんまり当てにはなりませんので、落胆されませんように!
最近、シンガー・ソング・ライターのボブ・ディラン(1941〜。『風に吹かれて』などが有名)にノーベル文学賞を、という動きが あるそうだが、・・・ミステリーやSF、ファンタジーを排除しているスウェーデン・アカデミーが、ポップ・カルチャーの代名詞のような ポップ・ミュージックの担い手にわざわざ猛烈な非難を承知で、授賞するリスクを負うとは考えられない。
2016/10/14
「人工知能は人間を超えるか」―ディープラーニングの先にあるもの― 松尾豊 角川EPUB選書
「人間の知能がプログラムで実現できないはずがない」と思って、人工知能の研究はおよそ60年前にスタートした。いままで それが実現できなかったのは、特徴表現の獲得が大きな壁となって立ちふさがっていたからだ。
<そこにひと筋の光明が差し始めている。>
2012年。世界的な画像認識のコンペティション「ILSVRC(Imagenet Large Scale Visual Recognition Challenge)」において、 世界各国の名だたる研究機関が改良を重ねてきた人工知能を抑え、初参加で圧倒的な勝利を飾ったのは、カナダのトロント大学が開発した 「Super Vision」だった。
ある画像に写っているのがヨットなのか、花なのか、ネコなのか・・・を、1000万枚の画像データから機械学習し、15万枚の画像を 使ったテストによって、その正解率の高さを競い合う、というこのコンペにおいて、「画像の中のこういう特徴に注目するとエラー率が 下がるのではないか」と試行錯誤を重ね、機械学習に用いる特徴量を設計するのは、もちろん人間の仕事だったのだが、長年の知識と経験が ものをいう、この「職人技」でコンマ何%のしのぎを削ってきた他国を尻目に、いきなり10ポイント以上もの差をつけて、世界の度肝を 抜いたのだ。
「ディープラーニング(深層学習)」
それは、何層にも重なった構造をもつ人間の脳に範を取った、多階層のニューラルネットワークであり、与えられたデータをもとに、人間 ではなくコンピューターが自ら特徴量をつくり出ししてしまう仕組みだった。
たとえば、IBMが開発した人工知能「ワトソン」は、2011年にアメリカのクイズ番組「ジョバティー」で、歴代の人間のチャンピオン と対戦し勝利したが、ワトソン自体は質問の意味を理解して答えているわけではなく、質問に含まれるキーワードと関連しそうな答えを、 ウィキペディアから高速に引っ張り出しているだけだった。シマウマとは「シマシマのあるウマ」であると答えることができたとしても、 「シマ」や「ウマ」の意味がわかっていなければ、初めてシマウマを見て、「これがあのシマウマだ」なんて、人間のように認識すること などできないのだ。
しかし、コンピューターが自分で「概念」(シニフィエ、意味されるもの)をつくり出すことができるというのであれば・・・、
グーグルが実施した研究のように、ユーチューブの動画から取り出した1000万枚の画像から、「ネコの顔」らしきものが浮かび上がって きたとして、そのコンピューターがつくり出した「概念」に、「これはネコだよ」という「記号表現」(シニフィアン、意味するもの)を (これは人間が)当てはめてやるだけで、次からは、ネコの画像を見ただけで、コンピューターが「これはネコだ」と判断できるようになる。
これはつまり、コンピューターが「知能」を獲得したということではないだろうか?
というわけで、「2016ITエンジニア本大賞」に輝くこの本は、日本の人工知能研究のトップランナーが、人工知能が歩んできた「知の 格闘」の歴史を紐解きながら、人工知能の現在の実力と未来の可能性について、噛んで含めるように教えてくれるものなのである。
できなかったことには理由があり、それが解消されかけているのだとしたら、科学的立場としては、基本テーゼに立ち返り、「人間の 知能がプログラムで実現できないはずはない」という立場をとるべきではないだろうか。
2016/10/13
「ハリネズミの願い」 Tテレヘン 新潮社
ハリネズミは目を開けて、後頭部のハリのあいだを掻き、しばらく考えてから手紙を書きはじめた。
親愛なるどうぶつたちへ
ぼくの家にあそびに来るよう、
キミたちみんなを招待します。
ハリネズミはペンを噛み、また後頭部を掻き、そのあとに書き足した。
<でも、だれも来なくてもだいじょうぶです。>
訪ねてくるものとてだれもいない、森の奥の小さな家に孤独に暮らす、ひとりぼっちのハリネズミは、ある日、自分の知っているどうぶつ たちを自分の家に招待してみようと決意する。
いままでだれも招待したことなどなかったのは、みんなが自分のハリを恐れていると思っていたからだ。ハリのかわりに翼をもっていた なら、自分はこれほど孤独ではないはずだろうから、「孤独は、ハリのようにぼくの一部なのだ。」と自らに言い聞かせながら、これまでを 過ごしてきたのだった。
「怒りでからだが膨れて破裂するくらい」にオレを怒らせてくれと金切り声をあげて、こぶしをふりまわしたヒキガエル。
「お茶菓子もあるのかな?」と勝手に戸棚を引っかき回し、残らず平らげると、お話もせずに立ち去って行ったクマ。
「椅子の背もたれの上に立ってもいいかな?」と、頼まれもしない曲芸を始めて、テーブルと椅子をへし折ってしまったゾウ。
「よし、安売りにしよう!」と、ハリネズミの家の中にあるなにもかもを商品にして、ぼくたちの店をオープンしてしまったキリギリス。
などなど、次から次へとドアをノックして訪れてくる、お客さまたちが巻き起こす大騒動は、引っ込み思案のハリネズミをおおいに困惑させ、 「早く帰って」、「二度と来ないで」という口には出せない悲鳴を上げさせることになるのだが、
もちろん、あの招待状は出されぬままに、いまだに戸棚の奥深くに仕舞い込まれているのだから、これらはすべて、逡巡するハリネズミの 頭の中で描き出された、妄想の産物とでもいうべきものなのだった。
親愛なるどうぶつたちへ
キミたちのなかのだれかは、近々、ぼくのところにあそびに来る計画を立てているかも知れません。・・・
ぼくにはハリもついているし、なんの話をすればいいかもわからないし、踊ることも歌うこともできません。・・・
ぼくはつまらないヤツなんです。
<だから来ないでください。>
もしかしたら、べつの手紙を書くべきなのかもしれない、と、そう思い始めていたハリネズミだったのだが・・・、
「だれか尋ねてきたらハリネズミが喜ぶかもしれないって思ったんだ」
冬のはじめのある日の、それは予期せぬお客の訪れだった。
これは、オランダで一番愛されている作家テレヘンが、友人たちに贈った「週めくり」カレンダーという、心温まる大人向け絵本の逸品 なのである、
2016/10/12
「謝罪大国ニッポン」 中川淳一郎 星海社新書
・うだつのあがらなそうなオッサンが4人ほど登場する
・神妙な表情を浮かべる
・同タイミングで一斉に深々と頭を下げる(時間は5〜10秒)
・この時ハゲ頭がひとりいると尚良し
・司会役は記者に対しとにかく丁寧に接し、謝罪者には冷淡にする
<こうした一連の「型」を駆使することにより、謝罪は完結する。>
というわけでこの本は、「謝罪」という行為が、どう考えても本来の目的から逸脱して、何らかのルーティンがあたかも「様式美」のように までなってしまった最近の日本には、茶道、武道など数々の「道」の文化に匹敵するような、「謝罪道」なるものがあるのではなかろうかと 思い至った著者が、
「謝罪をする」という、まことにストレスフルな事態に対し、必要な謝罪は適切にするべきだが、不要な謝罪はするべきではない、という 真っ当なスタンスで、対処していくための「処世術」を授けてあげようというものなのだが、
「テレビ、CM、ラジオの関係者の皆様、そしてファンの皆様に多大なるご迷惑とご心配をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます」 と「大事な人」順に行われたベッキ―の「謝罪会見」に対しては、「まず謝るべき相手は川谷の妻だろ!」と激怒した世間様から、事務所、 スポンサーにクレームが殺到したし、
「お客さまに懸念、心配をお掛けし、深くおわび申し上げる」と、前を見据えたまま短く謝罪を口にしながら、「がっかりして憤りを感じた」 と語気を強め、中国の下請け企業を非難した、マクドナルドのカサノバ社長には、「アメリカ人は謝り方を全く知らないのか」(実際は カナダ人です!)とネットが炎上した。
などなど、現代の日本がなぜここまで過度な謝罪を要求するようになってしまったのか、という事例を紐解きながら、<本当に謝るべき相手 にまずは謝れ>だの、<謝罪で重要なのは「実績」、「見た目」、「所作」>なんて、それらしき「教訓」を導き出してみせるのは、 どうやらこの著者自身の人生が、謝罪シーンの連続で、自らに対する戒めという匂いも濃厚なのだ。
まあ、なにはともあれ、<謝罪をしないで済む人生>であるに越したことはないのである。
「世間をお騒がせして申し訳ございません」という常套句があるが、実際、「世間」は勝手に、好きで騒いでいるだけである。彼らが 勝手に騒いだことをいちいち謝罪する必要はない。
2016/10/7
「ゲノム編集とは何か」―「DNAのメス」クリスパーの衝撃― 小林雅一 講談社現代新書
あなたは、これまでに「自分を変えたい」と思ったことはないだろうか?・・・あるいは、「自分は無理でも、せめて生まれてくる 我が子には、(誰よりも強く、賢く、美しく、そして何より健康になって)もっと良い人生を送ってほしい」と望んだことはないだろうか?
<それが可能になる時代が間近に迫っている>
なぜなら、自分の顔、体型、性格、知能、運動能力、各種体質など、「特質」の全てには特定の「遺伝子」が強く関与していることがわかって おり、これを操作する遺伝子工学や生命科学の分野で今、過去に類を見ない驚異的な技術革新が起きようとしているからだ。
「クリスパー CRISPER」(Clustered Regurarly Interspaced Short Palindromic Repeats)
その名が示す通り、せいぜい数十文字の短い回文が、一定の間隔(スペーサー)を置いて繰り返し出現する、という、それは、バクテリア (細菌)のDNA上に存在する特殊な<塩基配列>であるにすぎなかったのだが、そのスペーサー部分の文字列が、過去にこのバクテリア (あるいは、その祖先)を攻撃したウィルスのDNA(塩基配列)であることが突き止められた。
ウィルスと接触したバクテリアは、クリスパーのスペーサー部分の情報と照合して、それが過去に自分を攻撃した敵であることを認識すると、 「待ってました!」とばかりにウィルスを先制攻撃し、クリスパーによってこれをバラバラに切り刻んで殺してしまうというのである。
・DNAを狙った場所(特定の塩基配列)で切断できる。
・切断した場所に「ある長さの塩基配列」を挿入し、つなぎ直せる。
・異常な遺伝子を破壊し、正常な遺伝子へと修復することも(原理的には)できる。
生物のDNAを自由自在に切り貼りしてしまう<ゲノム編集>の最新ツールが発見された瞬間だった。
すでに実現されている「遺伝子組み換え」という技術が、たった1個の遺伝子を組み替えるためにも、100万回に1回という「運」に頼る ような、それゆえに、膨大な時間とコストを要する、極めて精度の低い技術であったのに対し、これは、あたかもワープロで文章を編集する ように、狙った遺伝子を1文字1文字、ピンポイントで書き換えることができる、「高校生でも数週間で仕えるようになる」と、専門家が 太鼓判を押すほどに、扱いやすい技術なのである。
「iPS細胞」などと組み合わせれば、すでに発症してしまった難病の治療に適用することができるだろう。医療ビッグデータを「ディープ ラーニング」のような先端AIでパターン解析すれば、発症前の病気の原因遺伝子も解明できることになるだろう。受精卵の段階でゲノム 編集すれば「デザイナー・ベビー」を親が意図的に作り出すこともできるだろうが・・・
<たとえ技術的には可能でも、倫理的にそれは許されるのか?>
私たち人類は自らとそれを取り巻く動植物など生態系を、自由自在に設計する力を手にいれようとしている。私たちの生み出した科学が 「神の領域」に踏み込もうとしている今、私たちの心と身体は相変わらず、無知と不安が渦巻く「ヒトの世界」に取り残されたままだ。 しかし私たちにはもはや、後戻りは許されない。
2016/10/8
「村上海賊の娘」 和田竜 新潮文庫
装備は軽装そのものである。胴丸は付けず、防具とも言えぬ脚絆と手甲を脛と腕に巻き、刀は一本だけ小袖の帯に落とし差しに していた。その小袖がまた異風であった。袖はなく、肩は剥き出しで、裾は太腿の付け根が露わになるほど思い切って短かった。髷も結って おらず、肩までの髪を海風に靡かせ、傲然と廻船を見下ろしていた。
「女子にござりますよ、あれは」
時は天正4(1576)年、天下統一を目論む織田信長の明け渡し要求を拒絶したことにより、兵糧の道を断たれることとなった大坂本願寺 から、海路での支援を要請された西国の雄・毛利家が、その任にあたらせようと白羽の矢を立てたのは、「村上水軍」だった。
瀬戸内の大半を勢力下におさめ、「村上海賊」の名を世に轟かせることで、来島・因島を含む三島村上の長に君臨する能島村上家の当主・ 村上武吉(たけよし)の、嫡男・元吉(もとよし)は、武吉の怜悧さは受け継いだが豪胆さに欠け、次男・景親(かげちか)は穏やかさだけ を引き継いだという見方がもっぱらで、
「武吉の海賊らしい剛勇と荒々しさを引き継いだは、女子じゃったということにござるわ」
村上景(きょう)、当年二十歳のこの姫に、当時としては珍しくいまだに嫁の貰い手がなかったのは、女だてらに海賊働きに明け暮れる希代 の荒者であることばかりでなく、大層な<醜女>であるとの評判からだった。
というわけで、2014年の本屋大賞に輝くこの本は、映画脚本から小説化した
『のぼうの城』
がデビュー作という 著者の手になるものなのであれば、CG利用が必須とはいえ、ぜひとも3Dで映像化して欲しいという、迫力満点の大活劇シーンが目白押し という、一大スペクタクル・ロマンなのである。
当時の「美女」の基準から著しく逸脱した景のルックスが、織田方の加勢についた堺の衆には滅法な「別嬪」に見えるというあたりが味噌 なのだが、そんな泉州海賊を率いる真鍋家の若き当主、怪力無双の巨人・七五三兵衛(しめのひょうえ)との、息詰まる死闘という皮肉が この長い物語を締め括ることになる。
となれば・・・、読者の誰もが、勝手に映画監督になってしまわざるを得ないのである。
「能島村上の姫じゃ、この安宅、能島村上が乗っ取った!」
村上景・・・満島ひかり(本命は杏なのだが、その身長を基準にすると他の配役が難しすぎるので)
「景の奴が海賊家に輿入れしたがっておってな。望みを叶えてやろうと思うたまでよ」
村上武吉・・・高橋克実(笑顔のイメージから)
「わしはいまでも景姫に輿入れしてもらいたいと思うておる」
児玉就英・・・瑛太(いささか神経質そうな雰囲気から)
「あいつ、面白(おもしゃ)い奴ちゃ。そやったら本当(ほんま)惚れてまうで」
眞鍋七五三兵衛・・・中村獅童(篠原信一に演技力が期待できないので)
2016/10/4
「怖い絵」 中野京子 角川文庫
ここには、全ての虚飾をはぎとられた女性がいる、必要以上に辱めを受ける、堕ちた偶像がいる。かつて「ロココの薔薇」と讃え られた彼女の、華やかに着飾った肖像画の数々を見慣れた目には、まさに衝撃的といっていいほど残酷な絵だ。・・・女性なら誰であっても、 決してこんなふうには描かれたくないと思うだろう。こんな姿を後世に残されるのは嫌だと思うだろう。
(『マリー・アントワネット最後の肖像』 ダヴィッド)
<悪意には、たとえそれが自分に向けられたものでなくとも、心を凍りつかせる力がある。>
この本はドイツ文学を専門としながら、趣味のオペラと絵画に関する造詣も深いと定評のある著者が、16世紀から20世紀にわたる西洋 名画22作品を題材に、そこに現に描かれている画題ばかりに囚われることなく、その作品が描かれた当時の時代背景や、画家を取り巻いて いた生活環境や交友関係にまで踏み込むことで、その絵の裏に秘められているに違いない、様々な「怖い物語」を(時に妄想的になることも 厭わず)解き明かしてくれる、大人気シリーズの第一作なのであれば、
『我が子を喰らうサトゥルヌス』 ゴヤ
『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』 ジェンティレスキ
なんて、まさに血みどろの目を覆いたくなるような惨劇も、その背景にある意味さえ理解できれば、「怖さ」はむしろ別のところにあること がわかるのだし、
『キュクプロス』 ルドン
における、おぞましい単眼の巨人の、決して報われることのない愛の姿は、むしろ「哀れ」で「可愛い」とさえ呼ぶべきものであるのに対し、
『エトワール、または舞台の踊り子』 ドガ
に描かれるプリマ・バレリーナの少女が、どんな思いを抱えながらスポットライトを浴びて踊っているのかを知れば、カーテンの裏で待ち かまえているものの「怖さ」に気付かされることにもなるのである。
そんなわけで、「これまで恐怖と全く無縁と思われていた作品が、思いもよらない怖さを忍ばせているという驚きと知的興奮」を伝えたい という著者の、(ある意味お節介な)狙いは見事に的中したと言わねばならないのだが、
絵の裏側にまで突き刺さるような冷徹な観察眼と、見付けたと思ったら胸のうちまで手を突っ込んでほじくり出そうとする容赦のない好奇心 を目の当たりにすると、
“そんなアナタが一番怖い!”
おべっか遣いの宮廷画家たちが営々と美化してきたアントワネット像を、たった一枚のスケッチで粉砕してやろうと意図したにも かかわらず、仕上げてみれば、外見こそ醜く老いているものの心は何ものにも屈せざる大した女性を描いてしまったことに、内心うろたえた だろうか?相手を傷つけようとしたのに、自分の悪意ばかりがクローズアップされたことに驚いただろうか・・・?
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