徒然読書日記201601
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2016/1/29
「創造的脱力」―かたい社会に変化をつくる、ゆるいコミュニケーション論― 若新雄純 光文社新書
経済の成長が続いた時代には、みんなが目指すべき共通の目標があり、たどり着くべき正解らしきものもありました。そのため、会社組織 の中では管理的なマネジメントがおこなわれ、指示と指導が徹底されてきました。一人ひとりの行動は基準にそってきっちり評価され、それによって 報酬が支払われました。
画一的で窮屈だが(そのお陰で)、いったん所属してしまえば、どうすればいいかが明確なので、便利で快適に過ごすことができる。戦後の貧しさ から抜け出し、物質的な豊かさを手に入れるという、唯一無二の目的のために寄与してきた「かたい社会」。そんな「かたい組織」がうまく機能して いたのは、高度経済成長が終わり、その後のバブル経済とその崩壊をへて、豊かさが高止まりしてしまった1990年代頃までだ。
社会環境は成熟し、いろいろなシステムが制度疲労を起こし始めた中で、私たちは次々に起こる新たな社会問題に、単純に白黒つけることができなく なってしまった、というのである。
新卒や20代の若者に「週休4日で月収15万円」の仕事を紹介するという<ゆるい就職>。
「仕事そのものはそんなにゆるくありません」というこの人材派遣・契約社員紹介サービスは、最低限必要なお金を稼ぎ、余った時間をもっと自由に 使ったらいいんじゃないか、という提案だったが、趣味や芸術活動を本格的に続けたい、起業や新しい活動を始めるための準備期間が欲しい、今後 やりたいことをゆっくりと模索したい、などなど、正社員という「ロックされた」働き方に疑問を抱く若者たち(比較的学歴が高い)からの、想定を 超える応募を集めることになった。
地元の女子高生が主役となってまちづくりをおこなう実験的なプロジェクト<鯖江市役所JK課>。
「プロい市民」(まちおこしに強い興味がある人や専門的知識・経験のある人)ばかりが集まっていては、いつも同じ顔触れで活動が閉鎖的になって しまうからと、市役所や公共活動からは最も遠い存在の「ゆるい市民」をいきなり地域活動の主役にすれば、まったく新しいの視点や感覚で、まちの ことを意外と鋭く考察してくれるかもしれない、というねらいは、「マジなの?ウケる」「面白そうじゃね?」と集まっててきたJK(女子高生) たちの手によって、たとえば「Sabota」(図書館空席状況アプリ)のような形に実を結んでいった。
全員がニートで、全員が取締役という<株式会社NEET>。
登記された「事業の目的」は前例にない「一切の事業」で、オフィスもなく、日常的にはメールやオンラインのSNSで、お互いをハンドルネームで 呼び合いコミュニケーションを取る。誰一人、会社に雇われているわけではない、完全な成果報酬というこの「ゆるい会社」の設立には、最終的に 166人のニートたちが出資(6千円)した。
人や組織に関するさまざまな実験的プロジェクトを企画・実行し、様々なテーマを抱えた当事者たちとの、それぞれの立場や世代を超えた交流を経験 する中で、異質なものが交わり合えば、集まった人たちはお互いに刺激し合い、影響し合うことで、ときには衝突し傷付け合いながらも、事前には 計画できなかったまったく新しいものを作り出すことができる。
それまであたりまえだったものを、一度「手放してみる」ことで、否応なしにぐちゃぐちゃしたカオス(混沌)状態が生まれ、そうすることで初めて、 試行錯誤だらけの「ゆるいコミュニケーション」が始まるというのが、この著者の得た確信なのである。
今日頑張ったからといって、明日もっと暮らしがよくなるとは限らない。しかし、現状維持はそれなりにできている。そんな今日の日本社会に 必要なのは、なにもかもをすべて壊して差し替えてしまおうという破壊的なプランではなく、「かたい社会」の必要な部分は残しつつも、必要な ところにはとことん「ゆるい部分」をつくる、部分的に脱力してみるというアプローチです。
2016/1/28
「任侠書房」 今野敏 中公文庫
「あいつんとこで、債権のとりまとめをやって、会社一つ手に入れたってんだが、その後の始末で困っていてな・・・」
<しまった・・・。また、組長の病気が始まった。>
広域暴力団の二次組織として、いまはそこそこの大組織の組長となった弟分の永神から、倒産寸前の会社の経営を頼まれたのだという阿岐本は、 「昔からヤクザというのは地域の人々に信用されてこそ、稼業が成り立つのだ」という、いまどき流行らない任侠道を実践する、古いタイプの親分 だった。ガード脇の飲食店街を通り抜けて細い路地の突き当たりにある、細長い4階建の小さなビルの1階に、代紋入りの控えめな看板がかかって いる。住み込みの若い衆4人ですべてという、小さなヤクザ組織の「阿岐本組」で代貸しを務めている日村は、そんなオヤジの気まぐれな思い付き に、暗澹たる気分になった。
倒産しそうな会社にあの手この手でつてを作り、ほかの債権者がぐずぐずしているうちに主導権を握って、さっさと処分して損切りをする、という のが、ヤクザのシノギの常套手段なのだから、手に入れて始末に困る債権などあるはずはない。「ヤクザなんぞ、日陰の身だ。若い連中には堂々と お天道様を拝める仕事をさせてやりたい」というのが口癖だが、なんのことはない、「いつか自分も文化人と呼ばれたい」と、オヤジこそが密かに 願っているに違いないのだ。
そして・・・困ったことに、日村は阿岐本のそういうところが好きだった。
「まあ、今さら出版社をやって儲かるとも思えねえが、永神のやつを助けてやらねえとなあ・・・」
「はあ・・・」
「俺、その出版社の社長やるからよ、おめえ、役員やれ」
そんなわけで、これは<もしも本物のヤクザがまともな出版社の経営に取り組むことになったら>という、『もしドラ』のような物語なのではある。 もちろん、いかに熱情があるとはいえそもそもが素人の集団なのであれば、次から次へと舞い込む様々なトラブルを、「渡世の義理」や「気合いと 根性」だけで乗り切るには無理があるのだが、「そこの柔道部の卒業生で、頭のいいやつはヤクザになり、そうでもないやつは警察官になろ」と いう、いかにもな<都市伝説>そのままに、日常業務の繰り返しでマンネリに陥った玄人編集者たちを蘇生させるのに、ヤクザのシノギの手練手管が 見事にはまって、功を奏することにもなる。
とてもまともな就職なんてできはしない、そんなもやもやを常に胸に秘めて生きてきた、いろんな事情があって裏稼業に押し込められてしまった やつらだって、きっと、表社会でも立派に役にたつことができることに、身震いするほどの誇りと感動を覚えていたに違いないのだ。
真吉のシャツの胸には万年筆がさしてあった。(編集長の)片山が、今度は退社記念に、と真吉に贈ったものだ。真吉はいつもそれを胸にさして いた。秋の日が差し込み、万年筆に反射してきらりと光った。
日村にはそれがやけに眩しかった。
2016/1/24
「悲しみのイレーヌ」 Pルメートル 文春文庫
わたしの仕事の卓越性は、自分自身の殺人を先に小説に書いておき、それからほかの作家たちが書いた小説を再現することでこの輪が 閉じるのですから、それこそ理想の秩序ということになりませんか?
<作家とは、引用文から引用符を取り除き、加工する者のことである(ロラン・バルト)>
「とにかく・・・こんなのは見たことがありません」というルイからの電話を受けて、現場に駆けつけたカミーユ・ヴェルーヴェン警視は、たった 三歩踏み込んだだけで、悪夢にも出てこないような最悪の光景が広がっているのを目にすることになった。汚物と血と内臓の臭いがむっと鼻を突く、 首を切断された二人の女性の惨殺死体、現場の壁には「わたしは戻った」という血文字が残されていた。
数々の意味ありげな物証があるにもかかわらず、なかなか犯人逮捕に至らない捜査陣たちをあざ笑うかのように、やがて第二の殺人事件が発生し、 カミーユはこれが、過去に書かれた「犯罪小説」を模倣した連続殺人事件なのではないのかという確信を抱くことになる。
J・エルロイ『ブラック・ダリア』
B・E・エリス『アメリカン・サイコ』
W・マッキルヴァニー『夜を深く葬れ』
シューヴァル&ヴァールー『ロセアンナ』
狡猾で執拗な犯人は、これらの「作品」に描かれた殺人の現場を忠実に再現するために、途方もない執念を傾けているかのようなのだった・・・
というこの物語のほとんどを占める第1部が、実はこの犯人の手になる「小説」で、そのプロットに沿って発生してくる殺人事件を、現実に追い かけることになるカミーユとその仲間たちは、若干誇張された小説の中の「本人」の役を、まんまと演じさせられていたことに、第1部の終わりに なってようやく気付く体たらくなのである。
そして、カミーユの反撃が開始される第2部。
誘拐されて犯人の手に落ちてしまった、カミーユ最愛の身重の妻イレーヌを救うためにと、ようやく手に入れた、十数年前に犯人自らが書いた 大衆小説。しかし、そこに描かれていた光景こそが、まさに衝撃の結末だったのだ。
え?ネタバレが過ぎるだろうって?
だって、すでに『その女アレックス』を読んでしまったことが最大のネタバレなんだから、文句があるのなら先に第2作を出してしまった出版社に 言ってほしいのである。
カミーユは振り向こうとしたが、その途中で右手の薄闇のなかになにかを見た。窓ガラス越しに入ってくる回転灯の青い光を浴びて、小さな 十字架が浮かび上がった。そしてそこに、小さな、いまだ判然としない人形(ひとがた)のものが、両手を大きく広げて磔にされていた。
2016/1/22
「生きて帰ってきた男」―ある日本兵の戦争と戦後― 小熊英二 岩波新書
シベリア抑留者の手記には、若い時期が無為にすぎていくことに焦燥感を覚えたとか、みじめな運命で気が狂いそうになったといった回想 を述べているものも多い。しかし・・・
「そういうことは思わなかった。ただ生きていくのに必死だった。そういう抽象的なことを考えたのは、もともとハイレベルの人か、屋外で重労働を せずにすんだ将校だろう」
と、当時の実感を粉飾せずに率直に語ってくれた、大正14(1925)年生まれの<この男>(現在89歳)は、昭和19年に19歳で召集された 旧満州で終戦を迎え、侵攻して来たソ連軍の捕虜となって、シベリアでの過酷な抑留生活を強いられることになった。昭和23年にようやく帰国して からも、敗戦後の荒廃した日本でその場しのぎのような職業を転々とする生活に追われ、ついには栄養不良と過労により結核療養所送りとなる。 高度成長によるレジャーブームの波に乗って、スポーツ用品の外商担当としてチャンスをつかみ、ようやく生活が安定して妻を迎えることができた のは、37歳のときだった・・・。
こうして、その生涯の軌跡の前半部分を書き出してみただけでも、<この男>の人生が「普通の人」のものではないと感じてしまう人は多いだろう。 しかし、一生涯を通じたすべての場面において「多数派」である、という人間はどこにも存在しないだろうし、もし、生涯に一度も多数派から外れた 「逸脱行為」をしない人間がいたとすれば、それこそ「普通の人」ではない。生涯に何回かは危機的な経験をし、英雄的な行動もしたかもしれない が、ふだんはごく普通の目立たない生活、世間では「平凡」とよばれる生活を送っている、という意味で、<この男>の生涯の軌跡は、大枠において は、同時代の社会的文脈に規定された「平均的」な日本人のものなのだ。
個人史を書き残す人間は、学歴や文筆力などに恵まれた階層であるか、本人に強烈な思い入れがあるタイプが多い。前者は一部の階層からの視点 になるし、後者は客観性に欠ける傾向がある。
記憶が鮮明であるだけでなく、話が系統的で、本筋から離れないし、過剰な思い入れによって、記憶を修正しない。歴史研究者の観点からいって、 きわめて優れた語り手だったという、<この男>小熊謙二は「淡々とした」性格の持ち主だった。
「こういう性格の人物は、語り手としては信用がおける。しかし同時に、こういう人物が、自分の経験を書き残すことはめったにない。」
どんな境遇から戦争に行ったのか、帰ってからどう生きていったのか、という戦前および戦後の生活史を戦争体験と連続したものとして描くことで、 「戦争体験記」では捉えることのできない、戦争が人間の生活をどう変えたか、戦後の平和意識がどのように形成されたか、というテーマをも 論じてみたい。
これは、自身の経験についてはほとんど何も語らず、書き残してもこなかった父・謙二を対象に聴き取りに及び、記録が多く残りがちな高学歴中産層 ではない、都市下層の商業者の「昭和期の歴史」を描き出そうとした、それまでは、恐らくそんな話を聞いたことがなかったに違いない、 息子・小熊正二によるオーラル・ヒストリーの試みなのであるが、
「お父さん、嬉しかっただろうなぁ」というのが、いささかの後悔の思いと共に羨むことになってしまった、他愛もない暇人の感想なのである。
過去の事実や経験は、聞く側が働きかけ、意味を与えていってこそ、永らえることができる。それをせずにいれば、事実や経験は滅び、その声に 耳を傾けなかった者たちも足場を失う。その二つのうち、どちらを選ぶかは、今を生きている者たちの選択にまかされている。
2016/1/11
「解放老人」―認知症の豊かな体験世界― 野村進 講談社
たとえば、ここに一本の丸太がある。
のこぎりで切り、かんなで削り、のみや小刀で彫り進め、仏像に仕上げていく。どうも、それとよく似ているのではないか。彼らを生仏や聖人に まつりあげるつもりは毛頭ないが、私は、そんな気がしたのであった。
代表作ともいうべき前著、
『救急精神病棟』
で取り上げた山形県南陽市にある先進的な精神科病院、佐藤病院を十数年ぶりに再訪し、今回は「重度認知症治療病棟」での取材を始めてすぐ、 そこに集う人々の圧倒的な存在感に目を見張らされることになった著者の、それが偽らざる思いだった。
ただただ重く、暗く、絶望的で、まるで厄介者ででもあるかのような、一片の救いもない認知症患者のイメージ。「あんなふうになったらおしまい」 と、誰もが思い描くようなそんな患者像と、実際に間近で接した重度認知症の人々の実像とは、まったく違っていたというのである。
農家に嫁ぎ、二人の息子を生み育て、夫の死後は大衆食堂を経営する長男一家と同居しても、ずっと農業に携わってきた、「霧雨がサァーっと 降って、天皇陛下が20人くらい来たからぁ。いろんなもん、たがって(かかえて)よぉ」83歳のハナさんの勤勉いちずの人生にとって、シュール なファンタジーを見るようになったことは、最後に与えられた<ご褒美>のようなものだった。
ずっと自動ドアの前に立ち、他人の面会家族と一緒に出て行こうと、病棟から脱出するチャンスを窺っている、「ガチャガチャとあけてけろぉ。 うづさけらねえと困るんだぁ」ひどい酒乱のため家族は帰宅を望まないにもかかわらず、源五郎さんがこれほどまでに帰りたがるのは、丹精込めて きた「田んぼ」の様子が気がかりなのだった。
日中の自由時間は、昼寝と排便とおやつの時間を除いて、病棟内の決まったコースの往復を、ほぼ寸分の狂いもない一連の所作で、繰り返し歩き続け ている、まるで口をきかないジイちゃんのある仕草を見て気づき、「いまトラック運転してるんでしょ?」と問いかけると、初めて大きくうなずいて くれた。長距離トラック運転手だった勘平さんに、言葉がまっすぐに届いた瞬間だった・・・などなど。
<なんと個性的な人々であろうか。>
認知症が進行した患者さんの内面からは、常識や世間体や煩雑な人間関係などといった、<余分な>ものは削ぎ落されてしまう。いわば<地肌>が 露わになった、そんな姿を見て私たちは、目をそむけたくなったり、見るに忍びなくなったりするのだろうが、そこには、彼や彼女が生き抜いてきた 人生の、いままで他の誰にも見せてこなかった<個性>が、鋭く突出している。ときに見せる<夢見るような表情>の、そこにただよう超俗の気配 も、一見両極端に思えて、実は相通じている。
<そんな彼らの相貌を、できるかぎり正確に伝えたい>
というのが、足掛け5年に渡って、この素敵なジイちゃん、バアちゃんたちとの会話を続けてきた著者の、心からの願いなのである。
ここには、なにか「ほのかな明るさ」がある。それは、白夜の明るさに似ているようだが、決して暗黒の闇夜に存在するものではない。
ひょっとすると、暗夜のどん底で老残に苦しむイメージは、私たちが外部から見た印象だけで一方的に造り上げたものではないか。
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