徒然読書日記201511
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2015/11/29
「うほほいシネクラブ」―街場の映画論― 内田樹 文春新書
小津安二郎は成熟と幼児性が矛盾なく同居しているそんな男たちのありようを残酷なほどに写実的に描いた。それは「そのとき何を着て いるか」によって男たちのふるまいや物言いや判断さえ変わるというかたちで映像的に示されている。
仕立ての良い背広姿から、ステテコ一丁になるにつれ、不機嫌になり、わがままになり、言うことが非論理的になる。妻(田中絹代)の前で、 「大人」から「幼児」に退行していく夫・平山(佐分利信)の変化を、ほとんどコミカルに描いて見せた映画『彼岸花』。
そんな平山が中学の同級生(笠智衆)らと、裾の詰まった浴衣姿で「青葉繁れる」を歌うとき、彼は大人と幼児の中間の「少年」となって、 「はにかみ」と「とまどい」と「率直」という、奇蹟的にその性格のいちばん良質な部分を垣間見せることになる。
<小津は男たちの幼児性に対しては残酷なほど写実的だったが、男たちの少年性については、これを少しだけ浪漫的に脚色した。> と、いつもながらのまことに見事な切れ味をみせる『小津安二郎』論も、これはこれで読み応え十分なのではあるが・・・
俳優が数十回のカメラテストの末に、内面の表出というような演技回路がぼろぼろになってしまって、あまりに繰り返し過ぎて自動化して しまった台詞をメカニカルに口にしたときに、小津はにこやかにOKを出したと言います。
<小津は「人間の内面の表出」というような機制を信じていなかった。>ので、「三種類しか表情のない」佐田啓二(中井貴一のお父さんです。) を重用したのだ。
という、いささか乱暴な議論は、『乱』における<シェークスピアの大芝居を黒澤演出でできて嬉しくてしょうがない>仲代達矢の「ため」のある 新劇的演技を嘆くところから始まったものだった。
なんて、一見高尚な文化論のようではありながら、突っ込みどころ満載という、酒場での請け売りにはもってこいの「映画批評」も目白押しの逸品 なのである。
なぜ「映画について語ること」はこれほどまでに楽しいのだろうか?
それは、映画は「これから作り出されるはずのもの」についての言葉による説明抜きではこの世に生まれ出ることができないからだ。 (製作費を調達せねばならないのだから・・・)
そして、その「これから作り出されるはずのもの」は、原理的に言えば、言葉のレベルにしか存在せず、ついに映画のかたちをとることが できなかったものだからだ。(誰も構想すらしていなかったわけのわからないものが出来上がったりもする・・・)
<言葉の中こそが彼らがつくりだそうとしたものの本籍地なのだ。>
というのが、これまたいつものように、あとがきを書きながら思い付いたのではないかと疑われる、内田先生の説得力十分の結論 のようなのである。
言語によって映画の本質に肉迫することができるかもしれない、そんな期待を抱かせてくれる芸術ジャンルは他にありません。 たぶん、僕たちが映画について語り止めることができないのは、そのせいだろうと僕は思います。
2015/11/21
「日本思想全史」 清水正之 ちくま新書
俯瞰的に思想史を眺める視座は、さまざまにありうるだろうが、本書がとる視点は、選択―受容ー深化としての思想史である。その特徴 として、選択・受容の局面における比較的視点ないし相対主義的視点の把持ということを指摘しておきたい。
古代に起きたものが一貫して日本に流れていたり、日本的なるものがその根底にあるというわけではないのだから、「日本思想」の個性ということ は言えたとしても、そこにある多様性を「日本思想」として一つに統括できるわけではない。
むしろ、異文化や異なる思想・伝統の選択と受容が、日本という場で起きて、深化し、堆積していったのだということ。そして、それを可能にした のが、文明の源であるアジア大陸に面しながら、その適度な距離において直接の脅威にさらされることもなく、ある種の余裕をもちながら、それを 摂取・咀嚼することを可能にしてくれた、日本列島の地政学的位置の賜物だというのである。
(う〜む、内田樹の
『日本辺境論』
か?)
物部氏など仏教に反対する主流派に対し、欽明天皇があくまで試みに蘇我氏に「祀ってみよ」と命じたのだとする『日本書紀』。
三人の信者に討論を闘わせることで、東アジアの三大宗教、仏教、儒教、道教の中から仏教を選び取らせた空海の『三教指帰』。
鎌倉仏教の成立期、様々な宗派のうちに自力と他力の信仰を比べ、他力の浄土信仰を「選択(せんちゃく)」する姿勢をとった法然。
中国的教養なしには読み解くことのできない天竺、中国の歴史と対照させながら、あえて卑俗な和語、口語を使用して日本の歴史を描き出した 慈円の『愚管抄』。
出自は仏者でありながら、仏教あるいはキリシタンとの思想的対峙を通して、相対的視点から朱子学の立場を「選択(せんたく)」した藤原惺窩。
『万葉集』の実証的研究において、日本の歌の表現のなかに、仏教的な修辞、中国古典の修辞の影響を丁寧に探し、解釈を確定していった契沖。
儒教、仏教、老荘思想、さらにはキリシタン、蘭学にまでそのまなざしを向けながら、中華絶対主義を凌駕する蘭学的思考の中で、日本の優れた点 を主張する国学を大成するに至った本居宣長。
などなど、古代は『古事記』の神話的思考から始まって、現代は戦後アカデミズム哲学の傾向と応用倫理学の評価に至るまで、これは、決して 外部的視点からの解釈を押し通すのではなく、内在的視点をもって、この国の人々の思考の変遷の姿を跡付けたいと考えた、日本倫理思想史学者 の手になる、本邦初とも言うべき本格的な「日本思想史」の試みなのである。
もちろん絶対的な思想を説いた思想家もいる。その絶対の説き方がまた相対主義への批判というかたちをとるところに、日本思想史の興味深い 論点があろう。思想の選択的受容のなかには、あるべき人間とは何か、という問いが常にあった。・・・
今また私たちの生きる場は、選択と受容のはざまにある。過去の選択と受容を精査し、蓄積の上に未来をどう組み立てるかが、日本の思想の課題 である。
2015/11/19
「忘れられた巨人」 カズオ・イシグロ 早川書房
「息子よ、アクセル。息子のこと、覚えている?さっきみんなに小突かれているとき、息子を思い出したの。いい子だった。強くて、 まっすぐで。わたしたち、なんでこんな場所にいなくちゃならないの。息子の村へ行きましょうよ。きっと二人を守ってくれる。むごくは扱わせ ない。まだあなたの気持ちは変わらないの、アクセル?これだけの年月が経っても?まだ息子に会いに行かないって言うの?」
時は6世紀、ブリテン島のとある小さな集落に暮らしていたブリトン人の老夫婦、アクセルとベアトリスは、同族の住民たちから蔑ろにされる生活 に倦み疲れ、随分昔に自分たちの元を離れたまま、さほど遠くない村に住む息子に会いに行こうと決意する。
伝説のアーサー王が円卓の騎士たちと力を合わせ、争いを治めた後のブリテン島は、言葉も文化も信仰も異なるサクソン人との間で、表向きの平和 は保たれてはいたが、新たな諍いの芽は尽きることもなく、さらには、悪鬼や巨竜といった超自然的存在までもが跋扈するという有様で、足元も 覚束ない老夫婦が旅するには、まことに不向きな状況にあった。
しかし、何より問題だったのは、ブリテンの大地を覆う「不可解な霧」が人々の大切な日々の記憶を、奪ってしまっているらしいことだった。
「息子はなぜここに、わたしたらと一緒にいないのかな、お姫様」
アクセルもベアトリスも、息子が住んでいる場所はおろか、その顔も声も思い出すことはできず、まだ小さかったころのかすかな手触りしか残って いなかったのである。
「船頭さんは、さっき、渡し舟に乗る夫婦に質問をすると言いましたよね。二人一緒に島に住むことを許されるほど愛情の絆が強いかどうか、 それを知るための質問をするって?それを聞いていて、ふと思いました。絆の強さを知るために、どんな質問をなさるんでしょうか」
困難を極める旅への途上、雨宿りで立ち寄った廃屋でたまたま出会うことになった、彼岸への渡し舟の船頭は、それぞれが「一番大切に思っている 記憶」によって、二人を結ぶ絆の強さを測るのだと秘密を明かす。
「分かち合ってきた過去を思い出せないんじゃ、夫婦の愛をどう証明したらいいの?」
それは、派手な喧嘩の思い出も、楽しかった瞬間の思い出もない二人が、心の中にちゃんとあるはずのお互いへの思いを取り戻すための旅の始まり でもあった。
悪鬼に襲われた少年エドウィンを救出したサクソン人の勇敢な戦士ウィスタンと、叔父アーサー王の使命により、錆だらけの鎖帷子に身を包み、 獰猛な雌竜退治に頑なに挑み続ける、伝説の騎士・ガウェイン卿。
彼らとの出会いにより、雌竜クエリグの吐く息こそが、人々から記憶を奪ってしまう「奇妙な物忘れ」の原因であることを知った二人は、いつしか、 息子と再会するという本来の目的を離れ、クエリグ退治の大冒険という想定外の渦の中に巻き込まれていくことになるのだった。
『日の名残り』
でブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロが、
『わたしを離さないで』
以来 じつに10年ぶりに発表した長編は、なんと驚きのファンタジーだった?
とんでもない!これはファンタジーという「霧」で静謐に包み込んだ、愛と記憶をめぐる熱き「恋愛小説」の巨編なのである。
「クエリグが死んで霧が晴れ、記憶が戻ってきたとする。戻ってくる記憶には、おまえをがっかりさせるものもあるかもしれない。わたしの悪行 を思い出して、わたしを見る目が変わるかもしれない。それでも、これを約束してほしい。いまこの瞬間におまえの心にあるわたしへの思いを 忘れないでほしい。だってな、せっかく記憶が戻ってきても、いまある記憶がそのために押しのけられてしまうんじゃ、霧から記憶を取り戻す意味 がないと思う、だから、約束してくれるかい、お姫様。この瞬間、おまえの心にあるわたしを、そのまま心にとどめておいてくれるかい? 霧が晴れたとき、そこに何が見えようと、だ」
2015/11/7
「職業としての小説家」 村上春樹 スイッチ・パブリッシング
そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく 受け止められたような気分でした。どうしてそれがたまたま僕の手のひらに落ちてきたのか、そのわけはよくわかりません。そのときも わからなかったし、今でもわかりません。しかし理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんといえばいいのか、ひとつの 啓示のような出来事でした。
「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」
と、1978年4月のよく晴れた日の午後、神宮球場(村上は大のヤクルトファンなのだ。)でトップ・バッターのヒルトンが、美しく鋭い二塁打 を打ったその瞬間に、そんな事件が起こったからといって、確かにそれは、その後の村上の人生の様相をがらりと変えてしまったのかもしれない (試合の後、村上は新宿の紀伊国屋へ行って、原稿用紙と万年筆を買った。)が、いくら「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書く チャンスを与えられたのだ」という率直な認識を持てたからといって、それがそのまま、ノーベル文学賞作家(万年候補?)・村上春樹へと たどり着くことになる、その先の小説家への道程を自然に用意してくれたわけではなかった。
とにかくそういう外国語で書く効果の面白さを「発見」し、自分なりに文章を書くリズムを身につけると、僕は英文タイプライターをまた 押し入れに戻し、もう一度原稿用紙と万年筆を引っ張り出しました。そして机に向かって、英語で書き上げた一章ぶんくらいの文章を、日本語に 「翻訳」していきました。
「なるほどね、こういう風に日本語を書けばいいんだ」
と、試しに英語で書いてみた文章を、がちがちの直訳ではなく、どちらかといえば自由な「移植」に近いものに翻訳していくことで、自分自身の 独自の文体を見つけたのだと聞けば、日本人が書いた小説の中で、村上の作品だけが海外でも売れるのは、「翻訳しやすい言葉で、外国人にも わかりやすい話を書いているからだ」なんて、まことに無責任で、気楽な物言い(実は暇人もそう思っていました・・・)も、案外的を射ていた んじゃないかと思ってしまいそうなのだが、
あえて僕が言い立てるまでもないのでしょうが、外国では、とくに欧米では、個人というものが何より大きな意味を持ちます。何ごとによらず、 誰かに適当にまかせて「じゃあ、あとはよろしくお願いします」ではなかなかうまくいきません。ひとつひとつの段階で、自分で責任をとり決断 していかなくてはならない。
「この未開拓のマーケットで、白紙状態からどれだけのことができるか、とにかく体当たりでやってみようじゃないか」
と、アメリカ人の作家と同じ土俵に立ってやっていくために、自らの文章に最適な翻訳者を自分で選び、英訳された文章を自分が納得できるまで 自分でチェックし、その翻訳原稿を自分の足を使って、超一流の文芸エージェントに持ち込むことで、ゆるぎない信頼関係を築き上げたことが、 アメリカでの現在の地位を得ることにつながったということのようなのだ。 というわけで・・・、この本は、村上春樹が小説家としてどのような道を、どのような思いを抱いてこれまで歩んできたかを、率直に語ってみせた ものなのだが、村上が言うように、これが「小説家を志す人々のためのガイドブック」になりうるかどうかは、疑問であるといわざるを得ない。
村上春樹の「小説の作り方」を学んでみたところで、村上春樹のような小説を書くことはできない。
村上春樹のような小説を書くためには、小説家「村上春樹の作り方」をこそ、学ばねばならないのである。
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