徒然読書日記201510
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2015/10/28
「完全なるチェス」―天才ボビー・フィッシャーの生涯― Fブレイディー 文春文庫
その手筋が、フィッシャーの頭のなかでゆっくりと形を取りはじめてきた。はじめはただの直感で、明確な論理的根拠などなかった。 まるで小さなレンズをのぞきこんでいるうちにその口径がどんどん広がって、やがて明るい光に包まれた風景全体が見えてくるかのようだった。 バーンにクイーンを取らせたらどうなるかを最後まで身切ったと確信したわけではなかったものの、それでもフィッシャーは突き進んでいった。
<クイーン・サクリファイス>
チェスでは最も強い駒であるクイーンを「無条件に捨てる」という、自動的に敗北を意味するようなこの作戦を、インターナショナルマスターに して、全米オープン選手権の前チャンピオンでもある大学教授ドナルド・バーン相手に仕掛け、見事に負かしてみせた。のちに「世紀の一局」と 呼ばれたこの棋譜こそが、当時13歳の神童ボビー・フィッシャーが、末恐ろしい才能の持ち主であることを世に知らしめた瞬間だった。
極貧の母子家庭に育ち、6歳の時に姉が買ってくれた1ドルのプラスチック製チェスセットだけを友として、自分対自分の対戦に没頭していた 癇癪持ちの少年は、やがて、その才能を見出してくれた師との出会いと、様々な好敵手との切磋琢磨のなかで、米国を代表する棋士へと成長して いくことになる。
「世界一チェスの上手な方ですね。私は世界一チェスの下手な人間です」
キッシンジャーはフィッシャーに、アイスランドへ行って、ロシア人を彼らのゲームで叩きのめすべきだと告げた。
「アメリカ合衆国政府はきみの活躍を願っています」
国家としてチェスプレイヤーを保護し育成してきたチェス王国ソ連に対し、何のサポートも期待できないアメリカの代表として、孤軍奮闘してきた フィッシャーにとって、ニクソン大統領の補佐官であるキッシンジャーからの電話は、ソ連の棋士たちの国家ぐるみの陰謀を疑い、なかなか対決 のチェス盤に向かおうとしなかったフィッシャーの背中を押してくれるものだった。「アメリカ合衆国の利益は自分の個人的利益よりも大きい」 という思いを胸に、フィッシャーはただのチェスプレイヤーから、祖国を守る冷戦の戦士となったのである。
1972年、フィッシャーはアイスランドで開催された世界選手権で、ソ連のボリス・スパスキーを下して世界チャンピオンの座を奪い取る。 弱冠29歳で一躍時代の寵児へと登り詰め、フィッシャーは祖国の英雄となった・・・はずだった。
初の防衛戦だった1975年のアナトリー・カルポフとの対戦に、フィッシャーは姿を見せなかった。フィッシャーが様々な無理難題ともいう べき主張を繰り出したため、条件面での折り合いがつかなかったのだ。その後突然、フィッシャーは表舞台から姿を消すことになり、空白の20 年間を送ることになる。
度重なる奇行と過激な発言で世間を騒がせながら、この畢生の天才はいかなる後半生を過ごしてきたのか?確かなことは、フィッシャー本人に とってはそれもまた間違いなく、切っても切り離すことのできない「自分の生涯」だったということなのだろう。
「今日はすばらしい日だ。アメリカなんかくそくらえ。泣きわめけ、この泣きべそかきめ!哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども! おまえたちの終わりは近いぞ」(9・11のラジオ放送)
2015/10/27
「ホワット・イフ?」―野球のボールを光速で投げたらどうなるか― Rマンロー 早川書房
質問 地球にいるすべての人間ができる限りくっつきあって立ってジャンプし、全員同時に地面に降りたら、どんなことが起こり ますか?――トマス・ベネット(ほか大勢のみなさん)
地球の全ての人間が、何らかの摩訶不思議な方法で1カ所に集められたとすると、この一団はロードアイランド州くらいの広さの場所を占める ことになる。そこで、彼らが実際にロードアイランドに集まって、正午の時報と同時に全員がジャンプしたとすると・・・
答 次の瞬間、全員が地面に戻ってくる。
地球は人間全員を合わせたよりも10兆倍も重いので、全員で同時にジャンプしても地球にはほとんど何の影響もないのだ。というのが、大勢の 読者から投稿される質問のなかでも、最も頻繁に来るものに対する、まことにあっさりした回答なのだが、
大学では物理学を学び、かつてはNASAでロボット開発に従事していながら、現在はフルタイムのインターネットコミック作家となった、 そんな著者が主宰するウェブサイトに寄せられた、時に突拍子もない空想的な質問に、真っ当な科学と数学と、シンプルな線画のマンガを使って 答えるこの本が、ニューヨークタイムズのベストセラー・リストに34週連続で載るなど、サイエンス系の本としては破格の大ヒットとなった のは、実は、ここからの議論の力によるもののようなのである。
<ことが面白くなるのはそのあとだ。>
着地して大きな音が鳴り響いたあと、何も起こらず数秒が経過して、気まずい雰囲気が漂いみなちらちらと他の人の様子を窺う。 ・・・「私たち、なんでこんなことしたの?」
誰かが咳払いをして、ポケットから携帯電話を取り出す。数秒のうちに、世界中の50億台の携帯電話が取り出されるが、そのすべてが「圏外」 となる。・・・ネットワークがすべて、例のない負荷でダウンしたのだ。
家に帰ろうとする人々は、空港や高速道路に殺到するが、通常の500%の処理能力で数年間稼動したとしても、集まった人間の一団が目に 見えて縮小することはないだろう。・・・数週間のうちに、ロードアイランドは数十億の人間の墓場となる。
(本当の答?)「生き残った人々は、世界中に散らばり。新たな文明を構築しようと苦しい努力をすることになる。人類はどうにかこうにか存続 するが、人口は劇的に減少するだろう。」
<地球が自転をやめ、大気だけが元のままの速度で運動しつづけたら、どうなるか?>
<普通の使用済み核燃料プールで泳いだらどうなるか?>
<人間全員が一斉にレーザー・ポインターを月に向けたら、月の色は変わるか?>
<各元素を集めてキューブ状にして、それを並べて周期表を作ったらどうなるか?> などなど。
奇想天外、抱腹絶倒の<思考実験>の世界をどうぞお楽しみください。ただし、ほとんどの場合悲惨な結末を迎えることになりますので、 実際にお試しにはなりませんように。
2015/10/16
「永続敗戦論」―戦後日本の核心― 白井聡 太田出版
今日表面化してきたのは、「敗戦」そのものが決して過ぎ去らないという事態、すなわち「敗戦後」など実際は存在しないという事実 にほかならない。
<かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。>
敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる ・・・というのである。
戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない、と事あるごとに言い募ることは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を拒否し、東京裁判を 否定することなのだから、そのような「信念」を持つことは、サンフランシスコ講和条約をも反故にし、究極的には、第二次大戦後の米国による 対日処理の正当性と衝突せざるを得ないことになる。
ゆえに、国内およびアジアに対しては敗戦をあくまでも否認してみせることによって、自らの「信念」を充足させながら、自分たちの勢力を容認 し支えてくれる米国に対しては、すすんで卑屈な臣従を続けるのみならず、そんな自らの姿に満足さえ覚えてしまう。
「戦後民主主義」に対する不平を言い立て、戦前的価値観への共感を隠そうともしない、このような政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを 実行しない、という言行不一致を犯しながらも、長きにわたり権力を独占することができたのは、この、まことに屈折した「永続敗戦」のレジーム が、相当の安定性を築き上げることに成功したからにほかならない、というのだった。しかし・・・、
<このレジームはもはや維持不可能なものとなった。>
冷戦構造の崩壊以降、衰退傾向を押しとどめることのできない米国は、もはや日本を無条件的同盟者とみなす理由を持たず、収奪の対象と捉え 始めている。
グローバル化のなかで、「世界の工場」となって莫大な国力を蓄えつつある中国は、日本が掲げる都合のよい「信念」なるものが、中国にとって 看過できない害をなすのであれば、「尖閣諸島」問題で明らかとなったように、横目で米国の反応を窺いながらとはいえ、決して許容しはしない という、強い姿勢を誇示するようになってきた。
「北方領土問題」、「竹島問題」、そして「北朝鮮(拉致)問題」。
これらの問題を、いちいち事の本義に戻って解きほぐしていく著者の筆致は、日本社会において「敗戦の否認」という歴史意識が、いかに有害な かたちで浸透しているかという事実を、明瞭に浮かび上がらせてみせる。
このようにして、潜在的な戦争を露呈させてみせることによって、「戦後」は確かに終わったことになるのだろうか?
いや、平和憲法の改定によって敗戦のトラウマを払拭し、「敗戦の否認」をやり遂げることで、「戦後」を「清算」しようとする人物・勢力は、 相も変わらず権力の枢要に位置している。「戦後」は実質的に終わりながら、さらに際限なく永続しようとしている・・・
というのが、この怜悧な論考の終着点のようなのである。
しかしながら、「戦後の終わり」は疑いなくすでに始まっている。それはとどめようのない歴史の流れである。してみれば、問題は、われわれ が主体的にそれを終わらせるのか、それとも外からの力によって「強制終了」させられるのか、ということにほかならない。
2015/10/13
「東京プリズン」 赤坂真理 河出文庫
何かを隠している人に対して、何を隠しているのかと問うほどの無意味はない。
何かを隠している人は、自分が何を最初に隠したのか忘れている。別のものを出すときにでも、あれと関わった部分はないかと検閲をかけ、 それも呑みこんできたから。だから何かを隠した人は、すべてに覆いをかけている。自分自身にさえ。
<私の家には、何か隠されたことがある。ごく小さな頃から、そう思っていた。>
中学校にはなじめなかったからというだけで、日本では進学できそうもないと、そう考えたらしい母親が選んだ、アメリカの<東の最果て>の 高校へと留学させられてしまった15歳のマリは、<本物の外国人>と今まで接したことがない人たちばかりの学校の中で、文化の違いに戸惑い ながら一人取り残されようとしていた。
そんな<落ちこぼれ>のマリに、もっとも苦手なアメリカン・ガバメントのスペンサー先生が与えた、進級するための最終課題。それは、「天皇 の戦争責任」について「ある」という立場に立ってディベートしてみせる、という途方もないものだった。
「これは、現在同盟国であるアメリカと日本との相互理解を深めるためのものであります。これは、私たちの学校がその長い歴史で初めて 迎える日本からの留学生であるマリ・アカサカが、アメリカと彼女の祖国をよりよく理解するために、そして我々アメリカ人が、祖国のかつての 敵であった日本人をよりよく理解し、友好関係を深めることを、目的としております」
いつの間にか全校規模の公開行事となり、「リメンバー・パールハーバー!」と今にも言い出さんばかりの生徒の保護者たちまでがやってきて、 見渡す限りアメリカ人ばかりの会場の中、たった一人で日本人を代表して、「天皇」について語らねばならなくなった16歳の少女は、「天皇」 のことも、「敗戦」のことも、ましてや「戦争責任」についてなど、日本にいた時には誰からも聞かされてこなかったことに気付くことになる。 結果は、みじめな敗北だった・・・。
2010年の日本、45歳になった真理はある日、昔過ごしていた家の夢の中で、1本のコレクトコールを受けることになる。
「まま、たすけて」と、受話器の向こうで、同じように受話器を握り締めているのが、1980年の15歳の自分であることを、彼女はなぜか 知っていた。
アメリカでみじめな1年を過ごし、挫折感を抱えたまま帰国し、その場であったすべてを呑みこんだままで、30年近くをやり過ごしてきた、 通訳として、東京裁判の資料の翻訳をしていた、という母の秘められた過去を「知り」、その姿が、自分の親にそっくりだということに気付いた 真理は、30年前のあの場に戻ることを決意する。
それは、今なお日本が引き摺り続けている、日本の「戦後」に終止符を打たんとする、16歳の少女の、『東京裁判』への、最終弁論だった。
『私たちは負けてもいい』とは言いません。負けるのならそれはしかたがない。でも、どう負けるかは自分たちで定義したいのです。それを しなかったことこそが、私たちの本当の負けでした。もちろん、私の同胞が犯した過ちはあります。けれど、それと、他人の罪は別のことです。 自分たちの過ちを見たくないあまりに、他人の過ちにまで目をつぶってしまったことこそ、私たちの負けだったと、今は思います。
2015/10/8
「タモリと戦後ニッポン」 近藤正高 講談社現代新書
タモリは何の前触れもなしに登場し、林(TBSラジオ『パック・イン・ミュージック』アナウンサー)の読む「続いて苦労多かる 国際放送です。TBSが聴いた昨夜の北京放送は・・・」というパロディニュースに合わせて、デタラメな中国語の同時通訳を当てた。林は 必死に笑いをこらえながら「一方、自由ドイツの声は・・・」と原稿を読み続けたが、耳元でタモリがデタラメなドイツ語をつけると、ついに 爆笑してしまう。
1975年、タモリこと森田一義が山下洋輔らとの仲間内で馬鹿請けしていた「四ヶ国語麻雀」などの宴会芸を引っ提げて、地元福岡から上京 することにしたのは30歳の時だった。
それまで様々な職場を転々としながらも、フツーの社会人として真面目に仕事をこなしてきた森田が、「30歳から一生の仕事を」とお笑い芸人 の道を選ぶことになったのは、その素質を認めた赤塚不二夫が、自宅だった都心の高級マンションへの居候を認めるなど、強烈に背中を押して くれたということもあるだろう。
しかし、彼をメディアや芸能界に熱心に売り込んでいた、山下洋輔や高平哲郎、高信太郎、筒井康隆などの面々でさえ、<誰もがテレビ向きでは ないと思っていた>のは、タモリの持ち芸の真髄が、日本文化の奥底に暗黙のうちに潜むタブーにさえ平気で抵触しかねない、<密室むき>の芸 だったからだ。
ほとんど正体不明の存在としてテレビに突如現れた、タモリのそんな過激な<芸風>が、次第に一般にも受け入れられ、やがて日本のお茶の間を 席捲してしまうことになったのは、<高度経済成長による日本社会の変化に起因するのではないか。>
しがらみの多い日本の精神的風土を揶揄するタモリの芸風は、地縁や血縁に縛られた農村を忌避して都会に出てきた人々にも受け入れやすかった だろう。また文化人の思考模写などの初期の持ちネタは、高学歴化が進んでいなければ一般的には理解されないまま終わっていたはずだ。
1945年8月22日、終戦のちょうど1週間後に生まれ、半生を戦後史と軌を一にしてきた<タモリ>の足跡を通して、戦後ニッポンの歩みを 振り返ろうとする、これはまことにユニークな<現代史>に向けての大胆な試みなのである。
1982年10月4日正午、『笑っていいとも!』放送開始。
東京・新宿のスタジオアルタからの生放送に臨んだタモリは、髪形をトレードマークだった真ん中分けでなく七三に、サングラスもいつもより薄い 色のものに替えて現われた。こうして、デビュー前には仲間内でもテレビで受け入れられるはずがないと思われていた男は、あれよあれよという まにいくつものレギュラー番組を獲得していくことになる。
<タモリは従来のイメージを裏切ることでスターダムにのしあがったのだろうか?>
いや、「自分は何も変わっていない」とタモリは言う。「オレが、社会というかテレビを見ている人たちを克服したんじゃなくて、向こうがオレを 克服したんじゃないかという感じがありますね」というのである。
2013年10月22日、『笑っていいとも!』放送終了発表の際、「国民のみなさまにも、ほんとどっち向いても感謝です」と挨拶を述べた、 自分は国民に遊ばれる存在で、飽きられたら容赦なく捨てられるとの自虐的な意味合いを込めて、「国民のオモチャ」を自称していたタモリは、 自らの存在を通して、戦後ニッポンの本当の姿を鮮やかに浮かび上がらせてくれる、「国民の象徴」となったのである。
ひょっとすると、芸能界に入る前もあとも他人に求められるがままに仕事をしてきたタモリが人生で自ら決断を下したのは、30歳で笑いの道に 進むべく再上京を決めたときと、『いいとも!』の終了を決めたこのときぐらいなのではないか。このあたり、戦前・戦後を通じて立憲君主として ふるまうことを自らに課し、政治への介入をあくまで避けた昭和天皇が、2・26事件と終戦の二度だけは「聖断」を下したという史実と思わず 重ね合わせてしまう。
2015/10/4
「殺人犯はそこにいる」―隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件― 清水潔 新潮社
「ほんと、すみませんねえ・・・」
釈放されたあの日、菅家さんはマグロの鮨を口に運びながら私に頭を下げてくれた。これまでの日本テレビの報道を知ってのことだった。そんな 菅家さんに対して、私は正直な気持ちを口にした。恩など感じてもらったら申し訳ない。だからはっきりと言った。
「いえ、違うんです・・・。菅家さんが刑務所にいると、どうしても辻褄が合わないんです。私が困るんです。だから排除させていただきました」
1990年5月、栃木県足利市のパチンコ店で4歳の松田真実ちゃんが行方不明となり、やがて河川敷で遺体となって発見された。その後、園児 バスの運転士・菅家利和さん(当時44歳)が誘拐殺人犯として逮捕され、DNA型鑑定が決め手となって、無期懲役の判決が下された。一旦は 自白により罪を認めたものの、公判中からは否認に転じ、無実を証明するためのDNA再鑑定を求めてきた、菅家さんの必死の主張が認められた のは、ようやく17年後のことだった。
世に言う<足利事件>である。
自らが描いたストーリーに固執し、都合の悪い目撃証言はなかったことにしてしまうとともに、容疑者には執拗に虚偽の自白を強要する、身勝手で 強引な警察の捜査。驚くほどに杜撰なDNA型鑑定の実態と、威信を保つためには不当であろうとも形振りかまわないかのような、滑稽なまでに 異常な検察の防衛本能。
「桶川ストーカー殺人事件」で、警察より先に犯人に辿り着いてみせたことで名を馳せた、伝説の「事件記者」が、この<冤罪事件>の真相に挑む ことになったのは、しかし、検察の闇を白日の下に曝け出し、菅家さんの冤罪を晴らすことだけが、目的ではなかった。
菅家さんが犯人でないのだとすれば、<真犯人は一体どこにいるのか?>
79年 栃木県足利市 福島万弥ちゃん 5歳 殺害
84年 栃木県足利市 長谷部有美ちゃん 5歳 殺害
87年 群馬県尾島町 大沢朋子ちゃん 8歳 殺害
90年 栃木県足利市 松田真実ちゃん 4歳 殺害
96年 群馬県太田市 横山ゆかりちゃん 4歳 行方不明
県境を挟んだ半径10キロというごく狭い地域の中で、幼い少女が連れ去られる、という事件が連続して発生していた。誘拐現場はパチンコ店で、 遺体が発見されたのは河川敷と共通しているものの、犯人はいまだに逮捕されていない。菅家さん以外には・・・
これは<連続幼女誘拐殺人事件>ではないのか?
「犯人」という名のタクシーから菅家さんに降りてもらわなければ、次の客を乗せることはできない。何が何でも菅家さんには、そこを退いて もらわねばならない。菅家さんの冤罪の立証にここまでの執念を燃やし続けることができたのは、五人の子供たちの命を奪った<真犯人>を追い 詰めるためだった。なぜならば・・・
<殺人犯>(消された目撃証言にあったルパン似の男)がなにくわぬ顔で、いまだに<そこにいる>ことを、この執念の事件記者は、 すでに突き止めていたのである。
何度も何度も報じたぞ。ルパンよ、お前に遺族のあの慟哭は届いたか。お前がどこのどいつか、残念だが今はまだ書けない。だが、お前の存在 だけはここに書き残しておくから。
いいか、逃げ切れるなどと思うなよ。
2015/10/1
「S,M,L,XL+」―現代都市をめぐるエッセイ― Rコールハース ちくま学芸文庫
建築はあるスケールを超えると大きい(ビッグ)という資質を獲得する。大きいこと(ビッグネス)の話を持ち出す理由はエベレストに 登る人の答えがいちばんいい。「そこにあるから」だ。ビッグネスは究極の建築である。
1.ある臨界量を超えると、建物は「ビッグな建物」になる。
2.ビッグネスにおいて、空間構成、スケール、プロポーション、ディテールといった建築の古典的「わざ(アート)」は用なしだ。
3.ビッグネスでは中心と外皮があまりにも離れ過ぎているので、建築の内部と外部は別々のプロジェクトとなる。
4、単に大きいというだけで、建物は道徳と無関係の領域に入り、その建物のインパクトはもう質とは関係がない。
5.ビッグネスはもう都市を織り成す構成要素ではない。「まわりの状況なんか糞喰らえ」と言っている。
<建築家の意志など関係なく、建物のサイズ自体が思想的なもくろみになるというのは、もの凄いことじゃないかと思う。>と、伝統や、透明性、 倫理性などといったこれまでの設計手法とは、根本的に訣別することになってしまった建築の「巨大化」に、逆に「建築以後」の、はるかに豊かな プログラミングが可能になった都市の姿を予兆してみせた、
均質化の同時多発が、実は差異を離れて類似化へと向かうよう意図された意識的な運動だったとしたら?グローバリゼーションの力が剥ぎ取った、 現代都市のアイデンティティの消失が、伝統的な都市計画のビジョンとは異なる次元の複製都市を生み出したという、 『ジェネリック・シティ』から、
何を保存するかではなく、何を諦め、何を消して思い切るかについての考え方を整備する必要を訴え、「歴史保存大躍進の時代」の歴史保存と 解体の衝撃的な同時進行ぶりに異議を唱えた、 『クロノカオス(時系列的錯綜)』まで。
というわけでこの本は、1300ページを超えるヴォリュームと、圧倒的なヴィジュアルとで、おもにデザイン業界にセンセーションを巻き 起こした『S,M,L,XL』(1995年)から、膨大な量のイメージを外して、現代都市に関して書かれたエッセイだけを残し、その後に 書かれた問題作を「+」した、建築界の鬼才、コールハースの最新テクスト集の邦訳版文庫本なのであるから、
たとえば待ち合わせの時などに、おもむろにバッグから取り出して、さりげなく読み耽ってみせたりすると、とってもお洒落なこと請け合い なのである。
もしデジタルがわれわれにもたらそうとしているのがセンサー文化だとすれば、それは決まりきった日常が永久に課されるようになることを 意味するのだろうか?同じものを意気揚々と繰り返し届けてくるシステムの到来?そんな関係性は内側で閉じてしまうのが関の山だ。世界は原因と 結果がえんえんと無駄に繰り返されるだけの場所になるだろう。(『スマートな景観』)
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