徒然読書日記201509
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2015/9/27
「美貌格差」―生まれつき不平等の経済学― DSハマーメッシュ 東洋経済新報社
テキサスのフレデリックスバーグで、雑貨屋にこんな看板が出ていた。「主婦やってるとブスになる」。本当にそうかもしれない。でも、 証拠を見る限り、本当なのはむしろその逆だ。ブスは家に引きこもって主婦をする。外で働いても美しい女性みたいには稼げないからだ。
と、ほとんどがモルモン教徒であるブリガムヤング大学で、500人の学生を前に著者がそう言ったら、講義を聴きに来てくれた女性たちが ものすごく怒ったそうだ。モルモン教徒の女子大生には、外で働いて収入を得るということをしない人が他では見られないほど多いので、 「モルモン教徒の主婦はブスだ」と言われた、と思ったのである。
<いや、ぜんぜん違いますって!>
1.容姿の劣る女性は外で働いて収入を手にする可能性が低い。2.モルモン教徒の女性は家に入る傾向が強い。この2つの命題から正しい推論 で得られる結論はむしろ、「モルモン教徒の主婦は平均ではモルモン教徒でない主婦よりも美しい」なのだから。
というわけで・・・、この本は「人の美しさが所得や労働市場一般にどう影響するか」、つまりは「美形のみなさんは得をしている」という <身も蓋もない>現実に、史上初めて(誰も取り上げようとしなかった)経済学の立場から、きわめて<真面目に>斬り込んでみせた意欲作 なのであるが、
<平均より、美女は8%収入が高く、ブスは4%収入が低い>
これが男性では、4%のプレミアと13%のペナルティとなり、容姿が収入に与える影響は、実は男性の方が大きい。
(男はブサイクでも社会に出ざるを得ないからか?)
<見栄えのいい働き手を雇えば会社の利益は増える>
美形は稼ぎがいいが、その分給料も高くなるので、働き手の容姿がコストや収入にどう影響するか、なんとなくわかっている会社は、それだけで 十分に利益が増える。
(気付いていない働き手をうまく出し抜くとか?)
<銀行は美しい借り手にお金を貸すほうが好きだ>
ブサイクな人は信用できないことが多いと思っているのか、美しい借り手にかかわれるなら喜んで太っ腹な条件でお金を貸すらしく、借入金利も 低いというデータがある。
(債務不履行を起こす可能性は、実際には美しい借り手の方が高いらしいのだが・・・)
などなど、「美形のお得度」にまつわる<衝撃の真実>を次から次へと吹聴されたあげくに、「見てくれの不自由な人たち」も、人種や民族、 女性、お年寄りなどと同様に、法律で守るべきなのではないか?とまで言われてしまえば、いくらブサイクを自認している暇人だって、その後 どんなにフォローされても「いささか面白くない」のは、モルモン教徒の女子大生と同じ気分なのである。
ブサイクな容姿は人の足を引っ張るし、それは今後も変わらないだろう。でも、ブサイクだからって人生お先真っ暗ってわけじゃない。 少なくともいくらかは自分で乗り越えられる。ブサイクだからって心の底からくじけてしまわなくてもいい。ブサイクなみなさんが背負った 重荷はそこまでどうしようもないわけじゃあないのです。
2015/9/23
「絵本徒然草」(上・下) 橋本治 河出文庫
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とてさのみ知り顔にやは言ふ。かた田舎よりさし出でたる人こそ、よろずの 道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、みづからもいみじと思へる気色、かたくななり。よくわきまへたる 道には必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそいみじけれ。
<どんな事にでも、「詳しくない」という顔をしとるのがいいな。まともな人間は、知ってる事でもそうそう知った風な顔をしては言わんだろ? ダサイ田舎から出て来ちまった人間だけよ、どんなことでも知ってる風な受け答えをしたりはするな。だもんだからよ、実際オソレイリマシタ っちゅうこともあるけどよ、自分から「スゲエだろ」と思ってる顔は、アホみたいなもんよ。よーく知ってることには必ず口を重くしてな、 訊かれぬ限りは黙ってるのが本物なのよ。>
――美意識、というもんですな。
というわけで、これはアノ『桃尻語訳枕草子』に続く、<徒然草>の橋本流現代語訳の試みなのであるが、(それにしても、「桃尻」というのが 本当に桃のような形のお尻という意味で、馬の鞍に乗っても落ちてしまうことから「尻が落ち着かない」ことを言うようになったなんて、この本 で初めて知りました。)
訳した橋本本人が言うように、<中学や高等学校の古文の教科書にも載っているし、読みやすいということでいえば、これだけ読みやすいものも ない>、そんな<原文のままで読めるようなものを改めて現代語に訳し直す必要があるのか>という思いから、取り上げられた各段の現代語訳の 後に添えられる<註>も、冒頭に掲げたように誠にあっさりとしたものにならざるをえない・・・
かと言えば、それが全然そんなことはないわけで、兼好法師がこのような文章を遺すことになったのには、どのような時代の背景が影響している のか、微に入り細を穿った薀蓄話はこれでもかとばかりに尽きることもなく、<註>のほうが圧倒的に長い場合のほうがほとんどなのである。
<読みやすいものの内容が分かりやすいものであるかどうか>はまったく別の問題なのであれば、<読んで分かったような気のする文章>を改めて 自分の言葉で説明する段階になって、少しばかり頭を抱えることになってしまった橋本さんが、
卜部兼好という青年貴族が、退屈を持て余しながら出家して、やがて兼好法師となっていく、そのパーソナリティの変遷を、吉田兼好に乗り移った かのようになって活写して見せた、これは『徒然草』に関する新たな解釈の試みなのであり、
「青年なんてそんなもん、中年なんてそんなもん、だから元気を出せ」と、読んでいるだけでなんだかとっても役に立つ、あなたの人生の指南書 ともなるべき本なのである。
つれづれなるままに日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、 あやしうこそものぐるほしけれ。
<退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケ分かんない内に アブナクなってくんのなッ!>
2015/9/14
「絶歌」―神戸連続児童殺傷事件― 元少年A 太田出版
1997年6月28日。
僕は、僕ではなくなった。
陽なたの世界から永久に追及された日。
それまで何気なく送ってきた他愛ない日常のひとコマひとコマが、急速に得体のしれない象徴性を帯び始めた日。
「少年A」――それが、僕の代名詞となった。
<神戸連続児童殺傷事件>そのものについては、述べることにしないとすれば、この本について、論じることに意味があるのかどうか。
論じるとしたら、どのような論点とすればよいのか。
純粋な作品(?)として考えれば、
異常なほどに鮮明すぎる「映像記憶」。
臨場的すぎる「人物描写」と「会話」。
それと比較して、あまりに陳腐で凡庸な表現力。
それらが綯い交ぜになった、積み木細工のような文章が、読んでいる者の気持ちを落ち着かなくさせる。
いったい、作者はこの部分をどのような意図で書いているのか?首を捻るばかりの自分に、この本をこれ以上論評することはできないが、
いずれにしても、この作者は絶対に更生などしていないように思われてならないのである。
この11年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべて自業自得であり、 それに対して「辛い」「苦しい」などと口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまい ました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられ なくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己 救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
2015/9/14
「日本の反知性主義」 内田樹 編 晶文社
「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って 聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片づいたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以て さしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。
(内田樹『反知性主義者たちの肖像』)
新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替える、「知の自己刷新」のことを「知性」と言うと 考える内田樹が、「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」という<反知性主義者>の基本的マナーが、 為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に深く食い入ってしまったかのような現代日本を憂い、
「人々が知性の活動を停止させることによって得られる疾病利得があるとすればそれは何なのか?」についてのラディカルな分析を、気鋭の論客 たちに問いかけた、これは『街場の憂国会議』シリーズ第二弾(これで終わりかもしれないけど・・・)なのであるが、
<ぼくがいいたいのは、「反知性主義」という言い方の中に、どうしても含まれてしまう「あんたたちは反知性だけれど、こっちは知性だよ」と いうニュアンスが好きになれないってことだ。>
(高橋源一郎『「反知性主義」について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいい のだろう、と思って書いたこと』)だとか、
<実は、「反知性」という言葉が私にはわかりません。・・・
しかし私たちが、本当はよくわからないのに「わかったこと」にして何かを通してしまうとき、本当は気持ち悪いものにそれが瑣末だからといって 何も言わないとき、私たちは一体、何に手を貸しているのだろう?
それもまた、反知性的な態度ではないだろうか?>
(赤坂真理『どんな兵器より破壊的なもの』)あるいは、
<締め切りを過ぎているのに、書く気持ちになれない。ある程度構想はできているのに、書き始めることができない。理由はよくわかっている。
「反知性主義って、オレのことか?」と、心の暗い側の半分で、そう思っているからだ。
自分自身が、あらかじめ予測している厄介事だからこそ、人はかえってそれを避けて通ることができない。で、型どおりにつまづいて、落とし穴 にハマりこみ、腰まで泥に埋まりながら、虚空に爪を立てている。>
(小田嶋隆『いま日本で進行している階級的分断について』)
などという、数ある論考の中ではいささか斜に構えた風の立ち位置の方が、なんとなく「知性的」であるように感じてしまったのは、 暇人もすでに重篤なる「反知性主義」に毒されてしまっていることの現れなのだろうか、と思った次第である。
いずれにしても、「知性的」であるということは、「一筋縄」ではいかないという姿勢のことをいうのだろう。
知性は、それを身につければ世界がクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは 参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。世界の理解はますます煩雑になってくるのです。わたしたちが生きるこの場、 この世界が壊れないためには、煩雑さに耐えることがなにより必要です。そのことがいっそう明確に見えてくるということ、それが知性的という ことなのです。
(鷲田清一『「摩擦」の意味』)
2015/9/13
「突然ノックの音が」 Eケレット 新潮クレスト・ブックス
ドア口に二人、立っている。レース編みのキパを頭にのせたユダヤ教徒の少尉と、その後ろに、明るい色の毛髪がまばらな、大尉の肩章 をつけた女性士官。オリットは少し待ち、二人がなにもいわないので、なにかご用ですか、と聞いた。(『セミョン』)
「ご主人のことなんですが、入ってもいいですか?」
<突然ノックの音が>して、やってきた二人の兵士を、ルームメイトと共同で使っている居間に招じいれたオリットは、あなたの<夫>が検問所 の近くで発生したテロ事件の犠牲者となった、という訃報を受け取ることになる。この国に誰一人として身寄りのない彼セミョンの、遺体の確認 をできるのはあなただけだ、というのだが・・・<妻>と呼ばれたオリットには、<結婚>などした覚えがなかった。
などなど、長いものでも十数ページ、短いものならわずか見開き2ページという、これはイスラエルが生んだ世界的掌編作家による38篇の、 選りすぐりを詰め込んだ<宝箱>のような本なのである。
<突然ノックの音が>して、やってくるのは、
ピストルを突き付けて「話をしてくれ」とせがむ、スウェーデンから移民してきたばかりの口髭をはやした男だったり、 (『突然ノックの音が』)
母親のお遣いの金をくすね、初めて嘘をついてその罪をなすりつけた、前歯の欠けたおっかない赤毛の男の子だったり、(『嘘の国』)
口論に忙しすぎてノックに応えようともしない両親のもとに、自分ひとりで組み立てた模型飛行機を外で飛ばしてもいいかと聞きにきた少年 だったりするわけだが、(『お行儀のいい子』)
口を開けたまま眠っている彼の、舌の下にそうっと指をさしいれると、ちっちゃなファスナーがついていて、引っ張ると彼全体が貝みたいに 開いて、中から山羊みたいなあご鬚をはやしたユダヤ教徒が出てきた。(『チクッ』)
なんて、時には<突然ノックの音>もなしに、身に覚えのない理不尽な出来事が、我が身に降りかかってくるようなお話ばかりなのである。
あまりにも荒唐無稽だろうか?そんな奇想天外な事件は、どう考えてみても、自分の周りでは起こりそうもないと、あなたはお考えだろうか?
兵役免除のために初対面で偽装結婚した相手がセミョンだったことに思い至ったオリットに、死体安置所に向かう車の中で、二年前の結婚式一日 だけの出会いの記憶が甦る。立会人に「結婚が無効になる」と茶化されて、かがみ込んでキスしようとした<真面目ないい男>セミョンの、 息の臭さに耐えかねて後退り、吐いてしまったオリット。セミョンは一瞬、凍りつき、それから走り去った。それが、オリットがセミョンを見た 最後だった。今日、ここで遺体を見るまで・・・
笑うしかないほどに愚かなすれ違いの苦々しさと、うっすらと傷んだ傷口にじんわりと染み込んでくる哀しみ。そんなものの、一つや二つくらい なら、あなたのありきたりの人生のなかにだって、きっと埋もれているに違いないのだ。
「少し、お連れ合いと二人きりになりたいですか?」大尉が聞いた。オリットは、いいえ、と首を振った。「泣いていいんです」大尉がいう。 「うちに溜めこむのはよくないですから」
2015/9/9
「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」 Lダートネル 河出書房新社
大破局後を描いた多くの映画や小説が好む劇的なシナリオは、産業文明と社会秩序の崩壊で、生存者が乏しくなる資源をめぐって ますます熾烈な争いを始めるものだが、僕が注目したいシナリオはその逆だ。極端な人口減少が急激に起きて、あとに僕らの技術文明の物質的 インフラが手つかずの状態で残されるケースだ。
スーパーには充分な食品が貯蔵されたままになっている。デパートの店舗から上等な服を持ち出すことも、憧れのスポーツカーをショールーム から失敬することも可能だ。放置された豪邸には幸運にも発電機があり、照明・暖房・家電機器が利用できるかもしれない。GSの地下タンク には燃料が残っていて、それはかなりの期間、家や車を動かし続けられることだろう。おそらく、大破局の直後を生き延びた小集団は、自由に 手に入る資源の山に囲まれていることに気づくだろう。
<だが、その楽園は腐りかけている。>
このシナリオなら、文明の一からの再建をどうすれば加速できるかを考える思考実験の最も興味深い出発点がもたらされる。これは独り立ち するまでの猶予期間を生存者に与え、自活する社会の根本的機能を学び直す必要が生じる前に、後退し過ぎるのを防ぐものだ。
<可能な限り早く復興するには、どんな知識が必要となるのか?>
まずは、快適な暮らしの基本的要素として、充分な食糧ときれいな水、衣服、建築材料、エネルギー、必須の医薬品の問題に取り組む。栽培可能 な作物と種は、それらが枯れて失われる前に農地から集めねばならない。ディーゼル油ならバイオ燃料用作物からつくれ、それで機械が壊れる まではエンジンを動かし続けられる。廃墟となった文明の残骸から、うまく部品を取り外し、材料を調達するための創意工夫が求められる。
必需品が手に入るような仕組みが整ったなら、農業を立て直し、貯蔵食糧を安全に保管し、動植物の繊維を布地にする。紙、陶磁器、レンガ、 ガラス、錬鉄など、今日ではあまりにも当たり前になった日用品の数々は、いざ必要になった時、どうやったらつくれるのだろうか?建設用の 木材から飲料水を浄化する炭、さらに激しく燃える固形燃料まで、木からは驚くほど役立つものが大量に得られる。基本的なノウハウさえあれば、 周囲の自然からはソーダ灰、石灰、アンモニア、酸、アルコールなど、ほかにも不可欠な物質を大量に抽出することができるのだ。
つまりこれは、大破局後の世界に合った適切な技術を供給するための、<速効手引書>なのである。
今日、援助機関が発展途上国の社会に適した中間技術を提供するのと同様である。こうした技術は、現状を大いに改善する解決策――既存の 初歩的な技術からの進歩――だが、それでも地元の職人によって実際的な技術と道具、および手に入る材料で修繕や維持ができるものだ。文明を 急速に復興させる目的は、何百年にもまたがる遅々たる発展は省略するものの、原始的な材料と技術を使って到達できるレベルまで一気に移行 させることなのだ。要するに、ちょうどいい中間技術なのである。
2015/9/8
「戦後史入門」 成田龍一 河出文庫
歴史とは何か。
ふだんはそんなこと、考えもしないでしょう。 そんなことは決まっている、教科書に書いてあることじゃないか、そういう声が聞こえてきそうです。
でも、ほんとうにそうでしょうか。よく考えてみると、「歴史とは何か」という問いを通らないと先に進めないような問題が、この世の中には いくつもあります。
たとえば、教科書に書かれていることが歴史だとしたら・・・
・教科書に書かれていないことは、歴史ではないのか?
・いま目の前で起きている動きは、いつ歴史になるのか?
・古い時代から新しい時代まで順番に書いてあるだけなのなら、なぜ何種類もの教科書があるのか?
・歴史というときのその中身が、日本と中国のあいだでは異なっているというのなら、何を知っていれば歴史を知っていることになるのか?
つまり「歴史」とは、もう決まってしまったことをなぞることなのではなく、たくさんの出来事からある出来事を抜き出し、別の出来事と結び つけて説明すること、<出来事を解釈し、語る営み>のことを、「歴史」と呼ぶのだ。
というこの本は、「14歳の世渡りシリーズ」として刊行された『戦後日本史の考え方・学び方』を増補の上「文庫化」したものなので、 近現代史を専門とする大学の先生が、多感な中学生を相手に手抜きするようなこともなく、噛んで含めるように語りかけてくるような文体が、 「とってもよくわかった」ような気分(なんたって、巻末に解説を書いているのも、あの「こどもニュース」の池上さんだしね。)にさせてくれる のだが・・・
<戦争に負けてどうなった?>
―その出来事を大事だと見なしたのは誰?
―視点をずらすと見え方が変わる
<「55年体制」って何?> ―記憶といってもいろいろなレベルがある
―歴史とは生きるための知恵だった
<経済大国?それっていつのこと?>
―みんなが同じ経験をしたわけではない
―歴史はあとから語られる
<「もうひとつの」戦後日本を見てみよう>
―「沖縄」の歴史から戦後を見てみよう
―これまでの歴史の「狭さ」を知ろう
などなど、なかなかに穿った見方でガンガン攻め立ててくるこのお話を、本当に「よくわかった」かどうかは、なんだか怪しい気分にもなる のだった。
歴史は過去を語るのですけれども、同時に未来を語っています。未来をどのように考えているかによって、いまがどのようにとらえられ、 過去がどのようにとらえられるかが変わります。・・・
未来に向けて、いまを確かめ、そして、どのような過去の条件があるのかということを知る営みが、歴史です。
2015/9/4
「スクラップ・アンド・ビルド」 羽田圭介 文藝春秋
火曜だからデイサービスの日ではない。蛍光灯の明かりも一切なく、人気は感じられなかった。・・・同じ空間にいるはずなのに、 電気もつけず歩く時以外音もたてず、そこにいないように振る舞う祖父の辛気くさい感じに健斗が慣れたのも最近だ。
「健斗にもお母さんにも、迷惑かけて・・・本当に情けなか。もうじいちゃんは死んだらいい」
と顔をしかめながら小さな手で全身のあちらこちらを揉む、3年前に次女の母のもとに引き取られてきた87歳の祖父は、いくら調べても原因 不明の神経痛に悩まされ、現代医学ではやわらげようのない苦痛を背負いながら、診断上は健康体として、今後しばらく生き続けることを保証 されていた。
<せめて新聞の見出しを眺めるくらいのことはしたらどうだ>
まるで居候の身をわきまえていると主張しているかのように、許可されるまでは何にも手をつけようとしない祖父の見せかけの奥床しさに鼻白む 思いの健斗は、数ヶ月前に5年間勤めたカーディーラーの仕事を辞め、転職のための就活をしながら、親族内での孝行孫たるポジションを獲得 すべく、祖父の介護に勤しんでいたのだが、
花粉症で目も鼻も腰もやられ、会ってくれる人もおらず散歩する気にもなれない、ある雨の日の午後、眠くもないのに寝転んだベッドの上で、白い 天井を見ているうちに、28歳の健常者にできることなど一つもないことに気付かされる。より腰の楽な姿勢を探そうと左へ横向きになると、
<そこにも白い壁があった。>
昼も夜もベッドに横たわり、白い天井や壁を見ているだけで、自分が昼間途切れがちに眠っていることも意識できないほど白夜の中をさまよう ようになれば――良くなりはしない身体とともに耐え続けた先にも死が待っているだけなのなら、早めに死にたくもなるのではないか。
<自分は今まで、祖父の魂の叫びを、形骸化した対応で聞き流していたのではないか。>
というわけで、ここから健斗による「87年も生きてきた祖父の終末期の切実な挑戦」への、陰ながらの協力が始まることになる。
「人間、骨折して身体を動かさなくなると、身体も頭もあっという間にダメになる。筋肉も内臓も脳も神経も、すべて運動しているんだよ。 骨折させないまでも、過剰な足し算の介護で動きを奪って、ぜんぶいっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから。」
という介護福祉士の友人のアドヴァイスを受けて、母が自分でやった方が早いにもかかわらず、リハビリ代わりの家事として、無理やり毎日 やらせている洗濯物畳みなど、<祖父が社会復帰するための訓練機会>を、しらみ潰しに奪ってゆくことにした健斗にとって、それは、被介護者 自身の意向に沿うのでなく、自分たちが楽に仕事をこなすために、“優しさ”を発揮するだけのプロの過剰な足し算介護とは、やっていることは 同じでも、動機からして似て非なるものであるはずだったのだが・・・
入浴介護中、目を離したすきに溺れそうになった祖父の方が、よほどしたたかに生きているということを、これでもかとばかりに教えられること になろうとは、その時にはまだ気付いてさえもいなかったのだ。
「死ぬとこだった」
その一言に、一畳半ほどの脱衣所で平衡感覚を失い、おぼれそうになった。
違ったのか。
自分は、大きな思い違いをしていたのではないか。
悪くなるばかりの身体で苦労しながら下着をはく祖父を見ながら健斗は、心を落ちつかせようとしていた。こうして孫をひっぱりまわすこの人は、 生にしがみついている。
2015/9/4
「はじめての福島学」 開沼博 イースト・プレス
「福島を応援したい」「福島の農業の今後が心配だ」「福島をどうしたらいいんですか」
こういう問いを福島の外に暮らす人から何度も投げかけられてきました。
本書はそういう問いに対して、「とりあえず、このぐらいは知っておいてもらいたい」ということを一冊にまとめたものです。この一冊を読めば、 ご自身の中に、福島の問題に向き合うための「引き出し」をつくることができるでしょう。
問 <震災前に福島県で暮らしていた人のうち、県外で暮らしている人の割合は?>
答 <
約2.5%
>
問 <直近(2014年11月)の福島の有効求人倍率は、都道府県別で全国何位?>
答 <
1位
>
問 <福島の2013年の企業倒産件数は、2010年の何倍?>
答 <
0.35倍
> などなど、
福島県出身で『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたか』など、震災後の福島問題に実際に現地で関わりながら、精力的に取り組んできた 著者が、「福島を知るための25の数字」という問いを冒頭に掲げ、具体的なデータを用いながら一つ一つ解きほぐすように議論を進めていった のは、「避難」、「賠償」、「除染」、「原発」、「放射線」、「子どもたち」の <6点セット> をあえて外しながら、いかに「福島の問題」 を捉え直すことができるか、少しずつ考えてみたかったからだった。
「原発事故によって多くの人が避難をし続ける福島。除染・賠償・放射線への対策など課題は山積する。復興が遅れている。私たちは福島を 忘れてはならない」とでも言っておけば、「福島問題の全体像捉えてます」見たいな感じになって、とても便利だけれど、年を追うごとに問題 構成は常に変わり、様々なデータも出てきている現場に身を置く者にすれば、それはほとんど思考停止しているに過ぎず、むしろ、そういう 表面的な使いまわせるキーワード化している問題、「いかにも福島らしい」特殊な問題の背後をこそ見るべきだと言うのだった。
というわけで、「福島 農業」と<ググる>と、「人殺し」「死ね」「食べない」などという<おすすめキーワード>がいまだに出てくるほど、 「スティグマ(負の烙印)化」が止まない福島の現況に対し、これから「福島にどう関わるか」、「どう支援するか」という、「善意」のあなた への著者からの提言は、
・勝手に「福島は危険だ」ということにしない
・勝手に「福島の人は怯え苦しんでいる」ことにしない
・聞きかじりで「福島はこうなんです」と演説を始めない
などなど、いささか虚を衝かれるようなものだったのである。
「福島を応援したい」「福島の農業の今後が心配だ」「福島をどうしたらいいんですか」
こういう問いに対して、一つ、明確に簡明に網羅的に出せる答えがあります。
それは、「迷惑をかけない」ということです。
2015/9/1
「火花」 又吉直樹 文藝春秋
沿道から夜空を見上げる人達の顔は、赤や青や緑など様々な色に光ったので、彼等を照らす本体が気になり、二度目の爆音が鳴った時、 思わず後ろを振り返ると、幻のように鮮やかな花火が夜空一面に咲いて、残滓を煌めかせながら時間をかけて消えた。
<あんたが後ろ振り向いちゃまずいだろう!>
と、思わず突っ込みを入れそうになってしまったのは、売れない漫才コンビの片割れである<僕>が、花火大会の会場脇という最悪の設営に文句 も言わず、自分の声を掻き消してしまう花火の音に、自分の矮小さを認識させられつつも、絶望するまで追い詰められもせず、むしろ花火に圧倒 的な敬意を抱きさえしてしまったからなのだが、
それがまた、「仇とったるわ」と憤怒の表情で出て行って、大衆に喧嘩を売るかのように、意味不明の言葉を怒鳴りだした先輩漫才師(神谷さん) を、初めての出会いであったにもかかわらず、わが永遠の師匠と思い定めるきっかけになった理由でもあったのだろう。
ご存知、本年度超話題の芥川賞受賞作品『花火』。
え?違う?『火花』?
でも、おそらくこの小説は、この冒頭の「花火大会」のシーンがすべてであり、この数ページで僕と神谷さんのそれぞれの人物造形と関係性は 出来上がってしまっているといってよい。だから・・・
<ペットのインコに「悔しくないんか?」などと言われたら、少しだけ羽を燃やしたくなるかもしれない。>だとか、
<耳を澄ますと花火のような耳鳴りがして、次の電柱まで少しだけ走った。>(ん?芥川龍之介か?)あるいは、
<それぞれが目的を持ち軽やかに流れて行く人々の中で、周辺の重力を一人で請け負ったかのように、重たい空気を身に纏った男が真顔で 突っ立っていた。>なんて、
ところどころに散りばめられて、キラリと輝きを放つフレーズの数々は、又吉が実際に書き溜めてきた小ネタの寄せ集めのようでもあり、つまり、 これは小説であるというよりも、感性豊かな一つの才能によって切り取られた、新鮮な風景のデッサン帳のようなものなのだろう。
残念ながら、<僕>があれほど憧れた神谷さんのお笑い芸が、暇人にはちっとも魅力的に感じられず、いささか冗長に感ずる部分もあったわけ だが、過剰なまでに才気走る自らの性を持て余し気味の<僕>なのであれば、神谷さんのこの理解不能ゆえのパワーでも借りなければ、自分で 自分の周りに築いてしまった高い壁を乗り越えることはできなかったのに違いあるまい。
父親の将棋盤を拡げ、独自の駒の動かし方を考案して全ての駒を使い、誰に攻め込まれても崩れない布陣で王将を守り、誰も攻めてこない ことに気づくまで待ち続けたこともあった。
2015/9/1
「魂の重さは何グラム?」―科学を揺るがした7つの実験― Lフィッシャー 新潮文庫
午後9時10分に患者は突然息を引き取り、まさにそれと同時に、つまり呼吸筋が最後の運動をし、顔面の筋肉が最後の運動をすると 同時にビームの端は下側の抑え棒に落ち、跳ね返ることもなくそこにとどまりました。まるで錘がベッドを持ち上げたかのようでした。 秤を正確にバランスする位置に戻すのに1ドル銀貨二つをあわせた錘が必要で・・・その合計の重さは1オンスの4分の3になることが 分かりました。
<私は重さを量る機械で魂の実体を発見したのでしょうか?>
1901年、米国の小さな市民病院の医師ダンカン・マクドゥ―ガルが、死の床にある患者の体重をベッドごと量ってみることにしたのは、 それが存在するかどうかの確信はなかったが、もし魂というものが存在するならば空間を占める物質的な物体でなければならないことだけは 確信していたからだった。<肉体を離れつつある魂に重さがあるのならば、それは存在するに違いない>、この実験結果は確かに彼のそんな 推論を支持しているようにみえた。
というわけで、この本は「魂の重さの量り方」から始まって、「魂の存在」の証明に挑んだ科学者たちの足跡を描いた本・・・なんかでは (残念ながら)ない!
この後、マクドゥ―ガル医師が行ったのは、死後に患者の重さが突然変化したという不可解な事態について、別のふさわしい説明を探すため、 更なる実験を繰り返すことだった。科学とは、何かを発見し、それを証明する実例をより多く探すことではなく、自身が誤っていることを証明 しようとすることである。自分が誤っているという証明に失敗すればするほど、最初のアイデアが信じられるようになるのが、真の科学者 というものなのだ。
で、魂に重さはあったのか、なかったのか?
それは結局、否定も肯定もできなかったわけなのだが、皮肉なことに、もしも魂に重さがなかったとしても、それがそのまま魂の存在を否定した ことにもならなかったに違いない。魂の存在を信じる人の大部分は、魂とは物理的な形態をもたず、実態のないものと考えているのだから・・・
<物体を動かす>―アリストテレスへの信奉を軽蔑したガリレオの運動論―
<ツーフィンガーをニュートンに>―ニュートンの偶像に挑戦したヤングの光の波動説―
<コルセットを通る稲妻>―二人のベンジャミンの避雷針論争の21世紀的結末―
<愚か者の金?>―近代化学を創始したボイルと"錬金術師"たち―
などなど、これは「ビスケットを崩壊させずに紅茶に浸す方法」についての研究で、イグ・ノーベル賞・物理学賞を受賞した著者が、奇怪な実験や 誤った結論などの紆余曲折の末に、それでも前進することを可能にしてくれる、「科学的な方法」とは何かについて、懇切丁寧に解説してみせた、 異色の科学史の試みなのである。
本書は、変革を強いた科学者たちの物語を通じて科学の進展をあとづけ、一般常識からすれば奇妙にみえるそれらのアイデアのどれほどが現代 の科学者によって使われ、日常の問題に取り組むのに役立てられているかを示す。・・・そこから受け取れるメッセージは、笑ってしまうような バカバカしさをあるていど容認しなければ、われわれは真にオリジナルな洞察や、さらには進歩まで失ってしまう、ということだ。どちらが奇妙 でどちらが正しい洞察かがわからない場合は、大笑いしないでおくのが賢明だろう。
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