徒然読書日記201508
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2015/8/27
「失われた時を求めて」(全一冊) Mプルースト 新潮モダン・クラシックス
家に帰ったぼくが寒そうなのを見て、母が、紅茶でも飲んだらどうだと勧めたことがあった。いや、いらないよと答えたものの、気が かわって、やっぱりもらうことにした。母は女中に命じて、紅茶と、マドレーヌ菓子を用意させた。ほたて貝の貝殻のような模様の入った、 ふっくらした菓子である。今日もかなしい一日だったが、明日もきっと同じだろうと、ぼくはふさいだ気分で、マドレーヌを紅茶に浸し、口に 運んだ。その瞬間、ぼくは震えはじめた。
「何かとんでもないことが、ぼくの内側で起こっていた。」
という冒頭の有名な一場面だけはさすがに知っていたとしても、物語の全体を読み通したという人に出会うことが意外に少ないのは、この フランス文学の最高峰とも賞される小説が、文庫本にして13冊にもなる一大長編作品であるからだ。したがって・・・
難しくて長いものならば、ずっと年をとってから読めばいいではないかと、若いときには考えて読まなかった私が、実際に年をとって「じゃあ そろそろ読もうか」と思うかといえば、もちろん思わないので、私は結局この本を一生読まないのだろう。と気づかされた角田光代が、それでは 何かすごくもったいない、損をしているような気分になったので、そんな私のような人たちに、読んでみようかと思ってもらいたい、と思った のが「全一冊」への編訳という無謀な試みに挑むことになった理由である。というのは、とてもよく理解できるし、それがまさに暇人が今さらに なって、この名作に挑むことにした思いでもあるのだった。というわけで・・・
・原文にないものは一語も付け加えない。
・主人公の恋愛に焦点を集め、一篇の恋愛小説としても読めるようにする。
・めぼしいエピソードや名場面はできるかぎり盛り込む。
という方針の下、仏文学者の芳川泰久が編訳したものを、小説家の角田光代が自分の文体にブラッシュアップして、「すっきり通読できる物語に 切り出した」この本が、原作とどう違うのかを語る資格を私は持たないが、(だいたい、比較のためにわざわざ原作を読むくらいなら、始めから こんな本は読まないのである。)
結局、この小説の読みどころは、有名な冒頭の場面(これが物語の最後で、再び登場するのだが・・・)に集約されるのだなぁ、というのが、 暇人のまことに貧相な読後の感想なのだった。
皿にあたるスプーンの音や、不揃いの敷石や、マドレーヌの味を、現在の瞬間において感じるとともに、遠い過去の瞬間にも感じていて、 だから過去を現在に食いこませることになり、自分がいるのが、現在なのか過去なのか、すぐにはわからなくなる。ぼくの内なる存在は、その 印象を有する過去と今とに共通しているもの、つまり、超時間的なもののなかでそれらを感じていることになる。そうした存在があらわれるのは、 現在と過去のひとつの同一性を用いて、その存在が生きることのできる唯一の環境にいるときでしかなく、また、事物の本質を享受できる唯一の 環境にいるときでしかない。
2015/8/25
「芸人と俳人」 又吉直樹 堀本裕樹 集英社
文字数を限定するというのは、おもしろそうだなと思うんです。季語もまぁ、見当がつくものもあるし、徐々に覚えていけるだろう と思います。でも、今、僕が定型句をやったら、俳句っぽいものにしなきゃと意識し過ぎてしまうような気がするんですよね。既存のものの コピーになってしまいそうやし、定型句というものを俯瞰で見てしまいそう。自分が格好つけてしまいそうな気がするんです。
センスを問われることが恥ずかしくて、寿司屋ではいつも「お任せで」としか注文できないのだという又吉は、読書好きだった子供の頃から、 俳句に対する憧れはあったものの、どこか恐ろしいという印象があり、なかなか手を出せないでいたらしい。
それをどのように解きほぐして、どんなふうにして俳句の豊かさや楽しさを知ってもらおうかというのが僕の基本的な課題でした。
気鋭の俳人・堀本裕樹が、後に『火花』で芥川賞を受賞することになる又吉直樹を相手に、2年にわたって俳句の講義をした対話集が、五七五の 「定型」から始まって、「季語」、「切字」の理解から、比喩、倒置、遠近法などの様々な「技」に至るまで、私たち普通の読者にも、これから 俳句でもやってみようかと思わせてしまうような、格好の俳句入門の好著になったのは、たとえば・・・
堀本「俳句の魅力に気づかれたきっかけは、何だったんですか?」
又吉「僕が俳句に興味を持ち始めたのは、さっき言ったように、思いついた短いフレーズをストックしていたことと関係しているんですが、 もうひとつ別のきっかけもあって、それが<物ボケ>なんです。」
俳句は十七音でしか言えないことを言うのではなく、ある世界のどこかを切り取って表現している。そうすることで、そこから風景が広がって いったり、人物が動き出したりする。もしかしたら、俳句の言葉数は制限されているけど、小説よりもっと大きなものを想像させることができる のかもしれないと思ったんです。
<物ボケ>でも、その物を何かに見立てて状況を説明するのではなく、その物と自分が属している世界の一部を切り取って見せればいい。などと、 <俳句>のことを<お笑いの芸>にたとえて、噛み砕いて咀嚼してみせる又吉の新鮮な解釈が、一見とっつきにくい俳句の世界を、何だか親しみ やすいものに一変させてくれたからに違いない。
つまり、俳句とお笑い芸には意外に多くの共通項があり、俳句を教えているつもりの<俳人>が、逆に<芸人>から学ぶことも多かったよう なのである。というわけで・・・
始めのうちは、<銀杏をポッケに入れた報い>などという「自由律俳句」しか詠めなかった(これはこれで味はあるのだが)又吉も、先人の 「句集」を読み、投句の「選句」を経験した上で、いよいよ挑戦することになった「句会」では、<静寂は爆音である花吹雪>という「有季 定型句」を詠んで、見事に最高点を獲得することになる。
堀本「この対談が始まった頃、お寿司屋さんのカウンターで注文するのにもハードルがある自分が、句会で人の句を選ぶなんて難し過ぎると (笑)」
又吉「はい、言うてましたね。・・・お寿司はもう余裕で頼める気がします。」
う〜む。又吉直樹、こやつ只者ではない!
2015/8/21
「寺院消滅」―失われる「地方」と「宗教」― 鵜飼秀徳 日経BP社
文化庁の『宗教年鑑 平成26年版』によると、全国に仏教系寺院は7万7329ヶ寺存在し、僧侶は37万7898人に上る。
一方で日本フランチャイズチェーン協会が発行する『コンビニエンスストア統計調査月報(2015年2月版)』は、全国のコンビニ数を5万 2380店と報告している。
「だが、われわれはコンビニほど、寺を必要としているだろうか。」
家族葬や散骨、永代供養など、先祖代々のお寺との関わりが希薄になり、田舎から都会への改葬(お墓の引っ越し)も増えている。このような 「失われる宗教」の背景には、法を説くことを忘れた僧侶たちへの厳しい批判や寺院不要論が含まれていることも十分承知している。
という、自身も京都の貧乏寺出身で僧侶資格も持つビジネス誌の記者が、寺の存続問題を通して、今、地方で起きている諸問題――高齢化、 過疎化、核家族化、都市への人口流出など――を見ることができるかも知れないと取り組んだ、これは、私たち日本人すべてに突き付けられた、 ある意味で衝撃的なルポルタージュなのである。
「寺院消滅」の原因には、歴史的背景(過去的要素)と、昨今の社会構造の変化(現在・未来的要素)の二つがあるという。
江戸初期の檀家制度により固められた寺の経済的基盤は、明治初期の「廃仏毀釈」によって壊滅的打撃を受けると共に、同時に施行された 「肉食・妻帯の許可」により、仏教の俗化に拍車が掛かることにもなった。その後の「信教の自由化」による布教競争を何とか乗り越えた仏教は、 敗戦後のGHQによる「農地改革」で経済基盤であった農地をことごとく失い、再び困窮することになる。
そんな仏教界を生き長らえさせたのは、高度経済成長とバブル景気が寺院経営を下支えしてくれたからだった。しかし今や、地方から都市への 人口の流出、住職と檀家の高齢化と後継者の不在、葬儀・埋葬の簡素化など、社会構造の激変に伴う問題が次々に浮上して、寺院は整理・統合の 時代に突入しようとしているのだという。
荒廃した庫裏に独居状態で老僧が暮らす、跡取りを諦めてしまった寺。
檀家数が激減し副業なしではやっていけないと、兼業に精を出す住職たち。
もう寺に住職はいらない、普段はわれわれが管理するからという空き寺の檀家たち。
「寺が消えることは、自分につながる“過去”を失うことでもある」
<それでもあなたは構いませんか?>
鵜飼 今から日本の宗教団体が取り得る対策はありますか。
石井 どうにもならないでしょう。繰り返しますが、日本の宗教団体が社会構造の変動の方向性を変えるということは、これまでなかった。 だから、今度は地方の疲弊と同時に神社、寺、新宗教の支部等が消えていくことは確実だと思います。しかし、それはある意味、日本人が総意と して望んだことなのです。(國學院大学神道文化学部長・石井研士)
2015/8/18
「辺境の旅はゾウにかぎる」 高野秀行 本の雑誌社
私は最近、ゾウ語の研究をしている。といったらまるでドリトル先生みたいだが、「ゾウ語」とは人間(ゾウ使い)が家畜にした ゾウを使うときに用いる言葉だ。正確には「ゾウ使役用語」とでも言うべきなのだろうが、こっちのほうがおもしろいから勝手にゾウ語と 言っている。
「このゾウ語、とても不思議である。」
例えば、タイ人は人に「止まれ」と言うときは“ユット”だが、ゾウに命令するときは“ハオ”と言う。(なぜ“ハオ”なのかは、言っている 本人にもわからないらしい。)で、驚くべきことに、ゾウに「止まれ」と言うときは、カンボジアでも、ベトナムでも、ラオスでも、どこでも “ハオ”だというのである。(しかも、どの国の本来の「止まれ」という言葉とも、ちっとも似ていないのだ。)つまり、国や民族が違えば当然 言葉も違っているのに、「ゾウ語」自体には、いくつかの共通する単語があるということなのである。
インド由来のゾウの使役法が、相当な昔に東南アジアに伝わった際に、古代インド系の言語も伝わり「ゾウ語」として残ったのではあるまいか。
そこで、以前からの知人である、音韻研究を得意とする言語学者に協力を要請し、口の動きも収めたビデオを送って見てもらったところ、 「動詞だけじゃあね・・・、基礎語彙として名詞がぜひほしい」との返事。「そりゃ、無理ですよ!」と私、ゾウ語というのは最初から動詞しか なく、しかも命令形のみなのである。(「石をどけろ」と言いたい場合でも、「どけろ」で十分というわけだ。)
ましてや“父”とか“母”とかあったらどうかしている。ゾウ使いがゾウに「君のお母さんのことなんだが実はね・・・」なんて話しかけるか。 それじゃゾウ用語じゃなくて、正真正銘の「ゾウとしゃべる言葉」だ。
というわけで、この本は、ゾウを使う各民族のゾウ語を比較研究することにより、民族移動や文化の伝播の時期やルートなど、いまだ未解明な部分 の多い東南アジアの民族の歴史の謎に迫ろうとした・・・などという、だいそれた目的の本ではないのだから、出てくる話題は決して 「ゾウにかぎる」わけではない。
誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、誰も知らないものを探す。そして、それをおもしろおかしく書く。
早稲田大学探検部当時に執筆した『幻獣ムガンベを追え』でデビュー以来、自らに課した過酷なモットーを、誰に頼まれたわけでもないのに 頑なに守り続ける、辺境作家・高野秀行の、初めての「単行本未収録原稿」の集大成でもあるこの本は、
「旅好き」=ミャンマー・アヘン国脱出記など
「本好き」=エンタメ・ノンフ・ブックガイド
「話好き」=内澤旬子(『世界屠畜紀行』)らとの対談
という、まさに「辺境好き」面目躍如の一冊なのである。
2015/8/17
「資本主義の終焉と歴史の危機」 水野和夫 集英社新書
かのマックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、資本主義の倫理をプロテスタントの「禁欲」 主義に求めています。しかし、「禁欲」した結果として蓄積された資本を、再投資によって新たな資本を生み出すために使うのが資本主義です。 もっと言えば、余剰を蕩尽しないこと=「禁欲」は、資本を再投資するためにこそ必要とされたのでしょう。「禁欲」と「強欲」はコインの裏表 なのです。
であるとすれば・・・
未開のアフリカ大陸ですらが「グローバリゼーション」の枠組みの中で捉えられるようになり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」における 市場拡大はすでに最終局面に入ったと言ってよく、それならばと、米国が新たな市場を求めて構築したはずの「電子・金融空間」においても、 高速取引化が進む各国の証券取引市場の中で、一億分の一秒単位での熾烈な利潤獲得競争が繰り広げられるようになってしまったのでは、
いくら資本を再投資しようとも、利潤をあげるフロンティアが消滅すれば、資本の増殖はストップします。そのサインが利子率ゼロということ です。利子率がゼロに近づいたということは、資本の自己増殖が臨界点に達していること、すなわち・・・
「資本主義の死期が近づいているのではないか。」
というのが、1997年に2%を下回ってから20年にもわたって、ITバブルで景気が回復しても、戦後最長の景気拡大を経験しても、一向に 2%を超えようとしない、日本の10年国債利回りの謎を考え続けてきた著者が、「長い16世紀」というイタリア・ジェノヴァで起きた「利子 率革命」との相似性の中に読み取った、「歴史の危機」の兆候だった。
そもそも、資本の増殖ということを考えれば、利子率こそが資本主義の中核にあり、その意味では「過剰な金利」すなわちリスク性資本が誕生した 12〜13世紀に、資本主義の原型があったことになるが、株式会社の存在しない当時において、会社というものは事業の終了ごとに利益を出資者 に配分して解散する合資会社だったのであり、それはいわば一回限りの資本主義であった。
「陸の国」スペインから「海の国」イギリスへと覇権が移った「長い16世紀」の「空間革命」は、海と新大陸という「空間」を創造することで、 領土に縛られたスペイン、イタリアに投資しても、超低金利で富を蓄積できなくなった資本家の投資先を、オランダ、イギリスに変えることで 繁栄を継続させることになる。利潤を得る場が一気に世界へと広がった資本家は、事業を広範囲にかつ持続的に行うため、「東インド会社」など 継続企業としての株式会社が台頭することになる。永続型の資本主義へと移行したのである。
さて、ヒト・モノ・カネが自由に国境を越えるグローバリゼーションの結果、「地理的・物的空間(実物投資空間)」から利潤を得ることに見切り をつけざるをえなくなった、「長い21世紀」の先進国の資本家たちは、「電子・金融空間」という新たな空間をつくり、そこでの利益最大化と いう資本の自己増殖を継続することになる。
資本主義とはつまるところ、「中心」による「周辺」からの搾取によって成立しているのであれば、途上国が成長し新興国に転じれば、「中心」は 新たな「周辺」の存在を求める必要がある。それが、アメリカでは「サブプライム層」であり、EUでは「ギリシア」であり、日本で言えば 「非正規社員」になる、ということなのだ。
もはや地球上に「周辺」はなく、無理やり「周辺」を求めれば、中産階級を没落させ、民主主義の土壌を腐敗させることにしかならないのでは ないか。その先にあるものが、破局的なバブル崩壊というハード・ランディングであるにもかかわらず、それでも「強欲」資本主義をさらに純化 させて成長にしがみつくのか、この「歴史の危機」を直視して、資本主義には静かに終末期に入ってもらうという、ソフト・ランディングを 求めるのか。
それは安倍さんの肩にではなく、私たちの選択にかかっているというのが、この著者が指し示す処方箋の言い分なのである。
私がイメージする定常化社会、ゼロ成長社会は、貧困化社会とは異なります。拡大再生産のために「禁欲」し、余剰をストックし続けることに 固執しない社会です。資本の蓄積と増殖のための「強欲」な資本主義を手放すことによって、人々の豊かさを取り戻すプロセスでもあります。
2015/8/12
増補「二人の天魔王」―信長の正体― 明石散人 講談社
信長は秀吉や家康の時代から大東亜戦争までの350年、ただの一度も歴史の表舞台に登場しなかった。学者たちからの評価も薄く、 庶民最大の娯楽、歌舞伎に主役で登場することは一度もなく、庶民文化頂点の江戸浮世絵や草双紙にも英雄として取り上げられたことは一度も ない。
だから・・・豊臣秀吉や徳川家康より凄い武将が実在し、二人はこの武将の生存中、ただひたすら主君として平伏し恐れ戦いた、絶大な人気を 誇る「織田信長」像なんてものは、太平洋戦争以後に作られた虚像に過ぎない、というのが、独自の視点から、常識を超えた「新説」を提示し、 鮮やかな切れ味で実証してみせる、博覧強記の歴史探偵が明かしてみせた「真実」なのである。
織田宗家当主の地位を磐石にするため、織田姓を名乗る十人の叔父・兄弟を全て殺した。桶狭間の合戦では今川義元を降伏を約して騙し討ちし、 対浅井・朝倉・武田との合戦では、側近の秀吉と盟友の家康を消耗品として戦わせた。足利義昭を意識的に苛め抜くことで、義昭を連れてきた 大功労者の明智光秀と義昭との良好な関係が悪化するよう策謀した。
「優柔不断で、戦下手の、ちまちました成金大名」といったところが、織田信長という戦国武将に対する歴史の正当な評価だろう というのだった。
では、そんな信長の力量を完全に読みきっていたはずの光秀、秀吉、家康の三人が、天正10年の「本能寺」まで誰も信長を裏切ろうとしなかった のはなぜなのか。戦国武将としての力量はいずれも信長より上だった彼らは、何れ三人とも謀反を起こすつもりで、すべて承知の上で信長を育てて いた。光秀による本能寺の謀反がなければ、秀吉が中国攻めのさ中に謀反を起こしたはずである。そのために、毛利との戦には必要もない信長の 出陣を要請したのだ。
日本歴史最大の「もし」は、信長が本能寺で討たれなかったならではなく、(それは早晩、歴史の「必然」であったのだから、)明智光秀が信長を 討ち果たした後、そのまま天下人となり、明智幕府を開いていれば・・・という方なのである。
光秀は、清和源氏直系の土岐氏を称した。秀吉は、いかなる補任も受けられる新しい姓・豊臣を欲した。家康は、足利家の祖・新田義重を我が祖 に据えた。三人とも武家の棟梁として武家大義を求め、帝位簒奪という下克上など考えもしなかった。信長のみが、武家本来の在り方を全く理解 せず、武家大義の基礎的条件を悉く排除して、結果として自らの天下を下克上に求めてしまったのだった。
しかし、何故織田信長という人はこんなにも多くの日本国民に愛されるのだろう。私の知る限り、誰もが信長に憧れ崇拝さえしている。最大の 理由は、信長が大東亜戦争の敗戦で打ち拉がれた日本国民に、この上なく魅力的な「もし」という、空想に基づく夢物語を提供したからだ。
2015/8/11
「骨が語る日本人の歴史」 片山一道 ちくま新書
骨考古学とは、考古学の遺跡で発掘される古人骨を資料にして、それらの遺跡を残した人々の人物像を具体的にリアルに復原するととも に、彼らの生活像を実証的に推測する研究分野である。もとより、古代の人々や各歴史時代の人々の人物像を復原するには唯一無二の研究方法で あり、他に手段はない。
日本人なら日本人ならではの身体現象(特有の身体特徴、ならびに、その地域性と時代変化)を読み解くことで、日本人がたどってきた歴史の流れ を通史的に俯瞰できるのではないか。これはそんな問題意識のもとに、「はたして日本人は何者なのか」という日本人の起源の問題を、<人骨> から解明しようとした著者の、まことに挑戦的な「身体史観」の企てなのである。たとえば・・・
2〜3万年前の最終氷期(海退期)の頃、本州域には東アジアの各地から陸づたいで「吹きだまり」のように寄せてきた人々がいた。地球温暖化の 影響で海面が上昇し、外世界から隔てられた「縄文列島」の気候風土に適応するように、そのような人々が母胎となって、「縄文人」は生まれた。 だから・・・
「縄文人」は「どこからも来なかった」。(彼らは日本列島で生まれた、ということなのである。)
さらに・・・「大量に渡来した弥生人なる人々が、新しい文化と生活様式を武器に、それまでいた縄文人に置きかわった」というのがこれまでの 定説であるが、弥生時代には、朝鮮海峡を越えてきた人々の係累につながる渡来系「弥生人」だけでなく、縄文人に似た縄文系「弥生人」や、 それがミックスしたような混血「弥生人」も存在していた。だから・・・とても彫りが深かった「縄文顔」とはまるで正反対の、「顔がのっぺり と長く、眼が細く瞼が薄くて一重、耳たぶが小さく、唇が厚かった」と語られることが多い、
「弥生人顔」などは「なかった」。(「弥生人」あるいは「倭人」には、さまざまな形で混合する大勢の人々がいたのである。)
古墳時代には、すでに「中顔、中頭、中鼻、中眼、中顎」を特徴とする、わりと現代風の「日本人顔」が目立ち始めるようになること。
江戸時代にはいると、反っ歯で才槌頭の寸詰まり顔が特徴となる一般庶民に対し、長い馬面の貴族顔が大名家や富裕町民層に広がるなど、 階層性が顕著に認められるようになること。などなど・・・
さてそんなわけで、私たち日本人は、これからいったいどこへ行こうとしているのだろうか?
ともかく今の日本人の身体特徴は、日本列島人の歴史のなかでは一般的ではない。異形にすぎる。背が異常に高く、顔が小さく顎が細く、脚が 長く足が大きい。こんな人間は、日本列島の人々の歴史のなかでは珍しいのだ。ここ70年ばかりの現象でしかない。ようやく太平洋戦争後になっ て生まれた特徴なのである。突然変異のようにと言うと語弊があるが、非常に風変わりな容貌と体形を特徴とするのが、今の日本人なのだ。
2015/8/5
「小林カツ代と栗原はるみ」―料理研究家とその時代― 阿古真理 新潮新書
働く女性の時代に支持を集めたのは、それまでの料理の常識をくつがえすような時短料理を考え出した小林カツ代である。外食が日常化 し、家庭料理にも変化を求める人がふえた平成の時代になると、数千レシピを提供する栗原はるみがカリスマ的な支持を集める。小林や栗原の 人気の背景には、女性の生き方や価値観の大きな変化がある。
「だれでもが作れて、肩ひじ張らないで楽しく作れて、そして失敗がないもの。そんな料理の本が欲しかった。よく、失敗を恐れるなといいます が、・・・夕食のおかずはこれっきりというときに、とても食べられたものじゃない料理が仕上がったら、どんなにか情けないと思います。 むつかしい料理も、凝った料理も、やさしく作ったっていいではありませんか。」
小林カツ代が、得意の「時短料理」を引っ提げて時代の寵児となった1980年代は、家電の普及が進み余裕ができた既婚女性のパート層が拡大 した時代ではあったが、それはまた、毎食違う献立で一汁三菜をそろえ、手をかけて食事を作ることがお母さんの愛情と、雑誌やテレビがこぞって 囃したてる「主婦」が望まれる時代でもあった。
家事は減らしたい、でも食事はちゃんと作って家族に食べさせてあげたい、という無理難題を押し付けられた主婦たちに、ハッと驚くような処方箋 を示すこと。『料理の鉄人』に出演し、鉄のフライパンを駆使した炊き込み料理で、中華の鉄人・陳健一に見事に勝利しながら、番組製作者側が 用意した「主婦の代表」というキャッチフレーズは、断固拒否してみせた、
小林カツ代は「家庭料理」も一つのジャンルであると主張して、「プロ」の技を追及したのだった。
「一番最初に私の料理をやって失敗しちゃったら、私のこと嫌いにならない?やっぱり料理って難しいなって思わない?裏切らないようにしたい なっていうことだけですね。あなたのレシピは信頼できる、それで料理が好きになったと言われたら、最高の私へのプレゼントですね」
栗原はるみが、「カリスマ主婦」と脚光を浴びて一躍人気者の座へ駆け上がった1990年代は、雇用機会均等法の施行とバブル崩壊により、 共働き世帯が多数派を占めるようになった時代だった。
結婚や育児が退職の理由にならなくなった時代に、ヒエラルキーの頂点に立つのは、結婚・仕事・子どもを手に入れた女性だ、というのが中流 意識を持つ女性たちの暗黙の了解なのだという。次は結婚と子どもを手に入れた専業主婦で、シングルマザーだがやりがいのある仕事を持つ女性 が続き、共働きで子どものいない女性がその下、一番下はもちろん独身女性である。
「前の晩出すと、翌日必ず、家族が『あれないの』とききます」と、家族に出してきた料理を、自分が好きで使っている食器に盛る。そんな私生活 を全面に展開しながら何千ものレシピを紹介する本を、継続して出し続けられるのは、家族の理解や支えがあるからだ。
栗原はるみは「平凡な主婦」の理想のスタイルを貫き通すことで、「アイドル」であることの覚悟を示したのだ。
う〜む、なるほど。
料理研究家たちの足跡を辿ることが、これほど鋭い切れ味を示すことになろうとは、題名からは想像もしていなかったことを恥じねばなるまい。 それにしても、二代目(料理研究家というのは世襲制なのだろうか、という興味もあるが・・・)は男が多いというのは、娘では、母親の生きざま を同性としてずっと見続けてきただけに、継承しづらい裏の事情のようなものもあるのだろうなあ、と深く納得もしたわけなのである。
料理研究家を語ることは、時代を語ることである。彼女・彼たちが象徴している家庭の世界は、社会とは一見関係がないように思われるかも しれないが、家庭の現実も理想も時代の価値観とリンクしており、食卓にのぼるものは社会を反映する。それゆえ、本書は料理研究家の歴史で あると同時に、暮らしの変化を描き出す現代史でもある。
2015/8/4
「円朝芝居噺 夫婦幽霊」 辻原登 講談社
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く・・・。一葉でございます。誠に誠に残念な、 はかないことでございます。(注:2年前に樋口一葉が亡くなったのである。)
大門から水戸尻までの一直線の通りが仲の町の通りで、両側には引手茶屋が軒を連ねておりまして、江戸町、揚屋町、角町、京町と左右に それぞれ三本が横に通じて交差いたします。角町の角は肴市場、江戸町の角には青物市が立ちます。さて、角町の中程が久志楼で、一階の名代 部屋で昼から居続けの、灰吹の音ばかりさせているのが魂胆ありし藤岡藤十郎。
「円朝にござります。」
女子大の国文学の教授をしていた娘・橘陽子が亡くなったので書斎を整理したい、という神戸在住の老婦人からの依頼を受けて、大型トラック一台 分の書籍と資料を引き揚げてきた古本屋が「おもしろいものをみつけた」らしいという連絡を、大阪の高校の国語教師である従兄弟から受けたのは、 この本の著者・辻原登が、十年ほど前にこの女性の夫・橘菊彦(すでに故人だった)を主人公とした小説『黒髪』を書いていたからだった。
厳重にガムテープでとめ、上に黒いマジックペンで「橘菊彦関係(反故)」と書かれた大き目のダンボール箱の、そのいちばん底にうずくまる ようにしてあった、麻紐でくくった古い紙の束をひろげてみれば、そこに現れたのは、色褪せた墨で汚れた、毛筆の速記符号で書かれているため、 まるでちんぷんかんぷんの文章だった。今はもう使用されていない「田鎖式」の速記術で書かれているらしいその文章を、どうにか伝手を辿って 解読してみたところ、なんとそれは・・・
あの稀代の噺家・三遊亭円朝の口演を速記で遺した、幻の落語『夫婦幽霊』の一席だったのだ。
というわけで、これはあの
『東京大学で世界 文学を学ぶ』
でもご紹介した、パスティーシュの名手・辻原登が、ひょんなことから発見してしまった、円朝の未発表の作品を、速記原稿から それらしく「翻訳」(実際の口演は聞いたことがないのだから)してみました、という趣向なのだから、
ほとんどは円朝の「落語」(これがまさに幻の傑作というべき代物なのである)が、まるでその場で演じられているかのように進行していくこと になるのではあるが、そこにはまた、円朝研究家としての作家・辻原登も存在しており、この未発表作品が「反故」として発見されるにいたった 顛末などについてが、幕間に挟まれた「訳者注」という形で、詳述されていくことにもなるわけなのだ。
たとえば、明治31年に口演・速記されたはずの「夫婦幽霊」に、明治32年以降に登場したガントレット式や武田式の符号が使われている、 なんていうのは・・・
え?
こんなのどうせ、すべてが辻原登の創作なんだから、速記原稿どころか、「夫婦幽霊」という落語自体も、この世に存在しないんだろうって?
そんなことはアナタ、落語の中に登場してくる円朝はおろか、喋っている当の円朝本人にだって、わかりゃあしませんってば。
ハイ、お後がよろしいようで。
この円朝、私であって私ではありません。なぜならば、私は藤岡藤十郎を犯人と知っておりますが、彼、つまり円朝は知りません。明治の御世 を、私は知っておりますが、彼はまだ知りません。彼は女を知っておりますが、まだお幸を知りません。以上のようなわけで、化粧前に居る仲蔵 さんをじっとみつめている円朝を別人とおぼしめし下され。
2015/8/4
「アウシュヴィッツを志願した男」―ポーランド軍大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ― 小林公二 講談社
アウシュヴィッツ収容所に、1940年9月21日、自ら志願して潜入し、あげくに948日後(1943年4月27日)に脱走する という、収容所はじまって以来の荒技をやってのけた男がいたことは、日本はもちろんのことポーランド国内でも全くと言っていいほど知られて こなかった。
その男の名は、ヴィトルト・ピレツキ。ポーランドがナチスの手に落ちたあと、国家としての正当性を維持するためロンドンに拠点を移した、 ポーランド亡命政府軍の将校だった。ピレツキがアウシュヴィッツに潜入することになった目的は4つあった。
1.収容所内に地下組織を作ること。
2.収容所内の情報をワルシャワのZWZ(武装闘争同盟)司令部に確実に届けるルートを確保すること。
3.収容所内の不足物資を外から調達し、内部に運び入れるようなネットワークを構築すること。
4.ロンドンのポーランド亡命政府を通じて、イギリス政府を動かし、アウシュヴィッツを解放すること。
この、いずれもが死と背中合わせともいうべき困難な任務を遂行せんと艱難辛苦を重ねたことが、彼の行動のすべてであったのだとしたら、 (実際に、アウシュヴィッツを舞台として詳述されることになるピレツキの活動を知れば知るほど、その意志の強さと行動の果断さに驚かされる ことにもなるわけなのだが、)ヴィトルト・ピレツキは第二次大戦後のポーランド国家に英雄として列せられ、人々の心にその名が刻み込まれた に違いない・・・はずだったのだが、
アウシュヴィッツ脱走後も反ナチスの闘いを続けたピレツキは、1944年8月のナチスに対するワルシャワ蜂起において、ソ連の裏切りにより 敗北。ナチス崩壊後は、ただちに反スターリズム、反社会主義の闘士に転じたことにより、親ソ連政権の社会主義国家として新たに成立していた、 祖国ポーランドに国家反逆罪の廉で逮捕され、
「ここでの拷問に比べれば、アウシュヴィッツなど子供の遊びだ」と接見に訪れた妻に吐露するほどの、尋問と証する拷問の末、見せしめ裁判に よって抹殺されてしまうことになる。1948年、家族にも伝えられず執行されてしまったこの処刑以降、彼の名と彼の生涯に関わる一切の事実 は、人々の記憶から消えた。
ヴィトルト・ピレツキの名が<現代ポーランドの英雄>として甦り、司法および議会の場でその名誉回復が図られることになったのは、社会主義 体制が崩壊し、ポーランドが再び西欧社会と価値観を共有する民主主義国家として登場した、ようやく、1990年のことなのである。
ヴィトルト・ピレツキは、私たちの想像を超えて、その生き方において自由であった。・・・
自らが<自由であること>と<追求すべき社会の姿が自由であること>を一貫して求めるとき、対極にある左右の全体主義にどこまでも抗うこと は、ごく当然の姿であった。特にその象徴であるアウシュヴィッツへの潜入と脱走が、ピレツキにしかなし得なかったことは合点がいく。 そのゆるぎなさは、人間としての<凄み>である。生と死の領界を、ピレツキは突き抜けていたに違いない。
2015/8/3
「宇宙創成」(上・下) Sシン 新潮文庫
ビッグバン・モデルの黎明期に起こった出来事について語り始める前に、まずは少しばかり基礎作りをしておかなければならない。 宇宙のビッグバン・モデルはこの百年間に作られたものだが、それが可能になったのは、二十世紀に起こったいくつかの進展のおかげであり、 さらには十九世紀に天文学の礎石が敷かれたおかげだった。そして、天空に関するさまざまな理論や観測が組み込まれていった科学の枠組みは、 過去二千年のあいだに粘り強く築かれてきたものだ。
紀元前6世紀に、ギリシアの哲学者たちが自然現象の記述として確立した「地球中心モデル」の宇宙像は、プトレマイオス、コペルニクス ケプラーから、ガリレオのより高精度の観測に裏付けられた理論により、「太陽中心モデル」へとシフトしていき、
(と、わずか3行で通りすぎてしまったが、本書においては、天体の大きさや天体までの距離の測り方など、その時代の科学者たちの創意工夫の 歴史が懇切丁寧に描かれていく。ここらあたり、さすがにあの名著
『暗号解読』
の作者だけのことはあると唸らされる。)
1900年までには、宇宙論研究者たちは、これこそが正しい宇宙像のモデルだとして、その座を確立していくことになるのだが、<宇宙は永遠 の過去から存在していたのか?>という仮説の方には、それを証拠立てる何の裏付けも持ち合わせてはいなかった。
「宇宙はいつ、どのように始まったのか?」
この新たな宇宙の大問題に、改めて立ち向かうことになった二十世紀の宇宙論研究者たちに、強力な武器を与えることになったのが、 アインシュタインの「一般相対性理論」だった。重力による引っ張りのため収縮することになってしまうことを防ぐため、自らの理論に宇宙定数 を付加して、静的で永遠な宇宙を守ろうとしたアインシュタインに対し、非常に小さな原初の原子が、爆発して膨張し今日の姿に進化したという、 動的な宇宙を提示したのが、フリードマンとルメートルだった。
「ビッグバン・モデル」の誕生である。
ハッブルによる膨張宇宙の観測。ガモフ、アルファ―、ハーマンによる理論上の貢献。ペンジアス、ウィルソンによる宇宙背景放射の発見。
そして、自らは「定常宇宙モデル」を主張しながらも、迂闊にも「ビッグバン」の命名者として名を残すことにbなった、ホイルの暗躍。
この有名無名の兵たちによる、人類の叡智の冒険物語が最後に辿りつくことになったのは、ビッグバンは、空間の中で何かが爆発したのではなく、 空間が爆発したのであり、時間の中で何かが爆発したのではなく、時間が爆発したのだから、空間と時間はどちらも、ビッグバンの瞬間に 作られたという、物理学的には扱えない「特異点」になるという最大の難問だった。
「ビッグバン以前はどうなっていたのだろうか?」
このモデルは宇宙の過去を明らかにすることで、宇宙の現在についてかくも多くのことを説明したのだから。宇宙論研究者は研究室の外に出て、 ビッグバン・モデルは人間の好奇心と知性に対する賛辞なのだと、世界に向かって語りかけるべきである。そして、もしも人々の中の誰かが、 「ビッグバン以前はどうなっていたのか?」という難問中の難問を投げかけてきたなら、聖アウグスティヌスが挙げた例に倣ってみるのもひとつ の手かもしれない。
「神は天地創造以前に何をしていたのか?」
「神は天地創造以前に、そういう質問をするあなたのような人間のために、地獄を作っておられたのだ。」
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