徒然読書日記201507
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2015/7/28
「その女アレックス」 Pルメートル 文春文庫
男は立ち去った。
もうなんの音もしない。
ロープで吊り下げられた木箱はまだ少し揺れていた。冷たい風が吹き込んできて、凍えたアレックスの体を包むように渦を巻いた。
アレックスは一人になった。裸で、閉じ込められて。
そこでようやくわかった。
これは箱じゃない。
檻だ。
「おまえがくたばるのを見たいからだ」
お一人様でのちょっぴり贅沢な夕食を済ませた帰り道、いきなり見知らぬ男に襲われ、いまは閉鎖された廃工場へと拉致・監禁されてしまった アレックスは、人間一人が辛うじて入れるだけの大きさの木箱に、素っ裸で押し込められ、空中に吊り上げられて放置され、次第に衰弱し、 自らの死が近づきつつあることを覚る。
<死にたくない。今はまだ死ぬわけにはいかない。>
誘拐事件はやらないとカミーユは何度も言ってきた。自分にはもう無理だと思うものが二、三あり、その筆頭が誘拐事件だと。なぜなら、 妻のイレーヌを誘拐され、殺されたからだ。イレーヌは八ヶ月の身重で誘拐された。そしてカミーユが自ら捜査し、ようやく見つけたときには 惨殺されていた。
「事件の被害者は死んでいなければならない。」
妻の事件により被った痛手をどうにか乗り越え、ようやく一年後、現場に復帰して以降、自らに課してきたその<掟>を破るように仕向けられ、 かつての仲間たちと再会して、捜査の指揮をとることになった、パリ警視庁犯罪捜査部の敏腕警部カミーユ・ヴェールヴェンが、まことに乏しい 限られた情報の中から、捜査の網を絞り込み、事件の真相を地道に追いかけていく中で、次第に浮かび上がらせていくことになったのは、
この異常な拉致・監禁事件を起こした犯人は誰か、ということではなくて、(なにしろ、誘拐犯の素性はこの小説の主な登場人物の中に、すでに 明かされているくらいなのだ。)辛うじて窮地を逃れ、死の檻から見事に脱出しながら、警察に掛け込むでもなく姿を消してしまった、
<その女>とはいったい何者だったのか、ということだった。
というわけで、この驚天動地の物語は、実際にはここからスタートすることになるのだが・・・「これ以降の展開は、誰にも話さないで ください。」ということで、黙するに如かずなのである。
「まあ、真実、真実と言ったところで・・・これが真実だとかそうでないとか、いったい誰が明言できるものやら!われわれにとって大事 なのは、警部、真実ではなく正義ですよ。そうでしょう?」
カミーユは微笑み、うなずいた。
2015/7/22
「宿命の子」―笹川一族の神話― 高山文彦 小学館
「晩節を汚すことなく――まあ、世間から見たら汚したのかどうかわかりませんが――、私から見たら、汚さずに旅立たせることが できたというのは、笹川良一をお守りしようと誓って寄り添った40歳のときの目的を果たすことができたということで、だから涙なんて出る どころか、不謹慎な話かもしれませんが、やれやれ、ほっとした、という気持ち・・・、それだけがありました」
平成7年7月18日、午後9時。
「敗戦で一時A級戦犯容疑/競艇資金で影響力」(朝日)
「昭和裏面史知る競艇のドン」(毎日)
「右翼の大立者」(読売)
「右翼・競艇・『日本のドン』」(日経)
「右翼…戦犯…慈善家」(産経)
翌日の朝刊各紙のトップを、ダーティーなイメージ一色に染め上げることになった、笹川良一が96歳でその壮絶な人生の幕を閉じたのだった。
全国24か所の競艇場が稼ぎ出す年間2兆円の3.3%(現在は2.5%)、およそ660億円が黙っていても、財団法人日本船舶振興協会 (現在の日本財団)の懐に入ってくる。この莫大な金を、運輸省(現在の国土交通省)の管轄のもと、海運・造船関係と文化・福祉関係に補助金 として分配する。「右手で汚れたテラ銭を集め左手で浄財として配る」と世間からは揶揄されることになった、ロックフェラー財団を凌ぐ世界に 類例を見ない巨大な慈善財団とその合理的な集金システムを、一代にして築き上げたのが笹川良一だったとすれば、
妾の三男坊として生まれ、16歳になるまで父の顔も知らず、高校進学でようやく同居することになったとはいえ、下男部屋で寝起きし、掃除、 洗濯、飯炊きをさせられた、そんな鬼のような父の後を引き継ぐことになった笹川陽平は、亡くなった父の後釜の会長には、自分ではなく曽野 綾子を据え、「どんな金であろうと過去のことはどうでもいいんですね。ただ今から誠実に使いなさい、ということ」と聖書の教えを出して、 ジャーナリズムの口を封じ、世界中のハンセン病者を癒し、国際的な差別を撲滅するための慈善活動を展開して、笹川家にまとわりつく悪名祓い の役割を果たそうとしていた。
<これは大いなる復讐の物語ではないのか>
というのが、
『火花』
、
『水平記』
、
『エレクトラ』
、
『どん底』
などなど、差別をテーマに据えた作品をいくつも書いてきたこの著者が、陽平の世界行脚に同道し、様々なシーンで繰り返したに違いない インタヴューを随所に織り交ぜながら、この長い物語を綴ってみせた後の、率直な感想のようなのである。
「戦後最大の被差別者はだれだと思いますか?・・・私にとって、それは笹川良一をおいてほかにありません。40歳からの私の人生は、 彼がうけたいわれなき途方もない差別、その汚名を晴らすためにあったんです。」
2015/7/14
「『ドイツ帝国』が世界を破滅させる」―日本人への警告― Eトッド 文春新書
冷戦崩壊によって生まれた「ドイツ帝国」。EUの東方拡大によってドイツは、社会主義政権下で高い水準の教育を受けた良質で安い 労働力を活用し、経済を復活させ、ヨーロッパを支配するに至っている。
「ヨーロッパには今なお発展が低レベルに留まっている産業セクターがある」ということは、決してネガティブなことではなく、それどころか、 「ヨーロッパの低賃金ゾーンには産業発展の余地がまだまだ存在する」という事実を、むしろポジティブに受け止めたことが、国内の産業 システムが次々に壊滅へと追い込まれていくEU諸国の中で、ドイツだけが得をするという「ドイツ一人勝ちのシステム」を際立たせることに なったというのである。
というわけで、本書収録の第1章『ドイツがヨーロッパ大陸を牛耳る』と題されたレポートは、
「日本語に訳せば、日本の読者と日本の外交にもきっと役立つだろうと思い、ドイツ=ヨーロッパとアメリカについて述べた長いインタビュー を送ります。」
と、著者自らが<メールで編集部に売り込んできた>ことからもわかるように、
もう一つのシナリオは、ロシア・中国・インドが大陸でブロックを成し、欧米・西洋ブロックに対抗するというシナリオだろう。しかし、 このユーラシア大陸ブロックは、日本を加えなければ機能しないだろう。このブロックを西洋のテクノロジーのレベルに引き上げることができる のは日本だけだから。
などなど、日本の今後の外交政策方針にも関わるような、まことに興味深い指南書ともなってはいるのだが、本書の基本的なテーマはあくまでも、 <冷戦終結後のドイツの擡頭>が招き寄せようとしている<EUの危機>についてなのであり、
前著
『帝国以後』
において予言してみせた、 <アメリカシステムの崩壊>が、配下の国々がそれぞれの地域でおこなう冒険的行動をもはやコントロールできないところまで進行し、 アメリカは、むしろそれを進んで是認しなければならない立場にまで追い込まれているという体たらくだというのだ、
<もはや、人口上、アメリカは単独でドイツ支配下にあるヨーロッパに対抗できない。>
これは、人口動態に着目する方法論により、1976年の時点で「ソ連の崩壊」を言い当ててしまった、人口学者による、 戦慄の予言の書なのである。
ドイツが持つ組織力と経済的規律の途轍もない質の高さを、そしてそれにも劣らないくらいに途轍もない政治的非合理性のポテンシャルが ドイツには潜んでいることを、われわれは認めなければならない。
2015/7/13
「若冲」 澤田瞳子 文藝春秋
そこには山茶花が群れ咲き、雪の下に水仙の花咲く初春の湖畔が、精緻な筆で描き出されていた。春はまだ名ばかりらしく、湖面に 張り出した梅の枝は分厚い雪で覆われ、水仙の葉はところどころ霜に当たったかのように枯れている。
しかしそれらの花々よりも目を惹くのは、画布の中ほどに描かれた一羽の鴛(えん)であった。雪の積もった岩の上に立つ彼の眼は、湖面に 浮かぶ鴦(おう)に向けられている。だが鴦の側はといえば、顔を水に突っ込んで魚を追うのに懸命で、雄の眼差しには全く気付いていない。
鴛鴦(おしどり)は古来、夫婦和合の象徴。さりながら普通の鴛鴦が寄り添って描かれるのに比べ、この二羽は完全に水陸相隔てている。夫婦の 情愛めいたものは何一つなく、まるでこの世とあの世、異なる世に暮らすかの如き距離が、彼らの間にはあった。
木の間を遊ぶ小鳥、咲きしきる山茶花の色が鮮やかであればあるほど、鴦に顧みられぬ岩上の鴛の哀しみがひしひしと伝わってくる。このような 鴛鴦図がかつてあったであろうか。
<雪中鴛鴦図>。
この「世に二つとない絵」を描いたのは<伊東若冲>。江戸中期の京都で活躍し、高い人気を博しながら、明治以降は忘れ去られ、1990年代 になって米国人蒐集家プライスの再発見により、その超絶技巧が突然注目を浴びることになった「奇想の絵師」である。
「これでも弁蔵はんは、兄さんの絵が道楽やと言わはるんどすか。好きこのんで、こんな絵を描いていると考えはるんどすか」
京都・錦高倉市場の老舗の青物問屋「桝源」の跡取という立場にありながら、家業も顧みず、妻帯もせず、終日店の二階に引きこもって、絵絹に 筆を走らせ続けた。そんな若冲に、実は嫁いで二年で自死に追い込まれてしまった妻があり、母との確執から守ってやろうともせず、絵を描く ことに逃げ込んだ、それは自分のせいなのだ、という、そんな深い心の傷が、彼をこれほどまでに凄惨な画業に打ちこませる一因となった のではないか。
姉をいびり殺すほどに重いはずの「桝源」の家を、放り出してまで打ち込むほどのものなのか、という怒りから義兄の元を出奔し、やがて若冲の 贋作作家・市川君圭として名を馳せるまでになった、弟の弁蔵。自らの背を恐ろしいまでの画技で追い立て続けたこの義弟の恨みこそが、結局は 若冲の鬼気迫るような後半生を象るものだったのではあるまいか。
というのが、残された実在の作品群から想を得たに違いないこの著者の、「若冲とは何者だったのか」という問いに対する、極めて説得力に みちた「模範解答」なのである。
夕景の東山であろうか。金泥の靄の向こうに淡い稜線が描かれ、その手前に社祠の灯籠と垣根が、神さびた気配を漂わせて立ち並んでいる。 右隻の松、左隻の闊葉樹に数羽の小鳥が遊んでいるだけで、画面におよそ人の気配はない。
輪郭を持たず、ただ濃淡のある墨点のみで描かれた灯籠は、湿り気を帯びた石の肌触りそのものの如く冷やかで、それでいてじっとりとした妙な 生々しさを孕んでいる。無機質と不気味な生気が混在し、迫り来る夜の跫までが聞こえて来そうな、奇妙な凄気に満ちた屏風絵であった。
<石灯籠図屏風>。
若冲の四十九日の法要に「買い取ってほしい」と持ちこまれたこの屏風絵は、もう何十年も昔の正月に出掛けた初詣のときの風景を思い出して 描かれたものだという。それは不思議なことに、祇園社の氏子である桝源ならば初詣に訪れるはずもない、吉田神社の参道の風景なのだった。
「東山の向こうは、近江国大津。そのまま琵琶湖を渡った、その向こう岸は・・・」
あの無口な兄が、ひっそりと胸に抱き続けた忘れえぬ追憶の光景に気付いた妹のお志乃は、雷に打たれるにも似た衝撃に、身体を貫かれることに なったのだ。
商いにも、妻との共住みにも馴染むことの出来なかった、不器用で不幸な兄。だがきっと彼は彼なりの手立てで嫁いできたばかりの妻を 慈しもうと、祇園社に向かう桝源の者たちと別れ、二人、吉田社に参ったのだ。
他人と親しむ術を知らなかった彼は石燈籠の並ぶ境内で、あの山の向こうにお前の故郷があるのだと、新妻に告げただろうか。あえて二人だけで 洛東の小丘に赴いた夫の真意を、お三輪は理解していたのか。
2015/7/10
「日本史の謎は『地形』で解ける」―環境・民族篇― 竹村公太郎 PHP文庫
秀策は1829(文政12)年、現在の尾道市因島(広島県)に生まれ、幼名・虎次郎といい、3歳から碁石で遊んでいたという。 5歳で母親から碁を学び、6歳になると神童と評判が立っていた。7歳のときに三原城主の浅野公と対局し、その棋力を認められ浅野藩に召し 出された。
9歳のときに浅野公のすすめで江戸へ行き、本因坊家に入り本因坊丈和の弟子となった。
それからめきめきと頭角を現し、20歳で第14世本因坊となって、御城碁で19連勝という前人未到の強さを発揮したが、江戸市中を席捲し、 本因坊家でも大流行したコレラの患者の看病中に他界、まだ34歳の若さだった。という、本因坊秀策の波瀾万丈の「人生ドラマ」のTV番組 だったにもかかわらず、この著者が心を奪われてしまったのはごく冒頭の1シーン、9歳で尾道から江戸へ向かう場面だった。
「こんな小さな子供が1人で江戸までの旅をしたのか?」
(そっちか〜い!)
というわけで、<「地形」を見直すと、まったく新しい日本史・日本文化が見えてくる!>と豪語する元建設省河川局長が、地形と気象という 「ぶれない事実」を解釈の根拠として、今まで定説と言われていた歴史の常識を覆して見せた、
『日本史の謎は「地形」で解ける』
歴史だけでなく、日本人の心情や勤勉性の謎にも迫ってしまおうとした第二弾。
「文明・文化編」
そして今度の第三弾は、数千年の長きにわたり、日本文明を存続させてきた「環境・民族」の秘密に迫ってみせようという、またもや意欲的な 挑戦なのだった。
・なぜ「日本の稲作文明」は湿地帯を克服できたか
(国土を生む「攻撃的」な治水事業)
・なぜ世界一の「リサイクル都市」江戸は崩壊したか
(近代下水道が生んだ「無臭文明」)
・なぜ大阪は日本の「都市の原点」であり続けるか
(皮膚で「他者」を感じる路地)
・なぜ日本語は「分裂」せず、現代まで生き残ったか
(参勤交代は「情報発信システム」)
さて、<なぜ9歳の本因坊秀策は「東海道を一人旅」できたか>といえば、それは「東海道に追いはぎはいなかった」からだというのが、 広重が描いた『東海道五十三次』を精査したこの著者の胸のすくようないつもの推理の結果なのである。
東海道には53も宿場は必要なかった。多くても、53の半分以下の20ほどの宿場があれば十分であった。・・・
東海道には追いはぎなどはいなかった。しかし、追いはぎの出没話は、あふれるほどあった。なぜなら、その追いはぎ話は、自分の宿場町へ 客を引きとめるための最高のキャッチフレーズだったからだ。
2015/7/7
「生物から見た世界」 Jユクスキュル 岩波文庫
われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界の事物との関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と 同じ空間、同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである。
この「すべての生物には同じ空間、同じ時間しかないはずだ」という一般に抱かれている確信は、じつは間違っているというのだ。
たとえば、ここに1本のカシワの大木があったとして、年老いたきこりにとっては単なる「材」にすぎないその樹皮に、たまたま人間の顔に似た こぶを見た孫娘は、その木全体を「悪魔」として恐れるだろう。さらに、その木の根のあいだに巣穴をかまえているキツネにとって、家族を 守ってくれる「屋根」となっているカシワはまた、そのひび割れた樹皮の背後を探るアリにとっては、山あり谷ありの「猟場」なのであり、 幼虫たちが外界の危険から守られて餌の中を食べ進むようにと、こじ開けた樹皮に卵を産みつけるカミキリムシにとって、それは格好の 「哺育場」となる。
われわれ生き物をとり囲むすべてとして、客観的に記述される「環境」というものは、確かに「ある」のかもしれないが、その中にいるそれぞれ 個別の主体にとって、そこに実際に「ある」ものは、それらの主体が主観的に創り上げた、それぞれに個別の「世界」なのだ。
「環世界」。
ユクスキュルは、この主観的に意味付けられた世界をこう呼んで、客観的な「環境」とは全く違うものであるということを主張したのだった。
<動物には世界がどう見えているのかということではなくて、彼らが世界をどう見ているかを述べている>(日高敏隆:訳者あとがき)
科学は習慣など扱わないという頑迷な時代の雰囲気の中で、冷遇されたにもかかわらず、独自の斬新な概念を発想し、多くの若い同好の士と 手を携えて、このような画期的な研究が展開されていたことに驚きを禁じ得ない。
原題『動物と人間の環世界への散歩』―見えない世界の絵本―として、ベルリンでこの「古典的名著」が出版されたのは、なんと1934年の ことなのだ。
人々が口を揃えて「良い環境」と叫ぶ時、それは実は自分たちにとっての「良い環世界」のことを意味しているにすぎない。私たちがそのことに ようやく気付き始めたのは、つい最近のことではなかっただろうか?
自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみよう としたら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つの ものによって育まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされた世界すべての背後に、永遠に認識されないままに隠されているのは、 自然という主体なのである。
2015/7/3
「ぼくらの近代建築デラックス!」 万城目学 門井慶喜 文春文庫
万城目 いやあ、お上っぽくないので驚きました。竣工が明治35年、日英同盟締結の年でしょう。日本がこれから世界で覇を唱えて いこうという時期に建てられたにしては、非常に牧歌的で、正直、もっと居丈高な建物を想像していたんですが。お洒落ですよね。 これが神戸かと、先制パンチを食らった感じです。中庭なんて、古き良き女学校を思わせますよ。袴姿の女学生がいたら、さぞ似合った のではないでしょうか。(旧兵庫県庁)
写真を鑑賞して満足してしまうのではなく、ぜひ自身の足で現場に赴き、自身の目で実物を確かめてほしいから、2012年にこれを単行本と して上梓する際には、「なるべく写真は小さめに」とひとつだけ要望を出した、という万城目学は、「未知のものに出会う喜び、初見の インパクトというのは、やはり大切にしていきたい」と思っていた。
門井 設計したのは山口半六。文部省に在籍して学校関係の建物を設計していた人なんですが、肺結核で転地療養しないといけなくなって、 二年ぐらい静養したところで、もう治る見込みなしと。そのとき山口半六が何をしたかというと、関西を舞台に猛烈に仕事を再開するんですね。 それからわずか5、6年で亡くなるんですけど、彼の最後の仕事のひとつがこの兵庫県庁でした。死に瀕した状況で県庁の設計に取り組んで、 このおっとりした感じを出すというのは、逆に凄みを感じます。
どんな建物、どんな施設をまのあたりにしても、秒速何回というレベルで、ぱっと見てぱっと返す、そんな万城目の「機知のひらめき」を楽しみ ながら、自分は安心して機知とは正反対の方向性、情報性を追求することができた、という門井慶喜は、「なるべく人間の話をしよう」と心がけ、 窓のかたちや装飾の様式だけでなく、建築家を中心とした建築物にまつわる人々の逸話の採集に余念がなかった。
かたや『鴨川ホルモ―』の万城目と、こなた『東京帝大叡古教授』の門井という、当代随一の異色人気作家がタッグを組んで、
「刹那的な金もうけの勢いで建てちゃうというのも、大阪人らしいといえば大阪人らしい。結局、岩本栄之助は相場で負けて、落成を見ずに 自殺してしまうんです」(門井:大阪市中央公会堂)
「これだけ壮麗な擬洋風建築をしれっと仏教関係者がつくっちゃう。保守的なんだか尻軽なんだかわからない京都人のしたたかさですね」 (万城目:龍谷大学本館)
「建築が豊かな精神を育むということがあるんだろうと実感します。この校舎で6年間過ごしたら、どんな横浜の不良でも品のいい人間に 育っていくように思いますね。」(万城目:横浜共立学園本校舎)
「伊東忠太は日本近代の建築家の中でいちばんの妖怪好きで、妖怪に関する著作もある、変わった人物なんですよ。」 (門井:一橋大学兼松講堂)
大阪、京都、神戸、横浜、東京、そして台湾に、今も命脈を保ちながら点在する「近代建築」を尋ね歩きながら、当意即妙の蘊蓄話を炸裂させる 探訪記。
NHK・新「ブラタモリ」の「段差」への異常な執着と、「もっていない」女子アナのピントのずれたリアクションにはもううんざりだ、 というあなたに、この本は、超おススメの逸品となるはずである。
万城目 まだまだ行きたいところがあるなあと、近代建築を見るたびに思います。東京は件数も多いですし、一個一個の質が高い。震災を耐え、 戦争をくぐりぬけて、物語のある建物が残ってるんですよね。
門井 私たちにとって近代建築に親しむという行為は、寺社仏閣めぐり、お城めぐりのような楽しみにもう一つ新しい選択肢が加わったという ことではないかと、非常に頼もしく思っているんです。
(会場、感動のあまりシーンとなる)
万城目 すばらしい!なんですかこの感動的な言葉は・・・門井さん、ぜったい卒業生代表で答辞とか読んだでしょ。みんな泣いたでしょ。
門井 読んでません、読んでません(笑)。
2015/7/1
「沈みゆく大国アメリカ」―逃げ切れ!日本の医療― 堤未果 集英社新書
「どうやって利益をあげているんです?」
「ああ、昔からの手法ですよ。大手投資銀行のハンブレクト・アンド・クイスト社が投資家セミナーで説明した内容と同じです。大型チェーン 老人ホーム投資をロケット級に成長させる三つのポイントは、スタッフ削減、給与削減、それと入居者の回転率を速めること。これしかない でしょう」
「警察と結託して厳罰化をすすめ、囚人を定員以上につめこむ民間刑務所リートを思い出しますね」
「官から民へ」の市場原理主義が過熱する中、「弱者を食い物にするビジネス」が跋扈するアメリカの現実に鋭く切り込んだ、
『ルポ貧困大国アメリカ』
アメリカの実体経済を飲みこもうとしている「コーポラティズム(政府と企業の癒着主義)」の、真の姿を浮き彫りにして見せた、
『ルポ貧困大国アメリカ2』
<あらゆるものが巨大企業に呑み込まれ、株式会社化が加速するアメリカにおいて、果たして国民は主権を取り戻すことはできるのか?>
『兜n困大国アメリカ』
気鋭のアメリカ・ウォッチャーとして名を馳せたルポ・ライターが、次にその鋭いメスを手に斬り込んでみせたのは、聖域でさえもも例外なし とばかりに、「強欲資本主義」の草刈り場と化してしまった、アメリカの医療と介護の現場の実態だった。そして・・・
「今や高齢化は全世界のトレンドだ。アメリカで大成功している医療・介護系コングロマリットや投資家たちは、すでに外へ外へと市場を 拡大しています。
急激に中流層が増えて平均寿命が延びている新興国のブラジルやインド、2012年にアメリカとのFTA(自由貿易協定)が発効した韓国、 そして何といっても次の市場として最有望なのは・・・」
<あなたの国、日本ですよ>
1985年の「MOSS(市場志向型分野別)協議」を皮切りに、日本の医療に対して「市場開放」を求めるようになったアメリカは、 「国家戦略特区」で緩めた門戸を、「TPP」という魔法の合い鍵を使ってじわじわとこじ開けようとしているのではないか。
これは、世界も羨む<国民皆保険>という制度によって辛くも守られてきた、日本人の「いのち」と「老後」が、私たちの無関心につけ込んで、 マネーゲームの餌食として差し出されようとしていることに警鐘を鳴らしながら、他国を次々と食い物にしてきた<強欲資本主義>の魔の手から。 逃げおおせるための治療方針を描いて見せた、必読の処方箋なのである。
拝金主義にかられた一握りの人々によって、あらゆるものがその価値を数字で測られ、画一化された市場の「商品」にされてゆく世界に、 私たちは生きている。効率良く利益を生まないものが平気で切り捨てられるなか、繁栄と幸福をもたらすはずだったグローバル化の下で、 なぜ医師たちが、次々に心身を病んでしまうのか。その核である精神を忘れ、現場からの声なき声に耳を傾けずにいれば、世界が羨む日本の 皆保険制度もまた、持続できず滅びてゆくだろう。
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