徒然読書日記201505
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2015/5/31
「丁先生、漢方って、おもしろいです。」 丁宗鐡 南伸坊 朝日新聞出版
私は以前「理解の遅い才能」を買われて、 <
個人授業シリーズ
> という本を出したことがあります。・・・
立派な先生の講義を受ける時、優秀な人はたいがい、失礼のないように予め、勉強をしていきます。ところが私はハナからそんなことは できませんから、なんの用意もなしに先生にお会いして、講義がわからない時にはポカンとしてる。
見かねた先生が、誰にでもわかるように噛み砕いて話をしてくれる、そんな「才能」を駆使して専門家の極意を引き出し、またまた面白い本を つくってしまったのは、<地上最強の生徒>とその名も高い南伸坊である。
今回の先生は、日本東洋医学会漢方専門医・指導医という漢方医療の専門医の立場から、テレビ・ラジオでも活躍している日本薬科大学学長の 丁宗鐡(てい・むねてつ)。
大病院で「肺がん」の疑いありとされた南伸坊が、セカンドオピニオンを求めて以来、主治医として信頼し、具合が良くても悪くても、2ヶ月に 1回診察を受けているという先生なのである。というわけで、たとえば、
漢方では、薬は一つの定義では収まらないものと考えられ、大まかに上品、中品、下品の三種類に分類されます。
「上品」と書いてジョウホンと読むのですが、上中下の三つのレベルがあると考えます。この分類が漢方薬の開発理論の基礎であります。
心臓に効く薬、胃腸に効く薬、血圧を下げる薬など、薬理作用によって分類される西洋医学における薬が、その治療効果のみを追及しているのに 対し、「副作用があるかないか」を一番大事と考える漢方においては、副作用が伴いがちな強い薬は、レベルが一番低いとみなされて、「下品」 に分類されるのだという。
つまり、「上品は命を養う」、「中品は新陳代謝を高める」、「下品は病気を治す」ということなのであり、西洋医学のほとんどが「下品」に 分類されるのに対し、漢方薬の特徴は「上品」にあり、中には目を見張るような薬理作用がないものさえあるのである。
なんていう、丁先生による「漢方薬」処方の本当の特性の目から鱗が落ちるようなとっておきのお話も、
「よく効くクスリ」は「いいクスリ」っていうのは、現代日本人的には、スンナリ理解できます。
ところが漢方ではこういう薬は「下品」だっていうんです。読み方は違うけど、つまり「下品な薬」でしょ。おもしろいなぁ。
「効きすぎる薬?やだねぇ!下品だねぇ!」
とガブッとばかりに丸呑みしたうえで、みごとに咀嚼して、たちまちのうちに吐き出してみせてくれる、まことに頼もしき生徒なのである。
「漢方が西洋医学に敗けたワケ」
「漢方で治す風邪」
「がんが治ると日本が破産!?」
「糖尿病は勝ち組がなる」
「下痢にも便秘にも効く薬」などなど。
丁先生、本当に『漢方って、おもしろいです。』
今回、私と同世代の南伸坊さんとのかけ合いの中で、自然体の漢方の姿を引き出してもらったのではないかと思います。さらに漢方を取り巻く 医療全体の問題点も複眼的な視点から触れることができました。表題も南伸坊さんのアイデアであり、これに本書の内容が十分に示されています。
2015/5/29
「キラキラネームの大研究」 伊東ひとみ 新潮新書
2ちゃんねる育児版のスレッドを中心に子供の名前をまとめた「DQN(ドキュン)ネーム」(子供の名前@あー勘違い・子供が カワイソ)というサイトには、さまざまな場面で発見されたキラキラネームが登録されている。・・・サイト内に設けられた「読み方テスト」の ページでは、その中からランダムに選ばれた10問が出題される仕組みになっている。
さあ、あなたも答えてみてほしい。(なぞると答えが出ます。)
「楽汰」(男) → <
るんた
>
「空翔」(男) → <
あとむ
>
「愛夜姫」(女)→ <
あげは
>
「紗冬」(女) → <
しゅがあ
>
「心」(女) → <
ぴゅあ
>
「ルンルン」気分で空を翔ける「アトム」や、夜の蝶の「アゲハ」には、ひょっとしたら「そのように育ってほしい」という両親の、はた迷惑な 願望が込められているのだろうか?
紗冬(さとう)と書いて「シュガー」と読ませたり、心が「ピュア」だったりするのは、ほとんど「座布団1枚」の世界ではないだろうか?
これは投稿者が意図的に話を面白くしているだけで、本当にこんな名前の子供が実在するはずはないとお疑いの方は、どうかお手元の新聞を 開いて新生児誕生の慶弔欄を見てほしい。
<男の子> 奏和(
かなと
) 颯琉(
そうる
) 煌理(
きらり
) 翔斗(
わと
) 真大(
まひろ
)
<女の子> 咲愛(
さくら
) 栞來(
かんな
) 陽葵(
ひなた
) 芳佳(
ほのか
) 月(
るな
)
そこまで極端ではないにしても、「フリガナがないと読めない」キラキラした名前のオンパレードという事態が、都会だけでなく地方にまで 波及していることは、もはや疑いようのない事実なのである。
ネット住民などから、虐待との烙印を押されても仕方のないような、奇矯な例は突出したケースであるのだとしても、どうして、ごくフツーの親 だと思われるような人たちが、わざわざこんなキラキラネームを、わが子に付けるようになってしまったのだろうか。古代漢字に込められた知恵 の奥深さに魅了され、『漢字の気持ち』を執筆中だった著者が、現在の命名の現場でたまたま出合った「キラキラネーム」の不思議のルーツを 探るうちに辿りついたのは・・・、
異なる体系を持つよその国の文字を借りて、それをどうにか手なずけることで形成していった日本語の歴史は、漢字とやまとことばの相剋と融合の 歴史なのであり、名づけとは、「声に出す言葉の響き」と「漢字という文字」がせめぎ合う、ホットな最前線だったという発見だった。
長男「於菟」(おと)、長女「茉莉」(まり)、次女「杏奴」(あんぬ)、次男「不律」(ふりつ)、三男「類」(るい)。
自らの「林太郎」という名前が、留学先のドイツでは正しく発音されなかったため、子供にはドイツ風の名前をつけたのは、明治の文豪・森鴎外 である。
なんだ、明治時代のエリートも「キラキラネーム」付けてるんじゃないかって?・・・とんでもない!
たとえば、「於菟」という名前は「オットー」というドイツ人風の響きを持ちながらも、中国の古典『春秋左氏伝』の記述を踏まえた、正統派の 文字遣いなのである。そして、ある程度の教養がある人であれば、そのような「漢和辞典」的な規範は自明のこととして心得られ、漢字使用は その規範の内で行われていた。そうした認識が薄れてしまった現代の、「キラキラネーム」に対する微妙な違和感は、どうやらそのあたりに原因 を求めることができそうなのである。
漢字の字形、そこに込められた字源と字義――そうした古代中国に発した文字が持っている力をも取り込んで、私たちの祖先は漢字を自分たち の文字に昇華させたのだ。
それなのに、「漢和辞典」的な規範の引力をゼロにしたら、つまり「中国語の文字」だった漢字本来の規範を無視したら、「日本語の文字」として の漢字も、重力を失って宇宙空間に放り出されてしまう。その“原点”こそ、忘れてはならないと思う。
2015/5/25
「進化とは何か」―ドーキンス博士の特別講義― Rドーキンス 早川書房
以前6歳の少女を連れて郊外をドライブしていたとき、その子が道ばたに咲く花々に気をとられている様子だったので、花は一体何の ために咲いていると思うか聞いてみました。するとちょっと考えて、二つあると言う。世界を美しくするためと、蜂が蜜を集めるのを手伝うため だと。いい答えだと思いましたが、残念ながら本当はそうじゃないと言わなければならなかった。
「人間はすべての生物の統治者である。動物と植物はわれわれの利益のために存在する」と、聖書の第1章にもあるように、動物は人間のために 存在するのだという考え方は、中世を通してまったく疑問をもたれることもなく、こうした人間中心の視点は今日に至るまで続いてきた。
しかし、これを蜂の視点から見れば、花は花粉や蜜を自分たちに提供するために存在する、と主張するかもしれないし、逆に、花の立場に立って みれば、花は蜜を与えることを見返りにして、蜂に交配を手伝わせることに、遺伝的利点を見出しているから、ということになる。なんてところ から始まって、最終的には、花は花を作るための仕様書を広めるために存在し、蜂はもっと蜂を作るために存在している、という結論に至る。
<生物界のすべては、DNA言語で書かれた自己複製プログラムを広めるために存在している>という、自らが主張する「利己的な遺伝子」の概念 を、小さな子どもにでもわかるように、様々な自然界の現象を例に引きながら、しかし決して端折るようなこともなく極めて明晰に、噛み砕いて 説明してくれるこの本は、冒頭でご紹介した、第4章「紫外線の庭」(私たちには見えない紫外線を見ることができる蜂にとって、花は私たちとは まったく違って見えるということ。)以外にも、
私たちがいま、この素晴らしい惑星にこうして生きているというのは、驚くほどの幸運であり、特権でもある、ということを示してみせる、
第1章「宇宙で目を覚ます」。
生きている物が、あたかもデザインされたもののように見えるのは「自然選択」の結果である、というダーウィンの偉大な発見について語る、
第2章「デザインされた物と<デザイノイド>(デザインされたように見える)物体」。
進化の山を登るためには、切り立った断崖絶壁を一足飛びに登るのではなく、わずかずつ上昇するゆっくりとした傾斜道を辿るために、個体では なく系統として、数世代の時間を投入する必要があるという、
第3章「<不可能な山>に登る」。などなど、
ドーキンスが1991年に行った、英国の王立研究所が主催する子供たちのためのクリスマス・レクチャー(これはファラデーの『ろうそくの 科学』以来の歴史を有する格式ある講義なのだ。)『宇宙で成長する』と題した名講義の、その<わくわくどきどき>するような全貌を、 200点以上の写真とともに、あますところなく披露してくれたものなのである。
「成長する」というのは3つの意味を込めて使っています。われわれ自身が一生の中で成長していくという意味と、生命が進化という過程を 経て成長していくということ、そして人間がそれ(進化や宇宙)に対する理解を深めていくという意味です。
2015/5/21
「哲学用語図鑑」 田中正人 プレジデント社
デカルトは主観と客観は一致していると言います。その理由は「神様がそうさせているから」。反対に、ヒュームは客観的な世界の 実在を否定します。カントは人間の主観と物自体の姿かたちは一致していないけれど、人間同士の主観は一致していると考えます。ヘーゲルは いわゆる弁証法によって主観と客観を一致させることができると主張します。そしてフッサールは、そもそもどうして人は主観の外に世界が実在 していると信じているのか、その根拠を探ろうとします。これらの考えに出合った時の驚きを可視化してみたいと考えたのが、この本を作った きっかけです。
というわけでこの本は、古代から現代までの西洋哲学者72名と、その思想の核となる基本的な哲学用語200弱を取り上げ、わかりやすく図解 (というかヒトコマ漫画)にして説明して差し上げましょうという、まことに画期的な「図鑑」なのである。
たとえば、「現象学」(フッサール)なら、目の前にあるリンゴの存在を、確かなことは自分にはリンゴが見えていることだけではないかと 疑ったフッサールは、自分という主観と世界という客観が一致しているかどうかを証明するのでなく、むしろ、主観と客観が一致していることを 私たちが確信していることの根拠は何かを突き止めようとした。という「現象学的還元」の概念の肝から入って、
「エポケー」=一旦カッコに入れて疑ってみること、
「志向性」=意識はつねに何かに対しての意識である、
「間主観性」=他人の自我、他我があることの確信、
などなど、フッサールの基本述語を手に取るようわかりやすく図解して見せてくれるだけでなく、(ただし、内容が難しいことに変わりはない ので、分かったような気持ちにさせてくれると言ったほうが、正しいのかもしれないが・・・)
ハイデガーの「存在論」、
ヤスパースの「限界状況」、
サルトルの「実存は本質に先立つ」、
と、「現象学」から「実存主義」へと至る現代西洋哲学の一潮流まで、芋づる式に紹介してくれるのだ。
まさに<21世紀を生き抜くための最重要科目>を学ぶための一冊として、机上に常備しておきたい逸品である。
本書を初めから眺めると、タレスから始まった西洋哲学の歴史がどのような変化をとげて現在に至ったのか、大まかな流れを見ることが できます。本書を用語辞典のように使う場合は、巻末の索引が便利です。用語を引くにあたり、該当ページに加えて、その用語と関連したページ にも目を通すと、よりいっそう理解が深まります。
2015/5/19
「聖地巡礼 ライジング」―熊野紀行― 内田樹 釈徹宗 東京書籍
我々の聖地巡礼におけるテーマは「場と関係性」である。単に宗教性が高い場所へとおもむくだけではない。そこで展開されている 儀礼行為や舞台装置などにも注目している。また、その場に関わってきた俗信や習慣、権力や政治的な要素も合算して、全体像に向き合おう としている。
それは、近代のキリスト教的視点により、内面的精神状態の信仰に限定され、特化されてしまった「宗教」を無効化しようという試みとして、 <構成要素を細かく分析するよりは、そこにある「場と関係性」に心身をチューニングすることを優先している>のだという、如来寺住職・ 釈徹宗と、
大阪上町台地縦走の旅からこの企画ははじまりましたけど、そのときに釈先生と二人で繰り返し嘆いたのは、「大地の持つ豊かな霊力に祝聖 された空間は、そこに生きる人たちの生きる力を賦活する」という自明のことを現代人は忘れてしまっているということです。
「他の場所とは違う感じがする」ということ自体を感じられなくなってしまった現代人は、もう新たな聖地を発見する力も、作り出す力も失って しまったのだから、聖地に満ちた日本の山河の、聖地が破壊されたり、穢されたりすることはあっても、「新しい聖地」が加わることはない という重い事実に警鐘を鳴らす、内田樹と。
『聖地巡礼 ビギニング』
(大阪・京都・奈良)に続く、待望の第二弾は、近代の知性によって彩られた宗教概念では読み解くことはおろか、その正体に近づくことすら できない、最大規模の聖地・熊野辺路への旅だった。
内田 何となく僕はいま、熊野=バリ説に傾きつつありまして(笑)。・・・バリにいて、裸になって寝転がって、バリの大地から伝わって くる波動に身を委ねていると、それだけで細胞が賦活する感じがする。何か身体が「ゆるむ」んです。
釈 熊野=バリ説ですか(笑)。なるほどなぁ。そういえばインドネシアって全体がイスラム化されていますけど、バリ島だけがヒンドゥー教 なんですよね。あのエリアの宗教性は古層がむき出しのままです。
などなど、内田先生の<霊的直観にもとづく言説の暴走>は相も変わらず、陶酔感に満ち溢れた「大人の遠足」の魅力にやられてしまうと、 「行かずばなるまい」という思いは募るばかりなのであるが、目的地到着と同時に、「先に御朱印を押してもらわねば」と駆け出していく、 <御朱印部>がいつの間にか派生してしまったという<巡礼部>の現況を聞くと、二の足を踏んでしまう今日この頃なのではある。
2015/5/17
「科学で勝負の先を読む」
―投資からテニスまで 先を読むため・読まれないための実践ガイド― Wパウンドストーン 青土社
私たちの運命を決める「でたらめな動き」(ランダム・ウォーク)を予測するのは単純なことに見えるが、そうではない。その理由の 一つは、ほぼランダムな系列についての私たちの直観は間違っていることが多いところにある。予測を間違うと、悲劇の元になりうる。
たとえば、コインを投げて裏・表が出る確率は1/2なのだから、何度か投げた結果を見れば、
○○●●○●○○●○●○●○●○●○○○●○●○●○●○●○●●●○●
のようになる、と言われれば、たいていの人は、このような並びはランダムだと思ってしまう。というのは、それほど意外ではないかもしれない が、実はこの並びは決してランダムなものではなく、本当にランダムであれば、次のようになるはずなのである。
●○○○○●○●●●○●●●○●●○○○●●○○○○○○●●●○○●●
表が出るか裏が出るかは、前に何が出たかに関わらず1/2なので、実際には交互に出るよりも連続する場合のほうが多いのだ。(ちなみに、 後者の切替の頻度が50%なのに対し、よりランダムに見える前者の切替頻度は75%になっている。)
つまり、人がランダムな選択を(戦略的に)しようとするときには、無意識に何かのパターンに陥っている場合が多いため、それは予測すること ができるということになる。
本書は自分の予測力を改善するための心理学の使い方を明らかにする。とくに、他人が予測しにくくしようとしている選択を予測することに 焦点を当てる。そのためには、実践的な手法をとって、少数の単純な原理が日常の多くの状況にどうあてはめられるかを解説しなければならない。 先読みは易しく、おもしろく、利益が上がることも多いことがわかるだろう。
たとえば・・・
<じゃんけん>
「ちょき」が出る場合がいちばん少なく(29.6%)、特に男は「ぐー」を好むので、1回勝負なら「ぱー」が有利。
<多肢選択テスト>
四択テストの場合は「B」が正しい場合がいちばん多く、前問の正解選択肢が今の問題の正解である可能性は下がる。
<ペナルティー・キック>
キックの方は見事にランダムに蹴られているという結果が出ているが、負けているチームのキーパーはたいてい右に跳ぶ。
<パスワード>、<偽造操作>、<投資詐欺>、<株式市場>などなど、
というわけで、お待ちかねの<宝くじ>なのであるが、普通の宝くじの当選確率を上げる秘策などはもちろんない。(ちなみに、宝くじの1等の 当選確率は、買っても買わなくてもほぼ同じだということらしい。)
ここで秘策が授けられているのは、ロト6のように自分で番号を選ぶタイプで、1等の賞金を当選者が分け合うタイプの場合である。くじを買う 人が選ぶ数字には、極端な好き嫌いの偏りがあるため、あまり人が選ばないような不人気な数字を選ぶようにすれば、当選確率は変わらないが、 万が一当たった場合に賞金を分け合う可能性が低くなるというのだった。
何だか、ちょっと哀しい気分なのである。
2015/5/16
「世界史の極意」 佐藤優 NHK出版新書
ヒト・モノ・カネが国境を越えてめまぐるしく移動する現在、ビジネスパーソンには国際的な感覚が求められています。そのためには、 外国語を身につけるだけでは十分ではありません。現下の国際情勢が、どのような歴史の積み重ねを経て成立しているのかを正確に認識し、 状況を見通す必要がある。若いビジネスパーソンには、過去に起きたことのアナロジー(類比)によって、現在の出来事を考えるセンスが必要 なのです。
未知の出来事に遭遇したときでも、対象を冷静に分析し、新しい理解の地平を切り開いていくためには、「この状況は、過去に経験したあの状況 とそっくりだ」と、似ている事物を結びつけて考える「アナロジー(類比)」的な思考を養う必要がある。
だから、<世界史は強力な武器になる>というのである。
1870年代に「帝国主義」の登場を促した「資本主義」なるものの本質を、おもにイギリスの経済史を参照しながら明らかにしながら、 西欧諸国が「力」をむきだしにして勢力拡大を図った19世紀末から20世紀初頭の「旧・帝国主義の時代」に勃発した戦争との類比によって、 中国、そしてロシアが帝国主義的な傾向を強めている現代を、「新・帝国主義の時代」とアナロジカルに位置付けてみせた、
第1章「多極化する世界を読み解く極意」
中世末期から19世紀までのヨーロッパを、外交史を中心に概観しながら、民族という概念が根づいたのは、オーストリア・ハプスブルグ帝国を 中心とした中東欧であったことを確認し、さらには、「民族問題」なるものの複雑さを理解するために、ロシア帝国下の中央アジアの民族問題を 議論のまな板に乗せることで、ウクライナ危機やスコットランド独立問題、沖縄問題など、今後の国民国家の行方を探り、「ナショナリズム」と の付き合い方を展望しようとした、
第2章「民族問題を読み解く極意」
「イスラム国」と「バチカン市国」という、二つの時事的な問題を切り口に、キリスト教とイスラムが現代の国際情勢とどのように関わっている のかを考えながら、キリスト教を源泉とするEUと、イスラムを源泉とするイスラム国の歴史的比較から、現代の宗教対立を読み解くことで、 宗教という角度から「戦争の時代」を問い直してみせた、
第3章「宗教紛争を読み解く極意」
<資本主義、ナショナリズム、宗教――私の見立てでは、、この三点の掛け算で「新・帝国主義」は動いている。>
この本は、<いま>を読み解くために必須の歴史的出来事の解説を通して、アナロジー的なものの見方を身に付けるための、最強の教則本 なのである。
このような状況にあって、知識人の焦眉の課題は「戦争を阻止すること」です。そして、戦争を阻止するためには、アナロジカルに歴史を見る 必要があります。
なぜか。
すでにお話ししたとおり、アナロジカルに歴史を見るとは、いま自分が置かれている状況を、別の時代、別の場所に生じた別の状況との類比に もとづいて理解するということです。こうしたアナロジー的思考は、論理では読み解けない、非常に複雑な出来事を前にどう行動するかを考える ことに役立つからです。
2015/5/13
「津波の墓標」 石井光太 徳間文庫カレッジ
その夜、私は仙台のホテルに帰って、テレビの震災関連ニュースを見ていた。
画面から流れてくるのは、震災からまだ2週間も経っていないのに「復興」ムード一色の物語ばかりだった。宮城県内の女子高生が炊き出しを しただの、津波で別れ別れになっていたペットと飼い主が再会を果たしただのというニュースである。すでに有名人の義捐金競争もはじまりつつ あった。
廃墟となった町にはいまだにヘドロの臭いが漂っている。瓦礫の下からは遺体が続々と掘り出されている。遺体安置所へ行けば、家族が悲鳴の ような声を上げて遺体にすがりついて号泣している。いや、遺体が見つかっていない家族の方が圧倒的に多い。
<なぜメディアはこうした現実をろくに報じず、明るい面だけをことさらに強調して、「いい国ニッポン」とか「がんばろう」という安っぽい 言葉だけを連呼するのか。>
そんな<報道姿勢>への違和感から、震災直後の被災地の現場を飛び回り、丹念に聞き取り取材を積み重ねた一つの成果として、釜石の遺体安置 所で犠牲者の尊厳を保つべく奔走した人々の姿を描いた、『遺体――震災、津波の果てに』(新潮社)を上梓し、読者に衝撃を与えた著者が、
<あれから2年>、月日が経過して世間から震災の記憶がますます薄れていく風潮の中で、あの本では活字にできなかった人々の残像が、 「書き残してくれ」と訴えているかのような、そんな後悔や罪悪感に衝き動かされて書き起こした、これは、圧倒的な破壊の風景と、そこに 刻み込まれた忘れられぬ光景が織りなす、小さな物語たちの断片の記録なのだが・・・
大雪の降る中で、野ざらしになっていた遺体のために一人たって見守っていた自衛官の姿。
一日中、行方不明の家族を探した者たちが、せめて幽霊でもいいから会いたい、と思って、そうした噂のある川へ駆けつけた姿。
交通事故を起こして路上で怒鳴り散らす被災者や、浜辺で行方不明の娘が生きているか死んでいるかで口論をした夫婦。
土葬された遺体を掘り返し、棺にたまった体液を抜いてから火葬場に運んで改めて供養する僧侶。
遺族の悲しみ、被災者の混乱、物資の欠如、メディアの高圧的な態度、僧侶の苦悩などなど、
現地で急を要している問題を周知せんがために、「震災の負の側面」を積極的に書き記してきたつもりだった著者が、このたびの文庫化にあたり、 震災後四年が経って改めて読み返してみた時、胸に湧き上がってきた感想には、いささか胸を衝かれる思いがあったようなのである。
本書に書かれている震災直後の光景は、あの悲劇から何とか一歩を踏み出そうとしている人々の姿だといえるのではないか。発生直後私は 起きている問題を一つ一つ書いたつもりなのに、はからずもそれは人間の生きることの強さを表現することになったのである。だからこそ、 本書を読み返した時、悲壮感より、たくましさを感じ取ったのだ。
2015/5/8
「『昭和天皇実録』の謎を解く」 半藤一利 保阪正康 御厨貴 磯田道史 文春新書
半藤 当初、私が『実録』に抱いた印象は、昭和6年の満州事変から開戦へと至る過程、開戦が決定した昭和16年、そして終戦の 昭和20年といった、いわば昭和史の重要な部分に関しては、これまで我々が調べてきたことと、さほど違わないというものでした。しかし 保阪さん、この期間も、よく読むと意外な発見がありますな。
保阪 それは、「開戦」「継戦」「終戦」については、きちっとした「天皇像」をつくったうえで書かれているからではないでしょうか。 『実録』の編纂に協力した人は延べ112人といわれていますが、執筆したのは13人ほどのようです。その中でもエース中のエースというべき 人が、昭和史の核心部分を担当しているというのが、私の見立てなんです。
中国は漢の時代、司馬遷の『史記』に始まったと言われる、先代の皇帝の生涯の事績を編年体で記した『実録』と呼ばれる伝統は、その後わが 日本にも伝承され「記・紀」の文化を成立させた。
平安時代の『三代実録』以降、途絶えてしまったこの正史編纂の文化が、明治維新を機に『孝明天皇紀』から復活したため、古代から東アジアの 国々が共有してきた連綿たる歴史叙述の伝統は、今ではわが日本においてのみ、受け継がれるものとなってしまった。
昭和天皇が崩御されてから26年目にあたる2014年9月9日、宮内庁が編纂した『昭和天皇実録』(全19冊、1万2千頁)の刊行開始が 公表された。
<昭和天皇は、あの時、何を思われていたのか。>
私たちは言うに及ばず、私たちの百年先、二百年先の子孫たちがこれを読んで、近代日本激動期の君主の実像と、その生きた時代を知る、 この膨大なスケールの<歴史遺産>とも言うべき代物を、昭和史解読の最強メンバーが、代わりに読んで噛み砕いて差し上げましょうという、 これは、まことに願ったり叶ったりの、ご親切極まりない座談会の記録なのである。
そして、この『実録』が公表されなければ、私たちが永久に知ることはなかった、迪宮時代の幼少期のエピソードなども、もちろん新鮮な驚き に溢れてはいるのだが、私たちの興味はどうしても、<あの時>に向かっていかざるを得ないのだった。
<戦争に断固反対だった天皇が、開戦の決意をしたのはいつか。>
半藤 実は私は、昭和天皇には三つの顔がある、と考えているんです。ひとつは「立憲君主」としての天皇、もうひとつは陸海軍を統帥する 「大元帥」。そして両者の上位にさらに、皇祖皇宗に連なる大祭司であり神の裔である「大天皇」がおわす、というのが私の仮説です。この天皇 と大元帥は、一身でありながら、時に重大な相克や齟齬を生じさせ、それに大天皇である昭和天皇は深く悩まれたのではないかと思うのです。
軍部は、天皇の「立憲君主」と「大元帥」という、引き裂かれた立場の割れ目にうまく潜り込んで、結果として天皇を開戦へと追い込んでいった ということなのだろうか?しかし・・・
保阪 こうして『実録』の昭和20年を読み進めていくと、開戦から3年8か月の間、あまり動きを見せなかった天皇が、4月、5月、6月と だんだん動きだす。動きが立体的になるんですね。そして、本当に危急の折には「この方のご判断がなければこの国は駄目なのだ」という ストーリーを浮かび上がらせようとしている。
<こんなに見事な決断を示すなら、なぜもっと早くから動かなかったのかとの声も起こるでしょうね。>
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