徒然読書日記201502
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2015/2/24
「哺乳類誕生 乳の獲得と進化の謎」―驚異の器官がうまれるまで― 酒井仙吉 講談社ブルーバックス
最初の生物は水中で誕生し、無機物からエネルギーを得る細菌であった。次に光合成細菌が誕生すると地球上で酸素が生まれ、次に それを利用する好気性細菌が出現した。20億年前、光合成細菌が葉緑体となり、好気性細菌がミトコンドリアとなって他の生物に寄生した。 生物が陸上へ移動することを可能にする革命であった。これが共生となり現在まで連続している。
5億4千万年前のカンブリア紀。
水中での生存競争が激化して、陸地へと逃避を図った生物は、水中の覇者である<両生類>から<爬虫類>へと進化し、両生類不在の楽園を 独占できる立場を獲得する。やがて適者適存の原則に従い、生息場所に合うように体の仕組みを変えていくのだが、その究極の姿が恐竜だった ということになる。しかし・・・
65百万年前の白亜紀末期。
そんな恐竜が忽然と姿を消したのは、巨大隕石の落下により環境が激変して、巨大化した肉体を支えるための餌が不足したことによる。 そんな苛酷な時代を生き伸びることができたのは、同じ爬虫類の仲間でも小型の<鳥類>、そして<哺乳類>であった。
一部の魚類と両生類、ハ虫類でタマゴを守り、子を世話し、外敵から守る行動がみられる。それでも基本的には子が餌を探す。生存競争は 過酷で大半は途中で死んでしまい、多くは全体としてみれば雌親一匹が雌の子を一匹残す程度に過ぎないのだ。子育てとは親が子に餌を与え 世話することである。鳥類と哺乳類でみられ、子孫をのこす上で重要な意味をもっていた。進化とは子育て方法の発展の歴史でもある。
最小の努力で最大の効果を得るためには、親と同じ餌を親が変わりに取ってきて、卵から孵化したばかりの自分の子に与える以外にない。空を 飛翔することに生存の場所を求めたため、子育てのために体重を増やすことができず、妊娠することすら許されない鳥類にとって、これが進化上 唯一の究極の戦略だった。
一方、陸上を生活の場所に選んだ哺乳類にとって、体重増加は全く問題にならなかったので、親が自分で食べた餌の栄養を、わざわざ体内で加工 して子に与えるという戦略を取った。これには相当な時間がかかり、親の餌探しにかかる負担も大きく、さらには加工のため無駄になる エネルギーも多いのだが、
・子の食べ物を母親が体内にもって行動することができるため、いつでも必要な時に与えることができる。
・乳腺に強力な抗菌システムがあって、ほぼ無菌のもっとも安全な食べ物である。
・存在する三大栄養素を含め、全てが水溶性になったことで消化しやすい、完全栄養食品である。
・動物種ごとに乳成分が異なり、同じ動物でも初乳と常乳で子育てに適した成分に変えることも容易である。
それが、哺乳類を生物界の頂点に立つまでに繁栄させることになった究極のシステム、<乳>による子育てであった。
哺乳類(Mammalia)という語はラテン語の「乳房の」に由来し、分類学の祖リンネが『自然の体系』で初めて用いた。乳房を備え、授乳に よって子育てする特徴からである。体の各器官で進化の道筋を見ることができる。ところが乳腺の進化ではハ虫類との連続性をあまり感じさせ ない。むしろ遺伝子および分子、進化レベルで見ると哺乳類に固有な連続性となっていて、乳に驚くべき機能を付与した。また、進化の歴史を ながめると、ヒトがどのように進化し、どのようにつくられてきたか推測できる。高度な文化と文明を創造してきたが、意外にも根底にあるのが 狩猟採取の時代に身に付けた能力であった。
2015/2/18
「工作舎物語」―眠りたくなかった時代― 臼田捷治 左右社
以下、一部読者には公表した2号〜6号の企画予定を主項目のみ再録する。
玩具、時間論、地球、折口民俗学、ピアノ論、ウォーホール、宇宙模型、実験医学、武器、細菌学、エルンスト・マッハ、人形、雲、原始美術、 イスラム観念、柿本人麻呂、ダヴィンチ、素領域概念、ドス・パソス、化石学、ザ・ビートルズ、日本列島論、国家論、ウパニシャッド、ポオ、 鳥類、デュシャン、星、ヒルベルト空間、機械学、バッハ、内乱論、海底地形、韻律論・・・その他。
(創刊号131頁)
その雑誌と遭遇したのは、神田・神保町の建築専門古書店だったはずだ。創刊号から第3号までの3冊セットで、結構な値段がついていたように 記憶する。ミルクの海から飛び出してきたばかりの、歪んで血走った眼球が中空に踊り上がった、その圧倒的な迫力が見るものの度肝を抜く <表紙>を開くと、古今東西から精選した<眼>に関する図版・写真を192カット、フレーズ48組を小さなカードに収めた、オブジェ・ コレクション『眼の形態』に引き続き、
稲垣足穂『わが1923年のマニフェスト』、
杉浦康平『視覚の不確定性原理』、
梯 明秀『物資現象学・序』、
高内壮介『科学と詩学』、
岩成達也『エッシャーの空間構造分析』、
などなど、物理学と民俗学を架橋するかのような、これまで耳にしたこともない論考が、次から次へと細かい文字でびっしりと頁を埋め尽くして いくのである。この雑誌を、私は季刊(不定期)時代の1974年第8号から購入し始め、月刊化を経て1982年の最終号まで、結局欠かさず (残念ながら4〜7号までは未入手)取り揃えさせられることになった。
<オブジェ・マガジン>『遊』。
この今や<伝説>となった雑誌を世に送り出したのは、数々の独創的な方法論を繰り出してきたグラフィック・デザイナー杉浦康平とタッグを 組んで、それまでの雑誌にはなかった緊密なエディトリアルデザインを織り上げてみせた、稀代の編集者・松岡正剛が立ち上げに加わった <工作舎>だった。
というわけで、この本は、活版印刷からオフセット印刷へという出版デザインにおける価値観の転回や、アカデミズムに立ち向かうカウンター カルチャーの攻防というてんやわんやの大騒ぎの中で、数多の才能を引き寄せずにはおかない、妖しげな魅力を発散し続けていた<場>が、 70年代の日本にほんの一刻とはいえ確かに存在していたという痕跡の記憶を、今では出版界を代表する立場にまで登りつめたような重鎮たち (戸田ツトム、羽良多平吉、祖父江慎など)が、熱に浮かされたように語り継ぐ、夢のような物語の記録なのである。
杉浦さんから、「40までは寝るな、寝たら終わりよ。やれる時にできるだけやりなさい」と諭されていたから、僕もみんなにそう言って いました。みんなへたばるまでやって、後は床に寝るというだけです。半分以上は泊まり込みです。
寝袋もずいぶんあって、ソファなんてなかったですから、じゅうたんの上にじかに寝ていました。寒いときは新聞紙で身をくるみホチキスで 止めて寝た。結構あったかいものですよ。いまのホームレスですね(笑)。
(松岡正剛)
2015/2/11
「ペテン師と天才」―佐村河内事件の全貌― 神山典士 文藝春秋
みっくんの音楽の師匠である佐村河内守さんは、実は楽譜も読めない人でした。実際に作曲しているのは、みっくんが5歳の時から 発表会で伴奏をしてくれている新垣隆さんです。佐村河内さんがみっくんに献呈してくれた『ソナチネ』も、新垣さんの作品でした。新垣さん は佐村河内さんとは普通に会話しているといいます。全聾というのも嘘だったのです。
<あれだけマスメディアで持ち上げられている佐村河内にゴーストライターがいる?耳が聞こえる?全ては嘘だったというのか!>
2013年12月8日。
佐村河内に特別に目を掛けられていた片手が義手の少女ヴァイオリニスト(みっくん)の父から、その年の正月にみっくんを主人公にした 児童書を上梓していた関係で、「お会いして話したいことがある」と呼び出された、ジャーナリストの神山は、まったく予想もしなかった 衝撃的な話の内容に、わが耳を疑い、しばらくの間返すべき言葉を失うことになった。
2014年2月6日。
18年間、ゴーストライターとして代わりに曲を書き続けてきた新垣が、『共犯者』だったと名乗り出て懺悔告白したことにより暴き出された 真実。
とにかく大きなことをしでかしたいという野心をむき出しに生きてきた男は、有名になりたい一心で大法螺を吹きながら周囲を巻き込み、 自分の存在を過大に見せようと努力した。中味は空疎だっから失敗の連続ではあったが、決して挫折することもなく、なぜか人を驚かしたり その心を鷲掴みにしたりする才には長けていた。
一方、小学校6年生でしかもまったくの独学で、20分を超えるオーケストラのフルスコアを書いてしまった、早熟な天才と周囲を驚かせた 少年は、音楽に関することなら何でも純粋な興味を持つ男になった。知識も技術も豊富なものを持ち、頼まれればその要求以上の作品に仕上げて しまう才を誇ったが、自分から何かをやりたい、やろうという意思には欠けていた。
ある意味で、互いに周囲を圧倒していた「異能の才」が、ある時偶然にも出会ってしまったことで、あらゆるメディアを巻き込んで繰り広げ られた、この壮大な「ペテン劇」の幕が開くことになった。
専門医でも客観的な検査だけでは判断が難しいとされる「聴覚障害」という迷宮。
素人やジャーナリストにはおよそ難解な「クラシック音楽」という迷宮。
病気や障害の発生との相関関係は神聖不可侵なものとなってしまう「被爆二世」という迷宮。
これら3つの強固な虚構を身に纏いながら、佐村河内はクラシックの領域に足を踏み入れようとした。「全聾の天才作曲家」の誕生、それは 新垣が最も恐れていたシナリオだった。
佐村河内は「耳が聞こえなかった」のではない、「聞く耳を持たなかった」のだ。
ペテン師は、嘘を塗り固めて我が身を飾りたて、「現代のベートーヴェン」とまで言われるようになった。一方音楽馬鹿は、ペテン師を 利用して自分の音楽的な野心を追求し、ある意味でその醍醐味を享受していた。
二人の虚構がバレた時、ペテン師には何も残っていなかった。成人してからの約30年間、常に自分以上の自分を演じていたのだから、本質は 空疎だ。
一方音楽馬鹿の天才は、どんなに断罪されようとも音楽でしか生きていく道はないと自覚していた。だから謝罪の後も、音楽を続けるしかない。 そんな姿に、傍目には不安になるほどに次々と作曲や編曲、あるいはテレビ出演のオファーが殺到し、嬉しい悲鳴をあげる日々が続いている。
2015/2/10
「街場の戦争論」 内田樹 ミシマ社
僕たちが今いるのは、二つの戦争つまり「負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」にはさまれた戦争間期ではないか。これが 僕の偽らざる実感です。
今の時代の空気は「戦争間期」に固有のものではないのか。その軽薄さも、その無力感の深さも、その無責任さも、いずれも二つの戦争の間に 宙づりになった日本という枠組みの中に置いてみると、なんとなく納得できるような気がする。
<今後、集団的自衛権を発動して、日本がイスラーム圏でアメリカの軍事行動に帯同した場合、日本はイスラーム過激派のテロの標的になる リスクを抱え込むことになる。>
そのことが高い確率で見通せたにもかかわらず、(そして内田が危惧していたとおりの事態は、すでに起こってしまったわけなのだが、) 安倍首相とその周辺が、前のめりに戦争にコミットしようとし、しかもそれを多数の国民が支持しているかのようなのは、一体なぜなのか?
それを知るためには、「日本人は戦争に負けることによって何を失ったのか。」ということをきちんと数え上げてゆく必要があるが、僕たちが 敗戦で失った最大のものは「私たちは何を失ったのか?」を正面から問うだけの知力なのであり、その気力の欠如が戦後70年続いた結果、 この国の知性は土台から腐蝕してきている。というのが、内田先生の見立てなのである。
国民的な矜持を維持し、必死で主権を保ち、国を復興しようとする、戦争に負けた多くの国のような「普通の敗戦国」にはならず、自虐的になり、 戦勝国に文化的に従属し、その世界戦略に追随するばかりで、「次は勝つ」という発想をまったくしない「異常な敗戦国」となってしまったのは、 「敗戦の原因を自力で検証できないくらい徹底的に敗戦した」ことにより、「主権国家」から「アメリカの従属国」への本来は「命がけの跳躍」 を、軽々と実演してしまったことの帰結であるというのだった。
そんな日本の戦後の対米戦略は「対米従属を通じての対米自立」という、まことに込み入った形をとらざるを得なくなった。日本は重要政策に ついて自主的に決定できない「アメリカの従属国」であるが、もっと重要なのは、従属国であるという事実それ自体を隠蔽しようとしている ことだという。
病気を治癒して健康になるためには、自分は病気だということを認めるところから始めなければならない。自分は健康であると言い張りながら 病気の治療に取り掛かることはできないのだ。「従属を通じての自立」という発想そのものが従属国マインドのもっとも徴候的なかたちだと いうことに、気付かないところに病巣の深さを見ているのである。
この本はかなりシリアスかつアクチュアルなトピックを扱ってはいますけれど、ほとんど論争的な性格を持っておりません。ただ、 「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていることを、別の視座から見ると別の様相が見えます」ということを述べているだけです。 ・・・でも、僕は「こんなふうに見えた」ことで、少し息がつけた。窒息感から解放された。そのときの「ほっとした感じ」を読者のみなさん にも経験してほしいと思います。
2015/2/6
「イスラーム国の衝撃」 池内恵 文春新書
いったいなぜ「イスラーム国」は、急速に伸張を遂げたのだろうか。どのようにして広範囲の領域を支配するに至ったのだろうか。 その勢力の発生と拡大の背後にはどのような歴史と政治的経緯があるのか。斬首や奴隷制を誇示する主張と行動の背景にはどのような思想や イデオロギーがあるのだろうか。本書が取り組むのはこれらの課題である。
<「イスラーム国」の伸張には、大きく見て二つの異なる要因が作用しているのだ。>
と、イスラーム政治思想史の専門家として数々の話題作(大佛次郎論壇賞を受賞した
『現代アラブの社会思想』
など) を提供してきた著者はいう。
「ジハード主義」の思想と運動の拡大・発展の結果、情報通信革命に適合した組織論の展開の結果として、世界規模のグローバル・ジハードの 運動が成立した、という<思想的要因>と、
「アラブの春」という未曾有の地域的な政治変動を背景に、各国で中央政府が揺らぎ、地方統治の弛緩が進んだ(とくにイラクやシリアで それは著しい)、という<政治的要因>である。
9.11以後の米国の「対テロ戦争」の結果、組織に大打撃を受けたアル=カーイダの本体・中枢は、具体的な作戦行動を行なう主体から、 思想・イデオロギーのシンボルとしての様相を強めることになった。代わりに、アル=カーイダの思想に共鳴して、自発的に各地で行動する 諸勢力や個人が、グローバル・ジハード運動を担う分散型ネットワークを形成することで、アル=カーイダ関連組織の「フランチャイズ化」が 成立したのである。
こうした「フランチャイズ」の一つとして、中枢との関係は必ずしも良好ではなかったが、突出して活発な活動を実践していた「武装民兵集団」 にすぎない「イラクのアル=カーイダ」が、「アラブの春」の激動に揺れるシリアとイラクのに隙に乗じて、広範な領域支配の機会を得た、 それが「イスラーム国」だった。
グローバル・ジハードの進化と拡大が、中東とアラブ世界のリージョナルな社会・政治的動揺と結びつき、イラクとシリアの辺境地域という ローカルな場に収斂したことによって、「イスラーム国」の伸張は現実のものとなった。
斬首による処刑シーンを映像に撮影して全世界に公開する、という残虐な手法ばかりが論議を呼んでいるようではあるが、グローバル・ジハード の思想が、世界宗教の教義の一部を援用した、ある種の「グローバル・スタンダード」であるのだとすれば、それをただ無自覚にカルトだと 批難し弾圧するばかりでは、広い範囲のイスラーム教徒から反発を招くばかりでなく、日本社会の片隅で不満や破壊衝動を持て余した者たちが、 過激派に一方的な思い入れを託して暴発する自体が、運悪く生じてくることもありうる。
というこの著者の、日本人ジャーナリスト<斬首前>に発された警告は、<斬首後>ますますその重みを増してくるように思われるのである。
神の啓示による絶対的な規範の優越性を主張する宗教的政治思想の唱導は、自由社会においてどの範囲まで許され、どこからは許されない のか。日本の法執行機関と市民社会のそれぞれが、確固とした基準を示しておく必要がある。「イスラーム国」への対処は、日本の自由主義体制 と市民社会の成熟度を問う試金石となるだろう。
2015/2/4
「バンヴァードの阿房宮」―世界を変えなかった十三人― Pコリンズ 白水社
歴史の脚注の奥に埋もれた人々。傑出した才能を持ちながら致命的な失敗を犯し、目のくらむような知の高みと名声の頂点へと 昇りつめたのちに破滅と嘲笑のただ中へ、あるいはまったき忘却の淵へと転げ落ちた人々。そんな忘れられた偉人たちに、僕はずっと惹かれ つづけてきた。
ミシシッピ川流域“全域”の光景を、全長5キロにも及ぶ壮大な動くパノラマとして描き、世界各地で上演して見せたことで、絵画史上初の 億万長者へと登りつめた、ジョン・バンヴァード(1815-1891)は、後追いで彼から見れば“ペテン師”のようなアメリカ最強の興業師・ バーナムとの戦いに敗れ、それから35年後にダコタ準州のわびしいフロンティアの町の貧窮者墓地にひっそりと埋葬されることになった。
自筆の署名が入った抵当証書に始まり、エリザベス女王との交換書簡、アン・ハサウェイに宛てた恋文、そして『ハンブレット(Hamblette)』 (Hamletを古いスペルで書いたもの)の手書き原稿まで、古文書蒐集家で厳格な父親を喜ばせんがために、次々と“発見”し続けた ウィリアム・ヘンリー・アイアランド(1775-1835)は、ついにシェークスピアの未発見の史劇『ヴォーティガン』を上演するにいたる。 すべてが、自らの手になる贋作だった。
「私の国では、男たちは妻を殺して食べるのが認められています。」フォルモサ(美麗島)、すなわち今日“台湾”と呼ばれている島国の出身で、 史上初めてイングランドの岸辺に到達したと、耳慣れない台湾語と奇怪な逸話を披露して、一躍ロンドン社交界の寵児となった ジョージ・サルマナザール(1679-1763)は、本当は台湾語を話すことも書くこともできなかった。台湾に行ったこともなかった。 彼はアジア人ですらなかったのだ。
“地球空洞説”を提唱し、それを実証せんがために後半生をかけた、ジョン・クリーヴズ・シムズ(1779-1829)。
その放射を受けると知覚が鋭敏化するという、驚異の放射線“N線”が見えてしまった、ルネ・ブロンロ(1849-1930)。
ニューヨークの繁華街ブロードウェイの市庁舎の真下に、誰にも気付かれることなく“空圧式地下鉄道”を走らせてしまった、 アルフレッド・イーライ・ビーチ(1826-1896)。
<兵どもの夢の跡>は、どうしてこんなにも切なく、愛おしいのだろうか?
この敗者たちはタイミングが悪かったのか。歴史上の勝利者たちの推進力である“非情なパーソナリティ”が欠けていたのか。あるいは、 彼らが最終的に敗北に至ったのは、そのアイデア・思索そのものの素晴らしさとはほとんど関係のない、当人の性格的な弱さによってであった のかもしれない・・・。
というわけで、僕はこの本を書きはじめた。その夢の追求において敗れた13人の男女の物語――実のところ、このひとりひとりの人生を 十全に伝えるには、それぞれ一冊の本を必要とするだろう。それがいつか実現できればと願いつつ、とりあえずは、このポートレート集で、 彼らの夢と営為の一端を知っていただければと思う。
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