徒然読書日記201501
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2015/1/28
「イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る」
―雇用400万人、GDP8パーセント成長への提言― Dアトキンソン 講談社+α新書
「小西美術工藝社」には70人以上の社員がおり、その中の50人以上が職人です。私が経営する前は、その3割が日雇いの非正規雇用 でしたが、それを本社オフィスの賃貸料や経費などの固定費を徹底的にコストカットすることで、すべて正社員としたのです。その代わり、年功 序列の給与体系をやめて、一定の年齢以上は昇給しないという仕組みをつくりました。
年功序列の日本の「職人」の世界では、経験と知識があるということで、年配の食任意高い給料を払う。しかし、そんなシステムを長く続けて いると、そのしわ寄せで若くて経験の浅い人には安い給料しか払えず、後継者となるべき若い職人は去っていってしまう。
これが、文化財の保全修復専門会社として300年以上の歴史を誇る「小西美術工藝社」が抱えていた二つの課題、「後継者不足」と「職人の 技術が低下している」ことの根本にある原因であることを、一瞬にして見抜くことができたのは、元ゴールドマン・サックスの辣腕のアナリスト として、企業が抱える経営や財務の問題を分析してきた17年間の経験があったからだった。
改革の効果はてきめんで、「小西美術工藝社」の技術に対する評価は劇的に上がり、後継者への技術継承も順調に進むようになった。突然、 代表取締役という肩書きで乗り込んできたイギリス人に、日本の文化財のことなどわかるはずがない、という反発も起きなかった。
なんていう、「プロジェクトX」のような物語のさらに詳しい顛末が語られることを期待していた向きは、「題名」にだまされたような気分を 味わうことになるだろう。
エリートとされる金融機関の幹部が無茶苦茶な理屈をふりかざす姿を、目の当たりにしてきたということもありますが、銀行以外に目を やっても、大企業の経営者たちは、私から見ればなにかの改革や決断をしているようには見えなかったからです。むしろ、すぐに問題を隠したり、 というその姿勢から、「何も変えないということに、日本人としての“美”を感じているのではないか」とさえ思ったほどです。にもかかわらず、 なぜ日本企業は成功していたのか。
これは、17年間も日本経済と金融機関を分析してきながら、「なぜこの国が世界第二位の経済大国に成長をしたのか」という疑問に対する答え を見出せないことに戸惑ってきた著者が、300年続いた日本企業の改革に成功するなかで体得した、「日本の素晴らしさ」と、改善すべき 「日本のダメさ」を教えてあげようという「日本人論」なのであり、
「日本人の壁を超えるための良薬」だと、あの養老孟司先生もご推薦なのではあるが、中味は意外とありきたりのお話が多く、(ただし、さすが に元アナリストだけあって、数字の裏付けには説得力がある)
「やるべきことをやれば日本の組織は劇的に改善する」なんて、まことにお節介な<処方箋>なのではある。
2015/1/26
「東京大学で世界文学を学ぶ」 辻原登 集英社文庫
<講義をはじめるにあたって>
今日から14回、近現代文学についての講義をしようと思っています。まず、そのスケジュールをざっと説明してみましょう。
(1)我々はみなゴーゴリから、その外套の下からやってきた
(2)我々はみな二葉亭四迷から、その「あひゞき」から出てきた
(3)舌の先まで出かかった名前――耳に向かって書かれた<声の物語>
(4)私をどこかへ連れてって――静かに爆発する短篇小説
(5)燃えつきる小説――近代の三大長篇小説を読む
(6)物騒なフィクション――ラシュディ『悪魔の詩』と冒涜するフィクション
(7)自作『枯葉の中の青い炎』は、どのようにして書かれたか
(8)ヘンリー・ジェイムスの『ねじの回転』をどう読み、どうパスティーシュするか
という、どれをとってもまことに魅惑的な演目が並んだ、目くるめくようなこの本は、2009年の春に、東京大学大学院の現代文芸論研究室が 開設した科目の一環として招聘された辻原が、本郷の法文2号館2階2番大教室を埋め尽くした、約120名の受講生を対象に行なわれた、 「近現代小説」と題した特別講義の完全収録なのである。
韻文中心であったロシア文学の世界に散文というものを確立したゴーゴリと、戯作文の日本文学に近代小説の幕開けをもたらした二葉亭四迷の 存在に対する的確な位置づけから始まり、物語から「声」が失われたものが小説であるという「物語」の分析や、短いからこそ地平がどこかで 別の地平にひっくり返らねばならないという「短篇小説」の実証。
セルバンテス『ドン・キホーテ』、フローベール『ボヴァリー夫人』、ドストエフスキー『白痴』が、いずれも、主人公が燃え尽きるという構造 を持った、近代の「長編小説」を代表する作品であること、などなど。
さらには、辻原お得意のパスティーシュの実演まで提示されて、これはまさに読み応え十分の、垂涎の名講義なのである。
近代小説は、紙の本によって成立した物語ジャンルである。ドン・キホーテもエマ・ボヴァリーもムイシュキン公爵も、最後に燃えつきて 死んでゆく。紙だからこそだ。
声でもなく、紙でもなく、あるいはフィルムでもない媒体に物語が盛られたとき、いったい何が起きるのだろうか。「文学」が消える。 そして誰もいなくなる。 <文庫版へのあとがき>
2015/1/18
「アラマタ大事典」 荒俣宏 講談社
この事典をつくったのは、わたしです。この世の中は、わからないことだらけだけど、だからおもしろい。なんでもおもしろがれる コツは、好奇心。だから、教科書とはぜんぜんちがう。覚えるのではなく、なぜ?どうして?と疑問がわき、そーか!そうなのか!とわかって ビックリする事典をめざします。(『アラマタ・ヒロシ』の項目より)
『イチゴ』
葉、根、実、茎が食用として栽培されるのが「野菜」で、樹木の花が授粉後に大きくなって食用となったものが「果物」。しかし、花がふくら んでできたとはいえ、イチゴは樹木ではないので「果実的野菜」なのだ。
『学ラン』
鎖国中の江戸時代には、オランダだけが長崎の出島から出入りを許されていた。西洋の学問はすべてオランダ語で学んだので「蘭学」、西洋人の 着る服は「蘭服」と呼ばれた。「学ラン」とは「学生用蘭服」の略称だった。
『吸血鬼』
棺の中に細かなケシの実をまいておくと、蘇った吸血鬼はその数を数えているうちに夜明けとなり足止めを食う。吸血鬼たちは意外に数に細かく、 几帳面な性格らしい。
『くだらない』
家康時代の江戸はまだ寂しい田舎だったので、醤油や酒などは大阪や京都などから「上方」のものが船で運ばれ、「下りもの」として人気が 高かった。江戸の人々は当時、銚子や野田の今では日本を代表する醤油を、「下らないもの」として軽蔑していたのだ。
『国歌』
世界で一番長い国歌は、ギリシア国歌の「自由への讃歌」で158番まであるが、普通は2番までしか演奏されない。ちなみに、世界で最も 短いのは日本国歌の「君が代」である。(ヨルダン国歌も同じく最短で5行)
『ふんどし』
長さが6尺(1.8m)もあるふんどしは、買えば1本248文(現在価格で1万円以上)もしたので、ふんどしが必須の花見や祭りには、 「損料屋」に走って60文でレンタルし、わざと着物の裾をまくりあげて、真新しいふんどしをチラ見せするのがお洒落だった。
などなど・・・、日本有数の博物学者としてその名も高き、荒俣宏の監修になる「知らなくったって別に困るわけではないけれど、知っている だけでちょっと嬉しい」、雑学知識のおもちゃ箱のような本である。
著者が提唱する「アラマタ式博物学」の方法論は以下の4つ、「おもしろきこともなき日をおもしろく」生きていくための秘訣満載です。
1.物事には、「事実」と「別の見方」と「フィクション」がある。
2.教科書で勉強すれば物事を手早く知ることができるが、実感はもてない。
3.学校で学ぶ知識を、おもしろい「知の冒険」にできるかどうかは好奇心と行動力にかかっている。
4.好奇心の源は「なぜ?」と「ヘェー!」、おどろきと感動だ。
2015/1/15
「営繕かるかや怪異譚」 小野不由美 角川書店
安っぽい青の浴槽はいかにも古び、そこにこれだけは真新しい蓋がしてあった。母親は風呂の残り湯を掃除や洗濯に使う。だから風呂 を沸かす前に、お湯を抜いて掃除をしなければならない。
浴槽の栓を抜こうと蓋に手を掛けた。勢いよく捲ると、中にあの老人がいた。
(『異形のひと』)
――なに、これ。
死んだ叔母から受け継いだ古い町屋には、奥行きのある中庭に面した廊下の奥に、唯一の出入口の襖を二棹の桐箪笥で塞がれた窓のない部屋が あった。「絶対に勝手に入ってはいけない」と、子供のころ叔母からいい聞かされたきたその「開かずの間」の襖が、確かに閉めたはずなのに、 何度閉めても開くようになって・・・
(『奥庭より』)
雨の日に必ず姿を現すようになった、真っ黒な喪服姿のその女は、折れ曲がった小路の角で塀に行く手を遮られたかのように、傘も差さずに 俯いたまま佇んでいた。次の雨の日にはまたチリンと鈴がなり、この女はきっとあの角を曲がって、袋小路の突き当たりにある祖母から譲られ た小さな古屋に向かって歩きだすはずだ・・・
(『雨の鈴』)
などなど、古い家や場所にまつわる「怪異な出来事」の顛末を6つ集めた短編集である。
憧れの住まいをようやく手にしたと思ったのも束の間、予想外の事態に遭遇して途方にくれることになった、彼らを救ってくれるのは、この 怖〜い物語の最終局面になってようやく登場してきて、「営繕かるかや」という名刺を差し出してくる尾端という青年なのだが、実際にやって くれるのは、渡された名刺にある通り、建物の改修工事(=「営繕」)にすぎない。きちんと見積も提出して仕事にかかる、つまり彼は正真正銘 の「大工さん」なのだ。
もし、それで「怪異」が見事に鎮まってしまうというのであれば・・・
「事情は一通り聞かせていただいておりますが、たぶん私は適任ではないと思うのです」と、ある現場に「お祓いしてほしい」と担ぎ出された、 お坊さんも言うように、お祓いはそこに残っている悪意や邪念をお浄めするためのものなのだから、そこに残された「念」のようなものは、 むしろそのまま受け止めて、そっと受け流せるように、うまく納めてしまうのが、正しい引き継ぎ方だということなのだろう。
「出る」ほうにだって、「出る」には「出る」だけの、それなりの事情があるということなのである。
「行く先々に現れて嫌がらせをするのは、なんで?化けて出るんだったら、息子さんのところに行けばいいじゃない」
「逆じゃないかね」・・・
「逆、って」
「爺さんは隠れてるんだよ」
「――え?」
「息子や孫に乱暴されたから、若い者が怖いんだ。だから必死で隠れてるんだよ。なのに嬢ちゃんが見つけてしまう」
(『異形のひと』)
2015/1/8
「辞書になった男」―ケンボー先生と山田先生― 佐々木健一 文藝春秋
『新明解』と『三国』は、戦後に生まれた国民的国語辞書である。
この二冊を世に送り出した「山田先生」と「ケンボー先生」は、辞書界の二大巨星だった。
二人は奇しくも東大の同級生であり、元々はともに力を合わせ一冊の国語辞書を作り上げた良友であった。
だが、“ある時点”を境に決別した。
そして、同じ出版社から全く性格の異なる二冊の国語辞書が生まれた。
【れんあい(恋愛)】 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、 それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。
などという、それまでの常識を覆すユニークな語釈や用例で知られるようになった『新明解国語辞典』の生みの親は、 “辞書界の革命児”山田忠雄。
中学生向けの国語辞書として圧倒的なシェアを誇り、他の辞書編纂者や編集者からも高く評価された『三省堂国語辞典』を生み出したのは、 一人の編纂者が集めた用例の数として、後にも先にも誰も到達し得ないであろう、145万例という桁外れの偉業を成し遂げた、 “戦後最大の辞書編纂者”見坊豪紀。
これら二つの辞典は、収録語数もほぼ同程度の小型国語辞典でありながら、全く正反対の個性を輝かせて人気を二分してきた。「主観的」で 「規範的」で「長文」の『新明解』と、「客観的」で「現代的」で「短文」の『三国』と、その編集方針から記述方式、辞書作りにおける哲学 まで、まるで性格が異なっていた。しかし、似ても似つかないこれらの辞書は、実は『明解国語辞典』という同じ親から誕生した姉妹のような 存在だった。そして、昭和14年にこの『明国』を力を合わせて作り上げたのが、当時東大の国文科を卒業したばかりの同級生、若き国語学者の 「ケンボー先生」と「山田先生」だったのである。
理想の国語辞書を目指し、協力する良き友であったはずの二人の編纂者に、一体何があったのか?
【じてん(時点)】 「1月9日の時点では、その事実は判明していなかった」(『新明解』四版の用例)
1月9日である。それははっきりしている。でもそれが何なのかはぜんぜんわからない。1月10日にはわかったのか。辞典なのに新聞 みたいだ。
と、『新解さんの謎』で赤瀬川原平にツッコミを入れられていた、この妙に具体的に設定された日付にこそ、その謎を解く鍵が隠されていた のだ。これは、平成25年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組の、企画・製作過程での取材内容に、新たな証言や検証を加えて構成 された、「小説より奇なる」物語なのである。
【ば】 「山田といえば、このごろあわないな」(『三国』二版の用例)
【ごたごた】 「そんなことでごたごたして、結局、別れることになったんだと思います」(『新明解』四版の用例)
2015/1/5
「渡来の古代史」―国のかたちをつくったのは誰か― 上田正昭 角川選書
平成14年(2002)の日韓共催のサッカーW杯の前年の12月、天皇みずからが宮内庁記者クラブでの会見で、「私自身としては、 桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と語られたことを、改めて 想起する。
<帰化>とは、中華の国(中国)のまわりの東夷・北狄・南蛮・西戎の夷狄の人びとが中国皇帝の徳化に「帰属し、欽び化す」ことを意味して いたのだから、そのような「王化思想」に基づく<帰化>という言葉を、朝鮮からの入国者のみに意識的に用いるという「蕃国」観をはっきりと 投影した『日本書紀』的「帰化」人史観のゆがみはただされねばならない。
昭和40年に公にした『帰化人』(中公新書)においてそのように主張し、彼らは<帰化人>ではなく<渡来人>と呼ぶべきであるということを 初めて提唱した、これは、古代史の泰斗の手になる<渡来文化史>の集大成なのである。(ちなみに、今の教科書では<渡来人>の名称が用いら れるようになっているのだが、ここに至る道のりは決して平坦ではなかったようだ。)
新羅系の秦氏(はたうじ)が、九州から東北まで面的に分布し、どちらかといえば在地の豪族として活躍したのに対し、百済・加耶系の漢氏 (あやうじ)は、点的に散在して、その多くは内外の記録を担当する官僚となるなど、ひと口に<渡来人>といっても、その果たした役割は それぞれなのではあるが、軍事面や外交面においても重要な地位を築いていたことは間違いなかった。
たとえば、征夷大将軍として名を馳せたあの坂上田村麻呂も、東漢氏(やまとあやし)の一族なのである。(あ、もちろん、渡来人なのは 坂上氏のほうであって、田村は姓ではなく名である。田村氏は生粋の土着民族のはずだ。)
というわけで、第T期段階の弥生時代前後と、第U期段階の応神・仁徳朝を中心とする5世紀前後に渡来した「古渡(こわたり)」の人びとと、 第V期段階の雄略朝を中核とする5世紀後半から6世紀の前半と、第W期段階の白村江の戦いにおける敗北が中心となる7世紀の後半に渡来し 「今来の才伎(いまきのてひと)」と呼ばれたテクノクラート集団とが、古代日本の歴史と文化の発展に、大きな役割を果たしてきたというのが この著者の言い分である。
彼らこそが、この国のかたちをつくったのだ。
多くの研究者は「渡来人の影響」というが、それはたんなる影響にとどまらない。古代日本の文化そのものの担い手として活躍し、文化の 創造にも注目すべき役割を果したというべきであろう。
2015/1/3
「ナミヤ雑貨店の奇蹟」 東野圭吾 角川書店
「○月○日(ここには当然私の命日が入る)の午前零時零分から夜明けまでの間、ナミヤ雑貨店の相談窓口が復活します。そこで、 かつて雑貨店に相談をし、回答を得た方々にお願いです。その回答は、貴方の人生にとってどうでしたか。役に立ったでしょうか。それとも 役には立たなかったでしょうか。忌憚のない御意見をいただければ幸いです。あの時のように、店のシャッターの郵便口に手紙を入れてください。 どうかお願いいたします。」
<夜、相談事を書いた手紙をシャッターの郵便口から投げ込んでおけば、翌日には店の裏にある牛乳箱に回答が入っている。>
始まりは、店の看板を「ナヤミ」とわざと読み間違え、「お取り寄せもできます、ご相談ください」と書いてあるのだから、ナヤミの相談を してもいいのかと、子供たちが囃したてたからだった。しかし、「勉強は嫌いだけど通信簿をオール5にしたい」などといった他愛もない相談事 にも、一生懸命考えて真面目に答えているうちに、やがて、「どんな悩みも解決してくれる雑貨店」という評判が週刊誌にも取り上げられ、 軽々しく扱うことのできないような、真剣な悩み事のほうが多く舞い込むようになっていった。
そんな「ナミヤ雑貨店」の老店主・波矢雄治が、自分の三十三回忌が近づいたら、何らかの方法で世間の人に告知してほしい、という奇妙な手紙 を遺言として息子の貴之に託すことにしたのは、肝臓癌で入院し寝たきりとなった病院のベッドで、真夜中に誰かが自分の店の郵便口に手紙を 入れていくのを、どこか遠くの方から見ている「夢」を、毎晩のように見るようになったからだった。
これは、かつて自分から回答を受け取った人たちが、自分の人生がどんなふうに変わったのか、それを知らせてくれている何十年も先の姿では ないのか。あの手紙を受け取りに行きたい。未来の手紙をどうやって・・・と戸惑う息子に対し、もう残り時間がないことを悟っていた雄治は、 一晩だけ病院から店に連れ出してほしいと懇願する。
「わしが店に行けば、あの人たちからの手紙を受け取れる。不思議な話だが、そんな気がする。だから何としてでも店に行きたいんだ」
というのが、この物語の基本的な流れだったはずなのであるが、どじな空き巣狙いの三人組の若者たちが、犯行後の手ごろな隠れ家として選んだ のが、その「ナミヤ雑貨店」であったがために、話はややこしくなってくる。
それは、あれからちょうど30数年後の、波矢雄治の三十三回忌当日の夜だったのだ。
すでに廃屋とはなりながらも、かつての面影をとどめている「ナミヤ雑貨店」に、この日投函された相談者たちの手紙は、不思議なことに確かに 30数年前の雄治の手元に届いていた。そして、ここに生じた時空の歪みは、逆に30数年前の雄治が入院した後に投函されたはずの相談の手紙 を、三人組の若者たちの手元に届けることになってしまったのである。
よせばいいのに、この過去の相談者たちからの手紙を読み、それが過去からのものとは気付かぬまま、現在の(つまりは未来の)常識で回答を 始めてしまった若者たちとの、いささかちぐはぐな往復書簡のやりとり。それが、この「素敵な奇蹟」を生んだのだ。
「さて、名無しの権兵衛さんへ。
わざわざ白紙をくださった理由を爺なりに熟考いたしました。これは余程のことに違いない、迂闊な回答は書けないぞと思った次第です。
耄碌しかけている頭にむち打って考え抜いた結果、これは地図がないという意味だなと解釈いたしました。・・・
地図が白紙では困って当然です。誰だって途方に暮れます。
だけど見方を変えてみてください。白紙なのだから、どんな地図だって描けます。すべてがあなた次第なのです。何もかもが自由で、可能性は 無限に広がっています。これは素晴らしいことです。どうか自分を信じて、その人生を悔いなく燃やし尽くされることを心より祈っております。
悩み相談の回答を書くことは、もうないだろうと思っておりました。最後に素晴らしい難問をいただけたこと、感謝申し上げます。 ナミヤ雑貨店」
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