徒然読書日記201411
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2014/11/27
「ホーキングInc.」 Hミアレ 柏書房
科学者の精神の中に特殊な認識力を見つけようとする前に、こうした特徴付けに異議を唱え、じっさいに彼らがやっていることの 特殊性を説明すべきだと主張する人々がいるかもしれない。そのような人々に私は問う。どうやって?
「まず、視線を追う必要がある」
・・・「この人は頭を動かせません」
「ならば手の動きを追跡すればいい」
・・・「ああ、それも無理ですね。もう何十年も前から手を使えませんから」
「話す言葉でもいい」
・・・「どうやって?声が出ないんですよ!」
それでもこの人は思考し、学説を生み出し、本を出版し、会議を開き、天才と呼ばれている。だが、じっさい彼は何をしている のだろうか?
1963年、筋委縮性側索硬化症(ALS)という難病を発症したのは21歳の時だった。1985年には肺炎にかかり気管切開手術を受けた 結果、完全に声を失った。車椅子の天才科学者、スティーヴン・ホーキング。
そんな彼が、72歳になった現在でもなお、現役の宇宙理論物理学者として圧倒的な存在感を示し続けているのは、眉しか動かせない顔の表情を 巧みに読みとって、その意向をくみ取るために、見守り続ける大勢のスタッフや、一本しか動かない指の操作でも、見事に文章を操ることができ、 「ホーキングの声」として合成された音声を発話させる、彼だけのために開発されたコンピュータを搭載した車椅子など、ホーキングを取り巻く 「拡張された身体」という舞台装置のおかげなのだ、と言わねばならない。
しかし、よく考えてみれば、われわれは誰もが、テクノロジーを通じて、何らかの形で、つねに結ばれ、拡張され、接続され、分散されている。 ということは、健常者としての理論物理学者にしたって、ネットワークに依存せざるを得ないという意味では、ホーキングとそれほど変わらない 立場にあるのではないか。
<だとしたら、個人としての人や身体はどこにあるのか>
それを確認するために、この著者は、機械、装置、人々の集団の集合体に永久につながっている「一人の男」に焦点を当てることにした というのだった。この本は、けっしてスティーヴン・ホーキングの「真の」姿を伝えるために書かれた「伝記」などではないのである。
ホーキングが一つの企業だとすれば、彼もまた拡張された身体、より正確に言えば、多種多様な拡張された身体を持っている。彼はその 拡張された身体の要素であると同時に産物でもある――ゆえに本書の題名『ホーキング・インコーポレイテッド(ホーキング株式会社または 組みこまれたホーキング)』には二つの意味があるのだ。
2014/11/25
「死ぬまでに学びたい5つの物理学」 山口栄一 筑摩選書
突然、数式が輝き始めました。一つ一つの文字が意味をなしてきて、生命体のように感じました。法則の示した世界が4次元空間に なって見えます。その瞬間、「分かった」と確信しました。
アインシュタインの重力場の方程式に行き着いたときは、自分とこの世を隔てていたあの「薄皮」がとれて、函館の風景のすみずみがまったく ちがう太陽を浴びているようにさえ見えました。
宇宙の構造は、すべてこの方程式から導き出される。最終的に導き出された1行の数式の姿かたちが、ただただ美しい。なぜこんな美しい形で この世界が成立しているのかと、うち震えました。
「こんな美しい世界があることを知った以上、自分はもう何があっても揺らぐことはない」
19歳の秋、北海道旅行の途上、青函連絡船の上で、スイスの物理学者ヴォルフガング・パウリが書いた『相対性理論』という分厚い本を、 まったく理解できぬまま、それでもなめるようにして3回目を読んでいたときに、そんな鮮烈な体験をしたという著者が、
20代のニュートンやアインシュタインやハイゼンベルグが、どうやって彼らの方程式を導き出したのか。
それは子供の頃の性格や生活とどんなふうにかかわっていたのか。
「揺るぎない軸」はどんなふうに彼らの精神を高めていったのか。
という、彼ら天才たちが歩んできたそれぞれの「人間ドラマ」を丹念に追いかけながら、その時々の思考のプロセスを追体験することで、 あなたにも、もっとも美しいものに出会わせ、自分の中に「揺るぎない軸」をつくりあげる、お手伝いをしてさしあげようという、 これは、いわば将来、物理学者にならない人のための、美しいものを見るためだけの「物理学」への、誠にお節介な試みなのである。
たとえば・・・
すべての物体は、その向きが二つの物体の重心を結んだ直線状にある「中心力」で互いに引き合っているという発見から、天体の運行に関する ケプラーの3法則が、すべてこの「万有引力の法則」から導けることを証明してしまっニュートンは、リンゴが落ちる現象と、宇宙の惑星の運行 とを、厳密な数学によって一つの法則に統合してしまったことになるわけだが、「なぜそのような力が働くのか」という起源に対する問いに答え ることはあえてしなかった。
やがて、アインシュタインが「重力場」の概念を導入し、ある物質の質量によってもたらされる空間の「ゆがみ」が、光速で別の物質に伝播する ことを示してみせることになるのだが、それは約230年後のことだった。
物質が発する光のエネルギーは、波としての光の周波数に比例した量の整数倍に限る、というプランクの「エネルギー量子仮説」は、光は波で あると同時に粒子の性質も併せ持つという、アインシュタインの「光量子仮説」に発展し、もともと<波>と考えられてきた光が、光子という <粒>であるのなら、もともと<粒>と考えられてきた電子などの粒子が、じつは<波>であってもおかしくないのではないか、という、 ドゥ・ブロイの「物質波」なる突飛な概念と、それを運動方程式で表現したシュレディンガーの「波動関数」につながり、
「量子力学」が誕生することになったのである。
ニュートンが万有引力の法則を発見した瞬間、ボルツマンが統計力学にたどりついた瞬間、プランクがエネルギー量子仮説にたどりついた 瞬間、アインシュタインが相対性理論を見つけた瞬間、そしてドゥ・ブロイが物質波概念にたどりついた瞬間。これらの仮説を思いつく道程は、 いずれも、ある独特の推論プロセスでした。このような「知の創造」のプロセスを、アブダクション(abduction)と呼び、ここではそれを 「創発」と訳しておきましょう。
2014/11/15
「大人にはわからない日本文学史」 高橋源一郎 岩波現代文庫
わたしは、この本の中で、「過去」の小説を、その「評判」から取り戻そうと思いました。陳列されているガラスの棚から脱走する よう、説得してみることにしました。要するに、「過去」で眠っているのを止め、起きて、現在に遊びに来るようにいったのです。
そして、「現在」の小説には、その逆に、「過去」に行って、「過去」の小説と遊んで来るよう命じたのでした。
小説というものを、遠い「過去」に、もう死んでしまった知らない作家が書いた作品として取扱い、「歴史」の中での評判なるものにくくり つけてしまうような従来の「文学史」に対し、実際に読んでみたのとは「なんか違う」と感じてきた高橋さんが、「鑑賞するために壁にかけ られた絵」などではなく、「誰も考えたことのないヘンテコなものを作りだせるオモチャみないなもの」であるべきと考え、ならば自分で書いて みようとした、
これは、立派な大人ならしたりはしない、という意味での『大人にはわからない日本文学史』講義なのである。
たとえば・・・
周囲で興隆しつつあった言文一致体に基づく散文、新しい日本の小説と称する文芸の、その表情というものに潜むきわめて人工的ななにかに、 根深い不信を抱き、古めかしい美文に立て籠もり、失われていく時代に殉じようとした、後ろ向きの精神の持ち主のように見られながら、その 異様な感覚の鋭さ、とりわけ音感によって、江戸から明治にかけての、人々の独特の気質や感情を彼女の音で再現して見せたことで、明治の 読者たちから熱狂的に称賛を得た、
樋口一葉の『にごりえ』と遊んでくるように命じられるのが、
読者に「五感」をフルに用いるよう要請しているかのような、『インストール』という作品を、一葉から百年後に十七歳で書き上げた、綿矢りさ だったりするのだし、
ポストバブル世代として、押し付けられることになった「格差」と「不利益」の中で、「平和」というものが、いま現在の、自分のこの生活が 続いていくことを意味するならば、「平和」というものは歓迎すべきものでなく、自分を含めて、苦しむ者たちの苦しみを世界全体の苦しみと して再配分することの、唯一の現実的解として、「希望は、戦争」と叫んでみせた、
31歳、フリーター、赤木智弘の『若者を見殺しにする国――私を戦争に向かわせるものは何か』を読ませんがために、ひっぱたいて叩き起こし てくるのが、
明治の末期に、まことに驚くべきことに、フリーターやニート、引きこもりといった、百年後の現在とあまりにも似た「遊民」という若者がその 数を増しつつあった、格差社会の極みの中で孤独に戦い、2年後には夭逝することになる、当時24歳の若き歌人、石川啄木が書き残していった 『時代閉塞の現状』という評論だったりするわけなのだ。
というわけで、当代随一の文芸批評家の手にかかれば、文学史上の古典作品との対比の中で、保坂和志や中原昌也など、現代の最前線を走る 小説家の作品だって、なんだか楽しく読めそうな気もしてくるのである。
「『過去』なんてないんじゃないかな。五十年前も、百年前も、みんないまと同じようなことを考えて小説を書いていたんじゃないかな。 小説は、進歩もしてないし、退化もしてないし、要するに、あまり変わってないんじゃないかな。なんか、そんな気がする」
2014/11/13
「街場の共同体論」 内田樹 潮出版
「当たり前のこと」が通じない世の中になりつつあるように僕には思われます。どんどんと人々が(特に社会システムの舵取りをして いる人たちが)幼児化しています。言うことがだんだん非常識になり、「変化だ、改革だ、スピード感だ、キャッチアップだ、バスに乗り 遅れるな」とうわずったような言葉が流布し、万人が「パイ」を奪い合う競争をしているんだから、敗者はどんな目に遭っても「自己責任」だ、 というような薄っぺらで、手触りの痛い、棘のある言説ばかりがメディアに溢れています。
「まあ、いいから、ちょっと落ち着いて。いったい何があったんですか? じっくり一緒に考えようじゃないですか」
と「日本一のイラチ(せっかち)男」を自認する内田樹先生が、「イラチ」なればこそ「どうして、よく考えもせずにそんなバカなことをして 時間と手間を無駄にするのか」という怒りを抑えられず、家族論、地域共同体論、教育論、コミュニケーション論、師弟論など、「人と人の結び つき」のありかたについて、
「大人になりましょう」
「常識的に考えましょう」
「古いものをやたら捨てずに、使えるものは使い延ばしましょう」
「若い人の成長を支援しましょう」
といった「当たり前のこと」を説き起こした本なのだそうである。(まあ、いつもと言っていることは一緒なのだが・・・また買わされて しまった。)
たとえば、「コミュニケーション能力とは何か」。
それは、就活マニュアルに書かれているような、「自分の意見をはっきり言う」だとか、「目をキラキラさせて人の話を聞く」とかいった、 「コミュニケーションを円滑に進める力」なのではなくて、コミュニケーションが不調に陥ったときに、「そこから抜け出すための能力」なので あり、「ふつうはしないことを、あえてする」というかたちで発動するものだという。
そして、「ふつうはしないこと」は、「ふつうはしない」という定義から明らかなように、マニュアル化することができない。それは臨機応変に、 即興で、その場の特殊事情を勘案して、自己責任で、適宜コードを破ることなのであり、コードを破る仕方はコード化できないのである。
つまり、私たちの社会は、マニュアルを精緻化することで、「どうしてよいかわからないときに、適切にふるまう」という、人間が生き延びる ために最も必要な力を傷つけ続けているということなのだ。
<父親の没落と母親の呪縛>
<消費社会と家族の解体>
<格差社会の実相>
<学校教育の限界>
今、日本で進められているさまざまな「改革」は、あと何十年かすれば「あんなことしなければよかった」とみんながほぞを噛むようなこと ばかりであり、「あんなことをしなければよかったこと」だけを官民挙げて選択的に(効率的な金儲けという理由で)遂行しようとしている ことに、内田樹は本当に怒りを覚えながらも、心配しているようなのである。
日本人が自分たちの犯した失敗に気づくまでの間に、日本はどれだけのものを失うでしょう。美しく豊かな自然資源や、受け継がれてきた 生活の知恵や伝統文化、日本人の心性に深く根づいた宗教性や感受性などの「見えざる資産」の多くは、一度失われてしまったら、再生する ことが困難なものです。目先の銭金やイデオロギー的な思い込みと引き替えに、この列島の住民たちが千年以上をかけて丁寧に作り上げてきた、 これらの「見えざる資産」が破壊されてゆくことを、僕は深く惜しむのです。
2014/11/10
「日本の起源」 東島誠 與那覇潤 太田出版
しばしば誤解されがちなのですが、歴史研究者とは単に過ぎ去った時代を骨董品のように修復し、愛でていればよいという仕事では ありません。むしろ細くあえかにではあっても、今日のわれわれへと確かに続いている過去からの糸を織り直すことで、<現在>というものの 絵柄自体を艶やかに変えてみせることにこそ、その本領がある。(與那覇)
日本の歴史は、「中国化」を目指そうとする動き(明治維新など)と、「再江戸時代化」に揺り戻そうとする動き(昭和維新)という切り口で、 鮮やかに料理することができると豪語して見せた、あの話題作
『中国化する日本』
(文藝春秋)で、鮮やかなデビューを飾った與那覇潤が、
<いつから私たちは「こんな国、こんな社会」に生きているのだろう。どうしてそれは変わらないんだろう。>という問いを一度、歴史学の 知見から徹底的に掘り下げてみんがために、その胸を借りようと弟子入りする相手に選んだのは、
南北朝と戦国、それに幕末と、日本の歴史上の転換点でその時代精神を象徴するがごとくに三度のせり上がりを見せた、それまでの日本にはない 自由で<開かれた>社会を指す新しい思潮としての、「江湖」(唐代の禅僧が江西の馬祖道一と湖南の石頭希遷という二人の師の間を往来して 学んだことに由来)という観念を切り口に、そんな一筋の糸から数々の繊細なイメージを織り上げてみせてきた東島誠だった。
たとえば「わが国は古来・・・」だとか「昔から・・・」というような言い方がある。だが「古来」「昔から」っていったいいつからなのか。 世間で超歴史的にあったと思われていることも、じつはどこかに起源があり、それはきわめて歴史的な事柄なのだ。(中略)つまり「昔から」 と思われていることも、「新しい」と思われていることも、研究の現段階から見ると、相当アヤシイ知識だったりするわけだ。そろそろソフト ウェアを入れ替えた方がよい。(東島)
<起源の天皇は女帝だった>(古代篇)
<イエ制度は自然ではない>(中世篇)
<忠臣蔵はブラック企業の起源>(近世篇)
<幕末は不真面目な改革の起源>(近代篇)
<大正デモクラシーは議会制不信の起源>(戦前篇)
<挫折した「天皇に代わるもの」の夢>(戦後篇)
などなど、いま私たちが生きている時代の起源を探して、「邪馬台国から(第二次)安倍内閣まで」の2000年分の日本の歴史を、気鋭の 歴史研究者がとことん語り合った対話の記録。
これは、さまよえる現在の日本の行く末に幽かな灯りを点してくれる(ような気にさせてくれる)、今を生きる日本人にとって必読の「羅針盤」 なのである。
本書はいわゆる通史ではない。問題史の書である。歴史の起源を語るのではなく、起源の歴史を語り続けた。本書を読んだあとでは、 ヤレ右だ、左だ、中道だというのが、いかに陳腐で凡庸な発想であるか、はっきりするだろう。(東島)
2014/11/7
「女帝の古代日本」 吉村武彦 岩波新書
推古天皇が即位した592(崇峻5)年から、称徳天皇の没年である770(神護景雲4)年までの179年間において、ごく短期間 でも女帝が在位していた年は95年を数える。実に5割以上になる。7・8世紀を「女帝の世紀」と呼ぶのも、この年数の多さによっている。 ほかに江戸時代にも、明正天皇と後桜町天皇がでたが、古代とはまったく歴史的性格を異にする。この他には、女性が天皇になった時代はない。 つまり女性天皇の即位は、古代日本の政治的特徴ということになる。
<どうしてこの時代、このように多数の女帝が輩出したのであろうか。>
日本最古の歴史書である『古事記』に描かれた最後の天皇は推古天皇であり、日本最初の国史である『日本書紀』に記された最後の天皇は 持統天皇である。日本の古代史を代表する『記・紀』が、ともに女帝でその巻を閉じるのは、単なる偶然ではあるまいと目星を付けた著者が、 推古、皇極、斉明(皇極重祚)、持統、元明、元正、孝謙、称徳(孝謙重祚)と、8代(6人)に渉る女帝の歴史の流れに沿って、彼女らが 即位するに至ったそれぞれの事情や理由を、歴史資料を徹底的に読み込むことで考察してみせた。
これは、「女帝の世紀」の謎の解明に挑んだ古代史研究者の、まことに意欲的な試みなのである。
これまで、女性天皇即位の理由としては、王権の政治的危機を乗り越えるためという説や、王統を継承するための中継ぎという説がほとんどで あったが、近年では、そのような理由による即位の例は男性天皇にも認められ、女性天皇の特徴としては評価できないという説が多くなっている という。古代の律令法においては、女性が天皇になることも、その女帝に子どもがいることも、王権の仕組みとしては承認されていたのである。
死亡するまでその地位を離れることがなかった天皇が生存中に退位したのは、645(大化元)年大化の改新の際に皇極天皇が孝徳天皇に譲位 したのが始まりだった。その皇極は655(斉明元)年、孝徳没後に重祚して斉明天皇となるのだが、こうした例は皇極・孝謙の二人の女性天皇 にしかみられず、男性天皇が重祚したことはこれまで一度もない。
重祚するためには譲位しなければならず、女性天皇はすべて譲位していることを考えると、749(天平勝宝元)年の聖武天皇以降、男性天皇も 譲位するようになるとはいえ、どうやら、譲位と重祚という王位継承の行為こそが、女性天皇の特徴として、女性天皇即位の謎を解く鍵になる というのが、この著者の読みなのである。
推古と皇極の場合は、政治的資質や年齢がふさわしい皇子がおらず、群臣が王権の安定化を企画した群臣の推挙により即位した。しかし、孫の 文武の成長を待って即位した持統以降は、天武系の皇統を維持するために女帝が即位することになり、その終着が独身を通した孝謙(称徳) だった。
ここで、皇統は天武系から天智系へと「交替」し、即位することになった桓武天皇は、律令制に依存した専制君主としての天皇の地位を安泰化 させるため、緊張関係を強いられた畿内豪族に変えて、藤原氏や渡来系氏族出身者らの官僚貴族を積極的に登用することになる。
この結果、未成年者でも天皇即位することが可能となり、直系の皇位継承を維持するために、狭い範囲の候補者の中から皇統を無理に継承する 必要がなくなった。これ以降の天智系の皇統では、女性天皇が即位することは一度もなかった、ということなのである。
今日の時点で、女帝の問題を取りあげることには、どのような意味があるだろうか。(中略)大学生の時以来、『日本書紀』『続日本紀』に 親しんできた私にとっては、この間、ずっと書いておきたいテーマの一つであった。しかし、今日の天皇制の問題とも微妙に関わっており、 「時宜にかなったテーマ」ということもできるし、同時に「重いテーマ」でもあった。
2014/11/4
「来るべき民主主義」―小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題― 國分功一郎 幻冬舎新書
私たちが生きるこの社会の政治制度は「民主主義」と言われている。「民主主義」は「デモクラシー」の翻訳であり、「デモクラシー」 は「民衆による支配」を意味するギリシア語の「デモクラチア」に由来する。民主主義とはつまり、民衆が自分たちで自分たちを支配し、統治 することを言う。ここから一般に民主主義は、民衆が主権を有し、またこれを行使する政治体制として定義される。
<では、その主権はどのように行使されているのか?>
2013年5月、都道328号線の道路計画の見直しを求める住民からの直接請求によって、小平市で実施されることになった東京都初の 「住民投票」の結果は、投票率が50%に達しなかった(35.17%)ため、開票さえされずに不成立、というまことに不可解なものだった。 (ちなみに、住民投票することが議会で可決されてから、50%に満たなければ不成立という修正案を後出ししてきた、小林正則・小平市長の 市長選の投票率は37%で、お前の選挙が不成立だろうと陰口を叩かれたらしい。)
私たち主権者に許されているのは、数年に一度、選挙を介して議会に代議士を送り込むことだけである。つまり、現代の民主主義において民衆は、 ごくたまに、部分的に、立法権に関わっているだけ、ということになるのだが、なぜ、主権者が立法権にしか関われない政治制度が、 「民主主義」と言われうるのだろうか?
<それは近代の政治理論、あるいは民主主義の理論に、立法府こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な決定機関であるという前提がある からだ。>
議会が統治に関わるすべてを決定しているとか、行政は決定されことを執行しているに過ぎないというのは誤りである。行政は執行する以上に、 物事を自分で決めているということなど、誰もが知っているはずなのに・・・行政が道路を作ると言い出すと、住民への「説明会」さえ開催 すればそれでよいというシステムができあがっている。
<行政が住民の意思を完全に無視して事を進められる政治体制が、どうして「民主主義」と呼ばれているのか?>
これは、主権を立法権として定義し、立法権こそが統治に関わるすべての物事を決定する権力であると考えてきた、新進気鋭の政治哲学者が、 自らが暮らす地元で勃発した<住民運動>に関わっていく中で、その政治理論の前提にじつに単純な欠陥を抱えていることに気づき、これからの 民主主義が目指すべき道は、立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくことにあるとする、
『来るべき民主主義』(@ジャック・デリダ)に向けての、いささか諧謔の想いも溢れた提言の書なのである。
住民投票制度のような強化パーツが増えていけば、社会はより民主的になっていくだろう。だが、いつかどこかの時点で「民主主義」なるもの が達成されるわけではない。民主主義は、常に来るべきものにとどまる。けれども、いまは民主主義の名に値する民主主義は存在していない。 だから、民主主義の実現を目指さなければならない。民主主義はいまもなお、来るべきものにとどまっている。
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