徒然読書日記201410
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2014/10/29
「日本の風俗嬢」 中村淳彦 新潮新書
編集部から手渡された「日本の性風俗」という企画書には、様々な素朴な疑問が記されていた。
風俗にはどんな種類があるのか?どのような人物が経営しているのか?風俗店は儲かるのか?風俗嬢はどのような女性か?収入はどれくらいか? 何をすれば逮捕されるのか?暴力団との関係は?警察との癒着は?
「多くの人にとって、性風俗のことは“どのような世界なのだろう”という興味はあっても、まったくわからない分野です。中村さんのこれまで の取材の蓄積を生かして、女性も含めた、そういう人たちへの入門書的な新書を書いてみませんか」
という、いささか気の重いリクエストにお答えして、1990年代後半に風俗専門誌の編集に関わって以降、AV関連の取材・執筆に転じ、 『職業としてのAV女優』を上梓した話題のルポライターの手になる、これは意想外の快著である。たとえば・・・、
<風俗嬢と売春婦は別物なのか>
「売春防止法」以降に開発された様々な「本番をしない」性的サービスを提供する非本番系の店、「デリヘル」「ファッションヘルス」 「イメクラ」「ピンサロ」「性感マッサージ」「SMクラブ」に勤める女性は「売春はしていない」ことになり、合法である。しかし、 禁止されている行為は当然付加価値が上がるので、「本番行為」は提供する店や風俗嬢個人の商品価値を簡単に高める切り札となり、非本番系 風俗店や風俗嬢が集客のために有償(時には無償)で、本来違法の本番行為をオプションにすることが常態化している。まことに皮肉なことに、 「売春防止法」が「本番」の価値を高めたということなのだ。
<なぜ介護職員は風俗に転職するのか>
風俗嬢は完全出来高制で、基本的に働き方は自由なので、一般的な生業がありながら掛け持ちをするダブルワークの女性も大勢存在している。 (兼業者4割)性風俗に目立って人材を輩出している職業には、人間関係のストレスや低賃金など他業種に比べて何かしらの深刻な問題を 抱えていることが多い。これまで目立っていた職業は、看護婦、飲食店員、アパレル店員、美容師だったが、最近になって急激に増えている のが介護職員である。一対一での会話や肉体を使ったサービスが求められる等、相手が高齢者全般から男性限定に変わるだけで共通項は多く、 低賃金の重労働に耐えかねて流出してくるのである。ところが・・・
<なぜ「狭き門」になってきたのか>
歴史的に見ても風俗に女性が流れる最大の理由は貧困で、経済的事情の悪化や格差拡大により、地方出身の現役女子大生や、貧困者の代表格 であるシングルマザーなど、大量の女性が風俗に流入してきている。しかし、「草食化」という言葉に象徴されるように、性風俗に対する 男性側の需要は下落しているため、需要を供給が上回り、雇用する性風俗店と客による女性の選別が始まった。貧困に悩んで最期の手段として カラダを売る覚悟をしても、そこに食い込めるだけの外見スペックと能力を持っていないような女性は、初めから門前払いという世界になって しまったのである。
などなど、風俗業界を熟知した著者が、下世話なあらゆる疑問に答えるなかで、明らかになってきたのは、単にある業界の興味津津たるルポ ルタージュにとどまるものではなく、カラダを売る(あるいは売ろうとする)女性たちを<反面鏡>として鮮やかに浮かび上がってきた、 現代日本社会の歪んだ縮図ともいうべきものだったのである。
風俗嬢という鏡が映しだすものは何か。それについては本書を読んでいただきたいが、最初にお断わりしておけば、「お金のために腹を くくって裸の世界に飛び込み、涙を流しながら性的サービスを提供している」といったイメージはすでに過去のものである。
どこにでもいる一般女性がポジティブに働いている。高学歴の者もいれば、家族持ちもいる。これが現在の普通の光景である。
2014/10/28
「弱者の戦略」 稲垣栄洋 新潮選書
ライオンは、百獣の王である。恐ろしい牙、鋭い爪、どんな動物をも震え上がらせるうなり声。まさに最強の生き物と言っていい だろう。
ところが、ライオンに食べ尽くされてシマウマが滅びてしまったという話は聞かない。むしろ、絶滅が心配されているのは ライオンの方である。
「自然界では強い者だけが生き残るはずなのに、どうしてたくさんの弱い生き物たちが、自然を謳歌しているのだろうか。」
この本は、<雑草生態学>を専門とする農学博士がフィールドワーク活動の中から発見した、ときに目を見張るような、まるで弱者であること こそが強みであるかのような、小動物や昆虫や植物たちの<生存戦略>を紹介したものである。弱いように見える彼らのような生き物たちが、 厳しい自然会を生き抜いているのには、それなりの理由があったのだ。
たとえば・・・「ずらす」(ニッチ戦略)。
弱肉強食の生物の世界では、「強者」とはナンバー1のことをいう。つまり、ナンバー2でさえもが「弱者」として、いちいち競合していた のではやがて滅びゆく運命ということになる。ここで取りうる<弱者の戦略>とは、どんなに小さな場所であろうとも、他の生物ではナンバー1 になれないような、自らがナンバー1になる自分の居場所を「探す」ことだ。
ナンバー1しか生き残れない。しかしナンバー1になるチャンスは無数にある。そしてナンバー1の条件は「誰にも負けない」ことではなく、 「誰にもできない」ことなのである。
<弱者は「複雑さ」を好む>
ルールがシンプルなゲームは、強い者が勝者となりやすい。弱者が強者に勝つには、条件が多様で複雑であることが大切なのである。
<弱者は「変化」を好む>
安定した環境では、激しい競争が起こる。そして、強い者が生き残り、弱い者は滅びていく。ある程度、撹乱がある条件なら、必ずしも強い者が 勝つとは限らない。
<「最悪」の条件こそ「最高」である>
劣悪な条件は、誰にとってもいやである。しかし、弱者にとっては、それこそが強者に対抗し勝者となれる大きなチャンスなのである。
以上のような、<弱者必勝の条件>を生存の掟として、さまざまな生物が自分自身の居場所を見出し、そうした多くの生物のニッチによって 自然界は埋め尽くされているといってよい。これはまさしく「椅子取りゲーム」のようなもので、一つの椅子には一つの生物しか座ることは できず、こうしてあらゆる生物たちが、常に椅子を奪い合っているということなのである。
「ビジネス戦略」や「人生戦略」というように、私たちは「戦略(Strategy)」という言葉をよく使う。しかし「戦略」という言葉は、 人間社会だけのものではない。
生物学の世界でも「戦略」という用語はよく用いられる。知力に優れた人間ならまだしも、生物の世界に「戦略」などあるのだろうか、 そう思われる方もいるだろう。
知力に劣るはずの生物たちだが、その戦略には目を見張るものがある。
自然界は厳しい。無策で生き抜けるような生ぬるいものではないのだ。この世に生きとし生けるすべてのものは、戦略を駆使して厳しい自然界を 生き抜いている。
2014/10/23
「スターリン」―「非道の独裁者」の実像― 横手慎二 中公新書
彼について語る多くの歴史書が、1920年代末からの農業集団化の過程で多大な犠牲者を出したこと、あるいは1930年代の 大粛清では罪なき人々が次々に逮捕され、その後彼らの多くが消息を絶ったこと、あるいは第二次大戦の前後の時期に、ソ連の辺境地域にいた いくつもの少数民族が銃口を向けられて故郷の村を追われたこと、あるいは多数の国民や日本人を含む多くの外国人抑留者が収容所に送り込まれ、 そこで過酷な労働を強いられて無意味な死を余儀なくされたこと等々を記している。直接的であるか否かはともかく、スターリンの名前は そのようなソ連史の恐ろしい出来事と結びつけられてきた。
「非道の独裁者」というのが、現在の日本人の多くがスターリンについて抱く印象である、といって過言ではないだろう。にもかかわらず、 今もなおロシアにおいて少なからぬ人々がスターリンを敬愛し、優れた指導者として信奉しているのだとしたら、それは一体なぜなのか。 ロシアの人の多くは、21世紀になって、もはやスターリンがもたらした悲惨な事実を、すっかり忘れてしまったのだろうか。 それとも、私たち外国の人間は、スターリンについて、何か重要なことを見落としているのだろうか。
「スターリンとは何者だったのか。」
この本は、外務省調査員としてモスクワの日本大使館に勤務した経験を有する著者が、専門の歴史家たちが見落とすほど多く公刊されている、 個々の歴史家の既存の専門的研究に目配りするとともに、ソ連崩壊後にようやく刊行を許された、多くの未発表史料をも活用することに努める ことで、グルジアに生まれ、革命家として頭角を現し、最高指導者としてヒトラーやアメリカと渡り合った、そんなスターリンの生涯を、 改めてたどり直してみようとした試みなのである。
そして、そんな地道な跡付けの作業の中で、次第にその像を結び始めたスターリンの「素顔」とは・・・
その悪行の一々を容赦なく暴き立ててみせて、もしスターリンの行動がすべて否定されるべきだと言うのであれば、どのようにしてソ連は 第二次世界大戦でヒトラーに勝つことができたと言うのか、といったような、まことにアンビバレントな、一筋縄ではいかない男の横顔を、 私たちは知ることになるのである。
現在、歴史の評価ほどこの国でも大きな政治的問題を呼び起こしているが、ロシアでは間違いなくスターリンがそうした議論の中心に 位置している。見てきたごとく、ロシア国内でのスターリンの評価は、外部、特に欧米諸国でのそれと大きく異なっている。どこの国であれ、 国家の内側から見た歴史評価と外側から見た歴史評価に違いはあり、どちらが客観的で真実に近いのか、簡単に言えることではない。しかし、 両者のずれが大きくなるほど、内外の相互理解が困難になることは確かである。その意味で言えば、スターリンは今もなおロシアと外部世界の 間にあって、両者の関係を示す重要な指標なのである。
2014/10/22
「〈正常〉を救え」―精神医学を混乱させるDSM−5への警告― Aフランセス 講談社
過去30年は恐るべき悪循環の舞台になった。診断のインフレにより、向精神薬の使用が激増する。それが製薬企業に巨大な利益を もたらし、診断のバブルを膨らみつづける風船に仕立てあげる手段と動機を与える。精神科の診断という貨幣の価値は下落し、 「正常」は貴重品になる。通貨のインフレとまったく同じように、悪貨は良貨を駆逐し、資源の配分はゆがめられる。本物の病気に かかっていない人たちのために無駄な努力が費やされ、本物の病気にかかっている人たちがそのしわ寄せを受けて、切実に必要な精神科の 診断と治療を受けられなくなっている。
「DSM−5」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders -5)
『精神疾患の診断と統計マニュアル 第五版』
「DSM」とは、特定の「精神疾患」のそれぞれについて、どんな症状が特徴となるか、いくつの症状が現れていなければならないか、 どれくらいの期間つづいていなければならないか、などの明確な「基準」を定義し記載したものだった。約200あるこうした「基準」が、 ある精神疾患と別の精神疾患との見分けを可能にし、さらには精神疾患と<正常>であることとの境界線を形作っていることになる。
精神疾患の診断に当たる臨床医は、この基準に従ってさえいれば、誰が診断しようと妥当な一致が得られる(逆に言えば、この基準がなければ、 まず一致は得られないことになる)・・・はずだった。
しかし、2013年5月に発表された「DSM」の最新版は、前のバージョンに対して指摘された数々の問題点を解決せんとして、既存の精神 疾患を診断するときのルールをゆるめ、新規に多数の精神疾患を加えようとした。いわば「基準」のハードルを下げてしまった結果・・・
この「DSM−5」が濫用されれば、誰もが(たとえ<正常>であろうとも)何らかの「精神疾患」に当てはまってしまうという、皮肉な事態が 発生することになってしまったのだった。
精神疾患の爆発的流行は過去15年間に4度あった。小児の双極性障害は、信じがたいことに40倍に増えた。自閉症はなんと20倍に 増えた。注意欠陥・多動性障害は3倍になった。成人の双極性障害は倍増した。有病率が急上昇するとき、そこにはそれまで見落とされていた 本物の患者がいくらかは含まれている――診断とそれに基づく治療を切実に必要としている人たちだ。しかし、これほど多くの人々、とりわけ 子どもが、なぜ突然病気と見なされるのかは、診断が正確になったというだけでは説明できない。
この「診断のインフレ」のせいで、あまりにも多くの本来は<正常>かもしれない人々が、抗うつ薬や抗精神病薬や抗不安薬や睡眠薬や鎮痛薬に 依存するようになった。われわれの社会は薬漬けになりつつあるのだ。
軽々しい診断は、国中で過量服薬を引き起こしている。アメリカ人の6%が処方薬に依存しており、いまや違法なドラッグよりも合法の 処方薬のほうが、緊急救命室に運びこまれたり命を落としたりする原因の多数を占めている。商品が不注意に用いられるとき、製薬企業は 麻薬カルテルに劣らず危険になりうる。
いまや最大級のドル箱となった精神科の薬を、さらにこれでもかと売り込もうとする製薬企業と、そんな偽情報に踊らされた患者から強烈な プレッシャーを受け、適切な使用法をろくに教わりもせず処方箋を書いてしまう不適格なかかりつけの医師たち。
この本は「DSM−W」の作成委員長として、基準の改定に付きまとうリスクに充分配慮しながら、落とし穴にはまることなくやりおおせたと 自負していたにもかかわらず、結果的には「診断のインフレ」の引き鉄を引くことになってしまったという、自らの苦い経験に学びながら、 この本を書くことで、精神科の診断と治療に反対しているという、意図するところとはまったく真逆の読み方をされてしまう重大なリスクよりも、 本書を書かないでいることのリスクを恐れた臨床精神科医からの、真心からの警鐘なのである。
私のふたつの目標は――「<正常>を救い出す」と「精神医学を救い出す」は――まったく同じものである。「精神医学を救い出す」こと によってのみ、「<正常>を救い出す」ことは可能となり、精神医学を適切な範囲に留め置くことによってのみ、精神医学を救い出すことは 可能となる。ヒポクラテスの遺産は、2500年前と同じように、今日にも通じる――謙虚であろうとつとめ、おのれの限界を知り、何よりも 害をなすなかれ。
「正常」は救い出す価値が大いにある。そして精神医学も。
2014/10/20
「のぼうの城」 和田竜 小学館
「成田家には甲斐姫とか申す姫がおるな。それを殿下に差し出すよう」
家臣どもは無言で色をなした。一様に怒りで顔を紅潮させ、小刻みに身体を震わせた。
だが、長親だけは、違った。みるみる怒りで表情を変える家臣らのなかで、この男はただひとり何を考えているのか一層わからなくなった。
「腹は決めておらなんだが、今決めた」
長親はようやく言葉を発した。
「戦いまする」
天下統一の総仕上げとして、小田原城攻めを挙行していた豊臣秀吉は、目立った武功がないため軽んじられがちな石田三成のためを慮り、三成を 北条家の支城・忍城(おしじょう)攻めの総大将に任命した。忍城城主・成田氏長は、自らは小田原城の守備に加わりながら秘かに北条家を裏切り、 忍城を無血開城することを秀吉に密約していたからである。それは、肝心の三成には知らされていなかったとはいえ、いわば勝利を約束された 城攻めのはずだった。
なればこそ、三成軍の使者として「和戦いずれか」を問いに来た長束正家が、どれほど居丈高なそぶりを見せたにしても、「武ある者が武なき者 を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやじゃ」と、 成田家当主の意向を十分承知していた家臣団を目の前にして、いとことして城代を務めることになった成田長親が、そんな無謀な決断を下すこと など、誰も予想だにしていなかったのである。
極彩色の旌旗をたなびかせながら、忍城を取り囲む三成の軍勢は二万三千、これを迎え撃たんと籠城する手勢はわずかに五百(士分百姓を 加えても三千七百)。
<鼻梁こそ高いが、唇は無駄に分厚く、目は眠ったように細い。その細い目を吃驚したように開き、絶えず大真面目な顔でいる。表情は極端に 乏しい。めったに笑うこともないが、対面した誰しもが、この男が絶えずへらへら笑っているかのような印象を受けた>
武器も使えねば、馬にも乗れず、およそ武とは縁遠いが、図抜けて背が高く、ただ大きいだけの男がのそのそ歩く姿を見て、家臣はおろか小者、 さらには百姓領民にいたる忍領全体の者が、当人に面と向かって、“のぼう様”と呼んだ。
まさに“でくのぼう”を絵に描いたような長親の決定的な一言に端を発して、この田舎城を戦国合戦史上特筆すべき城として後世に位置付け させることになった(これは史実なのである)、激戦の火ぶたが今切って落とされたのだった。
さて、この死闘の結末やいかに?後はご自分で・・・
長親を脇で支えた、正木丹波、酒巻靭負、柴崎和泉守の三人の武将や、密かに想いを寄せる甲斐姫など、これが映画なら・・・と思わず配役を 思い描いてしまうようなせりふ回しなのだが、それもそのはず、もともとは脚本の小説家なのだそうで、もちろん映画化も済んでいて、 長親は野村萬歳が怪演したらしい。
(実は随分昔に購入してあって、『村上海賊の娘』を読む前に読んでおこうと思ったのでした。ご紹介が遅くなってすいません。)
「わからぬ。なぜあの総大将が、ああも角の多い侍大将どもを指揮できるのか」
田楽踊で、あの大男の将器を確信した(大谷)吉継だったが、最前の大広間での、正木、柴崎、酒巻ら重臣どもの成田長親に対する物言いを きいて、とうてい統率できているとはおもえなくなっていた。
「できないのさ」
三成は当然のようにいった。
「それどころか何もできないんだ。それがあの成田長親という男の将器の秘密だ。それゆえ家臣はおろか領民までもが、何かと世話を焼きたく なる。そういう男なんだよあの男は」
2014/10/15
「生命誕生」―地球史から読み解く新しい生命像― 中沢弘基 講談社現代新書
「生命の起源」の謎に迫るうえで、そもそも「生命はなぜ発生して、なぜ進化し続けるのか?」の物理的必然性は、まず明らかに されなければならない最も基本的な問いです。無機界の地球に有機分子が出現して進化した結果、生命が発生し、その続きに生物の進化が あります。それら一連の「進化しなければならない物理的必然性はなにか?」を知ることは、謎を解くための最初の一歩です。
<生命は自然に発生し、生物は進化するもの>
と、生命起源や進化論の専門家たちでさえが、ア・プリオリに考えてきたために、その問いに答えられない現状の中で、生命の誕生に不可欠な 分子ができて生命の発生にいたるまでの<分子進化>と、生命が発生した後の<生物進化>とは、同じ地球上で切れ目なくつながっている のだから、<分子進化>のメカニズムも当然、地球環境の変化と自然選択の原理に支配されてきたと考えなければ、「生命の起源」の謎 解けない。と喝破するこの本は、
生命の発生と進化の「壮大なドラマ」を、物理的必然性と全地球46億年の時空を見渡す21世紀の新しい自然観を踏まえて解き明かしてみせた、 衝撃的な仮説の提唱なのである。
この壮大なシナリオの主役を演じたのは、「宇宙のエントロピーはつねに極大に向かって増加する」という<熱力学第二法則>だった。
46億年前、微惑星の集積によって創生された時には<マグマの海>だった地球では、やがて新たな海底が海嶺で発生して海溝からマントルに 沈み込む、マントル対流が生まれた。<プレートテクトニクス>が機能し始めることにより、地球内部の熱を表面に運ぶと同時に、エントロピー の低減により、地球の構造をより複雑に<秩序化>する機構が作動したのである。
ちょうどその頃(40〜38億年前)、太陽系の軌道の乱れから隕石群が頻繁に地球表面を覆う海洋に衝突し、発生した超高温の衝撃後蒸気流が 冷却する中で、多種多様の<有機分子>が創成されることになった。<有機分子のビッグ・バン>である。
これら有機分子のうち、揮発性や非水溶性のものは海面上に出て酸化・分解されたが、親水性の<生物有機分子>だけは粘土鉱物に吸着、沈澱 して海洋堆積物中に埋没することで、自然選択によりサバイバルした。
その後、堆積物の<続成作用>により、圧密・昇温環境にさらされ、脱水重合して高分子化した<生物有機分子>は、無生物時代の<合体・融合 システム>を引き継いだ機構で進化し、やがて自己複製の際に誤りを持ち込むという、生物固有の<遺伝子多様化システム>を獲得することで、 環境の変化に応じて進化する、高度に組織化された生物界創出への道を歩み始めることになった。
つまり、「生命は地下で発生して海に出て適応放散した!」ということなのである。
生命誕生のシナリオは、普通で当たり前の自然現象の積み重ねであって、それ自体には夢もロマンもありません。論述の根拠は筆者らの 研究結果も含めてすべて、権威ある学術誌や学術書に発表された科学論文です。
読者の聞き知った“常識”の生命起源論とは大きく異なっていて“異説”と映るかもしれません。しかし、RNAが“あれば”とか火星から 来た“かもしれない”という“大胆な仮説”に基づくものではなく、日常当たり前の物理的必然性と地球史的合理性に基づいて論じますので、 読み進めれば読者はむしろ納得されるでしょう。
2014/10/9
「エンプティー・チェア」 Jディーヴァー 文藝春秋
ライムにはどうもよくわからなかった。犯罪学者の役割は、証拠を分析して犯人を突き止める手助けをし、公判で証言することだ。 「犯人の身元も住所もわかっているんでしょう。だったら、地方検事も楽に公判を維持できるでしょうに」鑑識作業が大惨事に終わっている としても――こういう小さな町の警察ときたら、現場をめちゃくちゃにすることにかけては天才的だった――有罪を勝ち取るのに必要な証拠は 充分に揃っているはずだ。
車椅子の科学捜査官、リンカーン・ライムシリーズの第三弾は、本拠地ニューヨークを遠く離れた、ノースカロライナの片田舎で展開される ことになった。一縷の望みをかけて、脊髄損傷手術の名医の元を訪れていたライムは、地元の保安官から連続誘拐事件の捜査に協力してほしい という要請を受けたのである。それは、町一番の嫌われ者だった“昆虫少年"ギャレットが引き起こした、なんとも奇妙な事件だった。
昆虫に関する類い稀なる知識を駆使して、奇想天外な罠を仕掛けながら、逃亡を続けるギャレットに対し、右も左もわからぬ見知らぬ土地で、 ライムの目からは無能としか思われない地元警察と、不備な鑑識器具と臨時雇いの鑑識助手という、まさに、手足をもがれたような状況に 苦しみながら、わずかな証拠物件の寄せ集めから推理を進めていくライムが、ようやく“昆虫少年"の逮捕に成功したとき・・・、
この、一見のどかな“田舎町”がその懐深くに隠し持っていた“ハチの巣”が、不気味な音とともに蠢きだすことになろうとは、ライムにも、 きっと思いがけない事態であったに違いない。
え? 最愛のサックスはどうしたんだって?
なんたって、あの信頼すべき片腕ともいうべき相棒は、無実を確信したギャレットと、手に手をとって逃げちゃったんだから。
ライムはかすれた声で訊いた。「まさかきみも?」
「そう。そのまさかですよ」
ライムは目を閉じた。「そんな。そんな」そう囁くように言い、うなだれた。ただし、ほんの数ミリだけ。偉大なる者たちの例に漏れず、 リンカーン・ライムの敗北宣言は、それとわからぬほど微妙なものだった。
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