徒然読書日記201407
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2014/7/26
「巷談辞典」 井上ひさし 河出文庫
問「古池や蛙とびこむ水の音、の水の音はどんな音か?」
答「バショーッ!」(中略)
問「源頼朝は平和主義者であったか、それとも武力主義者だったか?」
答「みな、もとより、友――だから、平和主義者だった」
(『地口謎々』)
という、自分たちが放送作家時代にひねり出した<地口謎々>などに比べると、
問「防波堤にカモメが百羽浮んでいる。そのうちの一羽がカモメのジョナサンだが、残りの九十九羽は何か?」
答「カモメのミナサン」
という、このごろ(この本は昭和49年初出なのである)巷で流行っているらしい<なぞなぞ>のほうは、あまり上出来とは言えない。 「ホウ、なるほど、そうですか」と思わず言ってしまいかねぬ、理に落ちたところがあるからいやなのだという。
<地口謎々>はやはり、その質はともかくとして、馬鹿々々しくて理屈がないものでなくてはならず、わたしたちの国語、すなわち日本語は、 そんな語呂合わせや地口に、とてもよく向いているのである。
2010年に他界した言葉の奇才・井上ひさしが、昭和49年12月から50年4月まで『夕刊フジ』の名物コーナーに毎日連載した110編の エッセイ集。
それは漢字四文字の成句をお題に選びながら、時事問題から下ネタまで、時にはお題から相当に逸脱したところまで、縦横無尽に駆け巡る、 抱腹絶倒の一人芝居・・・おっと忘れてはいけない。
挿画を担当しているのは、似顔イラストの達人・山藤章二で、お互いを挑発するかのような丁々発止のやり取りも見逃せない、掛け合い漫才 なのだった。
それにしても「悲観論がしたり顔で横行したが」(@三菱総研常務・牧野昇)とはなにごとであろうか。
悲観的な材料や悲観的な予測が立ったから、人々は悲観論の側に立っただけのことではないか。またエコノミスト誌のどなた様がどのような 御託宣を垂れようと、マッチ箱のような家に住み、スモッグの空の下を這いまわり、物価の値上りや大地震の襲来におびえながらこの日本に 住む日本人が、どうもこの世の中はすこしおかしいのではないかと感じていること、こっちの方があてになる、とわたしには思われる。 おそらくそう思うのはわたしが愚鈍無能なせいであろう。
(『愚鈍無能』)
夕刊紙のコラムなのであるから、時には時事ネタに真っ向から挑みかかり、「そっちの方が『愚鈍無能』だろう」と啖呵を切って見せるのも、 それはそれで胸がすくようなのではあるが、やはり井上ひさしの真骨頂は、言葉遊びの妙にあると言わねばなるまい。
女子大生 ドッグショップに入ったようで、ドーベルマン・ドーベルマン・プードル・狆・狆・チワワ・チャウチャウ・ポインタ・ ポインター・・・
銀座のホステス お花畑で遊んでいるようで、フリージャー・ジンジャー・ペチュニア・タンポポ・ボタン・ボタン・・・
どこかのおかみさん 動物園へ行ったようで、駝鳥・獏・大蛇・大蛇・象・豹・パンダ・テン・テン・・・
どこかのおばさん 世界文学全集読んでるようで、ゾラ・ゾラ・ソルジェニツィン・ドストエフスキイ・ジード・ドスパソス・ドーデ・ジャリ・ ジャム・シャミッソー・ポー・ポタペンコ・ボッカッチョ・・・
どこかのばあさま 日本文学全集読んでるようで、漱石・達三・健三郎・昭如・次朗次郎・千代千代・左千夫・・・
(『隣室探聴』)
<付記>
よく分からないとおっしゃる方は、できれば声を出してお読みいただくと『音の感じ』が出るかと思います。これはつまりその、隣の部屋の トイレから聞こえてくる音なのです。
2014/7/23
「街場の中国論」 内田樹 ミシマ社
私はご存じのとおり、中国問題の専門家でもなんでもありません。私が中国について知っていることは、新聞記事と、世界史で習った 中国史と、漢文で習った古典と、何人かの中国人の知人から聴いた話と、書きながら百科事典やネットで調べたことだけです。ですから、 私が中国について知っている知識の量は、平均的日本人の標準からそれほどはずれてはいないだろうと思います。
この本は、そんな「街場のふつうの人だったら、知っていそうなこと」だけに基づいて、「中国はどうしてこんなふうになったのか?」 「中国では今、何が起こっているのか?」「中国はこれからどうなるのか?」を推論してしまおうという、まことに大胆な試みなのである。
どうして、そんなことが可能なのか?
どれほどインサイダー情報に精通していても、「中国がこんなふうになればいいのに」という無意識の主観的なバイアスがかかっていれば、 その情報の評価を誤ることがある。
逆に情報が限られていても、そんな情報評価の歪みを「勘定に入れる」習慣さえあれば、自分に都合のいい情報だけを過大評価し、都合の悪い 情報は過小評価することもなく、適切な推論を導くことが可能だろうというのである。
2005年4月、神戸女学院大学の大学院の“名物”演習『街場シリーズ』の第二弾として、内田先生がアメリカ(『街場のアメリカ論』)の 次に俎上に乗せたのは、反日機運がさらに悪化しつつあった中国だった。そんな中国との関わり方を眺めながら、「日中の世界像の<ずれ>を 中心的な論件にした中国論が読みたい」という切実な思いに、誰も応えてくれないので、しかたがないから「自分で書く」ことにした ということらしい。
たとえば、「反日運動」ひとつを取り上げてみても、
ほんとうは(デモを)コントロールできていないのだけれど、正直にそう言ってしまうと中国政府のガバナンスに対する国内外からの信頼が 下落する。ですから無理して、「コントロールできている」と言い張る。すると、「じゃあ、政府が後押しをして官製デモをやらせているのか」 と言われてしまう。
しかし、中国政府としては「政府は国民を統治できていない」と言われるくらいなら、「政府は反日的である」と思われたほうがまだまし なわけで、つまり、「中国政府は効果的に国内を統治できていない」という評価が国際社会から下されることをもっとも恐れているのは 中国政府自身であるのだから、そのような中国政府の苦しい立場に思いをいたすことなく、中国における反日ナショナリズムの亢進に対して、 日本人もまた反中国ナショナリズムを亢進させて応じようというナショナリストの論の立て方こそは、排外主義的世論というコントロール可能 であったはずの「リスク」を、もはや効果的に対処する手立ての知れない「デインジャー」に転化する最短の道である。
と、ごく真っ当で、常識的な推論が、スラスラと導かれてきてしまうのは、ここでの発言がもしかするといずれ翻訳されて、中国の読者が読む かもしれないという、ごくわずかな可能性も念頭に置きながら、日本人読者にだけ通じるような「身内の語法」はできるだけ避けようという、 内田さんの作法によるものなのである。
私の推理の基本は「中国人たちはつねに主観的には合理的なふるまいをしているはずだ」というものです。
私たちの理解を絶する彼らのさまざまな奇矯なふるまいが「主観的には合理的」に映る思考システムがおそらくあるのです。
そのシステムを発見すること、それが本書の野心です。
2014/7/15
「ルポ 電王戦」―人間 VS. コンピュータの真実― 松本博文 NHK出版新書
「負けました」
佐藤は頭を下げ、投了の意思を示した。それはきっと、歴史的瞬間であったのだろう。いつかは棋士がコンピューターに敗れるときがやって くる。そう多くの人間がどこかで漠然と思っていたはずである。しかしその瞬間が訪れるのは、意外なほどに早かったのではないか。 この現実に、どう向き合えばいいのか。とまどいを隠せない棋士や関係者も多かった。
2013年3月30日、第2回「電王戦」第2局。
形勢が二転三転した長い中盤戦をなんとか耐え忍んできた佐藤慎一四段ではあったが、終盤戦に入っても淡々と確実な攻めを続けてくる ponanza(山本一成)の前についに屈する時を迎えた。それは、現役棋士が初めてコンピューターソフトに敗れた瞬間だった。
前年の第1回「電王戦」において、将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖がボンクラーズに敗北を喫していたとはいえ、彼はすでに現役を引退した 棋士である。想定外の米長敗戦という結果を受けて、コンピューターソフト5チームの挑戦を、現役のプロ棋士5人が受けて立つという団体戦 へと移行することにしたのだが、
第2回「電王戦」は、結局、プロ側の1勝3敗1分という予想外の結果をもって、その幕を閉じることになった。
二歩を打つ、王手をスルーして玉を取られる、玉で王手をする、金が成る・・・初めて「コンピュータ将棋選手権」が開催された1990年 には、まだルール通りに指せないソフトも多かったのだが、
「8年後、これを読んでいるあなた、もしあなたがプロでない限り、あなたはコンピューターに敗れます。そして2010年、たとえ羽生で あろうと誰であってもコンピューターに勝てないつまらない時代がやって来ることをここに記す。その対局は中終盤では問題にならず、 いかに序盤で差をつけるか、が唯一人間が勝てるチャンスとなろう」
と、1994年にまだアマチュア一級程度の実力と自ら認めながらも豪語した、コンピューター将棋YSSの開発者山下宏は、1997年、 選手権4連覇中の金沢将棋を相手に、終盤で13手にも及ぶ詰みを読みきって堂々の優勝を果たし、ついにコンピューターソフトの頂点を 極めると、その予言どおりに、人間の名人に勝つことへと目標を切り替え、他のソフトとの切磋琢磨の中で着々とコンピューターソフトの 実力を伸ばしていった。
なぜ開発者の棋力が初心者レベルであっても、プロ以上に強いプログラムを作ることができるのか?
将棋は「読み」と「大局観」が二本の柱である。「読み」については、プロのように無駄な手を省いて「狭く深く」読む(選択的探索) のではなく、一見無駄だと思う手もすべて「広く浅く」馬鹿正直に読み切る(全幅探索)こと。「大局観」については、「駒の損得」や 「玉の安全度」などの評価基準を人間が教えるのではなく、過去のすべての棋譜の局面を解析して、「いい形」を自分で学ぶ「機械学習」 を採用すること。マシンの性能が大幅に上がった今、これこそがコンピューターソフトが人間の名人を打ち破るための、基本的戦略となって いるのだ。
2014年、第3回「電王戦」、現役のA級9段棋士も含む本気の布陣で臨むも、プロ側の1勝4敗で惨敗。
ここまで追い詰められれば、もうタイトルホルダーの出番を待つしかないが、それはまた負ければ終わりという、名人にとっては容易ならざる 事態が訪れようとしていることでもある。
「もし自分の息子がなれるのであれば、棋士は勧めたい職業でした。好きなことで生活ができ、自由で制約がない、でもこの先は、あまり 人に勧められなくなるのかもしれません。自分は現在30歳です。棋士になり、将棋を職業として、ギリギリよかった、という最後の世代と なってしまうのかもしれません」(渡辺明・二冠)
2014/7/11
「『超常現象』を本気で科学する」 石川幹人 新潮新書
本書は「幽霊はいる」とか「超能力は存在する」などと超常現象を肯定するためのものでもなければ、その逆でもありません。 そうではなく、超常現象について、今現在、「実際に何がどこまで分かっているか」、「何がどのように謎なのか」を皆さんに紹介しながら、 「いかに未解明の現象に取り組んでいくべきか」という「科学的思考」を身につけていただくことを第一にしたいと思っています。
というわけで、<実際に何がどこまで分かっているか>といえば・・・
「幽霊」を見るのは恐怖感による錯覚にすぎない。だとすれば、人に恐怖感を与えないでも見えてくる、いわば「明るい幽霊」という視点に 立つことで、これまで恐怖によって隠されてきた幽霊の新たな側面を浮き彫りにすることができる。
「お守り」が効いたように思うのは、見かけ上のスランプ時期に身に付けることが多いからだ。ツキやスランプはあくまでランダムのなせる わざであると知らねばならない。
「幽体離脱」とは、身体感覚の拠点が体の外に移動した現実的な夢の現象である。自分は体の位置にいるという拠点感覚は、実はそう思った ほうが便利なためそう思っているだけなのだ。
そこで、<何がどのように謎なのか>というこれまでの研究の成果をを跡付けてみれば、
「超能力」(テレパシー、透視、念力)なるものは、超心理学の厳密な研究によれば確かに存在しているようなのだが、その霊能力は効果が 小さすぎて、実用に使えるような大きさではない。
だから、「超能力」があるかないかを問うことは、「幽霊」がいるかいないかを論争することと同じで、不毛な水かけ論になってしまう。 むしろ、それが私たちの生活にとって「意味」があるかないかを論じることで、生産的な論争につなげていかねばならない。 そういう意味で考えれば・・・
「今のところ唯一見込みがあるのは、創造性です。」
というのが、この極めてユニークな超心理学研究の第一人者の、極めてありきたりな今のところの結論のようなのだった。
創造は小さな頻度でも成功すれば、大きな利益が個人としても社会としても得られます。ゆえに、超能力を身につけるのではなく、 創造性を発揮するように努力することこそが重要に思います。超能力者や霊能者を自称する人にも、社会的な成果を生み出してほしいと 要求するのがよいのです。
2014/7/9
「戦争報道」 武田徹 ちくま新書
「ジャーナリストがその最も優れた資質を発揮できる舞台が戦争の悲惨であるとすれば、ジャーナリストの人間としての存在は どのような意味をもつのか」。(Dハルバースタム『娘への手紙』)
「戦争取材」とはジャーナリストの勇気が試される場である。生半可な取材の力量では務まらないことは明らかなのだから、逆に力のある ジャーナリストがその実力を遺憾なく発揮することさえできれば、それが読者や視聴者に直接役立つという一種「幸福な関係」が、戦争報道 では成立することになる。
いわば「戦争がジャーナリストを鍛える」というこの関係を、ベトナム戦争において身をもって体験しながら、ついにはそんな枠組みを超えて いく動きを示したのは、1962年秋にサイゴン特派員として赴任し、翌年12月までの現地取材において勇名を馳せた、デイビッド・ ハルバースタムだった。
戦争で最も活躍できるジャーナリストという職業とは何なのか。そうした反省の中から、ジャーナリストとして戦争を報道することに終始せず、 世界史の中でその戦争がどのような意味を持つかを考える歴史家の視点へと導かれることになったのである。
「病院に乱入してきたイラク兵たちは、生まれたばかりの赤ちゃんを入れた保育器が並ぶ部屋を見つけると、赤ちゃんを一人ずつ取り出し、 床に投げ捨てました。冷たい床の上で15人もの赤ちゃんが息を引き取っていったのです」。(『ナイラの証言』)
1991年、イラクのクウェート侵攻から2ヵ月後、米議会下院の人権執行委員会の公聴会で、15歳のクウェート人少女が証言席に立った。 「こうした行為を行う者たちには、相応の報いを受けることをはっきりと知らせてやらなければならない」と、ジョージ・ブッシュ大統領は 40日間で10回以上も、この証言を引用して演説した。
その少女・ナイラは、奇跡的にクウェートを脱出し、アメリカに逃れてきたとされていたのだが・・・実は、彼女は在米クウェート大使 サウド・ナジール・アルサバの一人娘で、アメリカで育ち、クウェートには行ったことすらなかったことが発覚する。嘘の証言をさせたのは、 『自由クウェート市民』と名乗る団体から600万ドル以上の報酬を条件に請け負った、大手PR会社ヒル&ノールトンだった。
ベトナム戦争の時代まで「情報操作」とは、公益性を求めるジャーナリズムに対し、国益のために都合のよい情報を報道させようとする力が 介入して行われるものであったのだが、今ではそれを専門的に行う企業が、人々の心理の動きを熟知した上で、その作業を請け負うように なってしまっているのである。
『最前線からの報告をする人』という、もっぱら戦争のジャーナリズムへのコンプレックスを抱いていた、「街場」のジャーナリストが、 メディア分析という「街場」の「お家芸」を使って、戦争報道の歴史に切り込み、「何が報じられたのか」だけでなく、「どう報じたのか」を 視野に入れた分析を試みてみたら、ただ無垢に憧れてきただけだった戦争報道の表情の裏側に、戦争は本当にジャーナリズムを鍛えるのだろうか という疑問が洗い出されてきたというのだった。
たとえば「戦争はジャーナリズムが宿していた本性を拡大する」という言い方なら合意できる。もしもジャーナリズムの本性が公共性への 奉仕なのだとしたら、それを極限まで実現できる可能性があるのはまさに戦争報道という場だろう。しかし、ジャーナリズムの本性が、 事実でない情報を織り交ぜて人々を巧みに洗脳したり、自分たちの信じる主張を宣伝することだとしたら・・・、そんな性格が露骨に見える のもまた戦争報道の場なのだ。
2014/7/2
「書評家<狐>の読書遺産」 山村修 文春新書
たとえばキャサリンの遺した娘キャサリン・リントンがまだ幼い頃、従兄弟とひそかにラブレターを交換するところ。彼女が机の 抽斗に隠しておき、ひそかな愉しみとして読んでいた相手からの手紙の山を、使用人ネリーが見つけて取り去ってしまう。抽斗が空になって いるのを知った彼女がおどろきのあまり、とっさに発した言葉が、鴻巣訳では「うそ!」なのである。
すでに両手で足りぬほどの邦訳が存在する『嵐が丘』に、あえて新訳を送り出した鴻巣の、翻訳者としての自負と確信が、たいていの訳では 「おお!」となっている原文“oh”の、『嵐が丘』邦訳史上初登場の感嘆詞「うそ!」への思い切ったジャンプに如実に込められている、
と、そう言い切るのだから、おそらくこの評者はすべての邦訳を読んでいるとみて間違いない。しかも、その都度、新しい発見に心を躍らせ ながら・・・
例えば、第一巻にあろ「三年目」のマクラの冒頭は次のとおりだ。
「えェ、よく、噺のほうでご婦人を採り上げますけども、うゥ、やっぱりご婦人というのは、いいもんでしてェ・・・、(宣言するように) あたくしは、好きです。ンなことは・・・(と、照れて)。ただあの・・・、」
このテキストの音源を実際にテープで聴いてみると、高めといってもほんの微かな抑揚がついたにすぎないが、客席では同時に志ん朝の表情の わずかな変化を目で見て、その微妙なところが耳で分かり、明るい笑いが湧いている。『志ん朝の落語』全六巻の音源からのテキスト化には、 「話し言葉と書き言葉は別のもの」であり、「言葉にはなっていないが言わんとし、表さんとしたこと」を、テキスト上に変換して表現する、
という編者・京須偕充の特別の心くばりが、たとえばこの(宣言するように)という注に込められているというのである。
その『君たちはどう生きるか』の中に、主人公の少年が「ラクトーゲン」と表示されたオーストリア製の粉ミルクの缶をながめながら、自分 の口にその粉ミルクが入るには、オーストリアで牛の乳をしぼる人から自宅の台所に届けてくれる小僧さんまで、何千何万もの人間たちが連鎖的 に関係している――と想像する有名な箇所がある。丸山眞男をして「これはまさしく『資本論入門』ではないか」と感嘆せしめた一節だ。
しかし「ラクトーゲン」とは何か。商品名なのだろうが、『日本国語大辞典』第二版にも『世界大百科事典』にも見あたらない・・・それが 『婦人家庭百科辞典』にはちゃんと載っていた。
だから、枕辺で、机上で、外出のときは鞄に入れて、この忙しいのに手放すひまがない。この昭和12年発刊の婦人の暮らしかかわることがらに 力点をおく百科辞書がおもしろくて仕方がないらしいのだ。
1981年に『日刊ゲンダイ』の書評コラムを書き始めて以来、四半世紀にわたり匿名書評家<狐>として、世の読書家を唸らせてきた山村修が、 2003年8月から2006年7月まで、『文学界』に書き下ろした「文庫本を求めて」34編を、まさにいとおしむように読み終えた。
2006年8月、肺ガンで逝去。
これはまさしく、山村修が最後は病床で推敲し、綴ったに違いない<読書遺産>なのだが、彼が最後まで、書評家<狐>であったこともまた、 間違いのない事実なのである。
中上健次の顔をみてほしい。思わずプッとふきだすではないか。頭からは左右に三角形の髪がつきだしているし、口のまわりから顎や 揉みあげあたりまでひろがるヒゲ剃り跡の黒さはどうだ。鼻のアタマまで黒いじゃないか。これのどこが、「日本人作家には何だか気を つかっている」(@小林恭二)ということになるのだ。
このヒゲ剃り跡の濃さは、中上文学の濃さなのである。山本容子はそう感受して版画をつくっているにちがいないのだ。 (2006年7月 山本容子『本の話 絵の話』)
2014/7/1
「セラピスト」 最相葉月 新潮社
白砂だけを入れた箱、治療者が各自工夫して集めた玩具を並べた棚、続いて、患者たちの箱庭が紹介される。人形と木のバランスが 気になってついに人形は置かずに箱庭の景色を作った強迫性障害の大人。まったく異なる二つの世界を作った統合失調症の患者。うつ状態の ときに学校恐怖症(現在の不登校)と間違って診断された児童の、脈絡なく玩具が置かれた箱庭もあった。
「いろいろな作品が出てきたわけですが、それをみておりますと、やはりユングとかにのっているようなとおりのものもありますし、いうとおり でないものもあります。これはおそらくひょっとしたら患者の勉強が足らないんじゃないかと、私はよく冗談をいうているのです」
1969年、第1回芸術療法研究会の会場で、ユングから学んだという「箱庭療法」の実施例のスライドを紹介しながら会場を沸かせていたのは、 河合隼雄である。患者がたとえ思うとおりに玩具を置いてくれなくても、治療者は理論にとらわれず、「解釈する」というよりは「鑑賞する」、 そんな患者との関係性にこそ、治療の根本があるのではないか、というのがその真意のようだった。
妄想型統合失調症の患者は、かなり回復期にある患者でさえも強引で歪んだ、重力のある空間ではありえないようなキメラ的な風景を描く ことが多いことがわかった。破瓜型の患者の場合は、望遠鏡から眺めたような、対象と距離をとる寂しい風景が多かった。整合性はとれている ものの生気に乏しい。文字を書くように、川、山、田・・・と、構成をまったく放棄して絵を描き並べていく人もいた。
「精神病理学は分裂病者の言語がいかに歪められているかを記述してきた。おそらく、それが真の問題なのではない。真の問題の立て方は、 分裂病の世界において言語がいかにして可能であるか、であろう。」
1970年、第2回芸術療法研究会において、統合失調症患者への絵画の使用についての発表を行ったのは、中井久夫である。「次にあげるもの を順々にかきこんでいって、一枚の風景画として完成させてください」と指示し、川、山、田、道、家、木、人、花、動物、岩、石、最後に 好きなものを何でも、といって治療者の見ている前で描いてもらう。「風景構成法」を実践していた中井が、枠あり、枠なしの二枚の画用紙を 用いることで、統合失調症の患者たちの回復過程における、内面に隠された欲求や攻撃性を捉えることができるのではないかと気付いたのは、 前年の河合の「箱庭療法」との出会いがきっかけだった。それが中井久夫のオハコ、「枠付け二枚法」誕生の瞬間だったことになる。
『絶対音感』
『青いバラ』
『東京大学応援部物語』
『星新一 1001話をつくった人』
その意表をつく着眼点の新鮮さと、決して期待を裏切ることのない抜群の取材感覚とで、常に読者の期待に応え続けてきた、最相葉月が次の ターゲットとして狙いを定めたのは、精神医学会に屹立する二人の巨人、河合隼雄と中井久雄だった・・・と言ってしまってよいのだろうか?
「あなたもこの世界を取材なさるなら、自分のことを知らなきゃならないわね」
2008年初夏、30代で失明した女性に対し3年間に渡って計15回、箱庭療法によるカウンセリングを実施したという、河合隼雄の直弟子・ 木村晴子の研究室を訪ねた日に、そんな言葉を突き付けられた時、この取材を始めた著者の胸裏に浮かんだのは、「自分のことなどとうの昔から 知っている」と反発する思いと、カウンセリングというものに付きまとって離れない、どうしようもない「胡散臭さ」だった。
守秘義務に守られたカウンセリングの世界で起きていることを知りたい。人はなぜ病むかではなく、なぜ回復するのかを知りたい。セラピスト とクライエントが同じ時間を過ごした結果、現われる景色を見てみたい。こうした思いから迷い込んだ迷路の中で、結局そんな著者が発見した ものは、これまで封印しようとし続けてきた本当の自分の姿だったのである。
長い長い道のりであった。しかし、このような取材をしている最中に自分の病名を知ることになろうとは、まったく想定外の展開であった。
いや、違う。私も、知りたかったのだ。心について取材しながら、自分の心を知りたかったのだ。私は、自分のことなら知っていると思い込む ことで、自分を直視することを避けてきた。人に話をしてもどうせわかってもらえないだろうと決めつけることで、人に心を開くことができない 人生を生きてきた。中井久夫はそれを私に伝えようとしたのである。
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